第一節
1月5日。
夕方の空は、朱を薄く伸ばしたような色をしていた。
生駒の山並みは白く霞み、家々の屋根には冬の光が力なく残っている。
正月の間だけ少し緩んでいた町の空気も、今日からまた元に戻り始めていた。
それでも、西尾家の居間にはまだ正月が残っていた。
こたつ。
積まれたみかん。
乾いた鏡餅。
遼太郎の前には、黒豆があった。
黒く艶のある豆が、照明を受けてぬらりと光っている。
遼太郎はスプーンで一粒掬い、口に入れた。
甘い。
もう一粒。
やはり甘い。
最初は美味しかった。
だが、おやつとして処理するには限界がある。
器を見る。
減っていない。
おかん、作りすぎや。
黒豆だけが、正月の最後の砦のように居座っていた。
テレビでは、今年のスポーツイベントを紹介する番組が流れていた。
長野オリンピック。
サッカーワールドカップ・フランス大会。
プロ野球のキャンプ展望。
司会者の声は明るく、テロップの色も派手だった。
しかし、画面の質感は古い。
スタジオの照明も、選手紹介の音楽も、何もかもが遠い時代のものだった。
「98年か…」
小さく呟く。
黒豆を噛みながら、画面を眺める。
この時代に戻って、一年も経っていない。
それなのに、ずいぶん長くこの時代にいるような気がした。
最初は不便で仕方がなかった。
スマホがない。
動画サイトもない。
生臭い未来知識を教えてくれる力は、使い方を間違えると、とんでもない情報量を流し込んでくる。
子供部屋の玩具箱の方を見やる。
娯楽には使えない代物だった。
ニュースはテレビか新聞。
連絡は固定電話。
暇ならTVゲームをするか、本や漫画を読むか、外に出るか、寝る。
なんて不便な時代だ。
令和の自分が、どれだけ小さな画面に追い回されていたのか、分かった気がした。
だが、人間は慣れる。
慣れてしまえば、これはこれで悪くなかった。
静かだった。
ただ…恋しいものは恋しい。
パソコン欲しい。
ネットしたい。
ガゴりたい。
MeTubeで、何の役にも立たない動画をぼんやり見たい。
そこまで考えて、遼太郎は動きを止めた。
1998年。
「…あ」
Windows98。
遼太郎は、黒豆を口の中で転がした。
ようやく来たか。
あの遅くて、うるさくて、何をするにも時間が掛かる世界。
令和からすれば石器みたいなものだ。
それでも、世界へ繋がる窓だった。
ガゴる…
ふと別の名前が浮かぶ。
Gagoyle、検索エンジン最大手のガーゴイル。
たしか、今頃だったはずだ。
大学院生のガレージ企業。
創業者、ニコラス・ペイジ。
もう一人。
名前が出てこない。
わからん。
遼太郎は顔をしかめた。
令和では近づくこともできない会社が、今はまだ小さい。
今なら、手を伸ばせるかもしれない。
未来は知っている。
だが、全部を正確に覚えているわけではない。
断片だけがある。
それがもどかしく感じた。
遼太郎は黒豆を噛んだ。
甘さが舌に残る。
「…欲張ったらあかん。狙いは一つや」
小さく呟いた。
その声は、テレビの音に紛れた。
トンカン。
壁の向こうから打ち付ける音が始まった。
遼太郎は顔を上げる。
トンカン、トンカン。
隣の家だった。
正月休みで止まっていたリフォーム工事が、今日からまた始まったらしい。
金槌の音。
板を引きずる音。
低い男の声。
時折、何かを落としたような鈍い音が混じる。
遼太郎はリモコンを取って、テレビの音を上げた。
スタジオの笑い声が大きくなる。
それでも、壁の向こうの音は聞こえた。
「うるさいなぁ……」
隣の家は、小学校の高学年くらいまでは、まともな入居者がいなかったように記憶している。
無駄な工事を。
遼太郎は毒づいた。
ふと、黒豆を掬うスプーンが止まる。
小学校。
その言葉で、遼太郎はようやく気づいた。
「…今年、小学校やんけ」
思わず声が漏れる。
幼稚園に、やっと慣れてきたところだった。
それが、今度は小学校である。
六年。
長い。
あまりに長い。
昔の小学校時代を思い出そうとした。
アヤカ。
エリ。
幼い頃は遊んでいた。
小学校に入ってから、いつの間にか疎遠になった。
どのタイミングだったのかは、はっきりしない。
他にも友達はいたはずだ。
だが、名前が出てこない。
顔も曖昧だった。
「…薄情やな、俺」
黒豆をもう一粒食べる。
甘い。
やはり甘い。
玄関で鍵の回る音がした。
扉が開き、冷えた外気が廊下を伝ってくる。
「ただいまー」
