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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第三章 1999年 Revenger,again
82/90

第二十一節

 7月5日。

 午後四時。

 大阪平野へ入り込んだ湿った南風が、生駒の山際で低い雲を作っている。

 昼過ぎまで降っていた雨は、とうに上がっていた。

 西の空は明るい。

 生駒の山肌にはまだ灰色の雲がまとわりつき、稜線を隠している。

 濡れた屋根や路地から湿気が立ち、町工場の間にはむっとする空気が残っている。

 西尾興業事務所。

 二階。

 窓は開けられていた。

 網戸越しに入ってくるのは湿った風と、近くの町工場が立てる機械音ばかりだった。

 窓の下の大きな机。

 社長席に遼太郎は腰かけていた。

『リョウ君、風邪は大丈夫かい?』

 電話口のジョニーの声には、いつもの軽さがなかった。

 PHSのスピーカー越しでも分かった。

「ああ、大丈夫だ。土日で全快して、今日は学校にも行ったよ」

 気が緩んだ。

 緩み過ぎたのか。

 四日前。

 木曜日の朝、目が覚めたら発熱していた。

 高熱だった。

 この時代に戻ってから、喉風邪、鼻風邪、微熱はあった。

 だが、あそこまでの悪寒と熱は無かった。

 会社員時代。

 新型コロナ以来だった。

『安心したよ。ユーリちゃんに電話貰った時は気が気でなかったよ』

 ソファに目をやるとユーリと目が合った。

 手にはファッション誌があった。

 さっきまで寝転んで読んでいた。

 名前が出て起き上がったらしい。

「すまなかったな。ユーリにも迷惑を掛けた。かなり叱られたよ」

 ジョニーの笑い声が響く。

 ユーリがソファから立ち上がった。

 鼻息が荒い。

 とことこと歩いてくる。

 可愛いなぁ。

『マーケットの方は、前に教えてもらったリスクに注意していれば大丈夫そうだね』

「そ、そうだな」

 ユーリが同じ椅子に座ろうとしてくる。

 合皮が、ぎしりと鳴る。

 くっつきたいんか。

「前にも言ったが、FRBの動向に気を付けろ。もう少ししたらもっと余計なことをやる。ドットコムバブルに冷や水を浴びせに来るからな」

 ユーリが膝の上に収まった。

 目の前の銀髪からは良い匂いがする。

 腕を前に回す。

 その腕をユーリが優しく掴んだ。

 そのまま、ユーリが体重を預けてくる。

 丁度いい抱き心地。

『ありがとう。そういえば、ネイサンとは話せたのかい? 本人からは問題なしとしか報告受けてないけど、寝込んでたのに大丈夫だった?』

 大丈夫。

 ちょっと重い。

 最近、ユーリに身長で並ばれた。

 成人した自分の身長は175cmだった。

 有理――ユーリも同じくらい。

 この世界でも、二人はそこまで伸びるのだろうか。

 そう考えていると目の前で指がちらついた。

 ユーリがOKサインを作っている。

「ああ、誠実なおじさんだったな。大丈夫だったから安心しろ」

 話してないけどな。

 ユーリが代行してくれた。

 代行がスタシアに知れれば面倒だと、ネイサンに口止めまでしてくれたらしい。

 できた女やで。

 指がサムズアップになった。

『良かった。病み上がりみたいだし、ここまでにしようか』

 ジョニーの声は明るい。

「すまんな。そっちも体調気を付けろよ。気張りすぎんなよ」

『ありがとう。無理して遊んじゃダメだよ? それじゃあ、また今度』

「ああ、また今度な」

 電話が切れた。

 その途端、クスクスと笑い声が聞こえた。

「遊んじゃダメだけどお仕事には行くもんねぇ?」

 ユーリは甘い声を出した。

「せや、楽しいお仕事やな」

 十七時になったら。

 松永理髪店のパソコン確認業務に向かう。

 もっと早くにやるつもりだった。

 机上に散らばった書類に目をやった。

 チートがあんなに使えない代物だとは思わなかった。


 松永理髪店で依頼があった日の夜。

 子供部屋。

 家族が寝静まったのを見計らって、チートを試そうとした。

 枕元にはメモ用紙とペン。

 それに吐き気に備えてビニール袋も用意した。

 眉間に人差し指をあてて問いかけた。

 2000年問題の確認手順は?

