第三十節
12月25日。朝。
冬の空は白く濁っていた。
雲は低い。
屋根瓦の端に夜露が残り、電線に止まった雀が、寒そうに羽をふくらませている。
家の中は静かだった。
台所の方から、包丁がまな板を叩く音が聞こえる。
小さく、規則正しい音だった。
その合間に、やかんの蓋がかたりと鳴る。
遼太郎は布団の中で目を開けた。
鼻の頭が冷たい。
布団の外へ出した手も冷えている。
もう少しだけ潜っていたい。
そう思い、寝返りを打った。
そこで、動きが止まった。
枕元に、大きな包みが置かれていた。
赤い包装紙。
少し歪んだリボン。
「…ん?」
声が出た。
遼太郎は布団から起き上がる。
畳に触れた足の裏が冷たい。
肩をすくめながら、包みに手を伸ばした。
包装紙が、かさりと鳴る。
リボンをほどく。
子供の指では、結び目がうまく解けない。
手間取った。
ようやく包装紙を開く。
箱の白い面が見えた。
そこに印刷された文字を見て、遼太郎は固まった。
「…うわ」
ニンテンドー64だった。
箱を抱えたまま、しばらく動けなかった。
欲しいとは言っていない。
少なくとも、はっきりとは言っていない。
ただ、テレビでCMが流れるたび、つい見ていた。
髭の男が走ったり、飛んだり、小さな車に乗ったりする画面を見るたび、ほんの一瞬だけ、昔を思い出していた。
その顔を、父と母は見ていたのだろう。
懐かしい。
その言葉だけでは足りなかった。
画面の中を、立体の世界が動く。
それまでのゲームとは違う、奥行きがある。
大人になってから見れば、粗い。
画面も粗い。
操作も今のものとは違う。
けれど、この時代の子供にとって、それは未来そのものだった。
箱の横には、ソフトが数本置かれていた。
さらに、別の小さな包みがある。
開けてみる。
「…四つ?」
コントローラーが四つあった。
遼太郎は無言でそれを見つめた。
四つという数に、胸の奥が温かくなった。
台所の包丁の音が止まった。
「遼ちゃーん、起きたんか?」
母の声だった。
「起きたー」
返事が、少しだけ上ずった。
戸が開く。
母が顔を出した。
エプロン姿だった。
髪は後ろで一つにまとめている。
寒い台所に立っていたせいか、頬がわずかに赤い。
母は枕元の箱を見て、口元を緩めた。
「あら。サンタさん、来てくれたんやなあ」
遼太郎は箱を抱えたまま、母を見た。
母は何も知らないような顔をしている。
その芝居が上手いのか下手なのか、よく分からなかった。
ただ、目が優しかった。
「おかん」
「ん?」
「ありがとう」
母は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、困ったように笑った。
「それはサンタさんに言わなあかんのと違う?」
「うん」
遼太郎は頷いた。
「言うといて」
「はいはい。言うとくわ」
台所の奥で、父がわざとらしく咳払いをした。
「遼、朝飯食うてから遊ぶんやぞ」
姿は見えない。
声だけだった。
だが、その声には照れが混じっていた。
朝食は、いつもより賑やかだった。
味噌汁の湯気。
焼いた鮭。
卵焼き。
白菜の漬物。
特別な料理ではない。
それでも、食卓の上はいつもより明るく見えた。
「おとん」
「なんや」
「サンタさん、コントローラー四つもくれた」
「そうか」
「太っ腹やな」
「…せやな」
父は味噌汁をすすった。
お椀で顔を隠すように。
母がそれを見て、小さく笑った。
「みんなで遊べるように、考えてくれはったんやろなあ」
「うん」
遼太郎は頷いた。
誰と遊ぶのか。
アヤカ。
エリ。
富田。
神谷。
春には、父と母だけを見ていた。
