第二十九節
12月24日。
ニューヨークの空は、昼を過ぎても暗かった。
東五十一丁目の高層ビル群は、冬の雲の下で鈍く光っている。
ガラス張りの壁面には、灰色の空と、列をなす黄色いタクシーが歪んで映っていた。
風が冷たい。
歩道を行き交う人々は、コートの襟を立て、紙袋や鞄を抱えて足早に歩いている。
街路樹には電飾が巻かれ、ショーウィンドウには赤と緑の飾りが並んでいた。
街はクリスマスだった。
パーク・アベニュー沿いにあるブラックストーム・インベストメント本社も同じだった。
受付の横には背の高いクリスマスツリーが立ち、銀色の飾りが暖房の風で微かに揺れている。
エレベーターホールにはリースが掛かり、秘書席の端には小さなサンタクロースの人形まで置かれていた。
だが、社長室だけは別だった。
重い扉の内側に、祝祭の空気は届いていない。
革張りの椅子。
厚い絨毯。
古い木製の机。
書類の山。
灰皿。
革張りの椅子に腰を下ろしていたのは、五十前の男だった。
短く撫でつけた髪には白いものが混じり、深く窪んだ青い目だけが妙に若い。
顎に蓄えた髭が、獅子めいた印象を与えていた。
厚い肩と太い首は、仕立ての良いスーツの中でも窮屈そうだった。
その男、メリット・フィッチは受話器を叩きつけた。
皆からメリーと呼ばれる男だった。
鈍い音がした。
真鍮製の受話器だった。
ニューヨークのブラックストーム本社と、フィラデルフィアにある親会社FNC――フィラデルフィア・ナショナル・コーポレーションの会議室を繋ぐホットラインである。
見た目は古めかしい。
アンティークと言えば聞こえは良い。
だが、その縁は所々へこんでいた。
磨かれたはずの真鍮の表面には、細かな傷が幾筋も走っている。
その大半は、メリーの日々の癇癪によるものだった。
「クソが」
低く吐き捨てる。
何が余計なことをするなだ。
本業の不良債権の評価と回収だけやっていろ、バランスシートを守るのが先だ、危ない橋を渡るなだと?
ふざけるのも大概にしろ。
胸の奥に熱が残っていた。
肩で息をする。
机に置いた手の指が、まだ怒りでわずかに震えている。
窓の外では、パーク・アベニューの車列がゆっくり流れていた。
クラクションの音が、ガラス越しに鈍く響く。
遠い。
同じ街の音なのに、別の場所から聞こえてくるようだった。
メリーは机の上のカップを取った。
コーヒーが手つかずで残っている。
秘書を走らせて買わせたものだった。
アーヴィング・プレイスのカフェのコーヒー。
仕事中の、唯一の贅沢と言ってよかった。
一口飲む。
冷めていた。
「せっかくのコーヒーが…」
メリーは顔をしかめる。
アジア通貨危機、山一ショックからの市場の動揺。
この数週間、ブラックストームは悪くない立ち回りをした。
少なくともメリーはそう思っている。
日本の証券不安を読み、韓国の危機に踏み込み、逃げ遅れなかった。
債券屋だの、不良債権の掃除屋だの、親会社の小遣い稼ぎ部門だのと馬鹿にしてきた連中に、ようやく一泡吹かせる好機だった。
その結果が、叱責だった。
褒めろとは言わない。
だが、首輪を引くのは違うだろう。
メリーは椅子へ深く身体を預けた。
革が低く軋む。
ジャケットの前を開ける。
ネクタイを少し緩める。
喉元に空気が入り、ようやく呼吸が落ち着いた。
もう仕事をする気になれなかった。
机の右端に置かれた内線電話へ手を伸ばす。
短く番号を押す。
「入れてくれ」
それだけ言って切った。
本来なら、一緒にコーヒーを飲みながらゆっくり話すつもりだった。
それを潰したのは、FNCのお歴々である。
数十秒後。
扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
扉が開く。
ジョニー・フィッチが入ってきた。
細身のスーツ。
整った顔立ち。
まだ若さの残る青い目。