 そうすると頭の中に流れ込んでくる感覚。

 勝ったと思った。

『日付を変更し、問題が発生しないことを確認する』

 …うん。

 それは分かっている。

 手順や。

『コンピュータ内部の日付を変更する』

 だから、それは分かっとるんや。

 もっと具体的な手順を。

 BIOSは?

 OSは?

 アプリは?

 閏年は?

 問いを変えた。

 細かくもした。

 返ってくるのは、日付を変更して問題が起きないことを確認しろという答えばかりだった。

 一時間粘った。

 堂々巡りだった。

 吐き気は起きなかった。

「てめーで考えろって事かいな。親切なんは金だけか、ボケが」

 失望を吐き出した。


 なんとなく分かってはいた。

 あのチートは試験で東大に入れても、卒論を書いて東大から卒業できる力ではない。

 結局、自分で夜な夜な考えた。

 思えば、それも風邪を引いた原因だったのかもしれない。

 それとも。

『ボケが』

 バチが当たったのかもしれない。

 チート様、ごめんなさい。

 机上の紙の束を手に取った。

 赤で斜線やコメントが殴り書きされている。

 手順書の下書きだった。

 富田兄ちゃんにテスター任せて正解やったわ。

 富田は粗や矛盾を潰していってくれた。

 いい仕事をしてくれた。

 それでも。

 手順書に自信が持てなかった。

 裏付けが欲しかった。

 紙の束の隣。

 プリントアウトされた資料に目を落とす。

 ネイサン・ヒロカワ。

 本当に凄腕らしい。

 アメリカ。

 イギリス。

 フランス。

 国のみならず。

 マイクロソフト。

 IBM。

 インテル。

 富士通。

 NEC。

 各社の点検マニュアルを3日で集めてきた。

 電子メールには各資料の注意点や注釈も添えて。

 それらの資料と突き合わせて手順書を仕上げたのが昨日だった。

 病み上がりの仕事には慣れている。

 乾いた笑いが漏れた。


「ふん、ふん、ふーん、ふーん、ふーん、ふん、ふん、ふ」

 ユーリが鼻歌を歌っている。

 第九だった。

 回した腕に力を入れる。

「ありがとうなぁ」

 代行をしてくれた。

 学校も休んでくれた。

 看病をしようとしてくれた。

 うつったらあかんと、帰るように言った。

 それでも、スタシアが迎えに来るまで傍にいてくれた。

 手がユーリの頬に触れた。

「ううん、遼ちゃんだって前にウチが寝込んだ時に来てくれたじゃん」

「お前のマンションまで雑炊作りに行ったなぁ」

 雑炊だけじゃない。

 食材を大量に買い込んで。

 頑張って料理をした。

 数日分の作り置きまでした。

 こう見えて料理は得意なのだ。

「うつってへんか? お前も無理すんなよ」

 ユーリが振り向いた。

 目を見開いている。

「この身体さ」

 身体?

