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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
30/58

第二十九節

 12月24日。

 ニューヨークの空は、昼を過ぎても暗かった。

 東五十一丁目の高層ビル群は、冬の雲の下で鈍く光っている。

 ガラス張りの壁面には、灰色の空と、列をなす黄色いタクシーが歪んで映っていた。

 風が冷たい。

 歩道を行き交う人々は、コートの襟を立て、紙袋や鞄を抱えて足早に歩いている。

 街路樹には電飾が巻かれ、ショーウィンドウには赤と緑の飾りが並んでいた。

 街はクリスマスだった。

 パーク・アベニュー沿いにあるブラックストーム・インベストメント本社も同じだった。

 受付の横には背の高いクリスマスツリーが立ち、銀色の飾りが暖房の風で微かに揺れている。

 エレベーターホールにはリースが掛かり、秘書席の端には小さなサンタクロースの人形まで置かれていた。

 だが、社長室だけは別だった。

 重い扉の内側に、祝祭の空気は届いていない。

 革張りの椅子。

 厚い絨毯。

 古い木製の机。

 書類の山。

 灰皿。

 革張りの椅子に腰を下ろしていたのは、五十前の男だった。

 短く撫でつけた髪には白いものが混じり、深く窪んだ青い目だけが妙に若い。

 顎に蓄えた髭が、獅子めいた印象を与えていた。

 厚い肩と太い首は、仕立ての良いスーツの中でも窮屈そうだった。

 その男、メリット・フィッチは受話器を叩きつけた。

 皆からメリーと呼ばれる男だった。

 鈍い音がした。

 真鍮製の受話器だった。

 ニューヨークのブラックストーム本社と、フィラデルフィアにある親会社FNC――フィラデルフィア・ナショナル・コーポレーションの会議室を繋ぐホットラインである。

 見た目は古めかしい。

 アンティークと言えば聞こえは良い。

 だが、その縁は所々へこんでいた。

 磨かれたはずの真鍮の表面には、細かな傷が幾筋も走っている。

 その大半は、メリーの日々の癇癪によるものだった。

「クソが」

 低く吐き捨てる。

 何が余計なことをするなだ。

 本業の不良債権の評価と回収だけやっていろ、バランスシートを守るのが先だ、危ない橋を渡るなだと?

