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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第一章 1997年 失楽園にて
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第五節

 翌朝。

 遼太郎は、布団の中でぼんやりと天井を見ていた。

 障子越しの朝日が白い。

 昨夜の雨が上がったらしく、外からは濡れた土の匂いが漂ってきている。軒先から落ちる雫の音が、一定の間隔で耳へ届いた。

 夢ではなかった。

 その事実だけが、妙に静かに胸へ沈んでいた。

 目覚めても三十四歳の身体へ戻ってはいない。

 腹の上へ乗せた手は、小さいままだ。

 指先は丸く、皮膚には張りがある。

「…マジかぁ」

 小さく呟く。

 昨日は混乱していた。

 家族の顔を見て、泣いて、知識チートらしきものを試して、訳も分からないまま一日が終わった。

 だが一晩寝たことで、少しだけ頭が冷えていた。

 考えなければならない。

 これから先を。

 遼太郎は毛布を鼻先まで引き上げた。

 未来は知っている。

 家は、これから徐々に疲弊していく。

 養育費。

 不景気。

 父の給与低下。

 そして母の病気。

 あの頃は分からなかった。

 ただ母が弱っていき、父が苛立つようになり、家の空気が少しずつ荒れていったことしか見えていなかった。

 だが今なら分かる。

 全部、金だった。

「…結局、金か」

 乾いた笑いが漏れる。

 愛も。

 優しさも。

 健康も。

 最後は金に削られていく。

 母の病だって、完全な原因は分からない。

 だが、悪化した理由は分かる。

 疲弊だ。

 家計を支えるために始めたパート。

 無理な勤務。

 睡眠不足。

 通院の後回し。

 あの頃の母は、常に疲れていた。

 だから逆に言えば。

 金があれば、変えられる。

 少なくとも、未来を少しは遅らせられる。

「いくらか…5000万もあれば万々歳か…」

 遼太郎は呟いた。

 中学へ上がる頃までに、それだけあれば何があろうと十分に余裕ができる。

 母を働かせずに済む。

 病院へ行ける。

 父の精神的余裕も変わる。

 問題は。

「どうやって稼ぐかやな…」

 五歳児で。

 そこだった。

 株は難しい。

 未成年口座。

 親の理解。

 そもそも元手がない。

 もっと即効性のあるものはなんだ?

 ギャンブル。

 競馬。

 その瞬間、

「ただいまー…」

 玄関から、疲れ切った声が聞こえた。

 父だった。

 遼太郎は耳を澄ませる。

「マジで最悪や…」

「お疲れさん。お風呂沸いてるよ」

「一人飛ぶだけで地獄やで…」

 作業着を脱ぎながら愚痴る声。

 金属臭と油の匂いまで、廊下越しに漂ってくる気がした。

 ああ、そうだよな。

 大変だったんだ。

 90年代後半は、もう空気が悪くなり始めていた。

 遼太郎は布団の中で目を細めた。

「…桜花賞か」

 4月6日の第57回桜花賞。

 キョウエイマーチ。

 2.6倍。

 一番人気。

 脳裏へ数字が浮かぶ。

 ただ、配当としては弱い。どかっと大穴が良いんだよ。

「ここはおとんへの撒き餌やな」

 遼太郎はぼそりと呟いた。

 愛息子が、

『キョウエイマーチって名前、一番強そう』

 とか言えば、父は絶対に一口は買う。父はそういう男だ。

 大穴党だったが、それでも“息子の推し馬”は記念に買うタイプだ。

 問題は、その先だった。

 遼太郎は目を閉じる。

「…1997年、一番デカい配当は?」

 ふざけ半分に念じた。どうせ、何も返って来ない。

「てめーで考えろ」ということになるだろうなと遼太郎は覚悟した。

 その瞬間。

 脳裏へ情報が流れ込んでくる。

 皐月賞。

 サニーブライアン。

 シルクライトニング。

 馬連。

 2万円購入。

 517倍。

「…は?」

 遼太郎は飛び起きた。

「517倍?2万でも…1000万円超え…?」

 幼児の声が裏返る。

「なんで2万だけ…10万も賭ければ一生安泰やんけ」

 次の瞬間、理由も流れ込んできた。

 オッズ変動、所得税、住民税、目立ち過ぎる。

 それらを考慮した適当な額として1000万円前後のようだ。

「ああ…」

 遼太郎は納得した。

 しかし、この能力、金に関しては妙に現実的だった。

 単なる未来視ではない。

「そこは考えてくれてんのかよ…」

 妙な感心すら覚えた。

 さらに情報が続く。

 天皇賞・秋。

 エアグルーヴ。

 バブルガムフェロー。

 馬連。

 90万円購入。

 15.2倍。

 その気回りにうすら寒さを感じた。

 それと同時に、

「…2レースで2000万超えるやん」

 遼太郎は呆然とした。

 現実味がない。

 だが脳が理解している。

 これは起こる。

 未来で、既に起きたことだから。

「やるか…」

 小さく呟く。

 問題は父だ。

 どう説得する。

 いや、全部を説明する必要はない。

 “異様に勘の良い息子”程度でいい。

 そこまで考えた時。

 風呂場の戸が開く音がした。

「お先~生き返ったわぁ…」

 父の声だった。

 遼太郎は布団から抜け出した。

 ちょうど襖が開く。

「遼ちゃん起きてたん? ご飯できてるよ」

 母だった。

 エプロン姿のまま笑っている。

「おはよ」

「もう昼前やけどねぇ」

 くすりと笑う。

 遼太郎は母へ手を引かれながら居間へ向かった。

 食卓には、オムライスが並んでいた。

 ケチャップの匂いが甘い。

「おっ」

 思わず声が出る。

「今日は遼ちゃん好きなやつ」

 母が少し得意げに言った。

 黄色い卵。

 少し歪な楕円形。

 その上へ赤いケチャップが掛かっている。

 懐かしかった。

 子供の頃、大好きだった。

 いや、三十四歳になってからも、本当はずっと好きだった。

「いただきます!」

 遼太郎は勢いよくスプーンを入れた。

 薄焼き卵が裂ける。

 中からケチャップライスが現れる。

 美味かった。

 泣きそうになるくらい。

「今日もよう食べるなぁ」

 風呂上がりのパンイチ姿で涼む父が笑う。

「昨日からえらい食欲やん」

 母も笑っている。

 遼太郎は口いっぱいにオムライスを頬張りながら、ふと考えた。

 2000万。

 たった2レースで。

 人生が変わる額。

 母を守れる。

 父を壊さずに済む。

 未来を変えられる。

 そこまで考えた瞬間。

 胸の奥底で、何かが目を覚ました。

 もっと。

 もっと金を。

 もっと確実に。

 もっと早く。

 その声は、焦りによく似ていた。

 だが同時に、酷く甘美な声だった。


続きはまた明日。

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