第二十八節
11月19日。十三時。
ブラックストーム・インベストメント・ジャパン大阪支店。
A会議室。
会議室は、白かった。
壁も、机も、蛍光灯も、置かれた書類の束も、どこか冷たい白さを帯びている。
窓の外には、淀屋橋のビル群が見えた。
低い冬の光がガラスに当たり、薄く反射している。
空調の音だけが、切れ目なく響いていた。
遼太郎は、父の隣に座っていた。
さっき買った缶ココアは、まだ手の中にある。
先ほどまでの冷たさは失われつつあった。
飲む機会を逃したまま、会議室まで持ってきてしまった。
向かいには、口座開設担当の係員が座っている。
三十代半ばくらいの男だった。
髪をきちんと分け、銀縁の眼鏡を掛けている。
笑顔は柔らかい。
だが、机の上に並べる書類の量は、柔らかくなかった。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
係員は丁寧に頭を下げた。
「改めまして、私、ブラックストーム・インベストメント・ジャパン大阪支店、口座管理部の猪原でございます。本日は、証券総合口座の開設について、ご説明と確認をさせていただきます」
「よ、よろしくお願いします」
父は固い声で答えた。
さっき受付前で締め直したネクタイが、曲がっている。
本人は気づいていない。
膝の上には、持参した封筒があった。
中には免許証、通帳の写し、印鑑、住民票、競馬払戻金の入金記録、そして申告予定に関するメモが入っている。
今日まで何度も確認したのだろう。
封筒の角が、少しだけ擦れていた。
「まず、本人確認書類を拝見いたします」
「あ、はい」
父は慌てて封筒を開けた。
運転免許証。
印鑑。
通帳。
住民票。
一つ出すたびに、猪原が確認し、机の上へ整えていく。
「今回お預け頂く1600万円の資金の出所についてですが」
猪原が別の紙をめくる。
「競馬払戻金とのことでしたので、入金記録と申告予定の確認をさせていただきます」
「はい」
父は頷いて入金記録を差し出す。
「申告は、します。まだ、全部分かってるわけやないんですけど…税務署にも聞きに行くつもりです」
「承知いたしました」
猪原は表情を変えずに頷いた。
馬鹿にする様子はなかった。
それだけで、父の肩がほんの少し下がった。
だが、そこから空気が変わった。
「まず、口座名義はお父様になります。遼太郎様は未成年ですので、直接の契約当事者にはできません」
猪原は淡々と説明を続ける。
「国内株式、店頭登録銘柄、および外国株式のお取引ができる証券総合口座を開設いたします。外国株式については、別途、外国証券取引に関する確認書へご署名いただきます」
「はい」
父は答えた。
その声は浅かった。
「外貨建ての商品につきましては、為替変動によって円ベースの評価額が大きく変動する可能性がございます」
「…はい」
返事が半拍遅れる。
「また、市場によっては流動性が低く、希望する価格で売買が成立しない場合がございます」
「……はい」
「手数料につきましては、海外株式の場合は国内株式より高くなる場合がございます。税務上の扱いについては、弊社では個別の助言を行えませんので、税理士または税務署へご相談ください」
「………はい」
父の目が、だんだん遠くなっていく。
声もか細くなり、固まり始めていた。
「お取引は国内外の株式現物を中心に、信用取引および派生商品については当面お受けしない形でよろしいでしょうか」
遼太郎は、缶ココアを机に置いた。
「信用取引と派生商品は使いません」
口を挟む。
猪原の目がこちらへ向いた。
「現物だけでいいです。外貨の変動も込みで、長く持つつもりです。為替で損することがあるのも分かっています」
「遼」
父が小さく呼ぶ。
「大丈夫」
遼太郎は短く返した。
猪原は困ったように微笑んだが、すぐに書類へ目を戻した。
「承知いたしました。ただし、最終的なご判断はお父様にお願いすることになります」
「はい。それでかまいません」
遼太郎が答えた。
猪原は説明を続けた。
取引約款。
外貨決済。
手数料。
遼太郎は、知っている単語を拾いながら答えた。