 ふざけるのも大概にしろ。

 胸の奥に熱が残っていた。

 肩で息をする。

 机に置いた手の指が、まだ怒りでわずかに震えている。

 窓の外では、パーク・アベニューの車列がゆっくり流れていた。

 クラクションの音が、ガラス越しに鈍く響く。

 遠い。

 同じ街の音なのに、別の場所から聞こえてくるようだった。

 メリーは机の上のカップを取った。

 コーヒーが手つかずで残っている。

 秘書を走らせて買わせたものだった。

 アーヴィング・プレイスのカフェのコーヒー。

 仕事中の、唯一の贅沢と言ってよかった。

 一口飲む。

 冷めていた。

「せっかくのコーヒーが…」

 メリーは顔をしかめる。

 アジア通貨危機、山一ショックからの市場の動揺。

 この数週間、ブラックストームは悪くない立ち回りをした。

 少なくともメリーはそう思っている。

 日本の証券不安を読み、韓国の危機に踏み込み、逃げ遅れなかった。

 債券屋だの、不良債権の掃除屋だの、親会社の小遣い稼ぎ部門だのと馬鹿にしてきた連中に、ようやく一泡吹かせる好機だった。

 その結果が、叱責だった。

 褒めろとは言わない。

 だが、首輪を引くのは違うだろう。

 メリーは椅子へ深く身体を預けた。

 革が低く軋む。

 ジャケットの前を開ける。

 ネクタイを少し緩める。

 喉元に空気が入り、ようやく呼吸が落ち着いた。

 もう仕事をする気になれなかった。

 机の右端に置かれた内線電話へ手を伸ばす。

 短く番号を押す。

「入れてくれ」

 それだけ言って切った。

 本来なら、一緒にコーヒーを飲みながらゆっくり話すつもりだった。

 それを潰したのは、FNCのお歴々である。

 数十秒後。

 扉が控えめに叩かれた。

「入れ」

 扉が開く。

 ジョニー・フィッチが入ってきた。

 細身のスーツ。

 整った顔立ち。

 まだ若さの残る青い目。

 少し遠慮がちな歩き方。

 二十四歳。

 どこか子供の頃の面影が抜けない。

「メリーおじさん」

「コーヒーは美味かったか、ジョニー」

 声にまだ苛立ちが残っているのは、自分でも分かっていた。

 ジョニーは一瞬だけ目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。

「メリーおじさんの行きつけに間違いはないよ」

「そうか」

 なら俺も熱いうちに飲みたかった。

 言いかけて、やめた。

 ジョニーは向かいの椅子へ座る。

 姿勢は良い。

 ただ、膝の上に置いた指先だけが少し落ち着かない。

 片方の親指を、もう片方の指で撫でている。

 昔からの癖だった。

 妹の葬儀の日。

 棺桶にしがみつくように泣いていた子供を、メリーはよく覚えている。

 あれから二十年。

 我が家に引き取り、トレードのイロハを叩き込んだ。

 血は争えない。

 ジョニーはみるみるうちに才覚を伸ばしていった。

 数字の流れを読む。

 市場の歪みを嗅ぐ。

 能力だけなら、若手の中でも頭一つ抜けている。

 ただ…

「今日は泣き言じゃないんだな」

 メリーは言った。

 ジョニーの眉が少しだけ下がる。

 肝が小さい。

 それが致命的だった。

 頭が良すぎるのだろう。

 情報が増えると全部を処理しようとして詰まる。

 イレギュラーが二つ三つ重なれば、狼狽し始める。

 トレードは最後は度胸だ。

 頭じゃない。

 何度言っても、そこだけは治らなかった。

 武者修行のつもりで、1年前にあのカオスな日本法人の東京本社へ送り出した。

 少しは鍛えられると思った。

 実際、揉まれてはいる。

 だが、事あるごとに泣きついてくる癖は相変わらずだ。

 先月など、電話口でつい怒鳴ってしまった。

 受話器の向こうで半泣きになっていた声が、耳の奥に残っている。

「クリスマス休暇で帰ってきた挨拶だよ」

 ジョニーは拗ねたように言う。

「これから、ばあちゃんの家に行く」

「分かった。俺も後から顔を出す」

 メリーは鼻で笑った。

「母さんは、毎年ターキーを焼きすぎるからな」

「去年も三日は食べたね」

「三日で済めばいい」

 二人して笑った。

 短い笑いだった。

 それでも、部屋の空気が少しだけ緩んだ。

 外の部屋から、誰かがクリスマスソングを口ずさむ声が聞こえる。

 陽気な曲だった。


 メリーは机の上のペンを指で転がした。

「しかし」

 声を落とす。

「よくあの難局を乗り切ったな」

 ジョニーの顔が、少し固まった。

「あの電話の狼狽えぶりじゃ、火傷することは覚悟したぞ」

「…それも、話したかったんだ」

 ジョニーは視線を落とした。

 メリーは目を細める。

「何だ」

「実は、ブレーンがいたんだ」

