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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
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第二十節

 7月29日。

 朝から空は鉛色だった。

 雲は低く垂れ込み、山の稜線を飲み込んでいる。

 雨になる。

 神谷 栞には分かった。

 こういう空の日は、身体の奥に沈殿している嫌な記憶まで湿気を吸って膨らむ。

 昨夜、父が帰ってきた。

 久しぶりだった。

 帰ってこなくていいのに。

 そう思った。

 玄関を開けた瞬間に酒臭かった。

 汗と煙草と安い酒。

 外国語混じりの怒鳴り声。

 何か気に入らないことがあるたび、

「日本人は馬鹿だ」「猿だ」「低能だ」と嘯く。

 お前がだろ。

 居なくてもいいのに居座りやがって。

 だが言わない。

 言えば殴られるからだ。

 母も殴られる。

 だから黙る。

 結局、唯一布団を敷ける居間は父が占領した。

 栞は母と二人で台所に毛布を敷いた。

 冷蔵庫のモーター音を聞きながら眠った。

 眠れなかった。

 だから朝早くに家を出た。

 逃げるように。

 足は自然と八城神社へ向かっていた。

 だが、石段の前で止まる。

 足が動かない。


 一週間前、先生の訓示の最中だった。

 皆が静かに聞いていた。

 それなのに、自分はあの言葉を吐いた。

 誰よりも尊敬する人の前で、誰よりも聞かれたくない人に向かって。

 空気を壊した。

 場を壊した。

 先生を困らせた。

 力が抜ける。

 石段へ腰を下ろす。


 神社前の交差点を見つめる。 

 青になり、車列が動く。 

 赤になり、また止まる。 

 栞はそれを眺めていた。 

 滲むような信号の赤色を見つめているうちに、視界が急に冷たく色褪せていく。

 夏の湿った空気が遠のく。

 同じように、息が詰まる空気の中にいたことがある。 

 三年前の冬だった。


 中学三年。

 冬の寒さが一段と厳しい日だった。

 殴られた。

 大きな怒号と血、痛み。

 警察が来た。

 父は連れて行かれた。

 嬉しかった。

 そのまま送り返せ。

 本気でそう思った。

 だが、若い警官は困り顔で言った。

『残念だけどね』

 書類をめくる。

『家庭内の問題には警察もおいそれと踏み込めないんだ』

 栞は黙って聞いていた。

 若い警官は、目を合わせなかった。

 書類の端ばかり見ていた。

『民事不介入と言ってね』

 冷たい声だった。

『お父さんは、すぐ戻ってくるから』

 ふざけるな。

 叫びたかった。

 怒りに震える。

 だが声は出なかった。

 その瞬間だった。

『何が民事不介入じゃ、このダボがァッ!!』

 怒号が飛んだ。

 若い警官が吹き飛ぶ。

 書類が宙を舞った。

 椅子が倒れる。

 狭い居間の空気が一瞬で変わった。

 乱入してきた男は、よれたシャツの襟を開き、安煙草を手にしていた。

 無精髭。

 乱暴な歩き方。

 目元には色の薄いサングラス。

 どう見ても堅気には見えない。

 そのくせ胸ポケットには警察手帳が刺さっていた。

 男は床へ転がった若い警官の胸ぐらを掴み上げる。

『おどれは警察学校で何習ろうたんじゃ!』

 再び床へ叩きつけた。

『人を見ずに教科書ばっか読んどるけぇ頭がパーになるんじゃろが!』

『た、田上さん…!』

 周りの警官が宥めようとするが無駄だった。

『ガキが殴り殺されてから『不介入でした』で済むんか!』

 怒声が部屋を揺らした。

 若い警官は完全に萎縮していた。

 栞も母も呆然と見ていた。

 男はようやく胸ぐらを離した。

 そして、今度はゆっくり栞の前へ膝をついた。

 さっきまでの怒気が消えていた。

 男は栞の腫れた唇、痣、細い腕と視線でなぞった。

 その視線は思いのほか優しかった。

『あのクソがまたなんかやらかしたらな』

 男はニカッと笑った。

『ワシがパクっちゃる』

 栞は何も言えなかった。

『いつか国に送り返しちゃる』

 その言葉だけが妙に信じられる気がした。

 周囲の警官が困った顔をしていた。

 だが誰も止めない。

 どうやらこの男は本当に刑事らしかった。

『田上さん…』

 取り巻きの誰かが呟く。

 男は振り向きもせず手を振った。

『うるさいの』

 そして再び栞を見た。

『ただな』

 少しだけ表情を変えた。

『それまで逃げ場所がないんはキツイじゃろ』

 立ち上がる。

『ついてこいや』

『…え?』

『ええから』

 半ば強引だった。

