↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第三章 1999年 Revenger,again
71/84

第十節

 5月1日。

 昼前の陽が、八城神社の石段を白く照らしていた。

 雲はほとんどない。

 乾いた青空の下、生駒の山稜は春霞にも埋もれず、東大阪の町の向こうに長く横たわっていた。

 山肌は新緑の色を濃くしている。

 朝には冷えていた石段も、今は陽の熱を蓄えていた。

 踏むたび、靴底へ硬い熱が返ってくる。

 木立を抜ける風だけが涼しかった。

 青葉が一斉に裏を返す。

 道着に残った汗が、背中で急に冷えた。

 遼太郎とユーリは石段の頂上に腰かけていた。

 ここからは、東大阪の街並みが一望できる。

 遼太郎はため息をついた。

「遼ちゃん、いい加減切り替えようよ? 明後日から東京行くんだし」

 ユーリが明るい声を出した。

 分かってはいる。

 ここ数日、ユーリも励ましてくれている。

 前に進まないといけない。

「分かっとる。けどなぁ…」

 母の怪我は大したことはなかった。

 二日もしないうちに腫れも引いていた。

 しかし、あの試合のことは腫れ物になった。

「家の空気がきついねん」

「あぁ……」

 ユーリがか細い声を出す。

 母は何事もなかったかのように振る舞っていた。

 しかし、父は肩身が狭いのか、事務所の一階で富田と車を弄る時間が多くなった。

 栞は苛立っていた。

 あの女。

 有栖川だけではない。

 家の空気そのものに苛立っていた。

 俺も。

 すぐに帰る気になれなかった。

「おかん、あの日から酒飲んでへん」

「昨日も言ってたね。断酒新記録だって」

「それに、普段絶対何か雑なことしたりポカするねん。米をお粥みたいにするとか」

 栞がいても、その雑さは健在だった。

 それなのに。

「この一週間。完璧や。栞姉ちゃん起きる前に家事済ませとるみたいやし」

 ポカしてくれた方が、まだ安心できた。

「恵さん」

 ユーリが下を向く。

「普段の指導って、結構柔軟なんだよね」

 意外だった。

 母の指導はまだ受けられない。

 それでも、ユーリの言葉は嫌味に聞こえなかった。

「今日の指導、凄く型どおりだった。怖いくらいに」

 ユーリもため息をついた。

 完璧。

 型どおり。

 母が遠くに行ってしまう。

 そんな気がした。

 その時、境内から足音がした。

 振り向くと田上が駆けてきていた。

 防具袋を担いでどたどたと音を立てている。

「おー!若とお嬢、まだこんなとこにおったんか。先帰れって言われとったじゃろが」

「田上のおっちゃん、おかんは?」

「まだ練習する言うてたぞ。秋には全日本じゃけぇ気合入っとるわ」

 田上がニカッと笑った。

 そのまま二人とすれ違い、石段を下り始めた。

「車と変な奴に気を付けて、さっさと帰れよー」

 そう言い残して田上の背中は小さくなっていく。

 母は準優勝。

 本選への出場も決まった。

 道場では皆が喜んでいた。

 母と栞、富田以外は。

 こんなはずじゃなかった。

 遼太郎は後ろに寝転がった。

 石段の硬さが背中に伝わる。

「肺炎にでもなった方が良かったかもな」

 思わず零れた。

 その瞬間、腹に重みが掛かった。

 ユーリが跨っていた。

「遼ちゃん、それ本気で言ってる? それ、僕の前で言うの?」

 声が低い。

 氷のようだった。

 目が笑っていない。

 歪んだ口からは八重歯が光っていた。

 その向こうには、鳥居が見えた。

 自分が死んだと知らされたとき。

 有理。

 いや、ユーリは神社にいたらしい。

 ……肺炎に罹って治るとは限らんもんな。

 決して口にしていい言葉ではなかった。

「僕がどんな気持ちだったか分かる?」

 氷のような声が震えている。

 頬に雫が当たった。

 やってしまった。

 自分が嫌になる。

「すまん。怖かったよな?」

「そうだよ。言って良いことと悪いことがあるよ!」

 両腕を掴まれた。

 顔が近い。

「思った通りにならんくて、アホなこと言ってもうた」