少し遠慮がちな歩き方。
二十四歳。
どこか子供の頃の面影が抜けない。
「メリーおじさん」
「コーヒーは美味かったか、ジョニー」
声にまだ苛立ちが残っているのは、自分でも分かっていた。
ジョニーは一瞬だけ目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「メリーおじさんの行きつけに間違いはないよ」
「そうか」
なら俺も熱いうちに飲みたかった。
言いかけて、やめた。
ジョニーは向かいの椅子へ座る。
姿勢は良い。
ただ、膝の上に置いた指先だけが少し落ち着かない。
片方の親指を、もう片方の指で撫でている。
昔からの癖だった。
妹の葬儀の日。
棺桶にしがみつくように泣いていた子供を、メリーはよく覚えている。
あれから二十年。
我が家に引き取り、トレードのイロハを叩き込んだ。
血は争えない。
ジョニーはみるみるうちに才覚を伸ばしていった。
数字の流れを読む。
市場の歪みを嗅ぐ。
能力だけなら、若手の中でも頭一つ抜けている。
ただ…
「今日は泣き言じゃないんだな」
メリーは言った。
ジョニーの眉が少しだけ下がる。
肝が小さい。
それが致命的だった。
頭が良すぎるのだろう。
情報が増えると全部を処理しようとして詰まる。
イレギュラーが二つ三つ重なれば、狼狽し始める。
トレードは最後は度胸だ。
頭じゃない。
何度言っても、そこだけは治らなかった。
武者修行のつもりで、1年前にあのカオスな日本法人の東京本社へ送り出した。
少しは鍛えられると思った。
実際、揉まれてはいる。
だが、事あるごとに泣きついてくる癖は相変わらずだ。
先月など、電話口でつい怒鳴ってしまった。
受話器の向こうで半泣きになっていた声が、耳の奥に残っている。
「クリスマス休暇で帰ってきた挨拶だよ」
ジョニーは拗ねたように言う。
「これから、ばあちゃんの家に行く」
「分かった。俺も後から顔を出す」
メリーは鼻で笑った。
「母さんは、毎年ターキーを焼きすぎるからな」
「去年も三日は食べたね」
「三日で済めばいい」
二人して笑った。
短い笑いだった。
それでも、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
外の部屋から、誰かがクリスマスソングを口ずさむ声が聞こえる。
陽気な曲だった。
メリーは机の上のペンを指で転がした。
「しかし」
声を落とす。
「よくあの難局を乗り切ったな」
ジョニーの顔が、少し固まった。
「あの電話の狼狽えぶりじゃ、火傷することは覚悟したぞ」
「…それも、話したかったんだ」
ジョニーは視線を落とした。
メリーは目を細める。
「何だ」
「実は、ブレーンがいたんだ」
「ブレーン?」
ペンが止まった。
ジョニーは迷うように唇を湿らせた。
それから、ゆっくり話し始める。
会議で大阪支店に来ていた日のこと。
アザラシに似た少年を助けたこと。
あの泣き言を聞かれたこと。
そして、その少年が口にした言葉。
出口を見つけろ。
メリーは黙って聞いていた。
途中で一度だけ、窓の外へ視線を向ける。
冬の空は暗く、ビルの谷間には早い夕方の影が落ち始めていた。
コートの肩をすぼめた人影が、強い風に押されるように歩いている。
ジョニーの話が終わっても、メリーはすぐには口を開かなかった。
沈黙。
暖房の低い音だけが続いた。
「お前」
ようやく、メリーは口を開いた。
「正気か?」
ジョニーは小さく肩をすくめた。
「どこの馬の骨かも分からんガキの言うことを信じて、数百億のポジションを動かしたのか?」
「仕方ないじゃないか」
ジョニーの声が少し高くなった。
「あの時は、もう頼れるものがなかったんだ」
目元が揺れている。
やばい。
メリーは思った。
また泣き言が始まる。
「分かった、分かった」
片手を上げる。
「オラクルがいて良かったじゃないか」
