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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
22/58

第二十一節

 気が付けば、かなり長い時間そこに座っていた。

 曇天は相変わらず低い。

 空は重く、山の輪郭を鈍く溶かしていた。

 昼前だった。

 道場の稽古も、そろそろ終わる頃だ。

 ここに居れば門下生たちが下りてくる。

 顔を合わせたくなかった。

 先週の一件以来、誰と会うのも気まずい。

 栞はゆっくり立ち上がった。

 湿った石段が靴底に貼り付く。

 どこか別の場所へ。

 そう思った時だった。

「おう」

 低い声がした。

 振り向く。

 剣道着姿の男が立っていた。

 田上だった。

 防具袋を小脇に抱えている。

 額には汗が浮いていた。

「…田上さん」

 自然と口から出た。

 田上は苦笑した。

「相変わらず可愛げないのぉ」

 だが、いつもの調子ではない。

 声は静かだった。

 栞を見ている。

 その視線は刑事のものだった。

 傷や痣を探す目だった。

「体は大丈夫か」

「別に」

「クソは帰ってきてないか」

 沈黙。

 風が吹く。

 杉の葉が擦れ合った。

「帰ってきました」

 栞は言った。

「だからここにいるんです」

 田上は何も言わなかった。

 眉だけが僅かに動いた。

 察したのだろう。

 大きく息を吐いた。

「そうか」

 短かった。

 だが、その一言には苛立ちが混じっていた。

 父に向けられた苛立ちだった。

 田上は石段の手すりへ腰を預けた。

「神谷ん家の周りな」

「?」

「巡回増やしとく」

 栞は黙って聞く。

「最近は制服見たら逃げるじゃろ、あのクソ」

 鼻で笑う。

「しばらく厚めに回らせる、なんならワシも見に行っちゃる」

 刑事がそこまでやる必要があるのだろうか。

 警察なのだから当然だという感情も栞にはあった。

 だが、それだけではないことも知っていた。

 田上は昔からそうだった。

 職務以上のことをする。

 怒られてもやる。

 規則を踏み越えてでもやる。

 栞の胸の奥で感情がぶつかった。

 だから余計に面倒だった。

「…ありがとうございます」

 結局、それしか言えなかった。

 頭を下げる。

「おいおい」

 田上が慌てた。

「頭なんか下げんでええ」

 居心地が悪そうだった。

 数秒の沈黙。

 田上は咳払いした。

「そういやな」

 話題を変えるように言う。

「上、残るらしいぞ」

「?」

「先生と若と富田」

 栞の眉が動いた。

「若が防具付けられんでな」

 田上は笑った。

「五歳なんじゃけぇ当然なんじゃが」

 面白そうに肩を揺らす。

「小ちゃい手で頑張っとるよ」

 栞は返事をしない。

 田上はこちらを見た。

「なんだったら」

 そこで言葉を切る。

「お前も手伝ってやれ」

「…」

「あと、先生と話せや」

 栞の肩が僅かに震えた。

 田上は立ち上がる。

「ほいじゃ」

 背を向ける。

 数歩進む。

「ああ」

 振り返らずに言った。

「お母さん大事にするんやぞ」

 それだけ言い残し、田上は石段を下っていった。

 剣道着の背中はすぐに小さくなる。

 栞はその背中を見送った。

 しばらく動けなかった。

 風だけが吹いていた。


 お母さん。

 田上はそう言った。

 あの人のことだ。

 今朝まで台所にいた。

 自分と同じように眠れなかったはずの人。

 …でも。

 下りてくる門下生の一団を陰でやり過ごす。

 栞は石段を一段上がる。

 また一段。

 母が父と別れないから。

 母が父を選んだから。

 母が私を生んだから。

 今がある。

 胸の奥で黒い感情が蠢く。

 なんであの人が母なんだろう。

 なんで先生じゃないんだろう。

 その考えが浮かんだ瞬間、自分でも嫌悪した。

 だが消えない。


 先生。

 西尾 恵。

 名前を思い浮かべるだけで胸が締め付けられる。

 最初は違った。

 話の分かる大人だった。

 怒鳴らない。

 殴らない。

 ちゃんと話を聞いてくれる。

 それだけだった。

 だが、気付けば違っていた。

 礼儀を教わった。

 剣道を教わった。

 生き方を教わった。

 先生が口にした"礼節が人を作る"という格言。

 その言葉を聞いた日から、栞は礼を覚えた。

 言葉遣いを変えた。

 姿勢を改めた。

 先生に近づきたかったからだ。

 ただそれだけだった。

 ある日、先生に息子がいると聞いた。

 羨ましかった。

 息子が。

 その瞬間、理解した。

 自分が先生に何を見ていたのか。

 母だ。

 自分は先生に母を見ていた。

 赤の他人に、母を。

 気持ち悪かった。

 吐きそうになった。

 先生に申し訳なくなった。

 だが、やめられなかった。

 だから礼節で縛った。

 感情に名前を付けないようにした。

 見ないようにした。


 ある時、同じ目をしている奴がいることに気づいた。

 富田だ。

 細い目。

 何を考えているか分からない男。

 だが、先生と接している時だけ違う。

 分かった。

 程度は違えども、自分と同類だった。

 ああ。

 気持ち悪い。


 母親はいないとコンビニの前で聞いた。

 その時は少しだけ同情した。

 けれど違った。

 あいつは帰れる場所がある。

 実家は名家らしい。

 金もある。

 進学校らしい。

 チャンスもある。

 逃げ場もある。

