第二十二節
7月30日。
雲が低かった。
昨日の雨は止んでいた。
だが、空気はまだ湿っている。
夏の朝なのに、空だけが暗い。
遼太郎は母に手を引かれながら、八城神社の石段を上がっていた。
石段の端には黒い水気が残り、苔は妙に濃い色をしていた。
「滑るから気ぃ付けや」
「うん」
母の手は温かかった。
道着姿の母。
竹刀袋。
境内へ続く石段。
最近、見慣れてきた景色だった。
石段を上がり切る。
鳥居は昨日の雨で湿っていた。
「おはようございます」
後ろから声がした。
振り向くと、富田が石段を上がってきていた。
道着姿。
防具袋。
いつもの細い目。
にこやかな顔。
「富田兄ちゃん、おはよう」
「おはようございます、若」
富田は屈んで笑った。
そして母へ向き直る。
「先生、おはようございます」
「おはよう。昨日は遼太郎送ってくれてありがとう。ちゃんと帰れた?」
「はい。濡れましたけど、大丈夫でした」
富田は軽く笑う。
少しだけぎこちなかった。
だが、どこか晴れやかな顔をしていた。
道場へ近づく。
中は静かだった。
いつもなら、誰かが雑巾をかける音や、竹刀を動かす音がする。
今日は、静まり返っていた。
神谷姉ちゃん、今日も来てないか。
大丈夫なんかな。
遼太郎が案じた瞬間、引き戸が開いた。
神谷が立っていた。
道着姿。
顔色は良くない。
目の下に薄い影があった。
顔色の悪さに反して、背筋だけは真っ直ぐだった。
母へ向かって深く一礼する。
「先生、おはようございます。本日もご指導のほど、よろしくお願いいたします」
声は明るかった。
明るすぎるくらいだった。
「おはよう」
母が目を細める。
「早いな」
「今日も磨き上げておきました」
神谷は笑みを浮かべる。
遼太郎は道場の中を覗き見る。
確かに床は綺麗だった。
昨日の雨で湿気を吸っているはずなのに、板の表面には曇りがない。
竹刀立ての向きまで揃っている。
まるで何かを消そうとしたかのように綺麗だった。
「無理してへんか?」
指導者然とした口調の中に、母の素の部分が顔を出す。
「大丈夫です」
神谷は被せるように答えた。
富田が神谷をじっと見るが、神谷は意にも介さず遼太郎に向き直った。
「遼太郎様も、おはようございます」
「おはよう、神谷姉ちゃん」
遼太郎は五歳児らしい純粋な顔をして返した。
神谷の目がそうさせた。
妬まれていることは分かっている。
目が笑っていなかった。
五歳児に向けて良い目ではない。
遼太郎は恐怖を顔に出さないよう取り繕った。
道場に入る。
湿った木の匂い。
外では蝉が鳴き始めていた。
指導員は母だけだった。
門下生は大人が三人。残りは富田、神谷、遼太郎の三人。
計六人だった。
母が正面に立つ。
「始めます」
正座。
黙想。
礼。
稽古が始まる。
「若、昨日より姿勢良いですよ」
遼太郎の竹刀を受けながら富田が褒める。
「ほんま?」
遼太郎は嬉しくなった。
「はい。昨日は竹刀に振られていましたから」
その横で、神谷が口を開いた。
「遼太郎様、今日は面と胴をつけてみましょうか。もう付けられますよね?」
遼太郎は違和感を感じた。
昨日、神谷は来ていなかったはずだ。
自分が昨日、初めての面と胴を付ける練習をしたことを、何故知っているのか。
富田が話したのか。
母が話したのか。
誰かから聞いたのか。
分からない。
「…うん。やってみる」
面を取る。
革と汗と湿った布の匂いがする。
面をかぶる。
紐を後ろへ回す。
引く。
結ぶ。
付け方は大人の頭では分かるが、難しい。
特訓の成果かマシにはなっていた。
それでも、五歳児の指は言うことを聞いてくれない。
紐が逃げる。
結び目が甘い。
悪戦苦闘していると、
「違います」
神谷が言った。
声に感情が乗っていない。
「ここを強く引いてください。緩いと危ないです」
「はい」
手つきは正確だった。
紐を直す指も、動きに無駄がない。
ただ、空気が硬い。
「もう一度」
「はい」
面を外す。
またつける。
「違います」
神谷が直す。
「もう一度」
声が硬くなった。
「すみません」
思わず謝ってしまう。
「謝る前に直してください」
「はい」
今日は一段とキツイ。
覚悟しないといけない。
内心ため息をつく。
面を付け終わると、小手の練習へ移った。
「構えてください」
「はい」
「小手を見ないでください。相手を見て」
「はい」
ぱしん。
小手が鳴った。
防具越しなので痛くはない。
ただ、音が近い。
面の中で響く。
「遅い」
ぱしん。
「手元が浮いています」
ぱしん。
「だから打たれるんです」
ぱしん。