「本当にそう思ってる?」
「思ってるとも」
嘘だった。
あのカオスな盤面で的確な助言をする子供。
馬鹿げている。
だが、結果は出ている。
そして、ジョニーはその馬鹿げた話を本気で信じかけている。
その方が厄介だった。
「そこでなんだ」
ジョニーが身を乗り出した。
嫌な予感がした。
「クリスマスプレゼントが欲しい」
「は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
幼少期のジョニーには毎年、クリスマスプレゼント代わりに現金を渡していた。
サンタなどいない。
メリーが品物を選ぶより、自分で好きなものを買わせる方が合理的だったからだ。
玩具でも、服でも、本でも、好きにすればいい。
だから、プレゼントをねだられるのは新鮮だった。
「二十四にもなってプレゼントか」
メリーは眉間を揉む。
「何が欲しい。車か。家か。まさか――」
「そう」
ジョニーは被せるように言った。
「あの子供に、もう一度会わせてほしい」
社長室の空気が止まった。
メリーは、しばらくジョニーを見ていた。
見れば見るほど、正気の顔をしている。
熱に浮かされているわけではない。
疲れてはいる。
追い詰められてはいる。
だが、目は覚めていた。
それが余計に始末が悪かった。
「連絡先を聞かなかったのか?」
「そんな余裕なかったよ」
ジョニーは弱ったように言った。
「あの日、オフィスに来ていた子供について、コヤナギに聞いてみたんだ。でも、のらりくらりでさ」
「コヤナギ」
メリーは名前を反芻した。
日本法人大阪支店の責任者・小柳。
事なかれ主義の塊のような男だ。
だからこそ、あの支店を任せた。
大きな問題は起こさない。
代わりに、大きなこともしない。
「それに、ガールスカウトがさ」
ジョニーの顔が曇る。
「プライバシーだ、守秘義務だ、未成年者保護だって、すごい剣幕で」
「ラマーノフか」
メリーは思わず舌打ちした。
その音に、ジョニーがびくりと肩を震わせる。
「ただ」
ジョニーは小さく続けた。
「ガールスカウトと、その親子が揉めてたらしいのはコヤナギから聞いた」
「揉めてた?」
「うん。詳しくは教えてくれなかったけど」
メリーはしばらく黙った。
スタシア・ラマーノフ。
ロシア系。
意外にも日本生まれ日本育ち。
容姿端麗、語学堪能。
日本の弁護士資格を持ち、こちらの法務にも明るい。
学生の身で子供を産み、育てながら司法試験を抜けた女。
そのガッツも見込んで採用したのは、メリー自身だった。
ただ…面接の時から、じゃじゃ馬だった。
こちらの圧に怯えない。
媚びない。
必要なら噛みつく。
有能ではある。
だが、扱いにくい。
うまく扱えれば化ける。
そう考えた時もあった。
その甲斐むなしく、配属先の東京本社では持て余された。
結局、小さな大阪支店へ押し込まれた。
聞こえてくる評判は良くない。
融通が利かない。
正論ばかり言う。
客にも上司にも噛みつく。
ついたあだ名が、ガールスカウト。
メリーは頭を抱えた。
「で」
低く問い返す。
「そのシールに会ってどうする」
「シール?」
ジョニーは怪訝な顔をする。
「アザラシだ。シール。」
子供をシー・"ドッグ"呼ばわりはしたくなかった。
「ああ、そういうことか。アドバイザーになってほしい」
即答だった。
メリーは天井を見上げた。
ああ、なんて日だ。
神様。
甥っ子が、イブに狂っちまった。
俺が悪いのか。
あの世で妹に合わせる顔がない。
椅子に身体を沈める。
革が深く軋んだ。
「ジョニー」
「うん」
「そのシールは、オラクルなのか」
ジョニーは少し考えた。
即答しなかった。
「いや」
ジョニーは言った。
「全てを言い当てる預言者って意味なら、違うと思う。出口戦略に長けている気がしたよ」
「出口戦略」
「僕には無いものがある」