 同類とは全然違った。

 一生勝手に悩んでろ。


 そして、遼太郎。

 やめて。

 胸の奥で声がする。

 先生の子なのに。

 なんで。

 なんであんたなの。

 やめて。

 やめて。

 呼吸が乱れた。

 石段の中腹で、栞は脇の茂みに座り込んだ。

 湿った土がスカートを濡らす。

 構わなかった。

 肺がうまく動かない。

 肩で息をする。

 遼太郎。

 若。

 みんなに可愛がられている五歳児。

 確かに可愛い。

 竹刀を振ればふらつく。

 放っておけば転ぶ。

 守ってやらなければと思う。

 どうしてだろう。

 先生の面影があるからか。

 違う。

 もっと別だ。

 守らなければならないと思うのだ。

 それなのに、私は守られなかった。

 先生と出会ったのは十五歳。

 やっとだった。

 なのに、あの子は生まれた時から先生がいる。

 ずるい。

 胸の奥から漏れた。

 誰にも聞こえない声だった。

 ずるい。


 ぽつり。

 頬に冷たいものが落ちた。

 雨だった。

 続けて二滴。

 三滴。

 葉の上で弾ける。

 上から慌ただしい足音が聞こえた。

 栞は反射的に身を隠した。

 石段を駆け下りてきたのは恵だった。

「日中、降水確率二〇パーやったやんけぇぇ!」

 珍しく文句を言っている。

 足早に石段を下りていく。

 栞には気付かない。

 遠ざかる背中を見送りながら、

 胸の奥に小さな寂しさが残った。

 先生に謝れなかった。

 結局、今日も。

 栞は立ち上がる。

 雨音の向こうにある道場へ向かって。


 雨脚はまだ弱かった。

 道場の屋根を叩く音も、耳を澄ませなければ聞き取れない程度だった。

 栞は足音を殺して近づく。

 引き戸は少し開いていた。

 中から声が聞こえる。

「神谷姉ちゃん、大丈夫なんかな」

 遼太郎だった。

 その一言に、胸の奥へ小さな灯火が灯る。

 自分を心配している。

 あれだけ冷たく当たったのに。

 あれだけ突き放したのに。

 あの子は心配している。

 温かなものが胸へ広がりかけた。

 だが。

「あの人も、しんどさ抱えてる人ですから」

 富田の声だった。

 灯火は一瞬で消えた。

 栞は戸の陰に身を寄せる。

 雨脚が強くなる。

 屋根を叩く音が増えた。

 道場の中では富田が苦笑していた。

 防具は外している。

 濡れた髪が額に張り付いていた。

「家がね」

 富田がぽつりと言う。

「お父さん、外国の人らしいんですけど」

 やめろ。

 栞は眉をひそめた。

 遼太郎が無言で聞いている。

「働いたり働かなかったりで。酒癖も悪いらしくて」

 やめろ。

「機嫌悪いと家族に手が出るそうです」

 やめろ。

 富田は話し続ける。

 富田自身の話になる。

 母親がいないこと。

 家に居場所がないこと。

 帰るべき場所が分からないこと。

 言葉がぽろぽろ零れる。

 まるで堰を切ったようだった。

 栞の胸の奥で何かが軋んだ。

 自分のことを話されたからではない。

 そんなことはどうでもよかった。

 もっと別だった。

 もっと気持ちの悪いものだった。

 なんでそんなことを話すの?

 相手は五歳だ。

 五歳の子供だ。

 なんで楽になろうとしているの?

 なんで背負わせようとしているの?

 なんで救われようとしているの?

 卑怯だ。

 そう思った。

 勝手に抱えてろ。

 勝手に苦しんでろ。

 なんで吐き出すんだ。

 なんで遼太郎なんだ。

 栞は戸の陰で拳を握った。

 雨音が少しずつ強くなる。

 沈黙が落ちる。

 富田は俯いていた。

 言い過ぎたと思ったのだろう。

 遼太郎は困っているはずだ。

 栞はそう思った。

 相手は五歳児だ。

 理解できるはずがない。

 重い話で退屈なはずだ。

 突っぱねるはずだ。

 そうであってほしかった。

「富田兄ちゃん」

 遼太郎が去ろうとしている富田を呼び止めた。

 その声は不思議なほど静かだった。

 栞は目を見開く。

 柔らかく、真っ直ぐで、相手を否定しない声。

 富田が顔を上げる。

 遼太郎がそこにいた。

 小さな身体の子供。

 なのに、なぜか大きく見えた。

 栞は息を呑んだ。

 遼太郎が富田を真っ直ぐ見る。

 先生と同じ目だった。

 その瞬間、胸の奥に何かが刺さった。

 ずきりと痛む。

 富田が言葉を失う。

 遼太郎が続ける。

「自分で決めてない道なんて、歩きたくないよね」

 ずきり。また刺さる。


 その言葉を、その顔を栞は知っていた。

 道場で、境内で、何度も見てきた。

 悩む門下生に向ける時の先生の顔だ。

 恵の顔だった。

 顔も声も背丈も全部違う。

 それなのに、そこに、恵の影があった。

 ずるい。

 胸の奥で何かが叫ぶ。

 ずるい。

 富田は涙を流していた。

 遼太郎が手を握る。

 支える。

 受け止める。

 理解する。

 五歳の子供が先生みたいに。

 ずるい。

 ずるい。

 なんで。

 なんで富田なの。

 なんで私じゃないの。

 なんで。

 気づけば拳を握り潰していた。

 爪が掌へ食い込んでいる。

 血が滲んでいた。

 痛みは感じなかった。

 道場の中では富田が泣いている。

 遼太郎がその手を握っている。

 栞はただ、自分の拳から落ちる赤い雫を見ていた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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