父の声だった。
「おかえり」
台所から母が答える。
「寒いわぁ」
「風呂沸いてるで」
「助かるわ」
父の足音が風呂場の方へ向かった。
遼太郎は食卓の端へ視線を向けた。
そこに、鉛筆で書いたメモがある。
Amazon。
指値と株数。
口座に移した金を、ほとんど使い切る額だった。
現物のみ、信用取引無しという注釈。
夜な夜な未来知識と格闘して作ったメモだった。
未来知識は、もっと大きく張れると囁いていた。
レバレッジ、信用取引を使えば、稼げる桁が変わると。
信用取引。
もしもを考えると恐ろしくて、どうしても従う気になれなかった。
紙の端を指で押さえる。
黒豆の甘さが、まだ口に残っていた。
風呂の音が止んだ。
しばらくして、父が居間へ入ってきた。
頬が湯で赤くなっている。
風呂上がりの父は、機嫌が良さそうだった。
「おとん」
「ん?」
父がこちらを見る。
遼太郎はメモを差し出した。
「これ」
父は受け取った。
メモに目を落とす。
すぐに、表情が変わった。
口元の緩みが消える。
紙の上を、目だけがゆっくり動いた。
台所から、母が鍋の蓋を開ける音がした。
父は深く息を吐いた。
「…とうとう来たか」
ぼやくような声だった。
父は食卓の前へ座った。
メモを置く。
「一応、確認するで」
いそいそと電卓を取りだすと、自分でも計算を始める。
「Amazon、指値59ドルで2050株…1ドルが今、何円や」
「ニュースやと130円くらい」
「130…」
父の指が、電卓のボタンを一つずつ押していく。
「手数料あるから、多めに見て」
「お前、ほんま五歳か」
「五歳やで」
「五歳は手数料とか言わへん」
父は呆れたように言った。
けれど、声は柔らかかった。
計算が終わる。
計算通りだった。
父はメモを見たまま、しばらく黙った。
湯上がりの石鹸の匂いが、こたつの空気に混ざる。
「これで電話したらええんやな?」
「うん」
遼太郎は頷いた。
父は引き出しから控えを取り出した。
ブラックストームから渡された発注用の番号。
紙の端は少し折れている。
父は受話器を取った。
遼太郎にも聞こえるよう、スピーカーモードに切り替える。
番号を押す音が、居間に一つずつ響く。
短い呼び出し音。
音声案内。
取次。
本人確認。
父は名前や口座番号を、たどたどしく答えていく。
遼太郎は横に座り、黙って聞いていた。
台所の母も、包丁の手を止めているようだった。
『お電話代わりました。ブラックストーム・インベストメント・ジャパン大阪支店、猪原でございます』
聞き覚えのある声だった。
「あ、あけましておめでとうございます。西尾です」
『西尾様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします』
「こちらこそ、よろしくお願いします」
父の背筋が、伸びていた。
「あの、株の注文をお願いしたいんですけど」
『承知いたしました。ご注文内容をお願いいたします』
父はメモを見る。
「米国株でAmazonを指値59ドルで2050株。現物で。信用とか、そういうのはなしでお願いします」
電話の向こうで、キーボードを叩く音がした。
遠くで、別の電話が鳴っているような気配もある。
猪原が復唱する。
「それでお願いします」
父が静かに答える。
『承知いたしました』
少し間があった。
キーボードの音。
紙をめくる音。
『銘柄の現在の値動きを確認し、現実的な指値かと存じます。ご注文を承りました。正式な約定結果につきましては、追ってご連絡いたします』
「あ、はい。よろしくお願いします」
父はほっとしたように息を吐いた。
遼太郎は、小さく拳を握った。
父が受話器を置こうとする。
『恐れ入ります、西尾様』
猪原が止めた。
父の手が止まる。
『少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか』
父は遼太郎を見る。
遼太郎は首を傾げた。
「ええですけど…」
『ありがとうございます。実は、先日ご来店いただいた際の件でございます』
遼太郎は、自然と背筋を固くした。
『その際、弊社の法務担当者が西尾様にご不快な思いをさせてしまった件につきまして、本社まで報告が上がりまして』
あの女か。
銀髪。
冷たい目。
見下す視線。
思い出すと、少しだけ腹が立った。
