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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
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第二十七節

 11月19日。昼。

 大阪の空は、冬へ向かう途中の色をしていた。

 薄い雲が高く伸び、御堂筋の街路樹は葉の端から色を失い始めている。

 淀屋橋の高層ビルは、空へ真っ直ぐ伸びていた。

 ガラスと石でできた外壁。

 磨かれた床。

 入口に立つ警備員。

 自動扉が開くたび、外の冷たい空気と中の暖かい空気が入れ替わる。

 ブラックストーム・インベストメント・ジャパン。

 その大阪支店が、このビルの上階に入っていた。


 父は、慣れないスーツを着ていた。

 濃紺のフォーマルスーツ。

 襟元には、結び慣れていないネクタイ。

 靴も磨いてきた。

 だが、歩くたびに革が硬く鳴る。

 遼太郎も子供用のスーツを着せられていた。

 小さなジャケット。

 白いシャツ。

 子供用のネクタイ。

 母が朝から張り切って整えたものだった。


 予約は十三時だった。

 だが、二人は十二時前に着いてしまった。

 遅れるよりはええ。

 そう言って家を出るのを急かしたのは父だった。

 道路が渋滞だったらどうする。

 道に迷ったらどうする。

 受付で揉めたらどうする。

 そう考えるうちに、気付けば一時間も前に到着していた。


 ロビーの隅にあるソファへ腰を下ろすと、父は小さく息を吐いた。

 誰にも見られないように、ネクタイを少しだけ緩める。

「あれよこれよと、ここまで来てもうたなぁ」

 ぼやくような声だった。

 遼太郎は横に座っていた。

 足が床に届かない。

 革靴のつま先だけが、宙で小さく揺れている。

 高い天井。

 磨かれた床。

 受付の女性達。

 英語交じりの会話。

 壁に掛けられた抽象画。

 全てが、非日常だった。


 11月3日のことだった。

 夕食時、テレビのニュースで大手証券会社の破綻が流れた。

『三洋証券は本日、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請しました』

 キャスターの声は平板だった。

 画面には証券会社の看板。

 記者会見。

 頭を下げる役員達。

 金融不安。

 不良債権。

 連鎖。

 難しい言葉が、食卓へ流れ込んでくる。

 母は味噌汁を啜りながら、眉を寄せた。

「証券会社って潰れるんや」

「そら、会社やからな」

 父はそう答えたが、声は重かった。

 遼太郎は箸を止めていた。

 来たな。

 内心で呟く。

 ここから空気が変わる。

 北海道拓殖銀行。

 山一證券。

 日本の金融機関に、倒れてはならないと思われていたものが、次々に倒れていく。

 歴史としてなんとなく知っていただけだった。

 だが今は違う。

 皐月賞と菊花賞で作った金がある。

 この金をどこへ逃がすか。

 どこで増やすか。

 それを決める時期が来ていた。

 遼太郎は茶碗を置いた。

「おとん」

「ん?」

「あのお金、銀行に預けるの危なくない?」

 食卓の空気が、止まった。

 父は味噌汁の椀を置く。

 箸を揃える。

 嫌な予感をしていたような顔だった。

「銀行は大丈夫や思うけど…どこに預けるのがええと思う?」

 父の声は、待ってましたと言わんばかりだった。

 遼太郎は、さらっと言い切った。

「外資」

「がいし?」

「外国の証券会社」

 母が目を瞬かせる。

「遼ちゃん、また難しいこと言うてる」

 父は黙っていた。

 遼太郎の顔を見ている。

 五歳児の顔。

 だが、目だけは別のものを見ている。

「外国の会社やったら安心やん」

 遼太郎は構わず続ける。

