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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
27/62

第二十六節

 11月1日。深夜。

 秋の夜気は、冷たくなっていた。

 昼間の熱はまだ残っているのに、日が落ちると空気の芯だけが急に冷える。

 窓の外では、どこかの家の犬が短く吠えていた。

 遠くの国道を走るトラックの音が、低く伸びては消えていく。

 居間の蛍光灯は、白く食卓を照らしていた。

 剛三は一人で座っていた。

 横では恵が寝ていた。

 畳に横向きで転がり、薄い毛布を腹だけに掛けている。

 髪は乱れ、頬は酒で赤い。

 足元には、飲み終えたビールの空き缶が五本。

 食卓には、さきイカの袋と柿ピーの袋が開いたまま置かれていた。

「ほんま、よう飲むなぁ」

 剛三は小さく呟いた。

 返事はない。

 恵はすうすうと寝息を立てている。

 剛三はつまみの袋を、食卓の端へ寄せた。

 そこへ、電卓を置く。

 普段から使っているものだった。

 職場で部品代を計算する電卓である。

 白かったはずの本体には、ところどころ薄い油汚れが付いていた。

 その横に、本屋で買ってきた本を広げた。

『図解・自分でできる確定申告』

 表紙には、眼鏡を掛けた男が笑っている。

 分かりやすく教えてくれそうな顔だった。

 そう期待して買ったのだ。

 しかし、期待は打ち砕かれた。

 所得。

 控除。

 課税。

 一時所得。

 源泉。

 住民税。

 知らない言葉が、紙面の上へいくつも並んでいる。

 見ているだけで、目の奥が重くなった。

 剛三は禿げた頭を掻いた。

 税金の計算など、今まで全部会社任せだった。

 給料から勝手に引かれて、年末になると何やら紙を書かされる。

 それで終わり。

 恵に聞くか。

 そう思ったこともある。

 だが…隣で大の字に寝はじめた妻を見る。

 体力、胆力なら頼りになる。

 人の心を読むことも、自分よりよほど鋭い。

 だが、学問は絶望的だった。

 計算も苦手だ。

 家計簿も三日坊主だ。

 俺がやるしかない。

 剛三は電卓の電源を入れた。

 液晶に、ゼロが浮かぶ。

 そのゼロが、冷たく見えた。


 最近の遼太郎は、機嫌が良かった。

 幼稚園へも、以前ほど嫌そうな顔をせずに通う。

 剣道教室にも通っている。

 最初はどうなることかと思った。

 恵の剣道は怖い。

 試合に応援に行った時に見た妻は鬼にしか見えなかった。

 だが、遼太郎は臆さず続けていた。

 防具を付けると小さな身体がさらに小さく見えるのに、本人は必死に竹刀を振っているらしい。

 礼儀も教わっている。

 家でも、ふとした時に頭を下げる角度が綺麗になった。

 靴を揃える。

 箸の持ち方を気にする。

 食事の前に背筋を伸ばす。

 不気味なくらい大人びている。

 そう思うことは、今でもある。

 だが、前ほど気味の悪いものではなくなっていた。

 成長しているのだ。

 息子が毎日少しずつ変わっていく姿を見るのは、嬉しかった。


 だが、数日前、競馬新聞を手にした遼太郎が言った。

『おとん』

『ん?』

『菊花賞の馬券が欲しいねん』

 来たか。

 春の皐月賞以来、遼太郎は競馬の話をしなかった。

 幼稚園。

 剣道。

 恐竜映画。

 神社の祭り。

 電子辞書。

 富田や神谷の話。

 そんなものばかりだった。

 もしかするともう言い出さないのではないか、とすら考えていた。

 甘かった。

 やはり来た。

『京都やけど行くか?』

『テレビでええよ』

『ほな、場外でええな。馬、直接見んでええんやな?』

『うん』

 遼太郎はあっさり頷いた。

 パドックすら見る必要はないのか。

 剛三は思わず笑ってしまった。

 京都競馬場へ行くわけではない。

 なら、自分一人で行った方がいい。

 高額になるのなら、なおさらだ。

 五歳児を連れて、大金を持って、梅田の人混みを歩く。

 それは危ない。

『ほな、代わりに買ってきたるから、どの馬か言うてみ』

 なるべく軽く言ったつもりだった。

 遼太郎は少しだけ考えていた。

 その横顔は、やはり五歳児ではなかった。

『マチカネフクキタル』

 剛三は眉を上げる。

 悪くない。

 サイレンススズカに勝った馬か。