それで十分だと思っていた。
だが、いつの間にか名前が増えている。
面倒なことが増えた。
ただ、守りたいものも増えた。
朝食が終わると、父はテレビの前に座り込んだ。
「説明書、どこや」
父は箱を探る。
「おとん、分かるん?」
「配線くらい分かるわ。整備士なめんな」
母は食卓を片づけながら、呆れたように笑っている。
三十分後。
遼太郎はカセットを黒い本体に差し込む。
硬い。
電源を入れる。
テレビ画面が一瞬暗くなった。
それから、明るくなる。
音が鳴った。
遼太郎は息を呑んだ。
懐かしい。
懐かしすぎる。
画面の色は強い。
音は軽い。
ポリゴンは角ばっている。
だが、それが良かった。
思わず顔をほころばせる。
「遼ちゃん、そんな顔するほど嬉しかったん?」
母が言った。
遼太郎は画面を見たまま頷いた。
「うん。めっちゃ嬉しい」
その言葉は、自然に出た。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
短い音が、家の中に響く。
「あら。朝から誰やろ」
母が台所のインターフォンに向かう。
遼太郎が玄関をのぞき込むと、扉の曇りガラスの向こうに、小さな影が二つ見えた。
遼太郎は母の確認を待たずに玄関に駆け寄った。
扉を開けるとそこには見知った顔がいた。
「遼ちゃん!」
アヤカだった。
黒い髪を二つに結び、赤い手袋をしている。
鼻の頭が寒さで赤くなっていた。
その横に、エリが立っている。
ぱっつんの前髪の下で、目だけがこちらをじっと見ていた。
両手には、小さな紙袋を持っている。
「メリークリスマス!」
エリが明るく言った。
「…メリークリスマス」
遼太郎は少し遅れて返した。
「遊びに来たん?」
「うん!」
アヤカが元気よく頷く。
「遼ちゃん、今日おるかなって」
「おる。今な、すごいもんあるで」
「すごいもん?」
アヤカの目が丸くなる。
エリも少しだけ首を傾げた。
「入って入って。寒いやろ」
二人は靴を脱いで上がった。
小さな足音が、廊下を進む。
居間へ入ると、アヤカはテレビの前で止まった。
「わあ!」
声が上がる。
エリは声を出さなかった。
ただ、目が明らかに大きくなっていた。
「ゲーム?」
「せや。サンタさんがくれた」
「すごい」
エリが呟く。
その声があまりに小さく、遼太郎は少し笑った。
「コントローラー四つあるから、三人でできるで」
「ほんま?」
「ほんま」
アヤカが両手を握った。
母が台所から顔を出す。
「アヤカちゃん、エリちゃん。いらっしゃい」
「おはようございます!」
二人が並んで頭を下げる。
エリは持っていた紙袋を差し出した。
「これ、うちのお母さんから。みんなで食べてって」
中には、焼き菓子の包みが入っていた。
「わぁ、ありがとう。寒かったやろ。お茶入れたるわ」
「ありがとう、おばちゃん!」
アヤカはもう畳の上に座っていた。
エリは遠慮がちに、その横へ座る。
遼太郎はコントローラーを二つ渡した。
「これ持って」
「どこ押すん?」
「ここがアクセルで、ここがブレーキ」
「アクセル?」
「車が進むやつ」
「ふーん」
アヤカは分かったような顔をした。
たぶん分かっていない。
エリはコントローラーを両手で持ち、ボタンを真剣に見ていた。
「エリ、難しかったら教えるで」
「うん」
小さく頷く。
ゲームが始まった。
髭の男たちが、小さな車に乗って画面の中を走り出す。
「あ、あ、あかん! 壁!」
アヤカが叫んだ。
「そっち逆や」
「どっち!?」
「右」
「右ってどっち!」
「箸持つ方!」
「今、箸持ってへん!」
父が吹き出した。