猪原はそれを確認し、さらに書類をめくった。
架空名義でないことの確認。
第三者資金でないことの確認。
資金源に犯罪性がないことの確認。
用紙が何枚も出てくる。
父はところどころで頷き、必要な箇所に名前を書いた。
判子を押す場所には、赤い付箋が貼られている。
朱肉の匂いが、かすかに会議室へ混じった。
ようやく、猪原が書類の束を整えた。
「それでは、一度内容を確認してまいります。少々お待ちください」
猪原はそう言って、書類を抱えて立ち上がった。
扉が閉まる。
残された父は、大きく息を吐きながら椅子にもたれた。
「俺、全然分からんかった…」
力の抜けた声だった。
「とりあえず、最後はハンコ付けばええんやな?」
不安そうに遼太郎に問いかける。
「せやで」
遼太郎は頷く。
「いやぁ、電子辞書役に立ったわ」
「ほんまか?」
父は苦笑した。
少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
遼太郎は缶ココアを開けた。
カシュッとした音が会議室に響く。
一口。
一仕事こなした後のココアは美味い。
会議室の外では、遠くで電話の音が鳴っている。
誰かが英語で話す声。
コピー機の低い音。
書類をめくる音。
それらが壁越しに薄く聞こえてきた。
しばらくすると、その音の中に、鋭い声が混じった。
「はぁ? 子供? 父親は分かってなさそう? 誰が通したの?」
日本語だった。
父と遼太郎は、同時に扉の方を見た。
声はすぐに低くなった。
だが、いくつかの単語だけが漏れてくる。
適合性。
トラブル。
裁判。
敗訴。
嫌な予感がした。
遼太郎は缶ココアを握り直した。
金属が、わずかにへこんだ音を立てる。
数分後、扉が開いた。
猪原が戻ってきた。
その後ろに、上長らしき男がいる。
四十代半ば。
髪を後ろへ撫でつけ、表情は穏やかだが、目が疲れている。
猪原が上長の小柳と紹介する。
しかし、次の言葉を言い淀んでいた。
その後ろに一人の女が立っていた。
銀色の髪だった。
肩の少し下まで伸びた髪を、きっちりとまとめている。
タイトな黒いビジネススーツ。
白い肌。
顔立ちは、日本人のものではない。
北欧か。
ロシアか。
美人だった。
文句のつけようがない。
だが、目が鋭い。
口元は引き結ばれ、こちらを見る視線に温度がない。
近づけば切れそうな刃物のようだった。
そして、どこか引っかかった。
夏祭りの夜。
石段の脇。
銀色の髪の女の子。
あっかんべーをして、人混みに消えた顔。
似ている。
そう思った。
女は立ち尽くす猪原と小柳を退けるように会議室へ入ると、名刺を机の上へ置いた。
「スタシア・ラマーノフです」
流暢な日本語だった。
「リーガルチェックを担当しています」
不機嫌さを隠す気は、あまりないようだった。
遼太郎は名刺を見た。
法務担当。
弁護士。
そんな肩書きが印刷されている。
何がリーガルチェックや。本人確認と資金源のチェックは通ったはずやろ。
そう思った瞬間、スタシアの目がわずかに細くなった。
こちらの顔色を読んだのかもしれない。
「西尾様」
スタシアが父の顔を見る。
「はい」
父の声が上ずる。
「いくつか確認させてください」
「はい」
「為替リスクとは何ですか」
いきなりだった。
父は口を開けた。
閉じた。
また開ける。
「ええと…円と、ドルの…」
「流動性リスクとは」
「りゅうどう…」
「相手方リスクとは」
「…」
「信用取引と現物取引の違いは」
父の顔が、見る間に固まっていく。
猪原が、視線を落とした。
小柳も、困ったように手元の書類を見る。
止める気はない。
止められないのかもしれない。
スタシアは淡々と続けた。
「お父様は、これらを理解した上で署名されるのですか」
会議室が静かになった。
空調の音が、急に大きく聞こえる。
父の手が、膝の上で握られている。
手汗が噴き出していた。
遼太郎は口を開いた。
「それは——」
「ごめんなさいね、坊や」
スタシアが遮った。
「あなたには聞いてないの」
微笑んでいた。
だが、その笑みには温度がない。
はっきりと見下している。
なんやぁ、この女。
