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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第三章 1999年 Revenger,again
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第十二節

 5月2日。

 生駒山は、夜明けを背負って黒く横たわっていた。

 雲のない空は、稜線の上から少しずつ夜の青を薄めている。

 東大阪の町は、山の影の底に残されていた。

 前日の陽に暖められた路面は、夜の間にすっかり熱を失っていた。

 路地の隅から伸びた雑草には、細かな露がついている。

 連休中の町工場は、鉄扉を下ろしたまま静まり返っていた。

 油の染みたコンクリート。

 壁際に積まれた木箱。

 軒下に吊られた、錆の浮いた鎖。

 どれも、薄明かりの中で色を失っている。

 町が目を覚ますには、まだ早かった。

 西尾家も寝静まっていた。

 昔の夢を見た。

 いや、夢ならどれだけ良かったろう。

 小学校。

 女子トイレ。

 みなしご。

 施設の子。

 バケツの水。

 刻まれた記憶だった。

 西尾 恵は起き上がった。

 一番良いシーンは尻切れだった。

 王子様。

 そう思っていた時期もあった。

 しーちゃん。

 いつも限界を迎えそうなときにやってくる。

 あの女子トイレだってそうだ。

 限界だった。

 お道具箱からカッターナイフを持ち出し、ポケットに忍ばせていた。

 施設の皆に詫びながら首に当てようとしていた。

 そんな時、突然現れた王子様。

 一心不乱に水をかけた奴らを殴りつけていた王子様。

 いつもの胡散臭い京都弁も出さずに。

 あんなに髪は長くなかった。

 初めて会った時は男の子だと思っていた。

 昨日は頭に血が上って考えられなかった。

 あの格好はわざとだったのかもしれない。

 中学時代。

 名家の出だというのに、校内でタバコをやっていた。

 あの格好で。

 うんこ座りで。

 どこが王子様やねん。

 ふっ。

 思わず笑いが出た。

「うーん…」

 隣で眠る栞を見た。

 うなされている。

 ゆっくりと頭を撫でる。

 慎重に。

 優しく。

 次第に寝息が落ち着き始める。

 栞。

 八城神社で出会った子。

 八城神社。

 駅前で、しーちゃん――有栖川 志麻とタバコをふかしていた時に出会ったおじさん。

 宮司。

 いや、館長は問答無用で、自分たちを道場に叩き込んだ。

 昔は髭を伸ばしておらず、カッコよかった。

 それ以来、ずっと世話になっている。

 ある日、館長と一緒に、田上に呼び出された。

 そこにいたのが栞だった。

 栞が自分を見る目はおかしい。

 そう気づいたのはすぐのことだった。

 不気味に感じていた時、三歳になった遼太郎の話をした。

 その目は鋭くなった。

 かつて、志麻に向けた目。

 嫉妬の目だった。

 栞は息子に嫉妬している。

 田上から家庭環境が良くないとも聞いていた。

 そう考えた時、合点がいった。

 栞は自分に母親を見ていると。

 母。

 自分は母を知らない。

 父もだ。

 そんな人間に母親を被せてはいけない。

 遼太郎にすら申し訳なく思っているというのに。

 厳しく指導した。

 目を覚まして欲しかった。

 正しく導こうとした。

 逆効果だと気づいたのは、遼太郎を道場に連れていくと、富田と栞に話した時だ。

 嫉妬の目は激しくなっていた。

 その時、自分は勘違いをした。

 自分より幼い者の世話をさせればいい。

 きっと目が覚めて成長してくれると。

 自分がそうだったように。

 結果は散々だった。

 ため息が出た。

 栞の寝顔を見る。

 気持ちよさそうな顔をしている。

 栞は自分と同じになってしまった。

 みなしごの自分と。