「全然風邪ひかないの」

「はぁ? それもチートか?」

「分かんない。けど、風邪ひかないなって最近気づいただけ」

 もし、それもチートだとしたら。

 おいおい。

 ふざけんなよ。

 俺が看病できへんやんけ。

 …しないに越したことはないか。

 風邪をひかない。

「羨ましい…」

 漏れてしまった。

「へへっ。羨ましいでしょ。けどね、花粉症にはなるの」

 ユーリが肩を落とす。

 今年の花粉も酷かった。

 確かにユーリはティッシュ箱を抱えていた。

「チートも杉には勝てへんねやな…」

 やっぱり杉は滅ぼさんとあかんわ。


 午後四時半を回ったころ。

 窓からは涼しい風が入りはじめた。

 二人は眠気に襲われていた。

 社長席に二人で座ったまま。

 目の前の銀髪がカクンと動いた。

 落ちたか。

 富田兄ちゃん遅いなぁ…寝てまうで。

 膝の上のユーリの重さが丁度良く感じてきていた。

 目がしょぼしょぼし始めた。

 その時。

 外で車のエンジン音がした。

 このエンジン音は…。

 いけない、思考が…。

「若ー!買ってきましたー!」

 階下から声が響いた。

「にゃ! なになに!?」

 ユーリが飛び起きる。

 ぼやけた眼前に銀髪が迫ってきた。

 そして、包まれた。

 頭突きを食らった。

 それでも良い匂いがした。

「痛ぇ」

「あ、あ、遼ちゃん!ごめん、ウチ寝てた」

 ユーリが素っ頓狂な声を出す。

「ええよ、俺も寝そうになってたし」

 痛みで目が冴えてきていた。

 椅子から降りて窓から外を見る。

 西尾興業のワンボックス。

 そして、ビニール袋を掲げた富田が立っていた。

「CD-Rあったー?」

「ありましたぁ!念のためRWも買っておきました」

「ありがとう!今下りるわ」

 富田君、よくできました。

 作業前のバックアップ。

 その媒体。

 フロッピーを覚悟した時は、どうなることかと思った。

 CDが使える時代で助かった。

 ユーリは火の元と戸締りを確認して回っている。

 事務所のドアの前にはボストンバッグ。

 中には手順書と外付けのCDドライブ。

 そしてバックアップ用のCD-Rの束。

 枚数が少ない。

 昨日の予行練習で使い過ぎた。

 補充分を買ってきてもらった。

 ついに動作確認や。

 遼太郎は、いそいそとボストンバッグを手に取った。


 松永理髪店の待合席の一角。

 ショキ。

 ショキ。

 ショキ。

 髪を切る音がする。

 松永は折り畳み机と椅子を用意してくれていた。

 机の上には紫がかったシルバーのボディが佇む。

 バイオバイオレット。

 SONYの文字。

 VAIOノート 505。

「おっちゃん、えらいかっこええの持っとるよな」

 松永が鋏を置いた。

「かっこええやろ? 持ち運ぶ用事がありそうやったからそれにしたんや」

 言い終わらないうちに、散髪客の肩がびくりと動いた。

「おわっ、松永センセェが喋った!」

 あれ?

 もしかして。

「よぉ見たら盛田のおっちゃんやん」

 肉の盛田屋。

 店主の盛田だった。

 鏡越しに見る小太りの顔。

 いつもコロッケを手渡してくる顔だった。

 ドーナツ状に禿げた後ろ姿では分からなかった。

「おお、西尾のぼんぼんか。毎度!」

 盛田が刈布の下から右手をひょいと出した。

「禿げ、動くなや。毛ぇ散らばるやろ」

 松永が静かに言った。

「客に禿げ言うなや。…さっきから後ろで何しとるんや?」

 盛田が首を動かして後ろを見ようとした。

 弾みで髪の毛が床に散らばる。

「松永のおっちゃんのパソコンのチェックや」

 遼太郎は机を見やった。

 VAIO。

 ゼムクリップでまとめられた手順書。

 CDドライブ。

 CDの束。

 赤ペン。

 ちょうど富田がドライブからCDを取り出していた。

「若、バックアップ終わりました。いつでも始められます」

 富田は手順書に赤ペンでチェックを入れる。

「ありがとうな。ほな、やろか」

 まずは…。

「No.1 BIOSの時刻設定から。手順読み上げるね」

 ユーリがしゃしゃり出た。

 手には手順書のコピーがあった。

「ユーリ、悪いな」

 ユーリがにこやかに笑った。

「ううん。監督作業は慣れてるから」

 そう言って、淡々と読み上げ始める。

 流石、監督官庁様。

 ショキ。

 ショキ。

 鋏の音が始まる。

「ぼんぼん、今は何の作業や?」

 盛田は首を戻されていた。

「パソコンの中の日付を2000年に変えて、不具合出ぇへんか見るんやで」

「ほーん、テレビでやってる2000年問題ってやつか。それでなんも無かったらええんか?」

 盛田の残った毛がどんどん短くなっていく。

「大体大丈夫やな。あとは閏年とか、中のソフトやデータがおかしなってへんかも見なあかんけど」

「なんか、凄いなぁ」

 そう言って、盛田は鏡越しに松永を見た。

「松永センセ、いくら積んでやってもらってるんや? わいの店もやってほしいんやけど」

「企業秘密や。そもそもお前んとこ、パソコンあるんか? 秤で十分やろ」

 松永の口調は軽い。

「失礼やな。これでも商店会長もやっとんねんぞ? 誰も手伝ってくれへんし」

「マーヒーはどうした?」

「あいつ、最近悪い噂聞くから商店会費の勘定とか任せられへんねん」

 盛田が嘆いた。

 マーヒー?

