第二十四節
7月30日。夕刻。
さっきまで低く垂れていた雲が、西の方だけ薄く裂けている。
そこから夕日が差していた。
濡れた石段が、ところどころ赤く光る。
神社前の交差点では、水たまりを踏んだ車が水しぶきを上げて通り過ぎていった。
石段へ続く入口の脇に、一台の黒いセダンが停まっていた。
後部座席には、神谷が座っている。
びしょ濡れの道着から社務所で借りた予備のジャージに着替えていた。
袖が少し余って、手の甲へ掛かっている。
髪は湿り、頬へ張り付いていた。
目元は腫れている。
だが、さっきまでの険しさは消えていた。
遼太郎と母も、社務所で借りたジャージ姿のまま、歩道に立っていた。
セダンの持ち主である田上は運転席の扉を開けたまま、車内をがさごそ探っていた。
「若」
不意に呼ばれた。
「これ見てみぃ」
田上が、助手席から何かをひょいと持ち出す。
赤い透明の覆い。
底に磁石。
螺旋状のコード。
パトランプだった。
「……え」
遼太郎は固まった。
田上はにやりと笑い、それを差し出す。
「ほれ触ってみ」
「え、いいん?」
「ええけぇ持ってみぃ」
両手で受け取る。
ずしりと重かった。
遼太郎は改めて黒いセダンを見る。
この車は…
「署の覆面は便利じゃ」
田上は当然のように言った。
「ガス代も経費じゃけぇの」
そして、ゲラゲラ笑った。
職権乱用と公私混同を、そのまま車に乗せたような話だった。
このおっさん、やってるわ。
遼太郎は内心で呟いた。
だが、パトランプは本物だった。
しげしげと眺める。
赤い覆いの中にある反射板。
テレビや映画では何度も見た。
手に持つのは初めてだった。
「おぉ……」
思わず目が輝く。
「回るん?」
「ここじゃ回さん方がええの」
田上は笑った。
遼太郎がパトランプを眺めている間に、田上は母へ向き直った。
「先生、お電話ありがとうございました」
軽く頭を下げる。
「神谷ん家の周り、巡回増やしとります。さっき無線でも確認しましたが、父親はもう家にはおらんようです」
母は息を吐いた。
「そうですか…ありがとうございます。」
「今日は、こいつもゆっくりできると思います」
田上は車内へ視線を向けた。
後部座席の神谷は俯いている。
両手を膝の上で握っていた。
「あの子の事、よろしくお願いいたします」
母が頭を下げる。
田上は一瞬、困ったような顔をした。
癖で煙草を探すように胸元へ手をやり、すぐ下ろす。
「いやいや。これが生活安全課の仕事ですけぇ。先生が気にされることじゃありません」
生活安全課。
遼太郎はパトランプを抱えたまま、田上を見る。
マル暴ちゃうんや。
第一印象だけなら、そちら側の人間にしか見えない。
「若、満足したか?」
「あ、うん」
遼太郎は名残惜しくパトランプを返す。
「ありがとう」
「おう」
田上は受け取ると、雑に助手席へ置いた。
本当に備品なのか不安になる扱いだった。
その時、石段の上から足音がした。
「先生ー」
富田だった。
その歩みはゆっくりだった。
社務所で手当てを受けていたらしく、道着の襟元から、湿布が少し覗いていた。
顔色は戻っていたが、近づくとヨードチンキと湿布の匂いが微かにした。
「富田」
母が振り返る。
「大丈夫か?」
「はい。数日で治ると思います」
富田はいつもの細い目で笑った。
「今日は本当に……」
母が言いかけ、言葉を止める。
数秒置いて、改めて頭を下げた。
「ありがとう」
「やめてください、先生」
富田は困ったように笑う。
「若に怪我がなくてよかったです」
声には明るさがあった。
富田の視線が、車内へ移る。
神谷と目が合った。
後部座席で、深々と頭を下げる。
言葉はない。
ただ、頭を下げる。
長く。
深く。
富田は黙って見ていた。
細い目が少しだけ柔らかくなる。
怒りはなかった。
小さく頷いた。
神谷は数秒遅れて顔を上げる。
目元がまた赤くなっていた。
「ほいじゃ、送ってきますわ」
田上が運転席へ乗り込む。
エンジンが掛かる。
田上が窓を開ける。
「先生、若、富田。気ぃ付けて帰りんさい」
「田上さんも」
富田が言う。
「おう」
田上は片手を上げた。
車は、緩やかに動き出した。
