第二節
1月10日。
午後三時前。
冬の空は、昼を過ぎてから急に色を失っていた。
午前中には薄く差していた陽も、今は雲の向こうへ沈み、東大阪の町工場群には乾いた寒さだけが残っている。
風は強くない。
だが、肌へ当たると痛いほど冷たかった。
路地の端に溜まった落ち葉が、時折、かさりと音を立てて動く。
築十数年の一戸建て、西尾家の前に三人が立っていた。
父は、慣れない黒の礼服を着ていた。
ネクタイだけが張り切っている。
首元が苦しいのか、父はさっきから何度も顎を引いては、息を吐いていた。
母は、普段とはまるで違う姿だった。
赤地に金の刺繍の入ったドレス。
チャイナドレスを意識したものらしく、横に大胆なスリットが入っている。
髪もきちんとまとめられ、化粧もいつもより濃い。
今日のために、美容院と日焼けサロンにまで行っていた。
寒そうではある。
だが、本人はまったく気にしていない。
むしろ、楽しそうだった。
遼太郎は、自分の格好を見下ろした。
子供用のスーツ。
青いジャケット。
白いシャツ。
蝶ネクタイ。
短い足に革靴。
蝶ネクタイとか、どこぞの名探偵かな。
罰ゲームやろ。
思わず毒づいた。
ふと、遼太郎は隣家へ視線を向けた。
ここ数日うるさかったリフォーム工事は、昨日ようやく終わったらしい。
玄関周りが妙に綺麗になっていた。
古びていた扉が新しくなり、庇の下の照明も交換されている。
まだ人の気配はない。
家だけが先に目を覚ましたようだった。
ようやく静かになったか。
遼太郎は小さく息を吐く。
あの金槌の音がなくなっただけで、家の中の空気まで落ち着いた気がする。
誰が入るのかは知らない。
だが、少なくとも今は、騒音が終わっただけでありがたかった。
路地の向こうから、黒い車がゆっくり入ってきた。
黒塗りの大型車。
長い。
普通の車より、明らかに長い。
低く磨かれた車体が、冬の光を鈍く反射している。
町工場群に連なる住宅街の狭い道には、不似合いなほど存在感があった。
「…げ」
父が漏らした。
「リンカーンやんけ」
母も目を見開いている。
「え…せいぜいハイヤーや思てたけど」
遼太郎は、口を半開きにした。
「り、リムジンやん……」
リムジンは西尾家の前へ滑るように停まった。
住宅街には明らかに不釣り合いだった。
エンジン音は低く、静かだった。
安物の車とは違う。
止まってからも、そこだけ空気が重くなる。
隣家の新しい玄関が、その黒い車体に映って歪んでいた。
助手席のドアが開いた。
降りてきたのは猪原だった。
濃いスーツ。
コート。
硬い顔。
だが、こちらを見るとすぐに丁寧な笑顔を作った。
「西尾様。本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
深く頭を下げる。
父は慌てた。
「あ、いえ、こちらこそ……」
「この度は、弊社の不手際によりご不快な思いをおかけしましたこと、改めてお詫び申し上げます」
猪原は顔を下げ、後部座席の扉を開けた。
「どうぞ。お足元にお気をつけください」
母は、堂々と乗り込んだ。
スリットから覗く日に焼けた脚が、冬の空気の中で映えて見えた。
父はそんな母に続いて乗り込む。
遼太郎は、その後ろからよじ登るように車内へ入った。
車内は広かった。
革の匂いがした。
柔らかい座席。
磨かれた内装。
小さな冷蔵庫。
照明。
すべてが、家庭から遠かった。
父はこじんまりと座ったまま、落ち着きなく膝へ手を置いたり、ネクタイを触ったりしている。
母は、足を組んで堂々と座っている。
どっちが家長かわからんなぁ。
遼太郎は内心でぼやきながら、窓の外を見た。
西尾家の玄関が離れていく。
隣家の新しい扉も、小さくなっていった。
車は住宅街を抜け、大きな通りへ出る。
猪原は助手席から時折振り返り、本日の説明をした。
心斎橋のホテル。
中華料理店。
個室。
丁寧な言葉が続く。
父はそのたびに頷いていたが、半分も頭に入っていないようだった。
その上、緊張で喉が渇いたのか、車内にあったミネラルウォーターの蓋を開ける。
すぐに飲み干す。
「おとん、飲みすぎちゃう?」
