第十三節
5月3日。
東京行きの新幹線は、朝日を浴びて新大阪を出た。
窓の外を、摩天楼が流れていく。
灰色の壁。
送電線。
速度が上がるにつれ、一つ一つの形が横へ引き延ばされていった。
ゴールデンウィークの車内は混んでいた。
座席はほとんど埋まっている。
頭上の棚には、鞄や土産物の紙袋が並んでいた。
缶コーヒーの香り。
空調の風。
足元から、車輪の細かな振動が伝わってくる。
窓を区切る影が、一定の間隔で車内を横切っていた。
コンパクトミラーの中には女の顔があった。
三人掛けの中央席は窮屈だった。
自分のテーブルだけでは、化粧道具を広げきれない。
「そっちのテーブルも貸してね?」
隣に座る遼太郎に声を掛けた。
遼太郎は、通路を挟んだ向かい側の二人と話し込んでいる。
富田は通路側、栞は窓側に座っていた。
遼太郎は、片手でOKサインを作った。
ユーリは化粧ポーチを遼太郎のテーブルに広げた。
この顔は気に入っている。
前の顔も整ってはいた。
だが、所詮は男だ。
いくら小綺麗に整えても限界があった。
鏡を見るたびに嫌だった。
遼太郎と二人で映る写真だったとしても。
そこに映った有理の顔が憎かった。
でも。
今は楽しい。
化粧ポーチに貼り付けたプリクラを見た。
遼太郎と自分が変顔をしていた。
写真も何枚撮っただろう。
思わず、笑いが零れた。
ブラシを手に取る。
スタシアから学ぶメイクも楽しい。
『肌が荒れるから、まだ早いでちゅ』
本格的なメイクは教えてもらえない。
それでも、ちょっとしたメイクで十分楽しめた。
だが。
やり過ぎた。
自分の服装を見た。
白のVネックシャツ。
黒のストレートパンツ。
座席のフックには、ベージュのロングトレンチコート。
スタシアとお揃いの服。
服装に合わせて、大人を意識したメイクにした。
つもりだった。
鏡の中にはケバい女がいた。
少女らしさは無かった。
目元の陰影がきつい。
濃いアイシャドウだけでもなんとかしなければ。
ブラシでなじませないと。
…駄目だ。
悪化しかねない。
…どうしよう。
手が付けられなかった。
ふと、隣の遼太郎を見た。
グリーンのジャケット。
白のTシャツ。
グレーのチノパン。
寝癖。
男は楽で良いねぇ。
羨みかけて笑いが出た。
新幹線は、京都へ近づいていた。
京都で降りる客が、早くも棚から荷物を下ろし始めていた。
富田がグリーン車に向かって歩いていく。
革靴の足音。
スリーピース・スーツ。
濃紺のピンストライプ柄。
薄いブルーのドレスシャツ。
富田の背格好は、昔の自分と同じくらいだった。
だから、自分が着ていたようなスーツは絶対に似合うと思っていた。
思った通り、よく似合っている。
ユーリは笑みを浮かべた。
けれど。
せっかくコーデしたのに、この混雑じゃね……。
富田は、人と荷物の間でもみくちゃにされていた。
ゴールデンウィーク真っ最中。
全員まとまって座れる席は取れなかった。
取れたのは、同じ列の四席と、グリーン車の三席だけ。
グリーン車は親たちに譲った。
遼太郎がシートに深く座り直した。
栞と話し終わったらしい。
「剛三さん、大丈夫?」
「おう、早速酔ったらしい。この後の予定は栞姉ちゃんが考えてくれるって」
「剛三さん、昔から弱いもんねぇ」
東京で就職した遼太郎を訪ねて、剛三は何度か上京してきた。
新幹線に乗るたび、決まって酔っていた。
遼太郎と二人、駅で介抱したのが懐かしい。
窓の外では住宅街が流れていく。
「それでも、酔い止めも効かんとか弱すぎやわ」
遼太郎は頭を抱えた。
「気ぃ抜けたからやろか」
それはウチもだよ。
昨日まではどうなることかと思っていた。
新大阪駅での二人は、いつもの剛三と恵だった。
「恵さん、落ち着いたみたいだね」
「まぁな」
遼太郎は顔を上げた。
その表情は柔らかい。
「腹くくって話した甲斐あったわ」
「分かってもらえて良かったじゃん」
本当に良かった。
本当に。
「遼太郎、もう何回も言っていますが」
栞が通路越しに身を乗り出してきた。
「ありがとう」
その顔には安堵が浮かんでいた。
「栞姉ちゃん、もう十分やって。それより大阪帰ったら一緒に特訓するんやろ?」
「ええ。突き対策です」
「無理せんように見てあげてや」
「遼太郎。誰に言っているのですか?」
栞が遼太郎を睨んでいる。
「すいませんでした」