セダンはゆっくり曲がり、夕日の中へ入っていく。
リアガラス越しに、神谷の横顔が一瞬だけ見えた。
憑き物が落ちたような顔だった。
三人は車が見えなくなるまで立っていた。
蝉が鳴いている。
雨上がりの木々から、水滴が落ちる。
遠くで子供の笑い声がした。
車の姿が角の向こうへ消えると、神社前の空気が元に戻ったように感じられた。
「…帰ろか」
母が言った。
その声は、少し掠れていた。
富田は途中まで一緒に歩いた。
十字路で、改めて頭を下げる。
「先生、今日はありがとうございました」
「礼言うんはこっちや」
「いえ」
富田は首を振った。
「若」
屈もうとして、途中で脇腹を押さえる。
「無理しちゃあかんよ」
遼太郎は、目線を合わせようと屈む富田を制した。
「へへ、では上から失礼して。神谷の事、許してあげてくださいね」
「うん」
遼太郎は頷く。
富田は笑い、軽く手を振って反対の道へ歩いていった。
脇腹をかばいながらも、背筋は真っ直ぐだった。
母と二人になる。
帰り道。
濡れた路面から立ち上る熱が、足元へまとわりつく。
夕日は綺麗だった。
母はしばらく黙っていた。
遼太郎も黙って歩いた。
母の手は、いつもより強く握られている。
痛くはない。
だが、離す気がない握り方だった。
ふと見上げると、母の目元が赤かった。
「今日は」
不意に、母が口を開いた。
「大変やったね」
「うん」
短く返す。
他に返しようがなかった。
母は笑った。
「せっかくやし、今日は久しぶりに一緒にお風呂入ろっか」
遼太郎の足が止まりかけた。
この時代に戻って一度だけ、母と風呂に入った。
その時の気まずさは今でも覚えている。
それ以降、理由をつけて一人で入るようにしていた。
「え」
声が漏れる。
母は前を向いたままだった。
手だけは握ったまま。
「嫌?恥ずかしい?」
声は軽い。
だが、何かあるのは分かった。
「…ええよ」
そう言った。
母は微笑んだ。
「ありがと」
その一言が、妙に子供っぽく聞こえた。
家に帰ると、父はまだ仕事から戻っていなかった。
母が急いで風呂を沸かす。
しばらくして、風呂が沸いたことを知らせる電子音が鳴った。
風呂場の戸を開ける。
湯気が顔へ当たった。
青いタイル。
古い鏡。
プラスチックの椅子。
シャンプーの匂い。
遼太郎は身体を流し、浴槽へ入る。
湯は熱かった。
肩まで浸かると、思わず息が漏れた。
そこへ母が入ってくる。
遼太郎は視線を湯面へ固定した。
母が身体を流す音。
石鹸の匂い。
水音。
妙に大きく聞こえる。
「遼ちゃん」
「はい」
声が上ずった。
母が笑う。
「なんで敬語なん」
「いや、なんとなく」
「変な子」
母はクスクス笑いながら、遼太郎の横へ入ってきた。
湯が持ち上がる。
溢れた湯が滝のように音を立てる。
しばらく、何も言わなかった。
「八月、どっか行きたいとこある?」
母が唐突に言った。
「行きたいとこ?」
母は湯面を指先で揺らした。
「うん。せっかくやし」
遼太郎はしばらく考えて、口を開いた。
「恐竜の映画見たい」
「最近CMやってるやつ?」
「うん。恐竜いっぱい出るやつ」
「怖くない?」
母が意地悪な笑いをする。
「怖くない!」
即答した。台詞を覚えるくらい観た作品だ。
怖いわけがなかった。
「あと神社のお祭り行きたい」
母の表情が少し柔らかくなった。
「八城さんの?」
「うん。ベビーカステラ食べたい!」
「せやな。行こか。イカ焼きとビールもええなぁ」
母が笑った。
その笑いは、いつもの母だった。
遼太郎はほっとした。
だが、次の沈黙は長かった。
湯気が立つ。
換気扇が低く回っている。
母の指が、湯の中で止まった。
「遼ちゃん」
「ん?」
「今日、怖かったやろ」
声が小さかった。
遼太郎はすぐには答えなかった。
神谷の目。
富田の傷。
雨。
裏手の崖。
「怖かった」
正直に言った。
母の肩が震えた。
「ごめんな」
声が揺れていた。
「ごめん、遼ちゃん」
遼太郎は顔を上げる。
母は泣いていた。
道場では鬼のような顔で竹刀を振る母が、湯気の中で肩を震わせていた。
「私な」
母は口元を押さえる。