母も湯呑みを持ったまま、肩を震わせている。
エリは黙っていた。
集中していた。
カーブの前で減速する。
障害物を避ける。
遼太郎のカートの後ろを、ぴったりついてくる。
「エリ、上手いやん」
「見てたら、分かった」
それだけ言う。
アヤカがむっとした。
「エリちゃんずるい。遼ちゃん、教えて」
「教えてるやん」
「もっと」
「もっとってなんや」
画面の中で、アヤカの車がまた壁に突っ込んだ。
居間に笑い声が広がった。
窓の外では、冬の雲がゆっくり動いている。
日差しは弱い。
それでも、部屋の中は暖かかった。
石油ストーブの上で、やかんが小さく鳴っている。
湯気が白く立つ。
母は食卓でみかんを剥き、父は新聞を読むふりをしながら、時々こちらを見ていた。
遼太郎はコントローラーを握ったまま、その視線に気づいていた。
父と母が笑っている。
ずいぶん遠くまで来たような気がした。
昼前になると、また呼び鈴が鳴った。
「今日はよう来るなあ」
父がぼやく。
遼太郎はコントローラーを置いて、玄関へ向かった。
曇りガラスの向こうに、二つの影があった。
扉を開ける。
富田だった。
黒い髪が冬の風で乱れている。
細い目で、いつものように柔らかく笑っていた。
手にはケーキの箱を持っている。
その隣に、神谷が立っていた。
黒いボブの髪。
浅黒い肌。
白い息。
道場で見る時より、大人に見えた。
二人とも学生服姿だった。
「メリークリスマスです、若」
富田が言った。
「めりーくりすます」
神谷も、少し遅れて言った。
ぎこちない発音だった。
遼太郎は笑いそうになったが、こらえた。
「来てくれたん?」
「ええ。終業式帰りに少しだけ。先生にもご挨拶をと思いまして」
富田はケーキの箱を少し持ち上げる。
「つまらないものですが」
「おお、ケーキや」
その声に、居間からアヤカが反応した。
「ケーキ!?」
足音が近づいてくる。
廊下の向こうから、アヤカが顔を出した。
エリもその後ろにいる。
「こんにちは」
富田が軽く頭を下げる。
神谷は、アヤカとエリを一瞥した。
戸惑いが見えた。
「寒いやろ。上がって上がって」
母が玄関へ出てきた。
「先生、お邪魔します」
富田が丁寧に頭を下げる。
「来てくれてありがとう。神谷も、寒かったやろ」
「いえ。…ここは、平気です」
神谷は短く答えた。
居間は、さらに人が増えた。
ケーキの箱が食卓に置かれる。
母が人数分に切り分ける。
富田が遼太郎に小さな包みを見せる。
「若、これを」
「?」
「たいしたものではありませんが」
包みを開くと、子供用の手袋だった。
紺色で、しっかりした生地でできている。
暖かそうだった。
「おお、ありがとう。あったかそう」
「寒い日が続きますから」
富田はそう言って笑った。
いかにも富田らしい贈り物だった。
次に、神谷が学生鞄から箱を出した。
飾り気のない包装。
「お気に召すかはわかりませんが…」
照れが混じった声だった。
「ありがとう」
遼太郎は受け取る。
開けると、中には首掛け紐がついたガマ口財布が入っていた。
小さな布製の財布。
首から下げられるようになっている。
「おお、これええやん。小銭なくさんで済む」
ポケットに小銭をじゃらじゃら入れる癖も、これで直るかもしれない。
そう思った時、神谷が手を伸ばした。
「付けてみましょう」
「え?」
箱から財布を取り出し、紐をほどく。
その動きは丁寧だった。
丁寧すぎるほどだった。
神谷は遼太郎の前に膝をついた。
黒い髪が頬にかかる。
指先が、遼太郎の首の後ろへ回る。
近い。
紐が首の後ろを通った。
ガマ口財布そのものは軽い。