遼太郎の内側で、何かが跳ねた。
「親が子に経済教育をするため、親の名義と責任で現物株を買う」
遼太郎は言った。
「どこが法律違反ですか」
父が横でぎょっとする。
猪原も、小柳も、目を見開いた。
スタシアは表情を変えなかった。
「法律違反だけが問題ではありません」
即答だった。
「お父様」
再び父を見る。
「本当にご自分で判断されていますか?」
「…」
父は詰まった。
正直な父だった。
ここで”もちろんです”と軽く言える人間ではない。
言えば通るかもしれない。
だが、父はその嘘をつけなかった。
その沈黙を、スタシアは逃さなかった。
「つまり」
スタシアは、遼太郎を指さした。
「実質的な投資判断者は、この子よね」
勝ち誇ったような声だった。
「契約書に署名するのは、理解していないお父様。実際に判断しているのは未成年の子供。金融情報の理解能力がない相手との契約は、弊社にとっても危険です。いかがでしょう?」
小柳が、ようやく口を開いた。
「ミズ・ラマーノフ。本人確認と資金源の確認は済んでいます。取引も現物株中心で、信用取引や派生商品は当面制限する。であれば、口座開設自体は——」
「これはマネーロンダリングとかの問題ではありません」
スタシアが切った。
小柳の言葉が止まる。
「理解していない人間に、リスクのある商品を売ることが問題なのです。合法なら何をしてもいい、という話ではありません」
会議室の空気がさらに固くなる。
猪原は黙っている。
小柳はこめかみを押さえて何か我慢しているように見えた。
契約寸前の案件を、法務が止めに入っている。
おそらく、社内的には面倒なことなのだろう。
スタシアの目は引かなかった。
遼太郎は缶ココアを膝の上で持ち直し、噛みついた。
「こちらの自己責任で運用するんです。お節介は無用です」
言った瞬間、スタシアの目が鋭くなった。
「子供が運用?」
声が低くなる。
「正気の沙汰ではありません」
父が息を呑む。
スタシアは遼太郎に向かって、身を乗り出した。
「いい、坊や。お金は魔物なの。一歩間違えたら人が死ぬの。大切な人を亡くすかもしれないのよ。分かっているの?」
その言葉で、遼太郎は止まった。
きつい女だ。
嫌な女だ。
言い方は最悪だ。
こちらを小馬鹿にしているのも間違いない。
だが、商売の匂いがなかった。
こちらへの悪意ではない。
止めようとしている。
金融という危ない場所の入口で。
少しだけ見直した。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。
ただ、打つ手がない。
この一手以外は。
沈黙が落ちた。
猪原も、小柳も、スタシアも、父を見ていた。
遼太郎も父を見る。
父はしばらく黙っていた。
膝の上の拳を見ている。
それから、ゆっくり手を開いた。
左手の掌。
5月の夜、包丁の刃を握った時の傷跡が、薄く残っている。
父はそこを親指でなぞった。
「ラマーノフさんの言うことは、もっともやと思います」
静かな声だった。
「金融なんて、正直、俺にはよう分かりません。たぶん、半分も分かってません」
父は笑わなかった。
「子供が触ってええ世界やない。それも、分かります」
スタシアは黙っている。
「けど」
父は、遼太郎を見た。
「こいつは、自分で考えて自分で歩こうとしてます」
遼太郎は、何も言えなかった。
「子供やから止める。危ないから遠ざける。それも親の仕事やと思います」
父は傷跡をもう一度なぞる。
「でも、こいつが歩こうとしてるのに、俺が何も分からんからって、後ろへ引っ張るだけではあかんとも思うんです」
父は、ゆっくりと息を吸った。
「だったら、親の俺が後ろで支えたらなあかん」
その言葉だけが、白い会議室に落ちた。
「署名するんは、俺です」
父はスタシアを見る。
「責任を取るんも、俺です」
誰もすぐには答えなかった。
スタシアの目が、ほんの少しだけ揺れた。
やがて、書類へ視線を落とした。
「…親権者であるお父様がそこまで明確に意思表示されるのであれば」
声は硬かった。
「その旨を記録に残します」
スタシアは父を見据える。
