第二十三節
その刹那、道場の中の誰も動けなかった。
「神谷!」
母が叫んだ。
追おうと身を乗り出した。
だが、母の腕には富田がいる。
富田は脇腹を押さえ、顔から血の気が引いていた。
「先生、僕は大丈夫ですから追ってください」
母の腕から身を離そうとする。
その横を、遼太郎は走り抜ける。
「遼太郎!」
母の声が背中に飛んだ。
止まれなかった。
考えるより先に、身体が動いていた。
遅い。
五歳児の足を呪った。
それでも走った。
背後で母の声と、大人たちの慌ただしい足音がした。
だが、遼太郎には振り返る余裕がなかった。
神谷の背は境内を横切っていた。
社務所の方ではない。
石段の方でもない。
神社の裏手へ向かっている。
裏手。
裏山。
藪。
斜面。
崖。
遼太郎の背中に冷たいものが走った。
やべぇ。
声には出なかった。
息が上がる。
だが、止まれない。
神谷は全てから逃げるような走り方だった。
道着の裾が乱れ、足元も危うい。
二度、三度躓いても神谷は止まらない。
「神谷姉ちゃん!」
遼太郎は叫んだ。
返事はなかった。
本殿を回った。
裏手の土は湿っていた。
草の根元に水が残っている。
裸足が滑る。
遼太郎は何度も転びそうになりながら追った。
神谷は裏山へ入った。
木々の影が濃くなる。
空は雲で暗い。
葉に残った水滴が、風に揺れて落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
土に小さな跡ができた。
神谷は走っているつもりだった。
だが、もう足は思ったほど前へ出ていなかった。
膝が笑っている。
呼吸が浅い。
視界の端が白く滲む。
逃げたい。
どこへ?
分からない。
道場へは戻れない。
家にも帰れない。
先生の前にも立てない。
富田の顔も見られない。
遼太郎の顔など、もっと見られない。
言い訳を探した。
止められなかった。
疲れていた。
昨夜眠れなかった。
父が悪い。
家が悪い。
生まれが悪い。
世界が悪い。
いくらでも浮かんだ。
だが、そのたびに心の奥の冷たい部分が答えを返した。
違う。
止められた。
それでも止めなかった。
それどころか、力を入れた。
憎かったから。
羨ましかったから。
逃げられなかった。
自分を守るための嘘、逃げるための嘘を、自分が許してくれなかった。
結論は一つだった。
「…最低」
声が漏れた。
「私は、最低だ」
木の幹に手をつく。
だが、掌に力が入らない。
絆創膏は既に剥がれ落ちていた。
泥が指についた。
湿った土の感触が、気持ち悪かった。
己そのものだった。
膝が折れる。
道着の膝が泥に汚れた。
立てない。
足が震えている。
「神谷姉ちゃん!」
声がした。
神谷は肩を震わせた。
ゆっくり振り返る。
遼太郎がいた。
息を切らしている。
顔は赤い。
額には汗。
裸足の足は泥だらけだ。
小さな身体で、必死にここまで追ってきたのが分かった。
その事実が、神谷の胸をさらに抉った。
「…なんで」
声が掠れた。
「なんで来たの?」
遼太郎は近づこうとした。
神谷は首を振る。
「来ないで」
弱々しい声だ。
だから遼太郎は余計に怖くなった。
「なんで、こんな奴を追いかけてきたの」
神谷の唇が震える。
「あなたを叩こうとした奴を」
視線が落ちる。
泥のついた自分の手。
掌の傷。
震える指。
「あなたを憎む私を」
遼太郎は足を止めた。
木々の間を湿った風が抜ける。
蝉の声が近い。
裏山の奥で、鳥が短く鳴いた。
「笑いに来たの?」
神谷は笑おうとした。
だが、顔が歪んだだけだった。
涙が一筋伝う。
「いい気味だよね。私でもそう思う」
言葉が止まらない。
止め方を忘れたように出てくる。
「五歳の子いじめて、気持ちよくなって」
神谷は自分の胸元を掴んだ。
爪が道着に食い込む。
「そんな奴、生きてちゃいけないよ」
これは、まずい。
遼太郎の背筋が冷えた。
すべてを認めてしまっている。
理性はない。
自分を罰することだけが支配している。
遼太郎は一歩近づく。
「来ないでって言ってるの!」
神谷が叫んだ。
だが、その声はすぐに崩れた。
「私は…」
涙が落ちた。
ぼろぼろとあふれ出す。
「家にも居場所がなくて」
声が震える。
「ここしか、息ができないのに」
神谷は道場の方を見た。
木々に遮られて、もう見えない。
「先生に嫌われたら、もう終わりなのに」
糸が切れたように力が抜ける。
「あなたのことも……」
そこで一度、言葉が止まる。
「可愛いと思ってたのに」
苦しそうな声だった。
喉の奥から、無理やり引き剥がすような声だった。
「なのに、なんで私は先生の子じゃないのって」
神谷は両手で顔を覆った。
「そう思ったら、優しくできなかった」
遼太郎は何も言えなかった。
富田は怪我をした。
自分も危なかった。
神谷が悪い。
そこは間違いない。
だが、目の前の神谷が壊れているのも分かった。
言葉を間違えたら終わる。
