第二十節
7月1日。
サンフランシスコ湾の上には、朝から低い雲が横たわっていた。
海面で冷やされた湿った空気が、カリフォルニアの海岸線を覆っている。
風は冷たい。
陽射しは強い。
路肩の草は、すでに夏の色を帯び始めていた。
乾いた斜面の向こうに、濃い緑のオークが点々と残っている。
アスファルトの上を一台の車が南へ走っていた。
ポルシェ912。
黒い車体。
低く沈んだボンネット。
左右に盛り上がった丸いヘッドライト。
屋根は小さく弧を描き、そのまま後ろへなだらかに落ちている。
アクセルが踏み込まれる。
車体の後ろから、乾いた排気音が響いた。
運転手はハンドルに乗せた自らの手首を見た。
退職記念に買った中古のロレックス。
時刻は十五時を指していた。
約束は十七時。
目的地はここから一時間。
但し、その前に電話をしなくてはならない。
急がねば。
ふと、サイドミラー越しに自分の顔を見た。
今年、四十五を迎える男の顔。
日に焼けた肌。
目尻には浅い皺が刻まれている。
鼻筋は高く、顎は細い。
レイバンのサングラスから覗く淡い青の目。
冷房の風に、耳の下で綺麗に揃った赤毛がさらりと流れる。
「はぁ、参ったなぁ」
ネイサン・ヒロカワはため息をついた。
これから遠路はるばる会いに行く相手。
Gagoyle。
流行のスタートアップ企業。
創業者は大学院生だと言うではないか。
学生は苦手なんだよ。
ハイスクールの時には万年、ヒョロヒョロ呼ばわりされた。
カレッジでは、さらに酷くなってガリ勉扱いされた。
今でも夢に見る。
「なんで、俺はここにいる?」
ネイサンはハンドルを叩いた。
「なんでカリフォルニアのド田舎を走っている?」
いけない。
深呼吸しなければ。
大きく深呼吸をした。
信号待ち。
赤信号が長い。
ダメだった。
…抑えられそうにない。
ハンドルを指で小刻みに叩く。
貧乏ゆすりまで始まった。
こうなったのも全部、ソビエトのせいだ。
根性無しどもめ。
東西冷戦。
昔は良かった。
敵がはっきりしていた。
だから、祖国を守りたいと一念発起した。
勉強も筋トレも頑張った。
陸軍に入って、CIAに雇われた。
ラングレーのCIA本部に初めて行ったときは涙が出た。
それなのに。
いきなり敵がいなくなるなんてあってたまるか。
そう、ここ数年嘆き続けてきた。
プッ。
前の車が遅い。
クラクションを鳴らしてやった。
早く行けよ。
前の車が道を譲った。
その横をポルシェの車体が滑らかに走り去る。
落ち着け、安全運転だ。
イライラしてはダメだ。
ネイサンはため息をついた。
…元はと言えば。
ソビエト――東ドイツ。
あいつらの言い間違いのせいで、あの壁が崩れた。
ベルリン。
目の前で見ていた。
敵がいなくなった。
予算も減った。
情熱も失った。
それでも、ずっと耐えた。
そして、昨年。
限界が来た。
ラングレーに愛想が尽きた。
ポルシェは曲がり角を曲がった。
見晴らしのいい一本道に出た。
徐々にアクセルを踏む。
ブラックストームに来たのは単純だった。
給金がラングレーよりも高かった。
父の故郷である日本で勤務できると聞いた。
そして、募集要項の文字。
企業設立のノウハウ。
企業設立。
ベルリンで心血を注いでいた。
カバー・カンパニー。
現地工作員の表の顔。
作戦用機材の調達。
資金洗浄。
任された会社はその三つができればいいと言われていた。
同僚は誰もやりたがらなかった。
外れくじのはずだった。
だが。
楽しかった。
会社の枠組みを決め、人の適性を見て配置する。
限りある予算からできることを探っていく。
ゴルバチョフが何を考えているか。
そんな事を分析する本業より遥かに楽しかった。
気づけば、赤字上等だった会社は利益を上げ始めた。
多角化し、大使館に売店を出すまでになった。
現地で偽装結婚はしたことがあるが未婚。
子供はいない。
ただ、我が子が初めて立った時の親の気持ちが分かったような気がした。
それなのに。
冷戦が終わった途端、解散させられた。
十数年暮らしたベルリンから引き揚げた。
ラングレーの血の通わないオフィス。
新しい仕事は日本の政治状況の分析。
そして。
湾岸戦争の戦費をどうやって出させるか。
そんな仕事だった。
よりにもよって第二の祖国を、財布にすることを考えろだと?