少しずつ言葉が増えていく。
「ちゃんと見てください」
「甘えないでください」
「先生のお子さんなんですから」
「できないなら、できるまでやるしかありません」
言葉の奥に、棘が混じっている。
神谷の掌には絆創膏が貼ってあった。
竹刀を握るたび、白い帯がちらりと見える。
大人の門下生を指導していた母が、ちらりと視線だけを寄越す。
険しい顔をした。
その時、巫女さんが道場に入ってきた。
母の横まで来て耳打ちをする。
どうやら館長、宮司から電話があったようだった。
「富田」
「はい」
呼ばれた富田が母の近くへ寄る。
「ちょっと行ってくるけど」
言いかけて声を絞る。
神谷に視線を移した。
「あの子、今日ちょっとおかしい。注意して見といて」
富田の顔から笑みが消える。
「分かりました」
「何かあったら、すぐ止めて」
「はい」
母は道場を出ていく。
戸が閉まる。
神谷は母が出ていく様子をじっと見つめていた。
胴の練習になった。
母はまだ戻ってこない。
「私が打ちます。受けてください」
「はい」
神谷が踏み込む。
遼太郎は竹刀を動かす。
だが遅い。
頭では分かっていても、身体がついてこない。
ぱん。
胴が鳴る。
「遅いです」
胴が鳴るたびに言葉が増えていく。
「何を見ているんですか」
声は少しずつ低くなっていく。
遼太郎は面の中で狼狽していた。
暑い。
息苦しい。
腕も重い。
五歳児の身体は、すぐ疲れる。
精神年齢三十四歳でも、体力は五歳児なのだ。
「いいですねぇ」
不意に神谷が言った。
遼太郎は動きを止める。
「痛い、辛いと言えば、すぐ誰かが守ってくれるのだから」
道場の空気が少し止まった。
今のは何だ。
遼太郎だけではない。
富田も反応した。
大人の門下生の一人も、こちらを見た。
神谷自身も一瞬だけ目を揺らした。
自分で言ったことに気づいたようだった。
だが、すぐにまた顔を固める。
「構えてください」
嫌な感じがした。
言葉で他人を殴る人間。
三十四年の人生で嫌というほど見た人間の匂いがした。
神谷は今、俺を通して別のものを見ている。
危ないと感じた。
その時。
「神谷」
富田が静かに言った。
「少し休ませましょう」
「まだです」
即答だった。
「もう少しでできそうです」
「若も疲れています。あなたも少し休んだ方がいい」
「私は疲れていません」
「無理をさせる必要はありません」
「無理じゃありません」
神谷は富田を見ずに竹刀を構えようとする。
「このくらい、できないと駄目です」
「若は五歳です」
富田の声が強張っていく。
「富田は黙ってて」
神谷の声も変わった。
いつもの調子が剥がれ落ちた。
「アンタには分からない」
富田は黙る。
「分かったような顔しないで」
道場が静かになった。
蝉の声だけが聞こえる。
富田はしばらく神谷を見ていた。
そして意を決したように口を開く。
「分からないかもしれません」
富田が言う。
「でも、今の神谷は危ない」
「何が」
「子供に向ける目をしていない」
神谷の肩が震えた。
その一言は、かなり刺さったらしい。
遼太郎にも分かった。
まずい。
かなりまずい。
神谷の視線の先に、怒りの先に自分がいる。
そう分かった。
なんで俺やねん。
怒りがこみ上げてくると同時に、壊れかけの神谷への憐憫も湧いてくる。
このまま続けたら、戻れない。
休ませるしかない。
「神谷姉ちゃん」
遼太郎は声を出した。
「ぼく、ちょっと休――」
「胴いきますよ」
神谷が遮った。
竹刀が上がる。
さっきより振りかぶっている。
力を抜く間が、そこにはなかった。
神谷の竹刀は、振り下ろされんとしていた。
「待て!」
母の声が飛んだ。
母が戻ってきていた。
道場の空気が裂ける。
神谷の顔が、はっと強張った。
握りが、一瞬だけ緩んだ。
竹刀の軌道が止まりかけた。
だが、次の刹那、その手に力が戻った。
止まらない。
やべぇ。
遼太郎は思った。
足が動かなかった。
五歳児の身体が固まっている。
竹刀が来る。
いくら防具越しでも、まともにもらえばただでは済まない。
遼太郎は目を瞑り、来るはずの衝撃に備えた。
次の瞬間、横から気配が入った。
鈍い音がした。
恐る恐る目を開けた。
目の前に、富田の背中があった。
竹刀は、富田の脇腹へ食い込むように当たっていた。
「ぐっ」
富田の身体が折れる。
だが倒れない。
遼太郎の前で踏み止まっていた。
蝉の声。
それだけが聞こえる。
神谷も動かない。
竹刀を振り下ろした姿勢のまま、固まっていた。
富田はゆっくり息を吐いた。
顔が紅潮していく。
それでも、まず遼太郎を見た。
