第二十五節
8月16日。午前。
盆も終わる頃だというのに、暑さは抜けなかった。
朝の空は白く濁り、生駒の山裾には薄い雲が貼り付いている。
八城神社の道場には、朝から汗の匂いが籠もっていた。
雑巾がけを終えた板の間は、まだわずかに湿っている。
竹刀の音。
足裏が板を擦る音。
防具の革の匂い。
外では、夕方から始まる夏祭りの準備が進んでいるらしく、時折、木槌の音や男達の声が聞こえた。
「若、左足が止まってます」
富田の声が飛ぶ。
遼太郎は面の奥で息を吐いた。
面紐が頬を締めつけ、胴の内側には熱が溜まっている。
籠手の中の手は汗で湿っていた。
最初に防具を付けた時は、それだけで身体が固まった。
歩くのも重い。
息も苦しい。
視界も狭い。
五歳児の身体には、ほとんど拘束具だった。
だが、今は少し違う。
重いのは重い。
暑いのも暑い。
それでも足は動く。
竹刀も振れる。
面の奥で呼吸することにも、少しずつ慣れてきた。
「はい、もう一回」
「はい」
遼太郎は構え直した。
富田は正面に立っている。
細い目はいつものように笑っているが、足元だけは見逃していない。
軽く構えているようで、こちらが動く前から逃げ道を読んでいる。
「めえぇん!」
踏み込む。
ぱん、と乾いた音がした。
富田は竹刀で受け、ほんの少し頷いた。
「良くなりましたね」
「ほんま?」
「ほんまです。前は防具に着られてましたけど、今はちゃんと動けてます」
「おぉ……」
素直に嬉しかった。
五歳児の身体は思い通りにならない。
だが、毎日のように道場へ来て、走らされ、素振りをさせられ、転びながら稽古を続けていると、それなりに変わるものらしい。
母は道場の端で他の門下生を見ていた。
竹刀を片手に立つ姿は、相変わらず怖い。
怒鳴っているわけではない。
それでも、母の立つ場所だけ空気が固くなる。
遼太郎はもう一度構える。
その正面に、今度は神谷が立った。
神谷も防具姿だった。
以前のような刺々しさは、薄れていた。
無表情に近かった顔にも、最近は時折、笑みが出る。
一言多いところも、鳴りを潜めていた。
完全になくなったわけではない。
言いかけて、飲み込む。
そういう間が増えた。
「お願いします」
神谷が礼をする。
「お願いします」
遼太郎も礼を返した。
竹刀を構える。
神谷の圧は、富田とは違う。
富田は受け流す。
神谷は正面から受ける。
「いきますよ」
「はい」
遼太郎は踏み込む。
面。
受けられる。
返される。
慌てて下がる。
また踏み込む。
竹刀の音が続いた。
板を踏む足音が重なる。
面の中の息が荒くなる。
汗が目に入った。
きつい。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「そうです」
神谷が言う。
「いい調子ですよ。若」
遼太郎の足が、一瞬だけ止まりかけた。
若。
神谷まで、そう呼ぶようになっていた。
いつからかは分からない。
富田が呼ぶからか。
館長が笑って許しているからか。
それとも、あの日を境に、神谷の中で何かが変わったのか。
「止まらない」
神谷の竹刀が軽く面を打った。
「うわっ」
「ほら」
「今のずるい」
「戦いにずるいも何もありません」
言い方は硬いが棘はなかった。
遼太郎は面の奥で笑った。
道場の外で、風鈴が鳴る。
誰かが社務所の戸を開けたらしい。
湿った風が道場へ流れ込み、汗の匂いを少しだけ薄めた。
昼前に稽古は終わった。
面を取ると、世界が広くなった。
額から汗が流れ落ちる。
遼太郎は床に座り込んだ。
「あかん。死ぬ」
「若、大げさです」
富田が笑う。
その横から、神谷が手拭いを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取る。
冷たい。
水で濡らしてくれていたらしい。
遼太郎は首筋へ当てる。
じわりと熱が引いた。
「生き返るわ」
「おっさんみたいなこと言いますね」
神谷が言った。
口元が少しだけ緩んでいる。
「神谷」
母の声が飛んだ。
「はい」
「今の一言、余計」
「…はい」
神谷は真顔に戻る。
だが、耳が少し赤かった。
富田が横で肩を震わせている。
遼太郎はそれを見て、安心した。
あの日のことが消えたわけではない。
富田の脇腹にも、神谷の目元にも、母の沈黙にも、まだ何かは残っている。
それでも、人は少しずつ戻っていく。
戻りながら、少しずつ形を変えていく。
そういうものだと思った。
夕方。