 家に来た栞は家族を、家族として扱い始めた。

 傍から見れば異常なのだろう。

 だが、栞のためにできることは、母親になることだけだった。


 目覚まし時計を見た。

 五時三十五分。

 六時半に鳴るアラームを切った。

 栞のことだ。

 六時には起きてしまうかもしれない。

 けれど、できることならゆっくり寝ていてほしかった。


 廊下に出た。

 薄暗い中、剛三の寝室の襖を開ける。

 今日は布団を蹴飛ばしていない。

 珍しい。

 剛三。

 出会ったのは中学生の時だった。

 道場に放り込まれた直後。

 館長の鉄拳制裁は厳しかった。

 今では見る影もない。

 それが怖くて志麻と渋々通っていた。

 志麻は、祖父母の道場が嫌で突っ張っていたのに、と零していた。

 そんな時、親の都合で転校してきたのが剛三だった。

 名前とは裏腹に人当たりが柔らかかった。

 親がいる。

 人気者。

 顔も良かった。

 それが気に入らなかった。

 志麻と二人で脅してやろうと校舎裏に呼び出した。

 逃げずに来た。

 木刀を突き付けても引かなかった。

 手は震えていた。

 見どころがあると思った。

 少しした頃。

 王子様に。

 志麻に好きだと漏らした。

『女同士で好きとか嫌やわぁ』

 目は笑っていなかった。

 いつもの軽口であると信じたかった。

 それでも、初恋は終わっていた。

 全てが嫌になった。

 校内でタバコをふかしていると、剛三が近寄ってきた。

 『身体に悪いからやめろ』

 そう言って睨んできた。

 周囲からやめろ、やめろとは言われていた。

 身体に悪いから、と言ったのは剛三が初めてだった。

 何故か、それ以上吸う気になれなかった。

 最低の馴れ初めだ。

 遼太郎には絶対に言えない。

 墓まで持っていかなあかんわ。

 乾いた笑いが出た。


 カーテンの隙間から朝日が差し込み始めた。

 剛三の頭を照らしている。

 昔はトヨエツ似の美丈夫だったというのに。

 すっかり禿げてしまった。

 原因は自分にもある。

 剛三は親に大事にされ過ぎた。

 親というのは、息子が施設育ちの女と付き合うのを嫌がるらしい。

 相当に揉めた。

 悩み抜いた挙句、家を飛び出した。

 自分のせいで。

 遼太郎が生まれた時、連絡はしたらしい。

 自分抜きで、遼太郎の顔を見せに来いと言われたらしい。

 以来、剛三は実家に連絡しなくなった。

 遼太郎は祖父母の顔も知らない。


 剛三の部屋を出た。

 遼太郎の部屋に足を向ける。

 廊下の冷たさが足に触れた。

 中途半端。

 生まれも中途半端。

 死にきれず中途半端。

 妻としても中途半端。

 あぁ。

 久々に来てしまった。

 女子トイレでカッターを握った日から。

 発作のように襲ってくる言葉。

 言葉が過るたびに立てなくなっていく。

 最後に襲われたのは遼太郎を生んですぐの頃。

 あの時は剛三が傍にいてくれた。

 今はいない。

 剛三。

 来てほしくても声が出ない。

 廊下にうずくまった。

 この言葉から逃げるために。

 酒。

 服装。

 剣道。

 やりたいことは、何でもやってきた。

 結局は何をやっても中途半端。

 そうなっただけだった。

 ただ、それでも。

 這うように遼太郎の部屋の前まで来た。

 親としてだけは、中途半端ではいられない。

 それなのに。

 廊下の花瓶が目に入った。

 ガーベラ。

 赤とピンクと橙が多い。

 昨日。

 結局、まともに言い返せないまま、あの女は帰って行った。

 あの女が口を開くたびに力が抜けていった。

 腹立たしい。

 悔しい。

 そのはずなのに、出てきた涙の粒は大きかった。

 あの女は。

 自分を振ったあの女は。

 剛三を狙ったあの女は。

 皆の前で恥をかかせたあの女は。

 中途半端なまま全部楽しめという。

 前に進んで来いという。

 意味が分からない。

 