 当日の調子次第では、上位人気にはなるだろう。

『ダイワオーシュウ』

 知らない名が出た。

 競馬新聞で名を探す。

 穴馬だった。

『馬連で』

 決め打ちか。

 剛三は内心で呟いた。

『どのくらい買う?』

『25万円!』

 元気のいい声だった。

 馬連に25万円。

 少なくとも、まともな競馬好きがする買い方ではない。

 しかし、何故25万円なのか。

 100万円ではなく。

 50万円でもなく。

 25万円。

 1000万円も持っている割には控えめな額だった。

 剛三は疑問をぶつけかけて、やめた。

 聞いたところで、遼太郎はきっと全部は言わない。

 それに、自分が知らなくて良いこともあるのだろうと諦めも出た。

『分かった』

 そう言って、紙に馬名と金額をメモする。

 遼太郎は、その横でけらけら笑った。

『競馬、飽きたー!もうやらへん』

『そうかそうか』

 剛三は笑うしかなかった。

 勝ち逃げかぁ。

 剛三はメモから目を上げた。


 剛三は電卓へ目を戻した。

 液晶のゼロがまだそこにある。

 春の皐月賞。

 それだけで1000万を超えた。

 正直、あれだけでも家の中の空気は変わった。

 新しい家電を買うわけでもない。

 車を買い替えるわけでもない。

 それでも、押し入れの奥に置いた通帳の存在が、家全体を重くしている気がした。

 そこへ、次が来る。

 当たる。

 もう疑いはなかった。

 疑っていない自分に呆れる。

 ただ、心のどこかには、外れてくれたらどれだけ良いかという気持ちもあった。

 外れれば、終わる。

 遼太郎も飽きたと言っている。

 こんな苦労とはおさらば。

 だが、当たる。

 剛三は電卓を叩いた。

 鉛筆を回しながら考える。

 25万円。

 馬連なら、うまくいけば1000万円に届く。

 春の分と合わせれば、十分すぎる額だった。

 適当に言った数字ではない。

 それだけは分かった。

 いずれにせよ。

「よう考えてるこって」

 呆れた声が出た。

 だが、感心もしていた。

 五歳の息子に感心する。

 自分でも変な話だと思った。


 剛三は本をめくった。

 競馬の払戻金には税金が掛かる。

 それは知っていた。

 知ってはいたが、今まで自分が当ててきた金など、せいぜい小遣いの範囲だった。

 飲み代に消える。

 家計の足しにする。

 残りはまた馬券へ回る。

 税金など、遠い世界の決まりみたいなものだった。

 だが、今回は違う。

 本の余白に、鉛筆で数字を書く。

 皐月賞の分。

 次に想定される分で1000万円。

 合計2000万円。

 そこから何やら控除を引く。

 半分。

 課税所得。

 所得税。

「……嘘やろ」

 数字を見て、声が出た。

 200万円を超えている。

 もちろん、細かい計算は合っているか分からない。

 本を読んでも、自分の理解が正しいのか自信がない。

 だが、大きく外れてはいない気がした。

 200万円。

 自分の年収から考えれば、馬鹿みたいな額だった。

 働いても働いても、毎月の給料から税金と保険が引かれていく。

 それでも黙っていた。

 そういうものだと思っていた。

 だが、急に200万円という数字が目の前に出ると、腹の奥が熱くなる。

「持っていきすぎやろ……」

 剛三は低く呟いた。

 横で恵が寝返りを打つ。

 空き缶が畳の上でかたりと鳴った。

 剛三は一瞬そちらを見る。

 起きる気配はない。


 こんな額、会社に知られると面倒だ。

 そう思い、本をさらにめくる。

 普通徴収。

 自分で納付。

 給与から天引きしない方法。

 文字を追う。

 追っているうちに、頭の奥が痛くなってきた。

 確定申告。

 税務署。

 申告書。

 納付書。

 知らない世界だった。

 自分が知らないだけで、世の中の大人は皆こんなことをしているのだろうか。

 それとも、知らないまま会社に任せているだけなのか。

 さらに読み進めて、剛三は手を止めた。

 住民税。

「……まだあんのか」

 所得税だけではなかった。

 翌年、住民税が来る。

 剛三は電卓を叩いた。

 ボタンの音が、さっきより硬くなった。

 液晶に数字が出る。

 100万円近い。

 剛三はしばらく、その数字を見ていた。

「金持ちは、よう正気でおれるな」

 誰に言うでもなく呟く。

 恵の寝息が続いている。

 遼太郎は上の部屋で眠っていた。

