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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第三章 1999年 Revenger,again
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第十九節

 5月15日。

 雨は昼過ぎに上がっていた。

 大阪平野の西から入った湿った風は、町工場と住宅の屋根を越え、生駒山の西斜面へ流れ込んでいる。

 斜面に沿って押し上げられた空気は、稜線の上に低い雲を残した。

 陽が差すたび、商店街の舗道が白く光った。

 松永理髪店の軒樋から、雨水が一定の間隔で落ちていた。

 ショキ。

 ショキ。

 ショキ。

 鋏のリズムが心地よい。

 鏡の前の頭が軽くなっていく。

 ずっと頭が暑かった。

 メリット・フィッチとの会食。

 いかにも嫌なガキを演じて、威圧する。

 ユーリと立てた作戦の一つ。

 そのために、これから暑くなるというのに髪を伸ばした。

 そして、七三分けで臨んだ。

 これで肩の荷が下りる。

「ぼん」

 耳元で声がした。

 渋い声。

「おっちゃん、どうしたん?」

 松永理髪店の店長。

 松永のおっちゃん。

 無口なオヤジ。

 髪を切ってるときは特に喋らない。

 めずらしい。

 何かしてしまったか。

 頭を動かそうとした。

「あ、動かんでええ。ちょっと用事や」

 松永は鏡越しに、後ろの待合席で待つ富田に顎を向けた。

 富田の手にはネズミーランドの土産の包みがあった。

「土産貰っといて悪いんやけどな」

 松永が櫛で遼太郎の毛先を揃える。

「ぼんに頼みがあるんや。聞いてくれへんか?」

 頼み?

 ここには高校卒業まで通った。

 その間、松永から頼み事などされた事はなかった。

「ええで、ほんまおっちゃんが喋るの珍しいな」

「わしかて人並みに喋るわ。喋る用事があらへんだけや」

 松永はシェービングクリームの入った器を持ち上げた。

「ぼん、お前パソコン詳しいやろ?」

 前職は会社員。

 木っ端SEだった。

 何故知っている?

「何で知ってんの?」

 松永はシェービングクリームをブラシで捏ねている。

「お前、前に来た時に外人の子と日本橋とかパソコンとか言うてたやろ」

 そういえば。

 日本橋のデート。

 その前にユーリを伴って切りに来ていた。

 椅子のリクライニングが倒される。

 頬にブラシがあてられた。

 顔中に塗られる。

 クリームの温さが伝わる。

「おっちゃん、よぉ覚えとるなぁ」

 松永が剃刀を手にした。

「おう、記憶力は自信あるんや。喋るなよ。危ないから」

 顔を剃り始める。

「店で売り上げの管理とか発注の管理に使うてるパソコンがあるんや」

 頬の産毛が剃られてスッキリしていくのを感じた。

「テレビで2000年問題とか言っとるやろ。来年なったらパソコン動かんようになるとか言うとるやつや」

 瞬く間におでこを残すのみとなった。

「動くなよ。眉毛無くなるで。時間ある時でええから見てほしいんや」

 …おっちゃん、眉毛が人質や言わへんよな?

「突然動かんようになるんが困るだけや。直せとは言わへん。買い替えるか決めたいだけや」

 剃刀の刃が眉毛の横をかすめる。

「タダとは言わへん。…よっしゃ、終わった。頭洗うぞー?」

 起き上がって鏡を見た。

 眉毛は無事だった。


「お代は要りまへん」

 ガマ口財布を出そうとすると、松永が手で制した。

 無料?

 あれ?