遼太郎は身を縮こまらせた。
「若ぁー」
富田が戻ってきた。
遼太郎が通路に顔を出す。
「おとんとおかん、なんか言ってた?」
「気にするなと言ってました」
富田が席に腰を落とす。
「おとんのことはおかんに任せるか」
「それが良さそうです」
そういえば。
「富田さん、ママはどうしてた?」
「ああ、スタシアさんなら――」
「ユーリ」
グリーン車の方からスタシアが入ってきた。
薄手のトレンチコートが翻る。
「ママ、どうしたの?」
「整えにきました」
そう言って、スタシアはメイクポーチを掲げた。
「遼太郎、どきなさい」
スタシアは遼太郎の前を通ろうとする。
「どかんでも通れるやろ。太った?」
ペチン。
スタシアのデコピンが飛ぶ。
「痛ぇ」
「もう一発行きましょうか?」
スタシアが空で指を弾く。
風を切る音がした。
遼太郎は渋々、膝を引いた。
スタシアは続けてユーリの前も通り、窓際の席に座った。
「ママ、そこ人来るよ」
「大丈夫よ。すぐに直しまちゅからねぇ~」
スタシアはテーブルにポーチを広げた。
ケバいのは事実だ。
正直、助かった。
それでも。
好きな男の前で、親にメイクを直されるのは複雑だった。
数分後。
コンパクトミラーの中には少女の顔があった。
大人っぽさは無い。
「さっきの方が俺は好きやけどなぁ」
遼太郎が顔を覗き込んできた。
「趣味が悪いわね」
スタシアが鼻を鳴らす。
「あぁ~やっぱり薄く整えた方が可愛いでちゅ」
スタシアが頬に軽くキスをしてきた。
恋人に褒められたことを喜ぶべきか。
母親にけなされたことに怒るべきか。
気持ちの整理がつかなかった。
その時、電子メロディが車内に響いた。
『まもなく、京都です。東海道線、山陰線、湖西線、奈良線と、近鉄線はお乗り換えです。今日も、新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございました。京都を出ますと、次は名古屋に止まります』
「もう京都やで。さっさと戻れや」
遼太郎が忌々しげな声を出した。
「うるさいわね。もう戻るわよ」
スタシアはユーリの肩を優しく掴んだ。
「ユーリ、酔ってない? おなか減ってない?」
「大丈夫だよママ。早く戻らないと」
「本当に大丈夫ね?」
「うん」
「何かあったら、富田君や栞さんに言うのよ」
そう言って、スタシアは富田と栞に会釈をした。
二人も会釈を返した。
スタシアが通路に出る。
「それと、遼太郎。明日、狸オヤジに何を言うか考えておきなさい」
「俺が仕切ってええんか?」
「私の立場は微妙なの。下手すると利益相反になる」
ブラックストームと西尾興業の二足の草鞋。
辛い立場だ。
スタシアはため息をついた。
「不本意だけど、あなたが仕切ることには目を瞑るわ。あの馬鹿な学生たちを助けてやりなさい」
遼太郎がスタシアに向き直った。
「板挟みやのにありがとうな。ヤブ医者にペラペラ喋ったのは許したるわ」
「うるさい! あの女の誘導に引っかかっただけよ」
「さっさと行けや」
舌打ちが響く。
「とにかく、法律と規則は守りなさい。あと、恵さんたちの邪魔はしないこと。以上!」
そう言い残して、スタシアはグリーン車に戻っていった。
京都を出てから、二十分が経った。
栞と富田は、向かいの席で眠っていた。
幸い、京都では窓際の席に誰も乗ってこなかった。
ウォークマンにつないだイヤフォンから、音楽が流れていた。
遼太郎と片方ずつ分け合って聞いていた。
それにしても。
無性に口寂しい。
喉も渇いた。
その時、声がした。
「車内販売でございます。温かいコーヒーに、お菓子、アイスクリームなどはいかがでしょうか」
ワゴンの音が近づいてくる。
イヤフォンを外して遼太郎の肩を叩いた。
「遼ちゃん、何か頼まない?」
遼太郎もイヤフォンを外した。
「小腹減ってたしええで。奢ったるわ」
「よっ、太っ腹!」
「古いわ」
遼太郎がはにかむ。
販売員が真横まで来た。
「すいませーん」
遼太郎が手を挙げた。
富田と栞は起きない。
寝かせておこう。
「お待たせいたしました。ご注文をどうぞ」
販売員がにこやかに応対する。
「ユーリ、先に選びや」
遼太郎はワゴンを物色している。
うーん。
悩ましい。
いつものやつにしよう。
「じゃあ、ウチはビーフジャーキーとレモンハ…」
あれ…。
レモンハイ?