 幼い寝顔をしているはずだった。

 だが、その息子が動かしている金は、もう幼いものではない。

 遼太郎が何を知っているのか。

 どこまで考えているのか。

 それは分からない。

 だが、ケツは拭いてやらないといけない。

 それが大人の仕事だった。


 翌日。

 11月2日。

 大阪の空は、薄い雲に覆われていた。

 雨にはならない。

 陽射しは鈍く、ビルの壁を白く照らすだけだった。

 梅田の人混みは、休日の昼過ぎらしく濃かった。

 地下街から吐き出された人の流れが、地上の道路へ広がっていく。

 WINS梅田は、いつものように混んでいた。

 赤鉛筆を耳に挟んだ男。

 競馬新聞を折り畳んで睨む老人。

 壁際で煙草を吸う若者。

 床に散った外れ馬券。

 ざわめき。

 怒号。

 笑い声。

 剛三の懐には、25万円分の馬連馬券が入っていた。

 紙の束は思ったより薄い。

 だが、重さはあった。

 財布とは別に、内ポケットへ入れている。

 何度も手で触ってしまう。

 そこにあることを確かめなければ、不安だった。

 手には、十枚の馬券を持っていた。

 ルールファスト。

 十八番人気。

 自分の小遣いで買った大穴だった。

 買わないつもりだった。

 だが、つい買ってしまった。

 当たるかもしれない。

 当たらないかもしれない。

 新聞を読み、パドックを眺め、穴を探す。

 馬券を握りしめて夢を見る。

 これが自分の競馬だった。


 モニターの前に立つ。

 京都競馬場。

 菊花賞、発走。

 ファンファーレが鳴ると、場内の空気が少しだけ熱を帯びた。

 剛三は声を出さなかった。

 周囲の男達が騒ぐ。

 誰かが馬名を叫ぶ。

 煙草の煙が、天井の方へ薄く伸びる。

 ゲートが開いた。

 馬群が動く。

 剛三は画面を見つめていた。

 自分の馬券のルールファストを探す。

 すぐに見失った。

 代わりに、マチカネフクキタルが見えた。

 落ち着いた走りだった。

 画面越しでも、強い馬だと分かった。

 ダイワオーシュウもいる。

 その二頭の位置だけが、妙にくっきり見えた。

 三周目の向こう正面に入る頃には、場内の声も少し湿っていた。

 逃げ馬を追う声、折り合いを気にする声、まだ早いと怒鳴る声。

 菊花賞は長い。

 長い分だけ、見ている方の息も削られる。

 最後の直線。

 場内が揺れた。

 叫び声。

 新聞を叩く音。

 床を踏む音。

 マチカネフクキタルが伸びた。

 ダイワオーシュウがメジロブライトと接戦を繰り広げる。

 ルールファストは来ない。

 来るはずもなかった。

 モニターの中で、マチカネフクキタルが先頭を駆け抜けた。

 その後ろは混戦模様。

 マチカネフクキタルが勝ったのは分かった。

 問題は二着だった。

 ダイワオーシュウ。

 メジロブライト。

 どちらだ。

 場内のざわめきが、一瞬だけ沈んだ。

 着順表示が出る。

 1着 マチカネフクキタル。

 2着 ダイワオーシュウ。

 メジロブライトはハナ差だった。

 当たった。

 やっぱり当たったよ。遼。

 剛三は息を吐いた。

 福は来た。

 喜びはなかった。

 あるのは、諦めに近い納得だった。

 周囲では歓声が上がっている。

 外れた男が新聞を丸めて床へ叩きつけた。

 別の男が笑いながら連れの肩を叩いている。

 煙草の煙が濃くなった。

 剛三は、手の中の外れ馬券を見た。

 ルールファスト。

 十八番人気。

 夢の残骸だった。

 それを、足元へぱらりと落とした。

「俺も競馬やめるかなぁ」

 小さく呟いた。

 懐の内ポケットには、25万円分の馬券がある。

 払戻金は、ほぼ1000万円。

 春の分と合わせれば、もう家の食卓で数える金ではない。

 これをどうするか。

 遼太郎に聞かねばならない。

 だが、最後に腹を括るのは自分だ。

 剛三はモニターから目を離した。

 換金所へ向かう人の流れができ始めていた。

 その流れに乗る。

 足元では、踏まれた外れ馬券が潰れている。

 誰かの怒鳴り声が遠くで上がった。

 モニターの白い光が、床に散った馬券を照らしていた。


基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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