「水やからええやろ」
空いた容器を備え付けのゴミ箱に押し込む。
「緊張しすぎや」
「お前は平気なんか」
「ぼく、五歳やし」
「こういう時だけ五歳使うな」
父は情けない顔で言った。
母は横で、にこやかに窓の外の街並みを見ている。
高級中華。
酒。
その二つだけで、上機嫌になっていた。
車は御堂筋へ入った。
冬の街路樹は葉を落とし、枝だけが空へ伸びている。
ビルの壁面には、曇った空が薄く映っていた。
心斎橋に近づくにつれ、街は華やかになっていく。
ホテルの地下へ車が入る。
照明が車体を流れていった。
一般客用とは違う、奥まった場所で車が停まる。
VIP用の駐車場のようだった。
ここまでやるか…外資すげぇ…
窓の外を見ながら遼太郎は感心した。
ホテルの中は暖かかった。
外の寒さが、一歩で切り離される。
大理石の床。
高い天井。
香水と花の匂い。
フロントの方から、低い話し声と靴音が響いてくる。
エレベーターへ案内されるまでの短い距離で、父の背中はさらに固くなった。
三階。
中国料理店の入口には、落ち着いた金色の文字が掲げられていた。
赤すぎない赤。
派手すぎない装飾。
いかにも高級料理店だった。
店の前に立っただけで、父が喉を鳴らす。
汗が噴き出していた。
「おとん、大丈夫や」
遼太郎は小声で言った。
「何がや」
「たぶん、箸はあるで」
「そこちゃうわ」
母が横で小さく笑った。
その笑いで、父の肩が少しだけ下がる。
店内は静かだった。
厚い絨毯が靴音を吸い込む。
壁には水墨画のようなものが掛かっている。
空調の音も、食器の触れ合う音も、遠い。
猪原が個室の前で足を止めた。
「こちらでございます」
扉が開いた。
円卓があった。
八人ほどが座れる大きな卓。
白い卓布。
中央には花が飾られている。
窓のない個室だった。
暖かい。
だが、その暖かさが急に重くなった。
円卓の前に、一人の男が立っていた。
金髪。
長めの髪。
すっと通った鼻筋。
青い目。
細身のスーツ。
女性と見間違うような、美丈夫。
遼太郎は、その顔を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。
は、は、謀られた…。
日本史には、祝いの席に呼ばれて、のこのこ出向いた末に殺される間抜けがいる。
今の自分は、その間抜けに限りなく近い。
遼太郎は苦虫を嚙み潰した。
あの時、電話口での狼狽ぶりを過信した。
覚えてるわけがない。
子供の戯言だと思ってくれると期待した。
甘かった。
知識を見せすぎた。
遼太郎は顔を固めた。
平然。
五歳児らしく。
相手は外資、伏魔殿の住人だ。
動揺したら負ける。
既に負けているのかもしれない。
美丈夫がこちらを見た。
遼太郎と目が合う。
その瞬間、男の顔に満面の笑みが広がった。
隠れるように部屋にいた小柳が、一歩前へ出た。
穏やかだが疲れた顔だった。
「西尾様。本日はご足労いただき、誠にありがとうございます」
小柳が深く頭を下げる。
猪原も続いた。
父と母も慌てて頭を下げた。
遼太郎も少し遅れて頭を下げる。
「本来であれば、弊社代表のメリット・フィッチが直接お詫び申し上げるべきところでございますが、急な体調不良により、本日は出席が叶いませんでした」
小柳は淡々と言った。
言葉は丁寧だが、目の奥に疲れがあった。
「つきましては、親族であり、本社および日本法人の業務にも携わっておりますジョニー・フィッチを、名代として立てさせていただきました。何卒ご容赦いただければと存じます」
父は完全に緊張していた。
「い、いえ、そんな。こちらこそ、お招きいただきまして」
言葉が少しおかしい。
肝が据わった母も、さすがにこの場では神妙な顔をしている。
ジョニー・フィッチ。
金髪の美丈夫は、柔らかく微笑んだ。
それから、遼太郎の方へ近づく。
一歩。
もう一歩。
距離が近くなる。
香水なのか、薄く柑橘の匂いがした。
ジョニーは腰を屈め、遼太郎にだけ聞こえる声で言った。
「ココア、ありがとう」
英語だった。
にこやかな声。
だが、遼太郎の口元は歪んだ。
ココア。
あの時、渡した缶ココアか。