隣に目をやると、遼太郎が笑いをこらえている。
「C.C.レモンで」
言い直した。
「俺、おこちゃまやからポンジュースとわさビーフで」
「はい、1200円です」
遼太郎がガマ口財布からお金を取り出して支払う。
ワゴンの音が遠ざかっていく。
習慣とは怖いものだ。
手渡されたC.Cレモンのボトルはよく冷えていた。
遼太郎がわさビーフの袋を開けながら顔を向けてきた。
「ユーリちゃん、ノンアルやけどええんでちゅかぁ?」
スタシアの物まね。
全く似ていない。
そのくせ、鬼の首を取ったような顔。
「クソガキ。覚えてろよ?」
わざとドスを利かせて、睨みつけてやった。
「すいませんでした」
遼太郎が頭を下げた。
ふふっ。
謝っても無駄だよ。
これからも、ずーっと可愛がってあげるから覚悟してね?
新幹線は、東京に近づいていた。
栞と富田は熟睡している。
そろそろ起こさないと。
窓際の席は、ここまで空いたままだった。
これなら窓際にずれて座っていれば良かった。
テーブルの上に目を移す。
書類の束。
ウォークマン。
絡まったイヤフォン。
ゲームボーイカラー。
UNO。
書類の束から一部を手に取った。
旅行計画書。
文書作成の練習として、富田と栞に作らせてみた。
ページを捲った。
今日から三泊四日、都内のホテルに宿泊。
明日は、スタシアの引率で、遼太郎と自分はメリット・フィッチとの昼食会。
残ったメンバーは自由行動。
明後日は丸一日ネズミーランド。
明々後日の新幹線の時間。
お土産リスト。
よくできている。
ネズミーランドは久しぶりだ。
東京に出てきたときに一回だけ二人で行った。
今はまだないシーには、二人で通った。
シーはお酒が飲めて大人向きだもんねぇ。
シーができたらまた行こうね?
隣に座る遼太郎を見やる。
遼太郎は別の書類を読み込んでいた。
メリット・フィッチとの交渉内容。
西尾興業側の条件。
Gagoyleの条件。
妥協ライン。
遼太郎と二人で作った資料。
ビジネス資料を作るだけだというのに、文化祭の準備のようで楽しかった。
遼太郎が資料を閉じた。
声を潜める。
「よし…あとは出たとこ勝負やなぁ」
出たとこ勝負。
できる限り準備はした。
それでも、三十四歳の会社員と公務員が考えつくことなどたかが知れていた。
「うん。相手がどこまで欲を出すかわからないもんね。ほかは妥協してでも、最低ラインを守れれば御の字だよ」
「せやなぁ。生き残るのが第一や」
遼太郎はいそいそとテーブル上の品々を鞄にねじ込み始めた。
「親がデートしとる中、でかい商談するのってなんかおもろいな」
遼太郎が口元を緩ませる。
「わかる」
商談や駆け引きは好きな方だ。
職業病かもしれない。
「デートもちょうどよかったじゃない。剛三さんが同席しても話がしづらいだけでしょ?」
「そらそうやけど。スタシアさんも、よく許してくれたわ」
「前から、剛三さんがいても説明が面倒だって言ってたよ」
ユーリは窓に視線を移した。
窓の外には高層ビルがちらつき始めた。
「法的に問題ないなら、いない方が助かるって」
「えぇ……酷い。ほんまお飾り社長やん」
遼太郎は苦笑いを浮かべた。
それだけじゃないよ、遼ちゃん。
ママも心配してたんだから。
スタシアも恵の異変を感じていた。
二人きりにしてあげた方が良いと言い出したのは、スタシアだった。
ウチは上手く組み込んだだけ。
夫婦の時間は大事だもん。
今みたいに。
電子メロディが車内に響いた。
『まもなく、終点、東京です』
ネズミーもだけど。
二人でまとめる商談。
共同作業。
楽しみになってきた。
『今日も、新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございました』
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
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