その声には、妙な確信があった。
メリーは目を閉じた。
勘とクソ度胸か。
馬鹿げている。
だが、金融の世界は、時々もっと馬鹿げたものに動かされる。
根拠のない噂。
政治家の一言。
誰かの表情。
存在しない数字。
見えない恐怖。
それに比べれば、子供の勝負師も、まだ笑い話で済むかもしれない。
息が詰まる。
メリーは勢いよくネクタイをほどいた。
ネクタイが、机の上へ投げ出される。
「月1万ドル」
重い声だった。
「最長三か月の試用期間だ」
ジョニーの目が見開かれる。
「それで成果が出なけりゃ切れ。成果が出たら、その場で俺に電話しろ。助言に明確に紐づく利益が出た場合に限って、1パーセントまでならインセンティブを認める」
「そんな条件じゃ、本物だった時に他社に取られちゃうよ」
ジョニーの声に焦りが混じった。
メリーは目を開ける。
甥の顔を見る。
亡き妹の目。
その顔をされると弱い。
昔からそうだった。
「…分かった」
メリーは吐き捨てるように言った。
「試用期間中の助言に明確に紐づく粗利の1/5を特別ボーナスで出してやる。そこから先は月1万ドルと1パーセントのインセンティブ。翌年は知らん。要交渉だ。満足か?」
本物の訳がない。
1年も続くとは思えない。
内心で毒づく。
ジョニーは嬉しそうに頷いている。
「ただし」
指を一本立てる。
「契約は親権者名義にしろ。子供と契約書を交わす馬鹿がどこにいる」
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「分かってるって」
ジョニーは笑った。
メリーは眉間を押さえる。
「渡りは俺がつけてやる」
そう言った瞬間、自分の気が重くなるのが分かった。
「ありがとう、メリーおじさん!」
ジョニーが満面の笑みを浮かべた。
やめろ。
その顔をするな。
妹の顔。
その顔で、つい我儘を許してしまう。
「分かったら、さっさと母さんの家に行け」
メリーは手を振った。
「家ではこの話は無しだ」
「わかってるよ」
「母さんに子供とアドバイザー契約の話なんかしたら、俺がボケたと思われる」
「言わないって」
ジョニーは上機嫌だった。
来た時よりも、足取りが軽い。
扉の前で一度振り返る。
「メリーおじさん」
「まだ何かあるのか」
「メリー・クリスマス」
メリーは一瞬黙った。
それから、軽く手を振る。
「ああ。メリー・クリスマス」
扉が閉まる。
社長室に、静けさが戻った。
外の部屋から、笑い声が聞こえる。
誰かが早めに帰る挨拶をしている。
クリスマス休暇。
家族。
温かい食卓。
ターキー。
メリーはしばらく扉を見ていた。
やがて、深いため息をつく。
机の上には、冷めきったコーヒーが残っていた。
カップを取り、一気に飲み干す。
苦味だけが舌に残った。
俺もいよいよ焼きが回った。
子供のアドバイザー契約を認める社長など、ウォール街にもそうはいない。
メリーは窓の外へ目を向けた。
パーク・アベニューの向こう。
灰色の空から、白いものが落ち始めていた。
雪だった。
最初は、見間違えるほど細かい。
それが風に流され、ビルの壁面をかすめながら、ゆっくり街へ降りていく。
メリーは思案を巡らせた。
コヤナギはいい。
あいつは上から押せば動く。
少なくとも、逆らう種類の男ではない。
問題は、ガールスカウトだ。
未成年者保護。
法的リスク。
守秘義務。
どれも正しい。
正論には強い女だ。
真っ向からやり合うのは分が悪い。
力押ししたら逆襲が怖い。
スマートな、上手い方法はないだろうか。
こめかみを揉む。
ふと、ジョニーが言っていた事を思い出す。
ガールスカウトと親子は揉めていたらしい、と。
メリーの口元だけがわずかに歪む。
悪い笑みだった。
ニューヨークの街に、雪が降り始めていた。
明日の第三十節で第一章終了です。明後日より第二章の開始です。