やっぱり覚えてるよね。
席は、流れるように決められた。
遼太郎は、ジョニーの隣に座らされた。
逃げ場がない。
席に着くと、改めて挨拶が行われた。
小柳が口座開設時の件を詫びる。
猪原も頭を下げる。
ジョニーは片言の日本語で、ゆっくりと言った。
「本日は、来てくださって、ありがとうございます。私たちの会社のことで、ご迷惑をおかけしました」
発音は少し硬い。
だが、言葉は丁寧だった。
父は恐縮しきっていた。
「いえ、ほんまに、もうお気になさらんでください」
「そう言っていただけると、ありがたいです」
ジョニーは穏やかに頷いた。
料理が運ばれてきた。
前菜の盛り合わせ。
透き通ったスープ。
香りのよい蒸し物。
大きな皿に盛られた海老。
大きなフカヒレが乗った炒飯。
父の目が、少しずつ料理へ吸い寄せられていく。
緊張はしている。
だが、豪華な料理には勝てないらしい。
母は最初こそ大人しくしていた。
だが、一杯目の紹興酒が運ばれてきたあたりで、顔つきが変わった。
猪原が勧めると、遠慮なく杯を受けた。
「美味しいですねぇ」
空になったグラスを掲げ、満面の笑みだ。
「お口に合いましたら幸いです」
猪原が丁寧に答える。
「合います」
即答だった。
父が横で心配そうに見る。
母はそれを無視して、料理へ箸を伸ばした。
遼太郎も食べた。
海老はぷりぷりしているし、スープは深い。
美味かった。
だが、落ち着かない。
隣のジョニーが、にこやかに座っている。
穏やかな顔をしている。
だが、時折こちらを見る。
その目は、料理を楽しむ客のものではなかった。
宴は進んだ。
小柳が場を取り持ち、猪原が酒を注ぎ、ジョニーが時々片言の日本語で相槌を打つ。
母はウワバミのように酒を飲む。
父は料理に舌鼓を打っている。
遼太郎は黙々と食べる。
そして、ジョニーを見る。
どこかで、必ず仕掛けてくる。
そう思っていた。
その時は、思ったより自然に来た。
母が杯を置き、目を細めた。
「ちょっと…お手洗い」
「大丈夫か?」
父が慌てる。
「大丈夫や」
「大丈夫な目ちゃうやろ」
「大丈夫やって」
母は立ち上がろうとして、椅子に手をついた。
父が慌てて支える。
猪原も立ち上がりかけたが、父が手で制した。
「すみません、ちょっと連れて行きます。遼太郎をお願いしていいですか」
「かしこまりました」
父と母が個室を出て行く。
扉が閉まる。
部屋の中の空気が、変わった。
小柳は黙って茶を飲んでいる。
猪原は、何かを察したように視線を伏せた。
ジョニーが口を開いた。
「やっと話せるね」
英語だった。
先ほどまでの片言の日本語とは違う。
柔らかく、滑らかで、疲れた声。
「あの時は助かったよ。元気にしてた?料理は楽しんでくれたかい?」
遼太郎は箸を置いた。
皿の上には、まだ少しだけ炒飯が残っている。
「料理は美味いよ」
遼太郎も英語で返した。
「ただ、騙し討ちはいただけないね」
ジョニーは笑った。
小柳の眉が、ほんの少し動いた。
猪原は黙って料理を摘まんでいる。
「社内に面倒な人がいてね。普通に連絡しようとしたら、守秘義務だ、未成年者保護だ、プライバシーだって止められる。こういう形が、一番スマートだったんだ」
「スマート?」
「比較的ね」
ジョニーは肩をすくめた。
その仕草だけ見ると、普通の若い男だった。
だが、目は笑っていない。
追い詰められた人間の目だった。
以前よりは落ち着いている。
それでも、底の方に焦げたような疲れが残っていた。
「何が望みだ?」
遼太郎は言った。
「こんなガキにできることなんて、たかが知れてるぞ」
「取って食おうってわけじゃないよ」
ジョニーは身を乗り出した。
声を落とす。
「君の出口戦略には恐れ入ったよ、だから僕のアドバイザーになってほしい」
「アドバイザー?」
厄介な言葉だった。
遼太郎は、顔をしかめる。
ただ、出口戦略。
そこに目を付けられているのは、幸いだった。
未来予知ではない。
銘柄選択でもない。
引き際。
そう思われているなら、まだ誤魔化しようがある。
「単刀直入に言うよ」
ジョニーは続けた。
「試用期間は最長三か月。月1万ドル。成果が出れば、インセンティブとして利益の1%。どう?」
