第六節
夜更けだった。
雨は昼過ぎには上がっていたが、春先特有の湿気がまだ家の中へ残っている。
窓の外では、濡れた電線が風に微かに鳴っていた。
遠くの国道を走るトラックの音が、低く唸るように聞こえる。
遼太郎は布団の中で目を開けていた。
眠れない。
昼間はあれだけ未来だの金だのを考えていたくせに、今になって別の問題が浮上してきていた。
「…幼稚園」
小さく呟く。
そうだ。
自分は今、五歳児だった。
当然ながら、明日は平日である。
つまり登園日だった。
頭を抱えた。
完全に失念していた。
株。
競馬。
母の病気。
未来の金策。
そんなものばかり考えていたせいで、一番基本的な問題が抜け落ちていた。
自分はまだ、社会的には“園児”なのだ。
布団の中で寝返りを打つ。
「友達とかおったやろ俺」
だが、顔が浮かばない。
幼稚園時代など、三十四歳の脳からすれば遥か古代文明である。
高校時代ならまだしも、五歳の頃の交友関係など殆ど霧散していた。
まずい。
かなりまずい。
急に誰の名前も呼べなかったら不自然すぎる。
遼太郎は額を押さえた。
記憶を掘る。
高校。
中学。
小学校。
時系列を逆流するように、脳内を遡っていく。
教室。
校庭。
ランドセル。
給食。
朝顔。
運動会。
断片的な映像が、濁った川底から少しずつ浮かび上がってくる。
そして、印象的な目つきで留まる。
吊り目。
気が強かった。
黒髪のツインテール。
「アヤカ……」
大里 アヤカ。
思い出した瞬間、幼い頃の記憶が連鎖的に蘇る。
泥団子。
砂場。
公園。
虫取り。
男勝りで、やたら命令口調で、自分を引っ張り回していた女の子。
だが同時に、痛みを伴う記憶も蘇る。
途中から、嫌われた。
理由は曖昧だった。
中学前には、ほぼ口を利かなくなっていた気がする。
その時期、両親が離婚して苗字も変わっていた。
その後は地元に帰るたびに、
悪い男に騙されただの、水商売をしているだの、風俗だの。
悪い噂だけが耳へ入ってきた。
いつだったか、最後に目を合わせてまじまじと見た顔は…泣いていた気がする。
思い出そうとすると、胸の奥が妙に重たくなった。
「……気まずい」
額を押さえた。
まだ今は、ただの幼馴染なのに。
未来を知っているせいで、妙な距離感が生まれてしまう。
遼太郎はため息を吐いた。
そしてもう一人。
「…エリ」
中原 エリ。
こちらは思い出すのに少し時間が掛かった。
ぱっつん気味の黒髪。
大人しい。
よく笑う。
アヤカの後ろをちょこちょこ付いて回っていた。
「……あぁ」
こっちも、最後は泣いていた。
父親の会社が潰れたのだ。
確か借金取りが親の居場所を聞き出しに学校まで来ていたっけ。
そして、いつの間にか転校した。
その後の消息は知らない。
天井を見つめる。
暗闇の中で、木目だけがぼんやり浮かんでいた。
「……重いなぁ」
まだ何も起きていない。
今はまだ、みんな笑っている時代だ。
だが未来を知っていると、その笑顔の先にあるものまで見えてしまう。
それが妙に苦しかった。
遼太郎は毛布を鼻先まで引き上げた。
ふと思考が止まる。
金。
もし金があれば、エリの父親の会社、アヤカの家庭を何か変えられるのではないか。
金は人生を壊す。
でも同時に、金がなければ、人生は守れない。
「…やっぱ金やん」
ぼそりと呟く。
そのまま意識が沈み始める。
幼児の身体は、睡眠欲に抗えなかった。
思考が霞む。
雨上がりの湿った空気。
遠い車の音。
柔軟剤の匂い。
全部が混ざり合いながら、意識が落ちていく。
最後に浮かんだのは、有理の顔だった。
――気楽に話せるのはお前だけや。
そこで眠りへ落ちた。
「遼太郎―、起きてー」
母の声だった。
「幼稚園行くよー」
遼太郎は薄く目を開けた。
朝日が障子を白く透かしている。
逃避したい。
だが逃げられない。
今日から、再び園児社会へ放り込まれるのだ。
朝食を食べ、黄色い通園帽を被せられる。
背負わされた小さなリュックが重く感じた。
