第五節
翌朝。
遼太郎は、布団の中でぼんやりと天井を見ていた。
障子越しの朝日が白い。
昨夜の雨が上がったらしく、外からは濡れた土の匂いが漂ってきている。軒先から落ちる雫の音が、一定の間隔で耳へ届いた。
夢ではなかった。
その事実だけが、妙に静かに胸へ沈んでいた。
目覚めても三十四歳の身体へ戻ってはいない。
腹の上へ乗せた手は、小さいままだ。
指先は丸く、皮膚には張りがある。
「…マジかぁ」
小さく呟く。
昨日は混乱していた。
家族の顔を見て、泣いて、知識チートらしきものを試して、訳も分からないまま一日が終わった。
だが一晩寝たことで、少しだけ頭が冷えていた。
考えなければならない。
これから先を。
遼太郎は毛布を鼻先まで引き上げた。
未来は知っている。
家は、これから徐々に疲弊していく。
養育費。
不景気。
父の給与低下。
そして母の病気。
あの頃は分からなかった。
ただ母が弱っていき、父が苛立つようになり、家の空気が少しずつ荒れていったことしか見えていなかった。
だが今なら分かる。
全部、金だった。
「…結局、金か」
乾いた笑いが漏れる。
愛も。
優しさも。
健康も。
最後は金に削られていく。
母の病だって、完全な原因は分からない。
だが、悪化した理由は分かる。
疲弊だ。
家計を支えるために始めたパート。
無理な勤務。
睡眠不足。
通院の後回し。
あの頃の母は、常に疲れていた。
だから逆に言えば。
金があれば、変えられる。
少なくとも、未来を少しは遅らせられる。
「いくらか…5000万もあれば万々歳か…」
遼太郎は呟いた。
中学へ上がる頃までに、それだけあれば何があろうと十分に余裕ができる。
母を働かせずに済む。
病院へ行ける。
父の精神的余裕も変わる。
問題は。
「どうやって稼ぐかやな…」
五歳児で。
そこだった。
株は難しい。
未成年口座。
親の理解。
そもそも元手がない。
もっと即効性のあるものはなんだ?
ギャンブル。
競馬。
その瞬間、
「ただいまー…」
玄関から、疲れ切った声が聞こえた。
父だった。
遼太郎は耳を澄ませる。
「マジで最悪や…」
「お疲れさん。お風呂沸いてるよ」
「一人飛ぶだけで地獄やで…」
作業着を脱ぎながら愚痴る声。
金属臭と油の匂いまで、廊下越しに漂ってくる気がした。
ああ、そうだよな。
大変だったんだ。
90年代後半は、もう空気が悪くなり始めていた。
遼太郎は布団の中で目を細めた。
「…桜花賞か」
4月6日の第57回桜花賞。
キョウエイマーチ。
2.6倍。
一番人気。
脳裏へ数字が浮かぶ。
ただ、配当としては弱い。どかっと大穴が良いんだよ。
「ここはおとんへの撒き餌やな」
遼太郎はぼそりと呟いた。
愛息子が、
『キョウエイマーチって名前、一番強そう』
とか言えば、父は絶対に一口は買う。父はそういう男だ。
大穴党だったが、それでも“息子の推し馬”は記念に買うタイプだ。
問題は、その先だった。
遼太郎は目を閉じる。
「…1997年、一番デカい配当は?」
ふざけ半分に念じた。どうせ、何も返って来ない。
「てめーで考えろ」ということになるだろうなと遼太郎は覚悟した。
その瞬間。
脳裏へ情報が流れ込んでくる。
皐月賞。
サニーブライアン。
シルクライトニング。
馬連。
2万円購入。
517倍。
「…は?」
遼太郎は飛び起きた。
「517倍?2万でも…1000万円超え…?」
幼児の声が裏返る。
「なんで2万だけ…10万も賭ければ一生安泰やんけ」
次の瞬間、理由も流れ込んできた。
オッズ変動、所得税、住民税、目立ち過ぎる。
それらを考慮した適当な額として1000万円前後のようだ。
「ああ…」
遼太郎は納得した。
しかし、この能力、金に関しては妙に現実的だった。
単なる未来視ではない。
「そこは考えてくれてんのかよ…」
妙な感心すら覚えた。
さらに情報が続く。
天皇賞・秋。
エアグルーヴ。
バブルガムフェロー。
馬連。
90万円購入。
15.2倍。
その気回りにうすら寒さを感じた。
それと同時に、
「…2レースで2000万超えるやん」
遼太郎は呆然とした。
現実味がない。
だが脳が理解している。
これは起こる。
未来で、既に起きたことだから。
「やるか…」
小さく呟く。
問題は父だ。
どう説得する。
いや、全部を説明する必要はない。
“異様に勘の良い息子”程度でいい。
そこまで考えた時。
風呂場の戸が開く音がした。
「お先~生き返ったわぁ…」
父の声だった。
遼太郎は布団から抜け出した。
ちょうど襖が開く。
「遼ちゃん起きてたん? ご飯できてるよ」
母だった。
エプロン姿のまま笑っている。
「おはよ」
「もう昼前やけどねぇ」
くすりと笑う。
遼太郎は母へ手を引かれながら居間へ向かった。
食卓には、オムライスが並んでいた。
ケチャップの匂いが甘い。
「おっ」
思わず声が出る。
「今日は遼ちゃん好きなやつ」
母が少し得意げに言った。
黄色い卵。
少し歪な楕円形。
その上へ赤いケチャップが掛かっている。
懐かしかった。
子供の頃、大好きだった。
いや、三十四歳になってからも、本当はずっと好きだった。
「いただきます!」
遼太郎は勢いよくスプーンを入れた。
薄焼き卵が裂ける。
中からケチャップライスが現れる。
美味かった。
泣きそうになるくらい。
「今日もよう食べるなぁ」
風呂上がりのパンイチ姿で涼む父が笑う。
「昨日からえらい食欲やん」
母も笑っている。
遼太郎は口いっぱいにオムライスを頬張りながら、ふと考えた。
2000万。
たった2レースで。
人生が変わる額。
母を守れる。
父を壊さずに済む。
未来を変えられる。
そこまで考えた瞬間。
胸の奥底で、何かが目を覚ました。
もっと。
もっと金を。
もっと確実に。
もっと早く。
その声は、焦りによく似ていた。
だが同時に、酷く甘美な声だった。
続きはまた明日。