「それに、競馬飽きたから株やってみたいねん。前に、おかんが株も競馬みたいなもんや、株は証券会社で売ってる言うてたし」

 父は母の顔を見る。

 お前なんちゅう事言うたんや。

 目がそう語っていた。

 母は苦笑いを浮かべながら視線をそらした。

 父は深く息を吐いた。


 その日から、父は電話をかけ続けた。

 大手の証券会社は、どこも混んでいるのか、声が硬かった。

 その中で、ブラックストームだけは予約が取れた。

 外資系とはいえ、日本ではまだ名の通った会社ではないらしい。

 父はそれを幸運と思ったのか、不安と思ったのか、自分でも決めかねていた。

 そして今、二人は淀屋橋の高層ビルのロビーに座っている。

 父はソファにもたれ掛かった。

「一昨日、拓銀も潰れてもうたしなぁ」

 天井へ向けるような声だった。

「世の中、どうなるんやろなぁ」

 遼太郎は答えなかった。

 おとん。

 来週は山一やで。

 そう思ったが、口には出さない。

 国内金融機関は危ない。

 山一で止まるはずだが、もしもがある。

 なら、外資に口座を作って、国内外の絶対に化ける株を買い漁る。

 あとは寝ていても金が増える。

 日本経済がぐらついている今なら、口座開設の審査も多少は緩いはずだった。

 遼太郎は心の中でだけ、にやりと笑った。


 ロビーの暖房はよく効いていた。

 子供用スーツの襟元も窮屈だった。

 朝から妙に緊張していたせいで、水分もあまり取っていない。

 喉が渇いた。

「おとん」

「なんや」

「ジュース飲みたい」

「今か」

「あと四十分くらいあるし」

 父は腕時計を見る。

 家中で一番高い腕時計。

 SEIKOの文字がきらりと光る。

 確かに、まだ時間はある。

「自販機あるんかな」

 父は立ち上がり、目の前の壁に掛けられた館内図を見に行った。

 遼太郎も後ろからついていく。

 図の端に、小さくカフェテリアスペースと書かれていた。

 自動販売機の記号もある。

 カフェテリアはロビーの奥に見えていた。

 曲がり角を一つ曲がるだけだった。

「奥やな」

「行こ」

 そう言いかけた時だった。

「西尾様」

 受付の女性が、柔らかい声で呼んだ。

 父の肩が跳ねる。

「はい!」

 声が上ずる。

「ご予約内容の確認だけ、先にお願いできますでしょうか」

「あ、はい。ええと」

 父は遼太郎と受付を交互に見た。

 完全にあたふたしている。

「ジュースくらい一人で買えるで」

 遼太郎は言った。

「ほんまか?」

「うん」

「迷うなよ。走るなよ。知らん人について行くなよ」

「分かってるって」

 父は真新しい財布から千円札を出し、遼太郎の手に握らせた。

「気ぃ付けて行けよ」

「うん」

 父はそのまま受付の女性に促され、カウンターの方へ向かった。

 遼太郎は一人で歩き出した。

 ロビーの奥へ進む。

 床は大理石のように滑らかだった。

 天井の照明が、白く反射している。

 外資系というだけで、空気まで違うように感じる。

 日本の会社の古い応接室とは違う。

 煙草と古い紙の匂いがしない。

 外資系のオフィスには入ったことはない。

 ただ、コーヒーと香水と、どこか乾いた空調の匂いは懐かしい気がした。

 角を曲がり、カフェテリアへ続く廊下に入る。

 その時だった。

 床の段差に、靴の先が引っかかった。

 やばい。

 身体が前へ傾く。

 五歳児の身体は、こういう時に反応が遅い。

 頭では分かっていても、足がついてこない。

 転ぶ。

 これだから革靴は嫌いだ。

 そう思った瞬間、身体がふわりと止まった。

 誰かの腕が、遼太郎を抱き留めていた。

「気をつけて、坊や。ここは段差があるからね。あとで直すように言っておくよ」

 英語だった。

 顔を上げる。

 金髪の長い髪。

 すっと通った鼻筋。

 青い目。

 女性と見間違えるほどの美丈夫だった。