けれど、紐が首にかかった瞬間だけ、重みを感じた。
神谷は結び目を確かめるように、指先で紐を整えた。
「ええ、似合ってますね。可愛い」
「――っ」
まさか神谷の口から可愛いなどという言葉が出るとは思わず、返事が一拍遅れた。
「…ありがとう」
神谷の目が、細くなる。
照れを隠すように顔をそらした。
ケーキを食べた後、またゲームが始まった。
今度は五人で順番に遊ぶことになった。
コントローラーは四つしかない。
誰か一人は後ろから見ている。
アヤカは相変わらず壁にぶつかる。
エリは黙って上達する。
富田は初めてのはずなのに、要領を掴むのが早かった。
神谷は、うまく動かせなかった。
見学の番になっていた遼太郎を、神谷が振り返った。
「若、ここに座ってください」
神谷は足を崩し、自分の前を軽く叩いた。
「え、そこ?」
「一緒に操作を教えてください…富田には負けたくありません」
神谷の声は真面目だった。
けれど、耳のあたりが少し赤い。
遼太郎は一瞬迷ったが、言われるがまま神谷の前に座った。
肩の横から神谷の腕が伸びる。
コントローラーを持つ手が、遼太郎の手元に近づいた。
二人羽織みたいやな。
そう思ったが、口には出さなかった。
レース終盤。
ゴール前。
先頭は富田だった。
「ここ押すので合ってます?」
目の前で動く神谷の指がたどたどしい。
「そう!そこがアイテム発射やで」
「これ?」
「そう」
甲羅が飛んだ。
先頭の富田のカートが、派手に弾かれた。
「あぁ!」
富田が大声を出す。
居間は笑いに包まれた。
夕方になった。
冬の日は短い。
気づくと、窓の外が赤くなっていた。
門限が近づいていることに気づいたアヤカとエリは慌てて帰り支度を始める。
富田と神谷も、長居を詫びて立ち上がった。
四人が外へ出る。
遼太郎と父、母も玄関先まで見送った。
外の空気は冷たかった。
昼間の温もりが嘘のように、道路の上には薄い冷気が降りている。
吐く息が白い。
夕日は西の空に低く残っていた。
家々の壁を赤く染め、電線の影を細く伸ばしている。
四人が道を歩いていく。
富田と神谷が、アヤカとエリを送っていくことになった。
アヤカは何度も振り返って手を振った。
エリはそんなアヤカに、前見ないと危ないよと声を掛けている。
富田は神谷と並び、後ろを歩いていた。
神谷は一度だけ振り返った。
遼太郎の首元を見た。
にっこり微笑んだように見えた。
四人の姿が見えなくなった頃。
物音がした。
木材を運ぶ音。
金属がぶつかる音。
低い男の声。
遼太郎は音のする方を見た。
隣の空き家だった。
長い間、人の気配がなかった家である。
庭の端には雑草が残り、門扉の塗装も少し剥げていた。
その家の前に、小さな工務店の車が停まっている。
作業着の男たちが出入りしていた。
窓の内側に、白いシートが見える。
畳や床板を運び出しているらしい。
「隣、工事してるんやな」
父が言った。
「ほんまや」
母も隣家を見る。
「誰か入るんかな」
「どやろ?あそこ、ずっと空き家やったしな」
父が首を傾げる。
そういえば、そうだった。
遼太郎は門の向こうを見つめた。
隣の家は、地主が借家として貸している家だった。
だが、賃料が高いとか、古く使い勝手が悪いとかで、入っても長続きしない。
何度か隣人が入れ替わった記憶がある。
作業員の一人が、玄関先の古い戸を外している。
軋む音が、冬の夕方に響いた。
「寒いし、入ろか」
母が言った。
「うん」
遼太郎は頷く。
もう一度だけ隣家を見る。
空き家の窓に、冬の夕日が赤く残っていた。
明日より第二章開幕です。