八城神社の夏祭りが始まった。
西の空には、薄く赤い雲が延びていた。
昼間の熱を含んだ空気は重く、山から下りてくる風も生ぬるい。
それでも、石段へ続く沿道には人が溢れていた。
たこ焼き。
イカ焼き。
焼きそば。
りんご飴。
金魚すくい。
綿菓子。
ベビーカステラ。
屋台の裸電球が、まだ暗くなりきらない空気の中でぼんやり滲んでいる。
発電機の低い音。
ソースの焦げる匂い。
甘い砂糖の匂い。
子供の笑い声。
遠くで鳴る太鼓。
普段は静かな神社の麓が、この日だけ別の場所になっていた。
遼太郎は浴衣を着せられていた。
本当は甚平がよかった。
そう言ったはずだった。
だが母は、どこからか紺地の子供用浴衣を用意してきた。
白い模様が入っている。
着せられてみれば悪くはない。
ただ、下駄が歩きにくい。
「遼、似合うやんけ」
父が笑った。
父も浴衣姿だった。
頭の薄さもあって、侍っぽさがある。
「おとんも似合ってるで」
「ほんまか?」
父は嬉しそうだった。
母は淡い色の浴衣だった。
髪を上げている。
いつもの茶髪も、浴衣だと違って見えた。
綺麗だった。
だが、片手にはイカ焼き。
もう片方にはビール。
目が少し据わっている。
「おかん、飲みすぎちゃう?」
「祭りやからええの」
母は言い切った。
「今日はお母ちゃんも休み」
そう言われると、遼太郎は何も言えなかった。
実行委員会の本部席には、館長が座っていた。
白い扇子を手に、通り過ぎる人へ穏やかに声を掛けている。
横には町内会の人間が数人。
長机。
名簿。
水筒。
蚊取り線香。
そこだけ祭りの裏側だった。
田上もいた。
制服ではなく私服だった。
だが、どう見ても堅気には見えない。
両手に袋を提げ、交通整理に駆り出された警官達へ缶コーヒーや茶を配っている。
「暑い中、ご苦労さん」
「田上さん、今日は非番ですか」
「見りゃ分かるじゃろ」
「いや、でも……」
「人手足りんのは分かっとるけぇの。差し入れくらい持ってくるわ」
若い警官の一人が、田上の前で妙に背筋を伸ばしていた。
何かあったのだろう。
田上は気にした様子もなく、本部席の館長へ軽く頭を下げる。
館長が笑って返した。
沿道の向こうから聞き覚えのある声がする。
「遼ちゃーん!」
エリだった。
浴衣姿で、両親らしき男女に手を引かれている。
手には綿菓子。
顔が嬉しそうだった。
少し後ろに、アヤカもいた。
こちらも浴衣姿で、母親らしき女性の横を歩いている。
遼太郎を見るなり、照れた顔をした。
それからいつものように強気に顎を上げた。
「遼ちゃん、浴衣似合ってるじゃん」
「アヤカも似合ってるで」
「べ、別に嬉しくないし」
アヤカはそっぽを向く。
耳が赤い。
エリが横で笑っている。
「あとで金魚すくいやろーねー!」
いつもの声だった。
今はまだ、二人とも笑っている。
それだけでよかった。
遼太郎は未来のことを考えかけて、やめた。
今日は祭りだった。
「若」
背後から声がした。
振り返ると、富田と神谷が立っていた。
二人とも学生服だった。
富田は少し着崩している。
普段は道着姿ばかり見ているせいか、学生服姿は新鮮だった。
「お、富田兄ちゃん。神谷姉ちゃん」
「遅くなりました」
富田が頭を下げる。
「館長の手伝いで、手間取りまして」
「お疲れさん」
父が笑う。
「君らが富田くんと神谷さんか。いつも、うちの遼が世話になってるなぁ」
「いえ。こちらこそ」
富田は慣れた調子で頭を下げる。
神谷も深く礼をした。
「神谷 栞です。若には……その、お世話になっています」
「若」
父がそこで反応した。
にやりと笑う。
「遼」
「なに」
「お前、年上のお姉さんに若呼びされてるんかぁ」
完全にからかっている声だった。
「別にええやん」
「ええなぁ。父ちゃんも呼ばれてみたいわ」
「何を言うてんの」
母の声が低い。
だが父は止まらない。
「いやぁ、男として一回くらいはな」
「剛三」
母が名前を呼んだ。
静かだった。
手にはビール。
いつもより怖い。
富田が、にこやかに口を挟んだ。
「では、お父様は殿とお呼びしましょうか」
「殿!」
父の顔が明るくなる。
「ええやん。なんか偉そうや」
「殿」
富田が真面目な顔で頭を下げる。
「本日はお招きにあずかり、恐悦至極に存じます」
芝居が上手かった。
「おお、苦しゅうない」
父も乗った。
母の目が細くなる。
神谷は困った顔をしたが、富田に促されるように、たこ焼きの舟皿を持ち上げた。
「殿。たこ焼きですよ」