「おっちゃん、子供料金は2400円やろ?」

 松永の口元が緩んだ。

「ぼん、分かってへんな。さっきのパソコンの件の手付金代わりや。まけといたる」

 受けるとは言っていない。

 昔から強引だとは思っていた。

 強引すぎるやろ、おっさん。

「調べるだけでええんやな?」

「そうや。報酬は…どうしよか」

 松永が顎に手をあてる。

「剛三の育毛トニック代タダにしたろか」

 ちょっと待ってや。

「おとん、育毛トニック塗ってんの?」

「おう、髭の手入れの後に毎回塗ってくれ言うとるわ」

 初耳だった。

 髭の手入れで通っているのは知っていた。

『髭も剃ってもらったら床屋代浮くんやけど』

 母が零していたのを覚えている。

 その陰で育毛に励むとは。

 見損なったぞ、剛三。

「ほんま往生際悪い奴やで」

 松永がクックッと笑った。

「まぁ、その代金、10回分タダにしたるわ」

 育毛トニックっていくらやろか。

 縁が無いので分からない。

 後ろを振り返った。

 富田を見た。

 額に指を当てている。

 何か考えているようだった。

 富田兄ちゃんでも分からんやろうな。

 …まぁ、一回1000円でも1万円か。

 着手金含めて12400円。

 安すぎる気がした。

 だが。

 子供のアルバイトにしては上出来だ。

 それに。

 眉毛に手をあてた。

 次回からの眉毛の安全を買えるなら…。

 十分な気がしてきた。

「おっちゃん、分かった。やるわ!」

「ありがとうな。助かるわ。 富田君もなんやったら次回タダにしたるからよろしく頼むで!」

 富田が会釈をする。

 松永の顔は綻んでいた。

 普段は見ない顔。

 大盤振る舞い。

 よっぽど困ってたんやな。


 松永理髪店を出た。

 遼太郎の手にはハイチュウが握られていた。

 店を出る時に松永が握らせてくれた。

 いつもの飴玉とは大違いやんけ。

 ハイチュウ…。

 歯にくっつくから苦手やねんな…。

 事務所においておけば誰かが食べるだろう。

 富田と連れ立って家路につく。

 商店街のある通りに差し掛かった。

 八百屋。

 模型屋。

 喫茶店。

 鮮魚店。

 花屋。

 酒屋。

 肉屋。

 クリーニング屋。

 商店が立ち並ぶ。

 風が吹いた。

 どこからか香ばしい匂いが流れてきた。

 肉の盛田屋のコロッケ。

 この匂いは間違いない。

 口がコロッケになった。

「富田兄ちゃん」

 隣を歩く富田に話しかけた。

「なんですか若」

 声は柔らかい。

「コロッケ食いたない?」

 その瞬間、富田が笑いだした。

「この匂いがしてきた時に言いそうだと思ってました」

 読まれていたらしい。

「良いですよ。事務所にも買って帰りましょうか」

「せやな、個数は俺とユーリと富田兄ちゃんと栞姉ちゃん――」

 富田が口を挟む。

「若、栞と先生は午後も練習ですよ」

 そうだった。

 とうとう始まった突き対策練習。

 普段の練習の後。

 門下生が帰った後の特訓。

 栞はわざわざ下段から突きを打ち込む練習も始めたらしい。

「熱々やのに勿体ないなぁ」

 全員分買ってレンチンしてもらおか。

 富田が手を叩いた。

「若。買ったら、二手に分かれましょう。僕が道場まで差し入れしてきますよ」

「ええのん?」

「はい、そうしないと栞に何言われるか分からないので」

 やだ、可哀想。

 他人事のような感想しか出なかった。

 本当にコンプラ研修をすべきかもしれない。

「じゃあ、お願いしよかな」

「はい、任せてください。あ、その前に若に聞きたいことがあるんです」

「何?」

 聞きたい事?

