表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
8/58

第七節

 土曜日の朝だった。

 木曜から再び降り出した雨は未明にようやく止み、空には薄い雲が刷毛で引いたように伸びていた。

 三月の終わり。

 陽射しは柔らかかったが、風にはまだ冬の痩せた冷たさが残っている。

 台所から、忙しそうな音が聞こえてくる。

 包丁がまな板を叩く音。

 フライパンへ落ちる油の音。

 換気扇の低い唸り。

 台所に置かれたラジカセからは母のお気に入りが流れる。

 母はリズムを口ずさみながら家事をこなしている。

 遼太郎はそんな母を尻目に居間で寝転がりながら、ぼんやりと天井を見上げていた。

 長かった。

 一週間がようやく終わった。

 ここ数日の疲れが尾を引いていた。

 幼稚園。

 神経を使う場所だった。

 論理が通じない。

 気分がコロコロ変わる。

 さっきまで仲良く遊んでいたと思えば、急に泣く。

 押す、叩く、走る、転ぶ、意味もなく物を投げる。

 保育士が目を配っているとはいえ、遊具の上からぶら下がる光景を見るたびに肝が冷えた。

 鉄棒から落ちそうになる子。

 勢い余って友達へ突っ込む子。

 砂場のスコップを振り回す子。

 危うい。

 実に危うい。

 よその子ですらこれだ。

 親は毎日どんな気持ちで送り出しているのだろう。

 溜息をつく。

 ただ…

 自分も、こうやって両親に心配を掛けながら育ったのだ。

 熱を出して、怪我をして、泣いて。

 母も、父も、こういう不安を毎日積み重ねていたのだろう。

「…なるべく心配させんようにせんとな」

 言葉が漏れた。

 寝返りを打つ。

 ふと、昔を思い出した。

 子供。

 そういえば、有理と話をしたことがあった。


 会社帰りの居酒屋だった。

 煙草の煙が壁紙へ染み込み、換気扇の下では焼き鳥の脂がじゅうじゅう鳴っていた。

 スーツ姿の男達の笑い声と、テレビの野球中継が混ざり合っていた。

『遼ちゃんって、子供好きそうだよね』

 有理が酎ハイのグラスを傾けながら笑っていた。

『嫌いやない』

 枝豆を摘まみながら答えた。

『クソガキは嫌いやけど』

 有理が吹き出す。

『ほしい?』

 有理がじっと見つめて問いかけた。

『持てるもんなら欲しいけどなぁ。相手がおらんからな』

 自嘲気味に答えた。

 現状を鑑みるに希望は無いだろう。

『諦めちゃダメだよ』

 有理は悲しそうな顔をしていた。

 その表情だけが妙に記憶へ残っている。


「…何を悲しんどったんや、お前」

 遼太郎は小さく呟いた。

 有理は、自分よりずっと性格が良かった。

 顔も良い。

 気も利く。

 優しい。

 あいつならきっと、良い相手を見つけて幸せになれる。

「頼むから、俺のことなんか忘れて幸せになってくれ」

 残してきたことを後悔しながら呟く。

 もっとも、高校へ進めば出会うのだが。

 そう思うと少しだけ可笑しくなった。

 

 結婚。

 もし、現世を良い人生としてやり直せたなら自分は家庭を持つのだろうか。

 子供。

 妻。

 自分にそんな未来が似合うのだろうか。

 妻となる異性の顔が全然想像できない。

 不意に有理の顔が浮かぶ。

「…お前が女やったら最高やったんやけどな」

 口に出した瞬間、自分で引いた。

「いやいや、何考えとんねん俺…」

 思わずかぶりを振った。


 遼太郎は身体を起こす。

 気分を変えよう。

 卓の上へ目を向ける。

 そこに、父が置きっぱなしにした競馬新聞があった。

 手に取る。

 紙のざらつきが指へ残った。

 赤鉛筆でいくつも印が付けられている。

 印の付いた馬名を見た瞬間、5着、8着、落馬とろくでもない結果のイメージが流れ込む。

「おとん、向いてないんよなぁ……」

 思わず苦笑した。

 下手の横好き。

 赤鉛筆の印は、どれも人気薄の大穴馬ばかりだった。

 夢を見ることが、楽しいのだろう。


「遼ちゃん? 何読んでんの?」

 母が台所から顔を出した。

 一瞬ぎくりとする。

 幼児が競馬新聞を広げ、ぶつぶつ言っている。

 かなり不審だった。

 慌てて幼児の顔へ戻る。

「おとんのしんぶーん。お馬さんのってるー」

 無垢っぽく笑う。

「あはは、そうやねぇ」

 母も笑った。

「けーばって、一着のお馬さん当てたらええんやね? 簡単やでー」

「そうやで。簡単よねぇ」

 母はため息混じりに遠い目をする。

「誰かさんは全然当てられないけどねぇ」

 父への評価が辛辣だった。

 遼太郎は紙面を指差した。

「これ、なんて読むのー?」

 馬連の文字。

「うまれん、よ」

「うまれん?」

「一着と二着のお馬さんを当てるの。当たったら、もらえるプレゼントが増えるんよ」

「へぇー」

 わざと感心した声を出す。

 さらに別の欄の単語を指差した。

「これはー?」

「人気、やね」

「にんき?」

「みんなが“このお馬さん勝つかも!”って応援するの」

 母は、ゆっくり言葉を選んでいた。

「でも、みんながいっぱい応援しちゃうと、当たった時にもらえるプレゼントが減るんよ」

「へぇー」

 遼太郎は素直そうに頷いた。

 内心では別のことを考えている。

 これで競馬知識への最低限の()()()()はできた。

 前から興味を持っていた。

 そういう流れを作れる。

 急に競馬へ詳しくなったら不自然だ。

 布石は早い方がいい。

 ふと、競馬新聞の下に敷かれていた朝刊が目へ入った。

 《野村證券 利益供与の疑惑深まる》

 時代やな、と遼太郎は思った。

 証券会社の不祥事。

 バブル崩壊後の腐臭が、まだ日本中へ残っていた頃だ。

 遼太郎は気まぐれを装いながら、「野村證券」の文字を指差した。

「これ、なんて読むのー?」

 母が近寄ってくる。

 今後、金を増やすなら金融知識は必要になる。

 銀行口座も。

 株も。

 証券会社も。

 この際、()()()だ。

 アリバイを作ろう。

「のむらしょうけん、よ」

「なにそれー?」

 その瞬間、母・恵が僅かに固まった。

 困った。

 どう説明したものか。

 恵は学の無い自分を、少しだけ恨んだ。

「えーっと…」

 恵は視線を彷徨わせた。

 そして、思い付く。

「お野菜の“かぶ”ってあるやろ?」

「かぶー?」

 嘘だろ。

 遼太郎は内心驚く。

「株もねぇ、お馬さんとちょっと似てるの。みんなが“がんばれー”って応援するんよ」

 恵は苦笑いする。

 自分でも苦しい説明だ。

 ただ、やるしかない。

「応援が増えると、もらえるプレゼントも増えるの」

「へぇー」

「しょうけんってところは、その株を売ってくれたりするお店なんよ」

「やおやさん?」

「そんな感じ。野村さんのお店やね」

 かなり雑だ。だが、幼児相手なら及第点か。

 遼太郎は内心で思う。

 ――まぁ、あながち間違ってもないし。

 そして同時に、恵も思っていた。

 ――まぁ、こんなもんやろ。

 二人は同じタイミングで頷いた。

 親子だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