 栞の返事など聞いていない。

 男はさっさと玄関へ向かう。

 母が戸惑った顔をする。

『だ、大丈夫なんですか…?』

『大丈夫じゃ』

 田上は振り返る。

『この辺で一番安全な場所に連れていく』

 その言葉だけは妙に真面目だった。


 高台にある神社だった。

 長い石段。

 冬の空気は冷たい。

 吐く息が白い。

 田上はずんずん登っていく。

『ここの神社はな』

 振り返らずに喋る。

『宮司の道楽で駆け込み寺みたいなことやっちょる』

 石段の上の鳥居を見やる。

『巫女さんか禰宜さんがおったら大体開いとる』

 石段を一段飛ばしで登る。

『ヤバくなったらここに逃げ込め』

 そして親指で自分を指した。

『ワシはちょいちょい顔出すし、おらんくても呼ばれたら飛んできたるわ』

 誇らしげだった。


 石段の途中で、ふと田上が立ち止まる。

 そして振り返る。

『あとな、この神社は剣道教室もやっとる』

『…剣道?』

『習え』

 あまりの答えに戸惑う。

 栞は目を瞬かせる。

『なんで?』

『あのクソの体格には女子供じゃ勝てん』

 即答だった。

『立ち向かうには武術じゃろがい』

 あまりにも単純な理屈だったが、その単純さが逆に胸へ残った。

 サングラス越しの目が真剣だった。

『ええか』

 低い声。

『さっきのボケ警官見たじゃろ』

 栞は頷く。

『法律は万能ちゃう』

 風が吹く。

『ワシら警察が来るんは大抵殴られたあと、刺されたあと、死んだあとじゃ』

 木々が鳴る。

『最後は自分で自分を守るしかないんじゃ』

 その言葉だけは、冗談も誇張もなかった。

『せやけぇ力つけろ』

 自分で守る。

 栞は心の中で繰り返した。

 自分で…守る。

『ただな』

 男の目がぎろりと据わった。

『力振りかざしてええんはクソ相手だけじゃ』

 じっと見つめてくる田上の瞳の奥に、修羅場をくぐってきた人間の冷徹さを見た気がした。

 栞は思わず唾を飲み込んだ。

『カタギに向けるな』

『……』

『クソ相手にやり過ぎたらワシを呼べ』

 親指を立てる。

『上手いこと処理しちゃる』

 田上は笑った。

 だが目だけは笑っていなかった。


 石段を登り切る。

 色褪せた朱色の鳥居が冬空の下で静かに立っていた。

 鳥居の前で田上はサングラスを外した。

 そして一礼する。

 栞も慌てて真似をする。

 顔を上げると、そこには別の世界があった。

 境内は整然としていた。

 掃き清められた参道。

 白砂。

 古い杉。

 風が吹くたび葉が鳴る。

 街の喧騒が嘘のようだった。


 拝殿の前に二人いた。

 一人は老人。

 紫の狩衣姿。

 背筋が真っ直ぐ伸びていて、年齢を感じさせない目だった。

『館長、西尾先生 急にお呼びだてしてすいません』

 田上が頭を下げる。

 さっきまでの広島弁が薄れている。

『弱いもんの逃げ場になるんも神社の役目じゃよ』

 老人は穏やかに笑った。

『その子がお電話の?』

 もう一人が言った。

 茶髪。

 日に焼けた肌。

 健康的な身体。

 流行のきわどい服装。

 一見すると街にいるギャルだった。

 だが、何か違う。

 芯がある。

 不思議な存在感があった。

『ええ』

 田上が頷く。

『ほら、挨拶せぇ』

 肩を押される。

『か、神谷 栞です』

 頭を下げた。

『よろしくお願いします』

 沈黙。

『良い礼ですね』

 女が言った。

『頭を上げてください』

 顔を上げる。

 冬の陽が女の背後から差していた。

 逆光なのに不思議と顔はよく見えた。

『西尾 恵です』

 女は微笑んだ。

『ここで剣道を教えています』

 恵と目が合う。

 心臓が跳ねた。

 その目は傷を探る目ではなかった。

 可哀想な子を見る目でもなかった。

 初めて、自分という人間を見てもらえた気がした。


『ここに来れば安心です』

 恵は言う。

『何かあれば私が守ります』

 その目は揺らがなかった。

 栞は言葉を失った。

『西尾先生に守ってもらえるんはぶち心強いど!』

 横で田上が興奮している。

『先生はな! ワシら全員より強いし、なんやったら府警のゴリラどもにも勝ちよる!』

『盛りすぎですって』

 恵が苦笑する。

 館長が笑う。

 田上が笑う。

 そのやり取りを見ながら、栞だけは笑えなかった。

 胸の奥が熱かった。

 苦しかった。

 泣きそうだった。

 その理由を、栞は知らなかった。


基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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