「若、大丈夫ですか」
声はいつも通りにしようとしていた。
だが、痛みと怒りに震えていた。
遼太郎は呆然と頷く。
「…うん」
「なら、よかった」
富田は少しだけ笑った。
次の瞬間、その顔が変わった。
細い目が開いていた。
いつもの笑みはない。
初めて見る顔だった。
その顔で神谷に向かって振り返る。
「馬鹿!!」
怒声が道場に響いた。
神谷の肩が跳ねる。
「子供相手に加減しろよ!!」
「つ、つい」
神谷が戸惑いながら答える。
声が上ずっている。
「つい?」
富田が一歩出ようとする。
だが、その前に母が動いた。
母は無言で神谷の前に歩み寄った。
沈黙。
乾いた音が響いた。
平手だった。
神谷の顔が横を向く。
手にしていた竹刀が床に落ちる。
「アンタ」
低い声だった。
「待ての声で止めれたやろ?」
神谷の目が見開かれる。
遼太郎にも分かった。
止められたのだ。
完全に止められなくても、逸らすことはできた。
神谷は、それをしなかった。
あろうことか、ぶつけようとした。
怒りを。
「気持ちよかったか?」
母の声が冷たくなる。
「気が晴れたか?」
神谷の唇が震える。
「抵抗できへん子供ぶったたいて」
「あっ」
神谷の喉から、変な音が漏れた。
「あっ、私、私……」
目の焦点が合っていない。
脂汗が浮いている。
口がぱくぱくと動く。
言葉になっていない。
母は神谷から視線を外した。
くるりと振り返る。
遼太郎の前へ膝をついた。
「遼太郎」
母の顔だった。
「大丈夫? 痛いところない?」
瞬く間に遼太郎から面と防具を引き剝がし、頭、肩、腕、胸、脇腹を確かめる。
手つきは早い。
だが優しかった。
「だいじょうぶ」
「ほんまに?」
「うん」
母は遼太郎の目を見る。
それから、少しだけ笑った。
「よかった」
短い言葉だった。
母はすぐ富田へ向いた。
「富田、当たったとこ見せて」
「いやぁ」
富田は笑おうとした。
「先生からもらう一発に比べれば、大したことないですよ」
そう軽口を叩きながら道着を捲り上げる。
額には冷や汗が浮いていた。
脇腹の皮膚が赤く擦れ、ところどころ薄く血が滲んでいた。
周りはもう紫色になり始めている。
うわ…普通に痛いやつ。
遼太郎は思わず目を逸らした。
母の眉が寄った。
「大したことあるわ」
「骨は大丈夫だと思います」
「社務所の救護室行ってきなさい。すいません、誰か付き添ってください。冷やして、痛みが強かったら病院」
大人の門下生達が頷く。
「無理して歩くな」
母は富田に肩を貸す。
「はい。すみません」
富田は大人達に支えられながら遼太郎を見る。
「若、少し行ってきます」
「富田兄ちゃん。ありがとう。」
庇ってくれた恩人に礼を言うことしかできないことに、もどかしさを感じた。
「大丈夫です。気にしないでください」
富田は微笑んだ。
だが、歩き出す時に膝が揺れた。
母が肩を支える。
富田は小さく礼を言い、道場の外へゆっくりと向かい始めた。
その歩みは牛歩だった。
神谷はまだ立っていた。
頬には平手の赤み。
掌の絆創膏は端が剥がれている。
脂汗がこめかみを伝っていた。
目が虚ろだった。
富田を抱えた母は神谷に背を向けたまま言った。
「アンタ」
低い声。
「自分より弱いもん相手にしか、剣振れへんのか」
神谷の顔が歪んだ。
「先生、それ以上は……」
富田が、脇腹を押さえながら弱々しく声を上げる。
母は答えなかった。
富田を支えたまま、もう一歩進む。
それでも、言葉は止まらなかった。
「アンタにそういうとこあるのは前々から分かっとった」
神谷の肩が震える。
「それでも私は、遼太郎を託したんや」
道場が静かになる。
「アンタが、アンタ自身でその弱さに気づいてくれると信じたからや」
母の声には怒りがあった。
だが、それだけではなかった。
失望、後悔も混じっていた。
「それなのに――」
それ以上はだめだ。
「おかん、もうやめて」
思わず、遼太郎は声を出した。
思ったより大きな声だった。
母の言葉が止まった。
沈黙。
母はゆっくり振り返る。
遼太郎を見る。
その顔には、後悔が浮かんでいた。
母は一度、目を閉じた。
息を吸う。
その間に、神谷が動いた。
一歩後ずさる。
もう一歩。
足元がふらつく。
「神谷」
母が呼んだ。
神谷は背を向けて道場の板戸を目掛けて走り出した。
戸が乱暴に開く。
鈍い朝の光が差し込んだ。
神谷の背中が、その光の中へ消えていった。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。
よろしくお願いいたします。