ため息をつく。
外へ出ると、春先の朝気がまだ少し冷たかった。
雨上がりの道路は黒く湿っている。側溝の水が細く流れ、陽射しを反射していた。空は青かったが、西の山際にはまだ灰色の雲が残っている。
幼稚園までは徒歩数分だった。
住宅街を抜ける。
工場の煙突。
町工場の鉄臭さ。
犬の鳴き声。
全部が懐かしい。
やがて、黄色い門が見えた。
幼稚園だった。
その瞬間。
「遼ちゃんおはよー!」
甲高い声が飛んできた。
黒髪ぱっつん。
丸っこい目。
小柄。
中原 エリだった。
「遅いじゃーん!」
別方向から、勢いよく腕を掴まれる。
黒髪ツインテール。
吊った目。
勝気そうな顔。
大里 アヤカ。
「早くあそぼ!」
ぐいぐい引っ張ってくる。
「うぉっ」
遼太郎はよろけた。
近い。
「…マジかぁ」
思わず呟く。
「なにがー?」
つぶらな瞳たちが見つめる。
「いや……」
三十四歳男性。
お遊戯開始である。
午前中。
遼太郎は疲弊していた。
お歌。
お絵描き。
積み木。
お遊戯。
園児達の会話。
全部がキツい。
精神が追い付かない。
「遼ちゃんこれ下手ー!」
アヤカが笑う。
粘土細工だった。
隣ではエリが困ったように笑っている。
「でも遼ちゃん今日なんか変ー」
「……そうか?」
「うん!」
アヤカが遠慮なく言う。
「なんかおとな!」
ぎくりとした。
だが直後。
「でもなんかかわいい!」
けらけら笑う。
遼太郎は曖昧に笑い返した。
その時だった。
ふと、別の園児達へ視線が向く。
その瞬間、妙な感覚が走った。
なんとなく分かる。
こいつは頭が良い。
こいつは気が弱い。
こいつは嘘つき。
こいつは意地悪。
こいつは危ない。
説明できない。
だが、感覚で判別できる。
妙に当たっている気がした。
三十四年生きた経験かな。
そう思いかけて、違和感を覚える。
それだけではない。
もっと直感的だった。
遼太郎は視線を巡らせた。
そして自然に思う。
――悪そうな奴には近寄らんとこ。
社会で揉まれた魂は、本能的に危険物を避け始めていた。
その一方で、アヤカとエリへ目を向ける。
一瞬。
二人の周囲に、淡い桃色の靄のようなものが見えた気がした。
春霞みたいな色だった。
瞬きをすると消え去った。
「……見間違い?」
それとは別に直感的に分かる。
この二人、妙に才能がある。
アヤカは頭の回転が速い。
エリは人の感情を読むのが異様に上手い。
「どうしたのー?」
アヤカが顔を覗き込んできた。
「いや、なんでもない」
遼太郎は苦笑した。
夕方。迎えの時間だった。
門の外で母が手を振っている。
「遼ちゃーん」
その姿を見た瞬間、遼太郎は心底ほっとした。
疲れた。
本当に疲れた。
会話のテンポも。
テンションも。
全部が嚙み合わない。噛み合わないギアを嚙み合わせるのは至難の業だ。
「おかーん!」
園児らしく駆け寄る仕草は演技ではなかった。助かった。
「楽しかった?」
にこやかに聞く母。
「…うん」
返答に妙な間が空いた。
母が笑う。
「疲れてる?」
「めっちゃ疲れた……」
「いっぱい遊んだんやねぇ」
違う、ごっそり削られたのだ。
門の手前で、アヤカとエリがこちらを見ていた。
「ばいばーい!」
エリが大きく手を振る。
「…また明日ね」
アヤカは小声だった。
遼太郎は、二人を見返した。
手を振り返す。
今は、まだ笑えている。
母に手を引かれながら帰路についた。
夕陽が濡れた道路を赤く照らしていた。
幼稚園の門の前。
アヤカとエリは、迎えを待つ。
「今日の遼ちゃん、めちゃくちゃ可愛かったぁ」
エリが笑う。
「べつにぃ」
アヤカはそっぽを向く。
「アヤカ、なんで遼ちゃんいじめるの?」
「いじめてないし」
「絶対いじめてるー」
エリが頬を膨らませる。
アヤカは少し黙った。
そして、小さく唇を尖らせる。
「…だってぇ」
「だって?」
アヤカは赤くなりながら、かぶりをふる。
「…好きなんだもん」
春の風が吹いた。