「あの子に、遼ちゃんを見させたんは……ほんまは、分かってたんよ」
言葉が途切れる。
「神谷が、余裕無い子やって。富田に変に張り合うのも。私に……何か見てるのも」
遼太郎は黙っていた。
「だから、遼ちゃんを見させたら、あの子が変われるかもしれへんって思った」
母は笑おうとして、できなかった。
「自分の子供を使って、人を育てようとしたんや」
水音だけがした。
「母親としては、失格や」
母の目からまた涙が落ちる。
声が細くなる。
「怖い目に合わせた」
遼太郎の胸の奥が痛んだ。
母は自分を責めている。
「おかん」
遼太郎は言った。
「大丈夫やで」
母は顔を上げる。
「怖かったけど、大丈夫」
遼太郎はゆっくり言葉を選んだ。
「おかんが、神谷姉ちゃんのことちゃんと見てたからやろ」
母の目が揺れた。
「あの人が悪い人やから任せたんとちゃうやろ」
母の目が見開かれる。
「変われるって思ったからやろ」
湯気が二人の間を揺らす。
「それに、俺も怪我してへん」
小さな手を広げる。
掌を見せる。
「俺、大丈夫やで」
母はしばらく何も言わなかった。
目を見開いたまま、遼太郎を見ていた。
そして、母の顔がくしゃりと歪んだ。
泣くかと思った。
だが、違った。
涙は残っている。
それでも、母の顔に戻っていく。
「そっか」
母は小さく呟く。
「そっかぁ」
そして、湯で顔を洗い始めた。
涙を洗い流すように。
しばらくして、母は息を吐いた。
「上がろか」
「うん」
「のぼせてまうわ」
その声は、いつものにこやかな声だった。
遼太郎は心底ほっとした。
母が先に立ち上がる。
遼太郎は慌てて湯面を見る。
「遼ちゃん」
「な、なに」
変な声が出た。
思わず、母を見上げる。
母はにっこり笑っていた。
「お母ちゃんより年上みたいやね」
遼太郎の背筋に、別の汗が浮く。
そりゃ気づくよな。
あの場にいた。
神谷とのやり取りも聞いていた。
幼児らしさなど、とうに剥がれていた。
嘘はあかん。
ただ、全部言う必要もない。
遼太郎は湯船から出て、母に向き直る。
「もし年上やったとしても」
目をじっと見つめる。
「おかんの子供なんは変わらんで」
母は、少しだけ目を細めた。
沈黙。
換気扇の音。
湯気。
母はそれ以上、何も聞かなかった。
「…せやな」
ただ、そう言って微笑んだ。
何か吹っ切れたような顔だった。
その夜。
布団に入っても、遼太郎はなかなか眠れなかった。
窓の外では虫が鳴いている。
夕立ちでも来るのか蒸し暑かった。
畳にも、布団にも、湿気が含まれている。
扇風機が首を振るたび、ぬるい風が頬を撫でた。
考えることは多かった。
最初は、5000万もあればいいと思っていた。
自分達だけなら。
父と母を楽にするだけなら。
余裕のある暮らしをするだけなら。
それで足りるはずだった。
だが…
富田の顔が浮かぶ。
神谷の顔が浮かぶ。
血がつながらない他人…のはずだ。
だが、放っておけない。
救うなんておこがましい。
後悔したくないだけだ。
救える力はあるはずなのだから。
養う必要はない。
支援ができれば良いはずだ。
それでも5000万は心許ない。
金が足りない。
いくらを目標とすべきか。
アヤカの顔が浮かぶ。
エリの顔が浮かぶ。
思考が止まる。
そうだ、上限を決めるのはやめよう。
貪欲に、けれど安全に、稼げるだけ稼ぐ。
父と母のため。
富田と神谷のため。
アヤカとエリのため。
まだ出会っていない誰かのため。
どこまで面倒を見る気だ。
偽善者め。
自分自身に呆れる。
だが、そのための力だ。
好きに、後悔しないように使わせてもらおうじゃないか。
遼太郎は目を閉じる。
その瞬間だった。
遠くの夜空が、白く爆ぜた。
瞼の裏まで光が差す。
一瞬だけ、部屋の輪郭が浮かび上がった。
数秒遅れて、低い音が来た。
重く、長く、祝砲のような雷鳴。
そして降り始める雨。
遼太郎は小さく息を吐く。
そして、眠りへ落ちていった。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
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