ふざけるな。
アクセルを踏み込む。
エンジンがうなりを上げる。
加速が心地良い。
良い音だ。
この音と美味い酒が俺を癒してくれる。
あーあ、綺麗な奥さんも欲しいんだけどなぁ。
…忘れよう。
「かっ飛ばすぜ――」
その刹那。
サイレンが鳴った。
やっべ。
バックミラーを見た。
ポリスカーだった。
「ああ、やっちまった…」
16マイル超過。
罰金は270ドルだった。
財布に風穴が空いた。
痛い。
かなり痛い。
やっとポルシェのローンを返し終わったというのに。
「経費で落ちないかな?」
無理だろう。
生き馬の目を抜くような民間だ。
ラングレーより甘くはない。
それよりも…。
「これも上司に報告しないといけないのか?」
声が裏返ってしまった。
止めておこう。
何を言われるか分からない。
よりにもよって、法律違反だ。
下手をすると拷問されるかもしれない。
もう嫌だ。
上司。
とんでもない上司。
『ネイサン、君の新しい上司を紹介します』
先月。
日本法人東京本社の会議室。
ヨシノは淡々としていた。
ネイサンはドバイから呼び戻されたばかりで、時差ボケが残っていた。
あまりにも急だった。
『上司って、カウ副社長に話は――』
ヨシノが遮った。
『勿論、通しました。入ってきてください』
ドアの外から堅い足音がした。
ドアが開いた。
女だった。
白い肌。
銀髪。
後ろで一本にきっちりと束ねている。
紺のビジネススーツ。
身体の線に沿った、仕立ての良いものだった。
すらりとしていて、顔立ちは整っている。
文句のない美人だった。
ただ、表情がない。
ローファーの足音がするたびに、結んだ髪が小さく揺れた。
女が近づいてくる。
顔がよく見える位置まで来た。
目尻に皺がある。
加齢?
いや、見た感じ三十前だろうか。
女と目が合った。
険がある。
冷ややかな視線とともに、目尻の皺が深くなった。
ああ、なるほど。
特徴。
性格に難あり。
女が口を開いた。
『…何か失礼なことを考えていませんか?』
おかしい。
工作員とまではいかないが、それなりに訓練はしてきた。
何故読まれた?
『いえ、そんな滅相もございません! ネイサン・ヒロカワです。よろしくお願いいたします』
ネイサンが頭を下げる。
声が降ってきた。
『LAMPチーフアドバイザーのスタシア・ラマーノフです』
げっ、ロシア系…。
いや、差別は良くない。
ソビエトは滅んだ。
今は飲んだくれが支配する愉快な国だ。
だが、気持ちは複雑だった。
待てよ?
ラマーノフって。
あの?
『ガールスカウト…とか思っていませんよね?』
なんで分かる。
社内の噂話にたびたび登場する女。
ガールスカウト。
リーガルモンスター。
窓際の星。
あとなんだっけ。
『とんでもございません!』
勢いよく頭を上げた。
『なら、結構。これから、あなたは私の指揮下に入ります』
スタシアは満足げに顎を上げた。
こういう手合いには逆らわない。
学生時代の経験が活きていた。
『指揮下って…。ラマーノフ、君は間に入るだけで、全体の指揮権はジョニーが――』
ヨシノの声は小さい。
『何か仰いましたか?』
スタシアの声が矢のように刺さった。
ヨシノが息をついた。
『いや…なんでもない』
そしてネイサンの方を向いた。
『ネイサン、これからは、チーフアドバイザーの指示を仰いでください。やりかけの仕事はなんとかします』
そんな。
入社してからは副社長のカウの下にいた。
副社長とは思えない面倒見の良さだった。
車の趣味でも話が合った。
カウから任せられたのは、中東の原油市場を調べる仕事。
1年足らずだったが、やりがいがあった。
嫌だ。
モンスターの下は嫌だ。
前の仕事に戻してくれ。
『はい、わかりました』
意志に関係なく言葉が出る。
上官の命令は絶対。
陸軍なんて行かなきゃ良かった。
『安心しました。では、私はこれで』
ヨシノが踵を返してドアに向かう。
待って。
行かないで。
一人にしないで。
『そうでした』
ドアを開けたヨシノが振り返った。
『ラマーノフ、我々には後がありません。シールに無礼を働かないように教育的指導を』
教育的…指導?
ヨシノはスタシアを指差す。
『それと、分析官の件とは別に役員派遣の了承も取ってください。手段は問いません』
手段を問わない。
拷問も許可ってこと?
ブラック・オプス?
は?