遼太郎は覚悟を決める。
「先生、チャンスくれたのにね」
神谷が笑った。
己自身を蔑む笑みだった。
「失敗しちゃった」
葉から水滴が落ちる。
ぽたり。
神谷の手の近くに落ちた。
「お願い」
神谷は顔を上げた。
泥と涙と鼻水で乱れた顔。
だが、その目だけが妙に静かだった。
「先に道場に戻ってて」
遼太郎の身体が固まる。
「すぐ行くから」
嘘や。
どこに行くんや。
遼太郎は直感で分かった。
戻ってくる人間の声ではなかった。
五歳児でどこまでやれるか。
遼太郎は身構える。
神谷の目は焦点が合わなくなっている。
遼太郎の返答を待たずに踵を返す。
奥の林が神谷を飲み込まんとしていた。
「ダメ!」
遼太郎は叫んだ。
神谷がびくりとした。
遼太郎は駆けた。
泥で足が滑る。
転びそうになる。
それでも神谷へ肉薄する。
「来ないで!」
神谷が手を出す。
だが、その手にも力がない。
遼太郎は止まらなかった。
そのまま、神谷へしがみついた。
神谷の道着は汗と土で湿っていた。
身体は冷えて震えている。
五歳児からすれば大きい身体。
小さな身体を後ろへ倒すようにして、必死に引き止める。
「いや…」
神谷が小さく言う。
体が止まる。
「離れて」
膝から崩れ落ちる。
「いやや」
遼太郎は全身の力を込め直す。
小さな指では、強く握れているのかどうかも分からない。
それでも離さなかった。
「こんな卑しい奴に触ったらダメ」
神谷の声が震える。
「あなたなんていなくなればいいって思っちゃったクズを止めないで」
もう幼児の演技では無理だった。
心と心のぶつかり合いや。
遼太郎は息を吸った。
「知ってたよ」
神谷の身体が止まる。
「……え?」
「富田兄ちゃんから、いろいろ聞いた」
全部ではない。
それでも、聞いた。
神谷の家のこと。
母を慕っていること。
自分へ向けていたものが、単なる敵意ではなかったこと。
遼太郎は顔を上げた。
「栞が優しい人ってのも知ってる」
神谷の目が大きく開いた。
初めて名前を口にした瞬間、遼太郎自身も驚いた。
だが、もう戻れなかった。
「優しくなんかない」
神谷が言う。
声が消えそうだ。
「私は」
「優しいよ」
「違う!」
「違わへん」
遼太郎は静かに言った。
「栞がそうなった理由は、栞だけのせいやない」
神谷が息を呑む。
「家が悪かった。大人が悪かった。逃げ場が少なかった。羨ましくなるのも、腹立つのも、当たり前や」
言葉を選ぶ余裕はなかった。
だが、嘘は言いたくなかった。
「でも、死んで楽になるのはやめようや」
神谷の顔が固まる。
「皆悲しませるだけや」
遼太郎は道着を握る手に力を込めた。
「それこそ、クズのやることや」
「……え」
小さな声だった。
「死んだら終わりや」
遼太郎は吐き出すように言った。
「残された皆を傷つけて終わりや」
神谷の唇が震えた。
「私なんかで…」
「なんかやない」
遼太郎は遮った。
「栞がおらんくなったら、悲しむ人はおる。現に俺は悲しむ」
神谷の目から、また涙が落ちた。
「でも、私」
「やらかした」
遼太郎はぴしゃりと言った。
神谷がびくりとする。
「富田兄ちゃんにも謝らなあかん。おかんにも怒られなあかん。ついでに俺にも謝ってもらう」
神谷の目が大きく見開かれる。
「でも、それで終わりやないやろ」
湿った風が吹いた。
木の葉が鳴る。
水滴が落ちる。
「居場所が無いんやったら」
遼太郎は神谷の目を見据える。
「一緒に作らへんか」
神谷は動かなかった。
「道場だけじゃなくてさ」
遼太郎の声が震えた。
自分でも分かった。
自分に対しても言い聞かせている気がした。
「栞が息できる場所。俺も手伝うから」
神谷の顔が歪んだ。
息が止まった。
胸の奥で、何かが割れた気がした。
息ができる場所。
そんなものはないと思っていた。
道場だけだった。
先生だけだった。
だから、失えば終わりだと思っていた。
なのに、目の前の小さな子供は言った。
一緒に作ろう、と。
「あ……」
声が漏れた。
神谷は恐る恐る、遼太郎の背中へ手を回した。
それから、堰が切れた。
「うああああ……!」
声が壊れた。
神谷は遼太郎を抱きしめ、ただ泣いた。
気づけば、遼太郎も泣いていた。
何で俺まで泣いとんねん。
泣きながら大きく息を吐いた。
藪の向こうで草が揺れた。
遼太郎は顔を上げる。
母が立っていた。
母は何も言わなかった。
その目に涙が溜まっていた。
遼太郎は涙でぼやけた目で、母を見た。
何も言えなかった。
それでも、少しだけ頷いた。
湿った風が、裏山を抜けた。
木々の葉から、水滴が落ちる。
雨が降り始めた。
遠雷が聞こえた。
まるで別の世界の音のようだった。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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