爪楊枝に刺したたこ焼きを、父の口元へ差し出す。
「お、おう」
父が満面の笑みで口を開けた。
ご満悦だった。
女子高生にたこ焼きを食べさせてもらって、人生のゴールを達成したような顔をしている。
母は黙って見ていた。
その沈黙が怖い。
「おとん」
遼太郎は小さく言った。
「今のうちに謝っといた方がええで」
「え?」
父が母を振り返る。
次の瞬間、母がにっこり笑った。
「剛三さん」
「はい」
「あとで話そか」
「…はい」
父の背筋が伸びた。
富田は横を向いて笑いを堪えている。
神谷は、自分が何をしたのか遅れて気づいたように、口元を押さえた。
くだらない時間だった。
祭りでたこ焼きを食べ、しょうもないことで笑っているだけ。
だが、そのくだらなさが温かかった。
「若」
神谷が言った。
「お口に青のりが」
「え」
遼太郎が手で拭おうとする前に、神谷がしゃがんだ。
白いハンカチを取り出す。
そして、遼太郎の口元を丁寧に拭った。
「動かないでください」
「いや、自分でできるで」
「動かない」
「はい」
反射的に返事をしてしまった。
神谷の手つきは優しかった。
口元を拭き、頬についたソースも取る。
それから、少し離れて確認する。
「はい。綺麗になりました」
「ありがとう」
「いえ」
神谷は、満足そうだった。
大切なものを磨きあげたような、自分の手元にあることを確かめられたような顔。
考えすぎか。
そう思った時だった。
視線を感じた。
祭りのざわめきの中で、そこだけ音が遠のいたように思えた。
屋台の灯り。
人混み。
発電機の唸り。
太鼓。
その奥から、まっすぐこちらを見る気配があった。
遼太郎は顔を向けた。
石段の少し脇。
人の流れから半歩外れた場所に、一人の女の子が立っていた。
銀色の髪だった。
最初は、祭りの灯りのせいかと思った。
違った。
淡い金でも、茶でもない。
鮮やかな銀。
夕闇の中で、そこだけ月の光を混ぜたように見えた。
赤い浴衣姿。
肌は白い。
顔立ちは日本人のものではなかった。
北の国の血が混じっているような整った顔立ちだった。
年恰好は遼太郎と同じくらいか、少し上に見えた。
目が合った。
胸の奥で、何かが跳ねた。
何だ?
祭りの音が薄くなる。
遼太郎は、ただその女の子を見ていた。
この胸の高鳴りは何だ?
そう思って、次の瞬間には自分で首を振った。
いや、違う。
そういうものではない。
相手は子供じゃないか。
でも…。
女の子は、じっとこちらを見ていた。
無表情ではない。
どこか、拗ねたような顔だった。
それでいて、目だけは強い。
子供がする目ではなかった。
「若」
その声で、現実へ戻された。
「はぐれますよ」
「え、あ」
次の瞬間、身体がふわりと浮いた。
神谷だった。
遼太郎をひょいと抱きかかえている。
片腕で支える姿勢が妙に安定していた。
「ちょ、神谷姉ちゃん」
「人が多いですから」
「いや、歩けるで」
「危ないので」
神谷は言い切った。
抱え直される。
視界が高くなった。
人混みの向こうが見える。
銀髪の女の子が、こちらを見ていた。
「あ、あの」
遼太郎は慌てた。
名前を聞かなければ。
いや、いきなり名前はおかしい。
それでも、このまま見失ってはいけない気がした。
「あの女の子」
「女の子?」
神谷が視線を追おうとする。
その瞬間、銀髪の女の子がふっと笑った。
ほんの一瞬だった。
目元だけが柔らかくなる。
胸の奥を、指先で軽く叩かれたような笑みだった。
そして…あっかんべーをした。
「……え」
遼太郎は固まった。
女の子はすぐに踵を返す。
銀髪が揺れる。
人混みの中へ、すっと紛れていく。
追おうにも、神谷に抱えられている。
降ろしてくれと言う頃には、もう姿が見えなかった。
「若?」
神谷が顔を覗き込む。
「知り合いですか?」
「いや」
遼太郎は、女の子が消えた方向を見ていた。
「知らん」
そう答えるしかなかった。
神谷は遼太郎を抱えたまま、人混みの先を見ている。
ほんの少しだけ、目が細くなった。
だが、すぐに遼太郎へ視線を戻す。
「若、次は何を食べますか」
「…ベビーカステラ」
「はい」
神谷は頷いた。
そのまま歩き出す。
遼太郎は抱えられたまま、もう一度だけ振り返った。
銀髪は、もう見えない。
屋台の灯り。
人混み。
蝉の声。
太鼓。
ソースの匂い。
祭りの夜は、何事もなかったように続いていた。
遼太郎の胸の奥では、さっきの笑みだけが消えずに残っていた。
夏編終了です。次回は第一章 最終編開始です。