『分かっています』
スタシアの声には怒りが混じっていた。
ヨシノはそのまま退出していった。
モンスターと二人きりになった。
目が合った。
目が据わっていた。
『では、これからのことを話しましょうか』
そう言ってモンスターは椅子を引いた。
乱暴だった。
ポルシェはガソリンスタンドに停まった。
パロアルトまで目と鼻の先。
パロアルト。
Gagoyleは事業拡大に伴ってメンローパークから本社を移していた。
駐車場には日よけはない。
ネイサンはエンジンを切った。
静かになった。
「暑い…」
冷房が止まると同時に、カリフォルニアの熱気が襲ってきた気がした。
腕のロレックスを見た。
十六時十五分。
さっさと用事を済ませなければならない。
ネイサンは車から降りた。
スタンドの奥。
小さな売店の軒下に公衆電話機が見えた。
炎天下を歩き始めた。
電話。
シールへの電話。
スタシアから仰せつかった任務は二つ。
一つ。
外部役員としてGagoyleに潜入する。
そこで学生たちの経営を補佐すること。
正直、楽しみではあった。
きっと、おままごとのような企業経営なのだろう。
それでも、企業経営ができるなら、石油市場の調査を投げ出した甲斐もある。
虐めてこない学生だったらいいなぁ。
公衆電話機の前にたどり着いた。
ポケットからメモを取り出す。
番号が書かれたメモ。
もう一つの任務。
コードネーム、シール。
Gagoyleのパトロン。
その人物からの指令に基づき、調査、分析をすること。
無用な詮索はしないこと。
舐められないこと。
スタシアがやたら強調していた。
気を許すな。
すけこましのクソ野郎だ。
とんでもない男だ、と。
とんでもないのはアンタだよ。
やっぱり指導ではなかった。
ヨシノが戻ってきて、助けてくれるまで二時間も尋問された。
訓練以外であそこまで尋問されたのは初めてだった。
受話器を取って硬貨を入れていく。
シール。
ブラックストームにとって最重要の情報提供者だと聞いた。
シールの周りに不穏な兆候があれば守れとも。
詮索せずにどうやって守れと言うのだ。
「ラングレーも万能じゃないんですぅ」
思わず零れた。
メモを見ながら番号を押す。
最重要の情報提供者。
心臓の鼓動が高鳴る。
要は大物工作員だと思えばいい。
コール音がする。
ずっとやってきたことじゃないか。
そして。
コール音が途切れた。
『はい』
低い女の声だった。
…。
シールは男のはず。
番号を間違えたか?
「こちらシールの番号で合っていますか」
『はい、合っていますよ』
丁寧な英語。
クイーンズ・イングリッシュ。
日本の官僚が話す英語のようだ。
「貴女は?」
『申し遅れました。シールの妻のユーリヤです』
ユーリヤ。
またロシア系か。
ん?
シール。
アザラシ。
北海。
ロシア。
まさか、ロシア絡みか?
FSB。
SVR。
ロシア情報組織の名が頭の中を駆け巡る。
入る前に一通り調べたはず。
ブラックストームにロシアの影など一切なかったはずだ。
「これは失礼しました。私、新たに着任いたしました情報分析担当のネイサン・ヒロカワと申します。シールとお話をしたいのですが…」
最重要の情報提供者が電話に出ない。
怪しげな女が応対に出る。
まさか消されているんじゃ…。
『夫は夏風邪で寝込んでいます』
夏風邪。
何かの暗号か。
いや、落ち着け。
ここはベルリンでも冷戦下でもない。
一般企業だ。
本当に風邪かもしれない。
「さようでございますか、それは大変ですね。本日お電話するように言われていたのですが、日を改めましょうか?」
『ご丁寧にありがとうございます。私が代理対応します。そのために学…仕事も休みましたので。ほんと困った人ですよ』
女はオホホと笑う。
妻と名乗るロシア人。
本人の声は聞こえない。
詮索してもいけない。
この女を相手に話して良いのか。
ネイサンは額に手をやった。
受話器を落としそうになった。
上司の指示を仰ぐべきか。
ラングレーなら。
消されたとみて自然に電話を切るのが妥当だ。
しかし、本当に風邪だったら?
あの上司の逆鱗に触れたら?
また尋問される。
「分かりました。ユーリヤ様、よろしくお願いいたします!」
『こちらこそ。早速ですが、一つ調べてほしいことがあります』
「お伺いします」
政治動向か。
経済分析か。
はたまたスキャンダルか。
『各国の2000年問題に対する点検手順を調べてほしいです』
へ?
ニュースでやってるY2K問題?
ホワイトハウスに評議会ができたり大事にはなってるけど?