 年齢は二十代半ばだろうか。

 背が高い。

 スーツもよく似合っている。

 男は通じないと察したのか言い直した。

「大丈夫? 気を付けて」

 片言の日本語だった。

 それから、優しく笑った。

 笑顔に少しばかり疲労感を感じた。

 遼太郎は姿勢を直し、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます」

 日本語で言った。

 男はにこやかに軽く手を振る。

 そして遼太郎より先に、カフェテリアの方へ歩いていった。

 遼太郎はその背中を見送った。

 流石外資系、かっこいい。

 内心で呟く。

 ただ…抱きとめられたときに微かに感じた匂い。

 高そうなコロンで隠してはいるが、かつて嗅いだ匂い。

 何日も職場に泊まり込んだ時の臭いがした。


 少し遅れて、カフェテリアへ入った。

 中は思ったより静かだった。

 昼休みの時間から外れているせいか、人影はない。

 窓際には丸いテーブルが並び、壁際には自動販売機が数台置かれている。

 コーヒーの匂いが薄く残っていた。

 自動販売機の前に立つ。

 問題は高さだった。

 ボタンが高い。

 五歳児には高い。

 手を伸ばす。

 届くものと届かないものがある。

 ジュース。

 お茶。

 コーヒー。

 炭酸。

 色々並んでいる。

 だが、指が届く位置にあるのは、下の段だけだった。

 コーヒー、ココア。

「…まあ、ココアでええか」

 千円札を差し込む。

 背伸びする。

 指先でボタンを押す。

 ごとん、と音がした。

 取り出し口から缶を取り出す。

 冷たい。

 思ったより重い。

 遼太郎は両手で持った。

 釣銭はポケットにねじ込む。

 ポケットがジャラジャラする。

 よくやってたなぁ。

 有理からはみっともないから止めなって言われてたっけ。

 懐かしい気持ちになった。


 その時だった。

 閑散としたカフェテリアの奥から声がした。

 英語だった。

 スペースの片隅、観葉植物の陰に、半分だけ磨りガラスで囲われた電話ブースがあった。

 そこに、さっきの金髪の社員が立っていた。

 受話器を握っている。

 最初は聞き流すつもりだった。

 だが、耳に入った単語で足が止まった。

 山一。

 遼太郎は目を細める。

 自動販売機の陰に半分隠れるようにして、そっと近づいた。

 耳を立てる。

 男の声は、さっきの爽やかさとはまるで違っていた。

 焦っている。

 それも、かなり追い詰められている。

 声は抑えているつもりなのだろう。

 だが、語尾が震えていた。

 次は山一だという噂がある。

 空売りをどうするか。

 潰れるなら積み増す。

 だが、救済されれば踏み上げられる。

 ポジションが大きすぎる。

 逃げるべきか。

 攻めるべきか。

 男は早口でまくし立てていた。

 そのうち、話題はアジアへ移る。

 ウォン売りで大きく勝っている。

 だが、どこが底か分からない。

 IMFが介入しても、本当に助かるのか。

 このまま国家破綻するのではないか。

 逃げ時を間違えたら、利益が吹き飛ぶ。

 いや、吹き飛ぶだけならまだいい。

 逆に焼かれる。


 本来なら、こんな場所で話す内容ではないのだろう。

 だが男は、もう場所を選べる顔ではなかった。

 勝者のはずなのに負け犬のような狼狽えぶりだった。

 遼太郎は缶ココアを抱えたまま、黙って聞いていた。

 言葉が耳に入るたび、頭の中で未来の知識がそれを照合していく。

 山一は助からない。

 11月24日破綻。

 韓国はIMF管理下へ。

 12月3日。

 ウォンはそこで一度逃げるべきだ。

 底を当てにいくと危ない。


 電話の向こうから、怒鳴り声が漏れた。

 男のくせに泣くな。

 金髪の社員は泣いていた。

 限界が来ているようだった。