 ユーリの眉が寄った。

「思った通りにならない? 後悔したくないって言うから、ウチは協力してるのになんで後悔してるの?」

 腕に力が入った。

 牙が見えた。

「やって後悔するくらいなら、初めからやらないで。やるなら覚悟決めて、どんな結果でも受け入れてよ」

 返す言葉がなかった。

 そうだ。

 変えるために戻ったのだ。

 迷ってはいけない。

 覚悟。

 散々逃げてきた言葉だった。

 ユーリの目を見据えた。

 目には涙が浮かんでいた。

 好いてくれる女泣かせて。

 何が覚悟や。

 何が後悔したくないや。

「何してんねやろな、俺。ほんまにごめん」

 見据えたはずのユーリの目が霞む。

 腕を掴む力が緩んだ。

 ユーリの顔からは、冷たさが消えていた。

「……怖くなっちゃったの。遼ちゃんが、またいなくなる気がして」

 ユーリがふっと微笑んだ。

 その頬には、大粒の涙が残っていた。

「ごめんね。だけど…」

 そのまま、遼太郎の胸に頭を預けてきた。

「ウチは、遼ちゃんさえいればなぁんにも要らないの」

 低い声に甘さが混じっている。

「二人だけで生きていければ十分だってこと。忘れないでね?」

 答えを聞かずにユーリは唇を寄せてきた。

 唇が重なる。

 二人だけで生きていく、か。

 酷く魅力的な言葉だった。


 落ち着いたころには正午を大きく回っていた。

 石段を下り切った。

「ごめんねぇ。ほんとに背中痛くない?」

 ユーリの声は甘い。

「背中は大丈夫やけど、腹が痛いかも…太った?」

「ひっどーい! 罰に駅前のマックでなにか奢ってよね!」

 ユーリは明るく笑う。

「余計太るで? それにマックやなくてマクドな」

「うわぁ、マクド警察キモ」

 そう言って肩を小突いてきた。

 そうやった。

 …お前とケンカするたびに、何か食いに行ってたなぁ。

 自然と口角が上がった。

 ユーリの横顔を見た。

 機嫌良さそうに跳ねている。

 お前も、俺も。

 ほんま生きててよかったわぁ。


 交差点を渡り、沿道を歩いた。

 そして駅前に差し掛かった。

 駅前の電気店に並ぶテレビでは、2000年問題の特集が流れている。

 その隣のパチンコ屋には新装開店を祝う胡蝶蘭が並ぶ。

 マクドナルドはパチンコ屋の奥だった。

「何食うん? バーガー?」

 そう言いながら、遼太郎はガマ口財布を開いた。

 1万3000円。

 十分だった。

「シェイクにしようかなぁ。遼ちゃんは…いつものゲテモノか」

「ゲテモノとはなんや? アップルパイこそ至高やろが」

 あのぱりぱりの皮と、人工甘味料マシマシのシナモン臭が堪らない。

 ユーリが顔をしかめた。

「大体好み合うのに、あれだけは分かんない。シナモン臭すぎ」

「おこちゃまはこれだから」

「おこちゃまですが何か?」

 ユーリが舌を出す。

 パチンコ屋の前に差し掛かった。

 その時、臭いが漂って来た。

 足を止めた。

 シナモンではなかった。

「うげ、ヤニ臭!」

 口に出してしまった。

「パチンコ屋だからねぇ。うわ。ほんと、くっさぁ」

 ユーリが鼻をつまむ。

「そういえば、吸いそうやのに吸わへんかったな?」

 酒は飲む。

 車にも乗る。

 けれど、タバコを吸っていた記憶はない。

「え、臭いし遼ちゃんも吸わないからいいことないじゃん」

 ユーリは扇ぐように手を動かす。

「それにウチがいた省じゃ、吸ってたら出世できなかったからね」

「かぁぁ、出世欲の塊め」

「ふん!出世して養ってあげようと思ったの!」

 ユーリは胸を張った。

「すいませんでした」

 ヒモも良いかもなぁ。

 危ない。

 本気で魅力的に思えてきた。

 それにしても。

 臭い。

 前をよく見ると、並んだ胡蝶蘭の陰から煙が上がった。

 そこに人影があった。

 黒の長髪。

 サングラス。

 トラ柄のトラックジャケット。

 だぼだぼのスウェット。

 スニーカー。

 咥えタバコ。

 片手にはビール缶。

 そしてうんこ座り。

「うわぁ…」

 ユーリも気づいたようだった。

 声を潜めた。