「ユーリヤ様、Y2K問題の点検手順でございますか?」
『ええ、我々が使用しているコンピュータをその手順で確認し、問題があればベンダーに相談したいと思っています』
「コンピュータと仰ると、スーパーコンピュータのようなものですか?」
コンピュータならラングレーでも散々使った。
だが、わざわざ聞いてくるということは特別なものだろう。
…NSAに聞いてもらった方が良い気がしてきた。
確かNSA上がりもいたはずだ。
『いえ、市販品です』
「そんなこと…」
そんなことは街の電気屋に聞いてもらった方が良いですよ。
口に出しかけた。
マシな言葉が出てこない。
沈黙が続く。
電話口の雰囲気が変わった気がした。
『そんなことをCIA上がりのあなたにお願いするのは失礼かな? やる気が出ない?』
女の声は冷たい。
さっきとは別人のようだった。
なんだ急に。
「いえ…」
『西ベルリンでは随分とご活躍だったと社内資料にはあったけど、期待しすぎたかな?』
背中に汗が流れた。
暑さではない。
いきなり殴ってきた。
いや、噛みついてきやがった。
気を許すと喰われる。
直感が告げていた。
「滅相もございません! すぐに取り掛からせていただきます」
『そう? 期待してるね。夫も快方に向かっているし、すぐ読みたがるだろうから…』
低い声に甘さが混じる。
『うーん…三日。三日で主要国の手順をまとめてね』
「え?」
三日?
気まぐれで三日?
『何?できないの?』
声の温度が氷点下まで下がった。
あ。
あ。
あの尋問だ。
同じ匂いがする。
「喜んでやらせていただきます!」
声が上擦るのが分かる。
『助かるよ。調査レポートは既に伝えているメールアドレス宛に送ってね』
「はい」
『これから、Gagoyleの二人に会いに行くと聞いてるけど、二人の邪魔はしないようにね?』
「はい」
ダメだ。
舐められちゃダメだ。
だが、逆らえない。
隙がない。
『それからね…』
まだあるのか。
『夫だけコードネームがあるのもズルいよね。私にも何か付けてよ』
女の笑い声。
なんだそれは。
コードネームを欲しがる。
子供か?
遊びじゃねぇんだぞ。
「えーっと…」
『何? 不満?』
「いえ…」
あぁ、従わないとまずい。
コードネーム。
活動地域や担当領域を示す2文字のアルファベット。
それと適当な単語の組み合わせ。
それがCIA仕込みだった。
日本のコードはPOだから…。
POCAPON。
…ダメだ。
ポカポンなんて名付けた日には何をされるか分からない。
そんな気がした。
シール。
アザラシ。
直感的には…シャチ…オルカ。
獰猛な歯でアザラシを食べている光景が浮かぶ。
却下だ。
時間と思考力が欲しい。
『かっこいいのが良いなぁ。CIAなんだからセンスもいいでしょ?』
この我儘女王様め。
…おや?
女王様。
クイーンズ・イングリッシュ。
露骨だ。
だが、ご機嫌を取りに行くしかない。
プライドなぞ、ラングレーに入った時に捨て去ったわ。
「コードネーム、クイーンで如何でしょう?」
『クイーン…クイーンかぁ』
ダメか。
ダメならオルカしかない。
『シンプルだけど良いね。気に入った。いいセンスだよ』
声が柔らかい。
良かった。
本当に良かった。
「クイーン、他にご用はございませんか?」
もう許してほしい。
この後、学生の相手も残ってるんだ。
『ええ、ジャック。用はそれだけだね』
「ジャック? 私はネイサンですが…?」
まさか。
『ネイサンは本名でしょ? あなたにもコードネームが要るだろうからジャックね。CIAと言えばジャックでしょ』
電話口でクスクスと笑い声がする。
ジャック・ライアンっぽくないね。
CIA上がりだと知られると、決まって言われる。
カウにまで言われた。
耳にタコだった。
ハリソン・フォードなんて大っ嫌いだ。
乾いた笑いが出た。
「ありがとうございます」
反射的に口が動いた。
楽しそうな声が電話口から聞こえてくる。
『それに私がクイーンなら、ジャック、あなたは一兵卒。存分に働いてね?』
トランプの模様が浮かぶ。
スペードのクイーン。
俺はハートのジャックか。
「はい、精進致します」
疲れた。
『上司には私の事は伏せておいてね。代理と話したってバレたらそっちも面倒でしょ?』
「ご配慮ありがとうございます」
よく気が回ることで。
『じゃあ、ジャック。これからもよろしくね。バーイ!』
慌ただしく電話が切れた。
受話器を置いた。
硬貨が戻ってくる音が夕方のガソリンスタンドに響く。
モンスター上司。
それにオルカめ。
ソビエトよりも質が悪いかもしれない。
そう思った。
基本的には好き勝手に書いております。
ただ、評価をいただくと露骨に喜ぶ程度には俗物です。
「面白かった」「続きも読みたい」と思っていただけましたら、ページ下部の☆評価で応援いただけると、たいへん筆が乗ります。
よろしくお願いいたします。