『米国本社、社長のメリット・フィッチが、大変厳しく受け止めております。つきましては、改めてお詫びの席を設けさせていただきたいと申しておりまして』
父は困った顔をした。
「いや、そんな偉い人に…そこまでしてもらわんでも。口座も作ってもらえましたし、こっちも無理言うたところありますし」
父は本気でそう思っているようだった。
根に持つ人間ではない。
嫌な思いをしたとしても、大ごとになる方を嫌がる。
遼太郎は黙っていた。
廊下での悪態。
ざまぁみろ、と思う気持ちはあった。
だが、あれはあれで、踏み込んではいけない場所の前で止めようとしたのかもしれない。
複雑な気持ちだった。
『西尾様がご不快でないのであれば、形だけでもお受けいただけませんでしょうか』
猪原の声が、か細くなった。
『私どもも、支店長も、日本法人の社長も、かなり厳しく言われておりまして。お詫びの機会すらいただけなかったとなりますと、さらに……』
電話の向こうの空気が、妙に生々しかった。
父が小さく呻く。
「…それは、きついなぁ」
独り言のようだった。
父は禿げた頭を掻いた。
それから遼太郎を見る。
「遼、どうする?」
少し考えた。
面倒ではある。
だが、先方の、会社員としてのきつさは痛いほど分かった。
「いってもええんちゃう?猪原さん、こまってるし」
「お前、そういうとこ大人やなぁ」
「ぼく、やさしいから」
「自分で言うな」
父は息を吐き、電話へ向き直った。
「分かりました。ほな、お受けします」
電話の向こうで、空気が緩んだ。
『ありがとうございます。誠にありがとうございます』
猪原の声には、はっきりと安堵が混じっていた。
『それでは、急ぎで恐縮ですが1月10日の土曜日、ご夕食会という形でいかがでしょうか』
「土曜日…」
父は壁のカレンダーを見た。
正月用の絵柄が入ったカレンダーだった。
「大丈夫やと思います」
そこで父は、ふと台所を見た。
「あの、妻も連れて行ってええですか?」
『もちろんでございます。どうぞご家族でおいでください』
ご家族で。
その言葉で、父の顔が少し楽になった。
『当日はご自宅までお迎えに上がります。会食後もお送りいたしますので、お酒を召し上がっていただいても問題ございません』
その瞬間、台所から母の顔が覗いた。
「お酒?」
父と遼太郎は同時にそちらを見た。
母は真顔だった。
目だけが妙に光っている。
「聞いてたんか」
「お酒って聞こえた」
母は悪びれない。
その目は、ウワバミの目だった。
父は諦めたように電話へ戻った。
「すみません、場所はどこになるんですか?」
『西尾様のお召し上がりになりたい料理の店を、こちらで押さえます』
父は困った顔になった。
どうしよう。
その顔にそう書いてあった。
父は遼太郎を見る。
「遼、何食べたい?」
遼太郎は考える。
焼肉。
今一番食べたいものだった。
長らく食べてない。
この時代ならまだ生レバーが食べられるはずだ。
そこをビールでキュッと…
いやいや、五歳が何言うてんねん。
焼肉でお詫び会は無いやろ。
焼肉を却下する。
次に洋食、寿司と連想する。
どれも硬い。
中華。
餃子。
炒飯。
唐揚げ。
麻婆豆腐。
海老チリ。
思わず涎が出る。
中華は硬くなさそうに思えた。
「中華!」
声を上げた。
父が瞬きをする。
「中華でええんか?」
「うん!」
いつの間にか母が隣にいた。
「紹興酒か。悪くないやん」
顔つきまでウワバミになっていた。
父が呆れた顔をする。
「中華料理でお願いします」
『かしこまりました。それでは、1月10日土曜日、15時にご自宅へお迎えに上がります』
「よろしくお願いします」
『こちらこそ、よろしくお願いいたします』
電話が切れた。
受話器を置く音が、やけに大きく聞こえた。
少し沈黙があった。
三人が顔を見合わせる。
「タダで酒飲んでもええって」
母が言う。
「送迎付きやって」
父が言う。
「中華やって」
遼太郎が言う。
三人の表情が綻んだ。
窓の外では、冬の雲が西の空を覆い始めていた。
壁の向こうで、また金槌の音がした。
トンカン。
正月の残り香の中に、その音だけが硬く響いていた。
本日より第二章に突入します。
第一章を最後まで読んでいただきありがとうございました。
相変わらず作者の好きに書いていく予定ですが、第二章からは物語のギアが一段上がります。
もしよければ、第一章を読み終えた感想など自由に残していってください。
それでは、第二章もよろしくお願いいたします。