「遼ちゃん、目を合わせないように値踏みしてみて」

「え?」

「安全だったら走り抜けよう。ヤカラのせいで回り道するのも癪だし」

 回り道。

 確かに嫌だ。

 ここが通れないと大きくぐるっと回らなくてはならない。

「目を合わせんようにか。難しいこと言うなぁ。そっちのチートでは反応あるんか?」

「無いけど念のためだよ」

「分かった。任せとけ」

 ゆっくりとヤカラに近づく。

 胡蝶蘭の陰に意識を集中した。

 その刹那。

 サングラス越しに目が合った。

「やべ!」

 ヤカラが立ち上がった。

「ドジ! 遼ちゃん、逃げるよ」

 ユーリが遼太郎の手を取った瞬間だった。

「ちょい待ちぃ。坊ちゃんたち八城剣道教室の子?」

 どこかで聞いた声だった。

 妙に柔らかな女の声。

 ん?

 女の声?

 ヤカラはタバコを携帯用灰皿に押し付けながら近づいてくる。

 ユーリが前に出た。

「そうですけど何か?」

 ヤカラはサングラスをずらした。

 切れ長の一重。

 まさか。

「助かったわぁ。駅前ごちゃごちゃしとって、困ってましてなぁ。西尾せんせに用事ありましてなぁ」

「有栖川?」

 口から出てしまった。

 ユーリが睨んできた。

 ドジの次は馬鹿とでも言いたそうだった。

 今日は口が軽いのだ。

 許してほしい。

「目上のもんを呼び捨てとは感心しまへんなぁ…んー?」

 有栖川が顔を近づけてくる。

 乾いた苦い匂い。

 タバコの臭いだったか。

 あと酒臭い。

 アップルパイが食べたくなくなった。

「大会におった坊ちゃんや思いましたけど、よぉ見るとゴンちゃんに似てはりますなぁ」

 クソ、バレた。

 こうなったら。

「タヌキの子ですけど?」

 お前が馬鹿にしたおかんの子や。

「わぁ、目元が確かにタヌキちゃんやぁ。可愛らしいわぁ。ちゃんとご飯食べさせてもろうてますぅ? なんやったら、わての家の子にならん?」

「なりません!」

 誰がなるかボケェ。

 ユーリを見やった。

 助けて。

 ユーリは口をあんぐり開けたまま固まっていた。

 美少女でその表情はアカンやろ。

「んー?」

 有栖川の目がユーリに向いた。

「お嬢ちゃん、もしかしてラマーノフさんとこのお嬢さんちゃいますか」

 ユーリが飛び上がった。

「な、なんでそれを」

 目には狼狽の色が浮かんでいた。

「そら、そんな銀髪は目立ちますわぁ。それにラマーノフさんが、娘が剣道やってまちゅ言うてはりましたさかい」

 まちゅ…。

 頭が痛くなってきた。

 あの性悪女は、何情報漏らしてんだ。

 ユーリは観念したように頭を下げた。

「ユーリヤ・ラマーノフです。母がお世話になっております」

「挨拶できて偉い子やわぁ。お母さん、一昨日きはった時もカウンセリングさせてもろたんですけど、わてのせいで焼肉流れたって怒ってはりましたわ」

 確かに母の負傷で祝勝会はお流れになった。

 あの女は病院で何言ってんだ。

「えらいすんまへん」

 有栖川も深々と頭を下げた。

 綺麗な最敬礼だった。

 謝るところ、そこちゃうやろ。

 有栖川は頭を上げた。

 その顔には、はんなりとした品があった。

 服装には無かった。

「ほな、道場まで連れてってくれはる?」

「は? 俺ら今から家帰るんですけど」

「ああ、家でもええなぁ。ゴンちゃんとタヌキちゃんの愛の巣、興味ありますわぁ」

 あ。

 脇腹に肘鉄が入った。

 ユーリが顔をしかめている。

 馬鹿。

 いや、阿呆かな。

 そう言いたげだった。

「いえいえ~恵先生は道場にいますのでお連れしますね~」

 ユーリが高い声を出して誤魔化す。

「お手数おかけしますぅ。これ、駄賃代わりに食べたってくださいね」

 そう言って、有栖川はスウェットのポケットから板チョコを差し出した。

 このチョコってまさか。

 胡蝶蘭を見つめた。

「このチョコレートって…」

「ええ、ふらふらぁと台に座ったら当たりましてなぁ。電車賃と休診分の儲けは出ましたわぁ」

 有栖川はカラカラと嗤った。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。