 何日もろくに寝てない、家に帰ってない、食べ物の味が解らない。アメリカに帰りたい。

 片手で目元を押さえ、受話器に向かって泣き言を言い始めた。

 さっきとは別人だった。


 要は、出口戦略か。

 遼太郎は思った。

 勝っている。

 だが、どこで降りればいいか分からない。

 勝ちを確定できず、もっと勝てるかもしれないという欲と、失敗した時の恐怖の間で動けなくなっている。

 余計なことを言うべきではない。

 それは分かっていた。

 未来知識を外に漏らすのは危ない。

 相手は外資の社員だ。

 こちらに興味を持たれたら面倒になる。

 それでも。

 さっき助けてもらった。

 あの顔のまま放っておくのも、寝覚めが悪い。

 せめて、子供の戯言で済ませてくれればいい。

 それで少しでも息ができるなら、それでいい。


 男は電話を切った。

 受話器を力無く戻す。

 すぐ横のベンチに腰を落とし、両手で顔を覆う。

 肩が震えていた。

 涙が指の間から漏れていた。


 遼太郎は、歩み寄った。

 缶ココアを持ったまま、男の隣に立つ。

「山一は助からないぜ」

 英語で言った。

 男の肩が止まった。

 ゆっくり顔を上げる。

 青い目が、涙で赤くなっていた。

 涙と鼻水で整った顔が台無しだった。

「拓銀で大蔵省は手一杯。週明け、24日前後が臭いな」

 遼太郎は続けた。

 英語を話そうと口を開くと英語が出る。

 不思議な感覚だった。

 言葉だけが勝手に切り替わる。

「崩れたところで、売りは一回利確。そこから先は、救済だの公的資金だので変に跳ねるかもしれん。売りを持ちすぎると火傷するから気を付けな」

 男は何も言わない。

 あんぐり口を開けたまま、遼太郎を見ている。

「ウォンは、まだ落ちる。でも12月の頭だ。3日か4日、その辺でIMFが出てくる。ウォン売りは、そこで欲張るなよ」

 遼太郎は缶ココアを男の横へ置いた。

「底を当てようとせずに、出口を見つけるんだな」

 男は完全に固まっていた。

 ここまで間抜けな顔になるものかと、遼太郎は感心した。

 目を見開き、鼻水は垂れ、口をだらりと半分開け、泣き腫らした顔のまま一言も出てこない。

 沈黙。

 遼太郎は耐え切れなくなった。

 やばい、言いすぎたかもしれない。

 そそくさと踵を返す。

 自動販売機まで駆け足で戻り、硬貨を入れた。

 今度も背伸びをして、同じココアのボタンを押す。

 ごとん、と缶が落ちる。

 遼太郎はそれを取り出し、両手で抱え直した。

 振り返る。

 金髪の男は、さっきと同じ姿勢で固まっていた。

 遼太郎は軽く頭を下げた。

「さっき、助けてくれてありがとな。顔を洗いな?イケメンが台無しだぜ?」

 それだけ言って、逃げるようにカフェテリアを出た。

 ふと、さっきから何か言い回しが違うような気がした。

 まぁ、通じるっぽいから良いか。

 遼太郎は気にしないことにした。


 廊下へ戻ると、空調の音が大きく聞こえた。

 手の中の缶ココアは冷たい。

 さっきより重く感じる。

 ロビーの方から、父の声が聞こえた。

「遅かったやん」

 遼太郎は少しだけ歩幅を速める。

 遼太郎は缶ココアを掲げた。

「ココアしか届かんかった」

 父は大きく息を吐いた。

「やっぱ、一緒に行った方がよかったな。ココアで喉大丈夫か?」

「大丈夫」

 その時、受付の女性が二人へ歩いてくる。

「お待たせいたしました。そろそろご案内できます」

 父は慌ててネクタイを締め直した。

 遼太郎は缶ココアを両手で抱えたまま、受付の奥へ視線を向ける。

 磨かれた廊下の先に、会議室へ続く扉が見えた。

 いよいよ、マネーゲームへの第一歩やな。

 遼太郎は鼻息を荒くした。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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