 何とか立ち上がれた。

 足に力が入らない。

 道場で、あれだけ踏み込んでいるというのに。

 襖の取っ手に指をかける。

 遼太郎。

 昨日は二人で連れ帰ってくれた。

 小さな手で手を引いてくれた。

 愛しい息子。

 いつも布団を蹴飛ばしている。

 直さなくては。

 襖を開けた。

「おかん、おはよう」

 …え。

 布団の上に遼太郎が座っていた。

 部屋着に着替えている。

「遼ちゃん…早いなぁ」

 それしか言葉が出ない。

 何で起きている。

 ちゃんと寝たのか。

「起きよう思えば起きれるからな」

 遼太郎の声は落ち着いている。

「今日日曜やで? 早く起きる必要ないで」

「おかんと話したかってん」

「私と?」

 お母ちゃんと言えなかった。

「うん。最近、無理しすぎとちゃうんか?」

 その表情は柔らかい。

「無理なんてしてへんよ」

「そういうて体壊す人はぎょうさんおるで?」

「何が言いたいん?」

 遼太郎が黙った。

 なんで我が子にこんな言い方をしてしまったのだろう。

「はっきり言うわ」

 遼太郎が前のめりになる。

「今のおかんの生き方は身体に悪い」

 身体に悪い。

『身体に悪いからやめろ』

 剛三の声が蘇った。

「悪くない。親やねんから当然や」

「中途半端やって悩んでるやろ?」

 なんで分かる。

「有栖川の言葉やないで?」

 子供に。

 アンタに。

「何が分かるんや。なんも知らんくせに!」

 私がどれだけ。

 どれだけ。

 ああ。

 言ってしまった。

 子供にあたってしまった。

 母親としても中途半端。

 その言葉が毒のように回り始めた。

 またたく間に世界がぼやけていく。

 その時。

「これからは喩え話や」

 遼太郎の声が変わった。

 栞が逃げ出した裏山。

 栞を引き留めていた声。

 何故か。

 自分にも言われていたようで身動きができなかった。

 あの瞬間の声。

「どういうこと」

 遼太郎が無視して話し始める。

「母親が自分のためにやりたいこともせずに育ててくれました」

 遼太郎が指を一本折る。

「母親が体壊しました」

 二本折る。

「家も荒れました」

 三本折る。

「子供は何とか自立しました」

 四本折る。

「子供は親孝行をしたいと思いました」

 五本折る。

「ですが、その時にはやりようがありませんでした。母親は病床で中途半端やったと零してます」

 そして握った手を開く。

「子供は母親より先に死にました」

 遼太郎が吐き出すように言った。

「子供はどうしたら良かったんや? 知ってるんやったら教えてや」

 その目から一筋の涙が頬を伝った。

 短い喩えのはずなのに。

 情景が浮かぶ。

 見てきたかのような喩えだった。

 何かが崩れ始めていた。

 親。

 何度も理解しようとした言葉。

 苦しんでまで親であろうとした。

 その成れの果てが、子供に残せたのはその問いかけだったのか。

 遼太郎がにじり寄ってくる。

「なぁ答えてや! 無理して肩肘張って親やるんやったら答えてや」

 それは慟哭だった。

 そうして、恵の足にしがみついた。

 遼太郎の背をさする。

 嗚咽が聞こえてきた。

 私は何をしていたんだろうか。

「なぁ、遼太郎」

 遼太郎は顔を上げた。

 恵の顔を黙って見つめている。

 涙が両頬を伝っている。

「私、中途半端やけどそれでええんか。中途半端な親やけどええんか」

 生きててええんか。

「ええに決まってるやろ」

 遼太郎がニカッと笑った。

「俺だって中途半端な子供やしな」

 つられて笑いがこみ上げてきた。

「ほんまやわ。ほんま、子供か大人かわからへんわ」

 目の前が潤んで見えない。

 そのまま遼太郎を抱きしめた。


 どれだけ経っただろう。

 耳元で鼻声がした。

「二つだけお願いあるねん」

「なんや。言うてみ」

「お酒はほどほどにしてくれ」

「ほどほどでええんか?」

「ええ、そんで俺が呑めるようになったら一緒に呑みに行きたいんや」

 親子で酒を酌み交わす。

 考えたこともなかった。

「…分かった。もう一つは?」

「あのバケモンに一発かましたってくれ」

 抱きしめた腕を緩めて遼太郎の顔を見た。

 目が据わっている。

「そうやないと悔しゅうて寝れんわ。焼肉の恨みもあるし」

「…任せとけや、遼太郎。私も一発入れな気が済まんからな」

 自分の頬を叩いた。

 バケモン。

 クソ女。

 幼馴染。

 親友。

 恋敵。

 宿敵。

 王子様。

 全部ひっくるめて、とどめ刺したるわ。

 私らしく、中途半端に確実に。

「いっちょやったるわ」

最近、ランキングを覗いてみたのですが、戦国や中世を舞台にした作品が並ぶ中、本作だけ少し浮いているような……。

作者自身、本作は歴史なのかヒューマンドラマなのか、ちょっと迷い始めています。

(ジャンルについてご意見がございましたら、活動報告「総合評価1500pt御礼/Q&A/人物紹介」までお寄せいただけると嬉しいです)

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