月1万ドル。
五歳児に提示する条件としては狂っているが悪くない。
だが、未来を買う、安全を買うと考えた値段としては安い。
しかも試用期間。
就職活動で聞き慣れた嫌な言葉だった。
三か月は試用期間。
会社都合でいつでも切れる。
「アンタら」
遼太郎は、声を低くした。
「俺のアドバイスで、いくら助かった?」
ジョニーの目が細くなる。
「山一。ウォン。あの数週間で、何億と逃げられたろ?」
「そう言うと思ったよ」
ジョニーは苦笑した。
片方の親指を、もう片方の指で撫でる。
「メリーおじさんから、追加で試用期間中の粗利の五分の一をボーナスで出して良いと話はつけてある」
「メリー?」
「叔父のメリット・フィッチ」
「社長まで話が通ってるのか」
遼太郎は呆れた。
「アンタら正気か?」
その言葉に小柳と猪原は一斉に目を背ける。
ジョニーは臆さない。
「メリーおじさんにもそう言われたよ」
遼太郎は鼻で笑った。
「叔父さんとは気が合いそうだな」
「たぶんね」
ジョニーは笑った。
その笑い方には、どこか子供っぽさがあった。
狂ってる。
これが資本主義か。
遼太郎は身震いした。
だが、ここで突っぱねて終わりにするのは、得策ではなかった。
敵に回すより、使った方がいい。
こちらにも金がいる。
遼太郎は、諦めに似た息を吐いた。
「分かった」
ジョニーの目が明るくなる。
「ジョニー。アンタのお悩み相談なら聞いてやる」
ジョニーは嬉しそうに頷く。
「ただし」
遼太郎は指を一本立てる。
「拘束時間は短めだ。今年からエレメンタリーなんだ。毎日朝から晩まで、アンタの泣き言は聞けない」
「フフ!エレメンタリーかぁ…勉強は大事だもんね」
ジョニーが吹き出した。
「それと」
遼太郎は続ける。
「月1万ドルはいい。けど、試用期間中の分は先払いで寄越しな。3万ドルだ」
「先払い?」
「そっちの気分で試用期間を打ち切れるんだろ。なら、先に貰っておいていい」
「なるほど、ちゃっかりしてるね」
「あと、小遣いで5000ドル」
「小遣い?」
ジョニーの目が丸くなった。
「PHSとか、色々買い揃える。アンタとのホットラインだ。あと、入学祝ってやつだ。欲しいゲームがあってね」
ジョニーは、とうとう声を出して笑った。
明るい笑い声だった。
だが、個室の中では響きすぎた。
小柳が咳払いをする。
「君と話してると、ウォール街に戻った気分だよ」
「五歳児相手にそれはどうなんだ?」
「五歳児が3万5000ドルを前払いで要求してくる方がどうかしてる」
ジョニーは笑いながら言った。
それから、真面目な顔になる。
「分かった。社内稟議は大変だけど、全部飲むよ。電話は週一回程度でいい。ただ、事態が急変した時は、密にお願いしたい。最近きな臭いんだ。」
「OK」
遼太郎は短く答えた。
3万ドル。
これで、あの株をもう少し拾える。
遼太郎は、腹の中で小さく笑った。
ジョニーが右手を差し出す。
遼太郎は、その手を見た。
白く、細い指だった。
だが、手のひらには緊張があった。
遼太郎は握り返した。
小さな手と、大人の手。
円卓の下で交わされた握手。
それは奇妙な契約だった。
ジョニーは握手を解くと、声を張った。
「聞こえたかい? スタシア。悪いけど、手続きを頼むよ」
遼太郎は固まった。
「は?」
次の瞬間、個室の扉が乱暴に開いた。
厚い扉が戸当たりにぶつかり、鈍い音を立てる。
そこに、スタシア・ラマーノフが立っていた。
銀色の髪。
黒いスーツ。
整いすぎた顔。
その肩は怒りに震えていた。
スタシアは、ジョニーを睨む。
その視線だけで、部屋の空気が数度下がった。
「……どういうことか、説明していただけますか」
英語だった。
丁寧だった。
だが、声は刃物のようだった。
遼太郎は、握手したばかりの自分の手を見た。
やっぱり嵌められた。
そう思った。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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