「ブレーン?」

 ペンが止まった。

 ジョニーは迷うように唇を湿らせた。

 それから、ゆっくり話し始める。

 会議で大阪支店に来ていた日のこと。

 アザラシに似た少年を助けたこと。

 あの泣き言を聞かれたこと。

 そして、その少年が口にした言葉。

 出口を見つけろ。

 メリーは黙って聞いていた。

 途中で一度だけ、窓の外へ視線を向ける。

 冬の空は暗く、ビルの谷間には早い夕方の影が落ち始めていた。

 コートの肩をすぼめた人影が、強い風に押されるように歩いている。

 ジョニーの話が終わっても、メリーはすぐには口を開かなかった。

 沈黙。

 暖房の低い音だけが続いた。

「お前」

 ようやく、メリーは口を開いた。

「正気か?」

 ジョニーは小さく肩をすくめた。

「どこの馬の骨かも分からんガキの言うことを信じて、数百億のポジションを動かしたのか?」

「仕方ないじゃないか」

 ジョニーの声が少し高くなった。

「あの時は、もう頼れるものがなかったんだ」

 目元が揺れている。

 やばい。

 メリーは思った。

 また泣き言が始まる。

「分かった、分かった」

 片手を上げる。

「オラクルがいて良かったじゃないか」

「本当にそう思ってる?」

「思ってるとも」

 嘘だった。

 あのカオスな盤面で的確な助言をする子供。

 馬鹿げている。

 だが、結果は出ている。

 そして、ジョニーはその馬鹿げた話を本気で信じかけている。

 その方が厄介だった。

「そこでなんだ」

 ジョニーが身を乗り出した。

 嫌な予感がした。

「クリスマスプレゼントが欲しい」

「は?」

 思わず、間の抜けた声が出た。

 幼少期のジョニーには毎年、クリスマスプレゼント代わりに現金を渡していた。

 サンタなどいない。

 メリーが品物を選ぶより、自分で好きなものを買わせる方が合理的だったからだ。

 玩具でも、服でも、本でも、好きにすればいい。

 だから、プレゼントをねだられるのは新鮮だった。

「二十四にもなってプレゼントか」

 メリーは眉間を揉む。

「何が欲しい。車か。家か。まさか――」

「そう」

 ジョニーは被せるように言った。

「あの子供に、もう一度会わせてほしい」

 社長室の空気が止まった。

 メリーは、しばらくジョニーを見ていた。

 見れば見るほど、正気の顔をしている。

 熱に浮かされているわけではない。

 疲れてはいる。

 追い詰められてはいる。

 だが、目は覚めていた。

 それが余計に始末が悪かった。

「連絡先を聞かなかったのか?」

「そんな余裕なかったよ」

 ジョニーは弱ったように言った。

「あの日、オフィスに来ていた子供について、コヤナギに聞いてみたんだ。でも、のらりくらりでさ」

「コヤナギ」

 メリーは名前を反芻した。

 日本法人大阪支店の責任者・小柳。

 事なかれ主義の塊のような男だ。

 だからこそ、あの支店を任せた。

 大きな問題は起こさない。

 代わりに、大きなこともしない。

「それに、ガールスカウトがさ」

 ジョニーの顔が曇る。

「プライバシーだ、守秘義務だ、未成年者保護だって、すごい剣幕で」

「ラマーノフか」

 メリーは思わず舌打ちした。

 その音に、ジョニーがびくりと肩を震わせる。

「ただ」

 ジョニーは小さく続けた。

「ガールスカウトと、その親子が揉めてたらしいのはコヤナギから聞いた」

「揉めてた?」

「うん。詳しくは教えてくれなかったけど」

 メリーはしばらく黙った。

 スタシア・ラマーノフ。

 ロシア系。

 意外にも日本生まれ日本育ち。

 容姿端麗、語学堪能。

 日本の弁護士資格を持ち、こちらの法務にも明るい。

 学生の身で子供を産み、育てながら司法試験を抜けた女。

 そのガッツも見込んで採用したのは、メリー自身だった。

 ただ…面接の時から、じゃじゃ馬だった。

 こちらの圧に怯えない。

 媚びない。

 必要なら噛みつく。

 有能ではある。

 だが、扱いにくい。

 うまく扱えれば化ける。

 そう考えた時もあった。

 その甲斐むなしく、配属先の東京本社では持て余された。

 結局、小さな大阪支店へ押し込まれた。

 聞こえてくる評判は良くない。

 融通が利かない。

 正論ばかり言う。

 客にも上司にも噛みつく。

 ついたあだ名が、ガールスカウト。

 メリーは頭を抱えた。

「で」

 低く問い返す。

「そのシールに会ってどうする」

「シール?」

 ジョニーは怪訝な顔をする。

「アザラシだ。シール。」

 子供をシー・"ドッグ"呼ばわりはしたくなかった。

「ああ、そういうことか。アドバイザーになってほしい」

 即答だった。

 メリーは天井を見上げた。