「おっちゃんら、マーヒーって誰なん?」

 松永がゲラゲラと笑う。

「田城や。クリーニングの田城。あと、あの店、閑古鳥鳴いとるやろ?」

 商店街の端。

 普段使わないクリーニング屋。

 田城。

 マーヒー。

 片翼の天使。

 そうか、まだお茶の間にいたなぁ。


 松永がドライヤーをかける。

 さっきまで水滴で光り輝いていた盛田の後頭部。

 今は柔らかい光沢が出ていた。

 ユーリの読み上げは続いている。

 遼太郎は富田のチェックリストを覗き込んだ。

 九割方終わっていた。

 順調やな。

 準備した甲斐があった。

 パタッ。

 後ろから櫛を置く音が聞こえた。

 松永が静かに言った。

「よっしゃ、後は…」

 そして、戸棚から瓶を取り出す。

「禿げ、最後のトニックはどうする?」

 青い瓶だった。

 鏡越しに盛田が顔を歪めている。

「それ、効かへんやん。毎回1500円も払ってたけどインチキやんけ」

 禿げ。

 トニック。

 インチキ。

 10回無料。

 まさか。

 松永を見やった。

 目を合わせてくれない。

「人聞き悪いなぁ。継続は力なりって言うやろ? 根気が足りんから生えへんのや」

「松永センセ、トニック業者からのバックマージンはいくらですかぁ?」

 盛田が笑う。

 松永がバリカンを掲げた。

「うるさい。大人しく塗るか、残った毛におさらばするか選べや」

 これは、嵌められたか。

 そういえば、こういうおっさんやったわ。

 その時、横から声がした。

「若、終わりました」

 富田が手順書を差し出してくる。

 その顔は疲れていた。

「お疲れ!ありがとうなぁ」

 富田の肩を叩く。

「社長、こちらをどうぞ」

 ユーリも手順書のコピーを渡してきた。

 スタシアの声を真似ていた。

「ありがとう。副社長」

 にこやかに返した。

「そこは秘書様でしょ?」

 ユーリが口を尖らせた。

 二部の手順書を見比べる。

 クロスチェック。

 差異はない。

 オールクリア。

 ただ…備考欄。

 これは。

「松永のおっちゃん、終わったで。大丈夫そうやわ」

「ほんまか!」

 松永は刈布を畳みながら声を上げた。

「ただなぁ、帳簿の何か所か、年のとこに『99』って入ってるから直した方がええで」

「ああ、そこかぁ。昔の癖で入れてまうんや」

 松永が頭に手をあてる。

「そんなとこまで見てくれるんやなぁ」

 盛田が顎に手をあてながら近づいてきた。

 ドーナツは整っていた。

「ぼんぼん、その点検は西尾の小汚い事務所行けばやってくれるんか」

 小汚い言うな、おっさん。

 それにしても。

 イエスと答えて良いものだろうか。

 なんだかんだ楽しかった。

 しかし、労力の割には大した儲けにはならない。

 その時。

「事務所までいらっしゃらなくても、私にご相談いただければご対応します」

 富田だった。

 そして、盛田に名刺を渡した。

 おっ。

 やるやん。

「そうやん、富田君と…ユーリちゃんか。今日頑張ってくれたやんな!」

 松永が二人の肩に手を置いた。

「おっちゃん、俺は?」

 俺も病み上がりで頑張ったで?

「ぼん、お前は俺らとべらべら話してただけやんけ」

 そんなぁ。

 ユーリと目が合った。

「ふっ」

 鼻で笑われた。

「富田君、これ」

 松永が富田に何か渡した。

「なんですか。…松永理髪店、回数券!?」

「富田君名義にしてある。5枚あるから使ってや」

「僕で良いんですか? 若やユーリちゃんは…」

「今日の作業だけやなくて調整とかも君が一番頑張ったやん。君が貰うべきや」

「そんな…」

 富田の声に戸惑いが滲む。

 松永の口元が緩んだ。

「その代わり、浮いた床屋代でユーリちゃんにもなんか奢ったれや。ぼんは……どうでもええわ」

 店内が笑いに包まれる。

 酷い、あんまりや。

 ん?

 富田の手元を見た。

 手が震えている。

 視線を顔に移した。

 富田は笑っていた。

 目元が少し潤んでいた。

基本的には好き勝手に書いております。

ただ、評価をいただくと露骨に喜ぶ程度には俗物です。

「面白かった」「続きも読みたい」と思っていただけましたら、ページ下部の☆評価で応援いただけると、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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