「法務担当として、口座開設そのものを止める理由はなくなりました」
猪原が小さく息を吐いた。
小柳の肩もわずかに緩む。
遼太郎も息を吐いた。
父の横顔が、大きく見えた。
スタシアは書類を猪原へ戻す。
「ただし、信用取引および派生商品は当面不可。国内外の株式現物に限定。取引ごとに父親本人の確認を取ること。リスク説明の記録は残してください」
「承知しました」
猪原が頷く。
スタシアはそのまま退室しようとした。
「ラマーノフさん」
父が呼び止めた。
スタシアの足が止まる。
だが、振り返らない。
父は小柳の方を向いた。
「こちらの法務担当の方は、確かに失礼な物言いもあったかもしれません」
小柳が気まずそうな顔をした。
猪原も目を伏せる。
「でも、すべては顧客である私たちを思ってのことやと感じました」
父は言葉を選んでいた。
慣れない敬語。
それでも、逃げずに話していた。
「ぶしつけながら、これまで私は、証券会社というのは伏魔殿みたいなもんやと思っていました。客を、ええように騙くらかす連中やと」
会議室の空気が、少しだけ変わる。
「でも、今日、見方が変わりました」
父はゆっくり頭を下げた。
「この方のような、顧客思いの方もいらっしゃるのだと分かりました。ぜひとも、今後とも御社とは末長いお付き合いをお願いいたします」
深い礼だった。
遼太郎も、慌てて頭を下げる。
猪原、小柳も続く。
スタシアは振り返らなかった。
背筋だけが、少し固くなっているように見えた。
「…失礼します」
それだけ言って、会議室を出ていった。
扉が静かに閉まった。
その後、手続きは淡々と進んだ。
父は署名し、判子を押した。
猪原が書類を確認し、小柳が頷く。
証券総合口座は、無事に開設されることになった。
説明はまだ続いた。
初回入金。
外貨転換。
取引開始までの日数。
発注方法。
電話注文。
報告書の郵送。
手数料。
必要書類の控え。
父はもう、半分以上分かっていない顔だった。
それでも、分からないところはその場で聞いた。
聞いて、メモを取った。
字は乱れていたが、逃げてはいなかった。
会議室を出る頃には、空の色が変わっていた。
冬の午後は早い。
ビルの窓から差す光は、もう傾き始めている。
受付前で、父は見送りの猪原から控え書類の説明を受けていた。
「こちらが控えになります。こちらは初回入金のご案内です。こちらの番号へお電話いただければ、担当者へお繋ぎいたします」
「はい。これ、全部持って帰ったらええんですね」
「はい」
父は真剣な顔で頷いている。
遼太郎は少し離れたロビーの椅子に座って待っていた。
缶ココアは半分ほど残っている。
勢いよく残りを飲み干す。
達成感が喉を伝った。
その時、廊下の奥からスタシアが歩いてきた。
タイトなスーツの裾が、歩くたびに小さく揺れる。
ヒールの音が神経質そうに響く。
表情は相変わらず冷たい。
遼太郎の前を通り過ぎる時、スタシアは足を止めた。
睨んでくる。
遼太郎は見上げた。
目が合う。
銀色の髪。
白い肌。
やはり、夏祭りのあの女の子に似ている。
きつい目以外は。
スタシアは、小さな声で何かを言った。
日本語ではなかった。
ロシア語だった。
「家で積み木でも積んでなさいよ。クソガキ」
ロシア語なら、誰にも分からないと思ったのだろう。
やっぱり性格の悪い女やで。
遼太郎は、空き缶を手にしたまま、小さく返した。
「お嬢ちゃん」
同じく、ロシア語だった。
「俺は数字を積む方が好きなんだ」
スタシアの顔が、完全に固まっていた。
遼太郎は椅子から降りる。
空き缶をゴミ箱に捨て、受付の方へ歩き出した。
「おとん」
父が振り返る。
「終わった?」
「おう。終わったで」
「ほな帰ろ」
遼太郎はそう言って、父の横へ並んだ。
背後で、スタシアがまだ動かずに立っている気配がした。
その視線を背中に感じながら、遼太郎は自動扉の方へ歩いていった。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
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