 ああ、なんて日だ。

 神様。

 甥っ子が、イブに狂っちまった。

 俺が悪いのか。

 あの世で妹に合わせる顔がない。


 椅子に身体を沈める。

 革が深く軋んだ。

「ジョニー」

「うん」

「そのシールは、オラクルなのか」

 ジョニーは少し考えた。

 即答しなかった。

「いや」

 ジョニーは言った。

「全てを言い当てる預言者って意味なら、違うと思う。出口戦略に長けている気がしたよ」

「出口戦略」

「僕には無いものがある」

 その声には、妙な確信があった。

 メリーは目を閉じた。

 勘とクソ度胸か。

 馬鹿げている。

 だが、金融の世界は、時々もっと馬鹿げたものに動かされる。

 根拠のない噂。

 政治家の一言。

 誰かの表情。

 存在しない数字。

 見えない恐怖。

 それに比べれば、子供の勝負師も、まだ笑い話で済むかもしれない。

 息が詰まる。

 メリーは勢いよくネクタイをほどいた。

 ネクタイが、机の上へ投げ出される。

「月1万ドル」

 重い声だった。

「最長三か月の試用期間だ」

 ジョニーの目が見開かれる。

「それで成果が出なけりゃ切れ。成果が出たら、その場で俺に電話しろ。助言に明確に紐づく利益が出た場合に限って、1パーセントまでならインセンティブを認める」

「そんな条件じゃ、本物だった時に他社に取られちゃうよ」

 ジョニーの声に焦りが混じった。

 メリーは目を開ける。

 甥の顔を見る。

 亡き妹の目。

 その顔をされると弱い。

 昔からそうだった。

「…分かった」

 メリーは吐き捨てるように言った。

「試用期間中の助言に明確に紐づく粗利の1/5を特別ボーナスで出してやる。そこから先は月1万ドルと1パーセントのインセンティブ。翌年は知らん。要交渉だ。満足か?」

 本物の訳がない。

 1年も続くとは思えない。

 内心で毒づく。

 ジョニーは嬉しそうに頷いている。

「ただし」

 指を一本立てる。

「契約は親権者名義にしろ。子供と契約書を交わす馬鹿がどこにいる」

「分かってる」

「分かってない顔だ」

「分かってるって」

 ジョニーは笑った。

 メリーは眉間を押さえる。

「渡りは俺がつけてやる」

 そう言った瞬間、自分の気が重くなるのが分かった。

「ありがとう、メリーおじさん!」

 ジョニーが満面の笑みを浮かべた。

 やめろ。

 その顔をするな。

 妹の顔。

 その顔で、つい我儘を許してしまう。

「分かったら、さっさと母さんの家に行け」

 メリーは手を振った。

「家ではこの話は無しだ」

「わかってるよ」

「母さんに子供とアドバイザー契約の話なんかしたら、俺がボケたと思われる」

「言わないって」

 ジョニーは上機嫌だった。

 来た時よりも、足取りが軽い。

 扉の前で一度振り返る。

「メリーおじさん」

「まだ何かあるのか」

「メリー・クリスマス」

 メリーは一瞬黙った。

 それから、軽く手を振る。

「ああ。メリー・クリスマス」

 扉が閉まる。

 社長室に、静けさが戻った。

 外の部屋から、笑い声が聞こえる。

 誰かが早めに帰る挨拶をしている。

 クリスマス休暇。

 家族。

 温かい食卓。

 ターキー。

 メリーはしばらく扉を見ていた。

 やがて、深いため息をつく。

 机の上には、冷めきったコーヒーが残っていた。

 カップを取り、一気に飲み干す。

 苦味だけが舌に残った。

 俺もいよいよ焼きが回った。

 子供のアドバイザー契約を認める社長など、ウォール街にもそうはいない。

 メリーは窓の外へ目を向けた。

 パーク・アベニューの向こう。

 灰色の空から、白いものが落ち始めていた。

 雪だった。

 最初は、見間違えるほど細かい。

 それが風に流され、ビルの壁面をかすめながら、ゆっくり街へ降りていく。

 メリーは思案を巡らせた。

 コヤナギはいい。

 あいつは上から押せば動く。

 少なくとも、逆らう種類の男ではない。

 問題は、ガールスカウトだ。

 未成年者保護。

 法的リスク。

 守秘義務。

 どれも正しい。

 正論には強い女だ。

 真っ向からやり合うのは分が悪い。

 力押ししたら逆襲が怖い。

 スマートな、上手い方法はないだろうか。

 こめかみを揉む。

 ふと、ジョニーが言っていた事を思い出す。

 ガールスカウトと親子は揉めていたらしい、と。

 メリーの口元だけがわずかに歪む。

 悪い笑みだった。

 ニューヨークの街に、雪が降り始めていた。

明日の第三十節で第一章終了です。明後日より第二章の開始です。

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