「2000年問題って結局何ですか? さっきからずっと考えてるのですが、松永さんと同じくテレビでしか知らなくて…」

 中々難しい質問だった。

 勿論、勉強して言葉は知っているし原理は知っている。

 それでも、当事者ではない。

 イメージが伝わるだろうか。

 できるだけ簡単に。

「えーと、昔のコンピュータは年を西暦四桁やなく下二桁だけで持っとる場合があるんや」

「昔の…今のコンピュータですよね? 昔…ああ、そういうことですね」

 富田が相槌を打つ。

 富田君、なにが『そういうことですね』やねん。

 勘のいいガキは嫌いだ。

 どうせ中身はおじさんですよー。

 三十四歳。

 この時代に戻って二年。

 三十六歳かもしれない。

 商店街の中を進む足取りは重い。

 いけない。

 老いは気から。

 俺は永遠の三十四歳。

 四捨五入で三十歳。

 ちゃう。

 七歳や。

 気にしてはいけない。

「で、下二桁の99の次が00になった時、2000年やなく1900年と判断する可能性があるんやな」

「それでパソコンが壊れたり、動かなくなるんですか?」

 富田が首を傾げる。

 そうだ。

 そこが伝わらないのだ。

「壊れるっちゅうより、計算とか判断を間違える可能性があるんや」

「判断?」

「例えばやで。金借りて、返す日が2000年の1月やったとするやろ?」

「はい」

「コンピュータの中では、それが00年1月になっとるとする」

 富田が頷く。

「ほんで、今が99年や。普通なら来年やろ?」

「そうですね」

「でも00年を1900年やと判定されたら?」

 富田の足が少し遅くなった。

「……返済期日が100年前になってしまう?」

「そういうこと」

「若、理解できましたよ!」

 富田君、よくできました。

「返済日まであと何日とか、利息がいくらとか。日付を使って計算しとるもんは、おかしな数字が出る可能性がある」

「なるほど」

「商品の期限でもええ。契約期間でもええ。年齢でもええ。新しい日付と古い日付を比べる処理は山ほどあるからな」

 富田が腕を組んだ。

「じゃあ、パソコンそのものが動かなくなるわけじゃないんですね」

 うーん。

 富田君、やっぱり補習かも。

「そこがややこしいねん」

 肉の盛田屋が見えてきた。

 揚げ物の匂いが濃くなる。

「何も起きへんやつもある。表示だけ変になるやつもある。計算間違えるやつもある。途中でエラー吐いて止まるやつもある」

 富田の表情が曇る。

「機械によって違う?」

「使ってるソフトにもよるし、日付の持ち方にもよる。せやから――」

 店先に並ぶコロッケに目が吸い寄せられた。

 揚げたて。

 衣が油を弾いている。

「松永のおっちゃんのパソコンも、直接確認してみな分からん」

 富田が頷いた。

 確認、か。

 確認して引っかかれば、どうする?

 ベンダーに連絡しかないか。

 木っ端SEが直せたら誰も苦労はしない。

 確認手順。

 テスト仕様書。

 いや、確認チェックシートだろう。

 項番。

 確認対象。

 テスト操作、手順。

 期待される結果。

 確認結果の〇×。

 その程度の項目。

 テストは…。

 基本的にはPCの時間を弄って確認。

 BIOS側。

 OS側。

 アプリ側も見ないといけない。

 閏年もやらないと。

 テスト前のバックアップは?

 この時代って全部フロッピーか?

 磁気テープちゃうやろな?

 嘘やろ?

 あかん。

 腰を据えて考えなあかん。

 恐るべしY2K。

 …いや。

 チートがあるやんけ。

 知識チート。

 頭痛と吐き気を催す無用の長物。

 チートに聞けば万事解決する。

 遼太郎は口元を緩めた。

 …コロッケ。

 今はコロッケや。


 買ったコロッケは、二つの袋に分けてもらった。

 持った手から熱が伝わる。

 歩くたびに袋が揺れる。

 揚げたての匂いが鼻腔を突く。

 もうすぐ、八城神社方面と自宅方面との分かれ道に差し掛かろうとしていた。

「若」

 富田が後ろから声を掛けてきた。

「さっきの2000年問題の件、僕にも何かお手伝いできませんか」

 その声には、何故か恥じらいが混じっているように思えた。

 手伝い。

 手順を作るのは知っている人間しかできない。

 だが、実際に操作する人間。

 テスターなら任せられるかもしれない。

「ええで。手順書は俺が書くから、富田兄ちゃんには、それで実際に試験してもらおうかな」

「僕がやっていいんですか?」

 富田の声は上擦っていた。

「勿論。ただ、俺が書く手順書は完璧やない」

 富田の細い目が見開かれる。

 お、珍しい。

「富田兄ちゃんが読んで疑問に思う箇所とか、実際に…まずは事務所のパソコンで試すときにおかしいと思うところがあるかもしれへん」

「若に限って、そんなことはないでしょう?」

 俺はどんな信用やねん。

「絶対はあらへん。せやから、富田兄ちゃんには試しながらミスとかに気づいてもらいたいんや」

 チートも粗があるかもしれへんしな。

 分かれ道に着いた。

 富田の顔を見据えた。

 目を見開いたままだった。

 雑用だと捉えられていないだろうか。

 不安だった。

「実際にやって、気づいて、メモして、指摘する。結構大事な作業やねん。できそう?」

 沈黙。

 そして。

「はい!任せてください!」

 富田は笑っていた。

 満面の笑みだった。

 テスター。

 俺は嫌やったけどなぁ。

 喜んでやってくれるなら有り難い。

「では、差し入れ行ってきます!」

 そう言って富田はコロッケの入った袋を掲げた。

 そして八城神社に向かって駆けて行く。

 袋の中でコロッケが跳ねていた。

基本的には好き勝手に書いております。

ただ、評価をいただくと露骨に喜ぶ程度には俗物です。

「面白かった」「続きも読みたい」と思っていただけましたら、ページ下部の☆評価で応援いただけると、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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