第九節
活動報告に、今後の感想・コメントへの対応に関する重要なお知らせを掲載しました。ご一読ください。
「左利きやとなんかあるん?」
恐る恐る聞いてみた。
残念な子扱いされないように祈った。
「ウチも、分からないんだけど…」
ユーリが乗ってきた。
良かった。
天才ちゃんにも分からんことがあるんやな。
「ああ、うちの道場には左利きの人がいませんからね」
富田が頭を掻く。
「僕や栞は練習試合で偶に当たるので分かるのですが…」
試合場では決勝戦の準備が始まっている。
「竹刀は左手で振り、右手は添えるだけ。ですよね?」
「あ!」
ユーリが声を上げた。
「左利きなら、利き手で振れるんだ!」
「そうです」
富田が頷く。
ユーリと目が合った。
その顔はニヤついている。
「俺も分かったもんね!」
声を上げた。
なるほど。
分かってなかった。
だが、負けてたまるか。
「では遼太郎、利き手で振れる利点はなんですか?」
栞が尋ねた。
ここで間違えるわけにはいかない。
……片手面。
「分かった、片手技は左で振るから得意やねんな?」
「合ってます」
栞が静かに言った。
ユーリが音もなく拍手している。
にこやかだ。
馬鹿にしくさって…。
富田が声を潜めた。
「栞、突きもありますが、やはり左小手が怖いですよね?」
「それもありますが、平正眼で構えてくる可能性もあります」
「構えの話だと霞もありそうですよ」
「だとしたら、出ばな小手もありますね」
富田と栞が二人だけで話し始めた。
何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
ユーリの顔が曇っている。
流石についていけないようだった。
それにしても。
聞いている限りだと、どうにも相性が悪い相手らしい。
「おかんに教えんでええの?」
その瞬間、栞の視線が刺さった。
あら?
俺、なんかやっちゃいました?
「遼太郎」
栞が目の前で屈んだ。
目線の高さを合わせてくる。
肩を掴まれた。
逃げられない。
「今何と言いました?」
「いや、左利きとかどうとか教えてあげた方がええんちゃうかなぁって…」
「教えて、あげる?」
栞の目が据わっている。
「目の前で試合を見ていた先生が、見抜けないわけないでしょう?」
「はい」
「私たちより、遥かに歴が長いお人ですよ?」
「はい」
「先生を舐めすぎてはいませんか?」
「はい、申し訳ございません」
怖い。
助けて。
脇目でユーリを見た。
目を逸らされた。
富田を見た。
下を向いていた。
天は我を見放した。
その時、場内放送が響き渡った。
『只今より、第38回 全日本女子剣道選手権大会、大阪府予選決勝戦を執り行います』
会場が歓声に包まれる。
「まぁ、いいでしょう」
栞が立ち上がった。
「行きましょう」
そう言って足早に試合場に入って行った。
神はいた。
助かった。
「遼ちゃん、おいたわしや…」
ユーリがハンカチを目に当てながら近づいてくる。
「爺やみたいなムーヴやめーや。涙出てへんやろ。見捨てたくせに」
「バレた?」
ユーリがおどける。
「若…僕、ミスするといつもあの詰め方されます…」
富田が力なく笑っている。
コンプライアンス研修が必要だと思った。
試合場に入ると、栞は応援エリアの最前列を確保してくれていた。
父もいつの間にか合流していた。
顔は疲れていた。
しばらくして、選手名の読み上げが始まった。
会場内が静まる。
『赤、有栖川志麻五段』
黒騎士が一礼をする。
『白、西尾恵五段』
白騎士が一礼をする。
試合場の中央で、二人が蹲踞の姿勢を取った。
立ち上がる。
竹刀を中段に構えた。
「始め!」
主審の声が響く。
白騎士の竹刀が頭上へせり上がる。
左足が前。
左拳は額より高い。
左諸手上段。
いつもの構えだ。
黒騎士は引かない。
中段に構えた竹刀も揺れていない。
「そろそろ、構えを変えそうですね」
富田が小さく呟いた。
ニコンのファインダーを覗いていた。
ヒラセイガンとかカスミとか言っていた構えか。
黒騎士の竹刀が動いた。
切っ先が、ゆっくりと下がっていく。
膝の高さを過ぎた。
床すれすれで止まる。
腰が落ちた。
竹刀は地を這うように、白騎士へ向けられている。
「は……?」
栞が声を出した。
会場内がざわつき始めた。
「あれが、さっき言うてた構えなん?」
栞に問いかけた。
「い、いえ…」
栞が答えに詰まっている。
「上半身が、がら空きじゃない?」
ユーリが声を漏らした。
「あれは下段の構えですよ」
富田が口を開いた。
白騎士の竹刀が、僅かに揺れた。
「相手の打ちを誘う構えです。下から竹刀を使って、打突をさばいたり、突きにつなげたりする」
富田がシャッターをしきりに切っていた。
「ほな、待つだけなん?」
「少なくとも、先に打ってこいと言っているように見えます。試合で使う人は滅多にいませんが…」
白騎士が距離を取る。
「上段相手に、あそこまで面を空けるなんて……」
栞の声が低くなった。
「煽ってる。あいつ、先生に打ってこいって煽ってる」
あいつ?
横目で栞の顔を見た。
唇が震えている。
いつもの余裕は消えていた。
歯ぎしりまで聞こえた。
黒騎士が距離を詰める。
その動きは鋭い。
白騎士が一歩下がった。
そこで、また止まる。
観客のざわめきも消えていた。
白騎士は竹刀を頭上に掲げたまま。
黒騎士は切っ先を床すれすれに沈めたまま。
どちらも動かない。
観客席のどこかで、咳払いが聞こえた。
黒騎士が半歩詰める。
白騎士が同じだけ下がった。
また止まる。
竹刀は一度も触れない。
再び、二人の動きが止まる。
どれくらい経ったのか分からなくなった。
そして。
「止め!」
主審の声が響いた。
観客がざわついた。
「え、終わり?」
「若、違います。延長戦です。ここからは一本先取です」
サドンデスか。
二人が開始線へ戻っていく。
主審が両者を見据えた。
「延長、始め!」
開始の声が響いた。
黒騎士は、再び下段。
切っ先を床すれすれに沈めている。
だが、白騎士の竹刀はせり上がらなかった。
「先生、なんで」
栞の悲痛な声が聞こえた。
白騎士は中段の構えだった。
おかん、なんでや。
なんで常勝の構えを捨てたんや。
言葉が出なかった。
「前に出る」
ユーリが呟いた。
白騎士は前進した。
剣先は黒騎士の面をとらえていた。
白騎士が踏み込んだ。
勇気を奮い立たせるような声を上げた。
竹刀を振り上げ、黒騎士の面へ打ち下ろす。
その刹那。
黒騎士が半歩退いた。
身体を斜めに開き、面を躱す。
同時に、抉るような角度で下段の剣先が跳ね上がった。
漆黒の面から聞こえたのは咆哮だった。
黒騎士の竹刀が、白騎士の喉輪を突き上げた。
鈍い音が響く。
白騎士の竹刀は、黒い面の脇を空しく通り過ぎた。
白騎士の身体が崩れ落ちた。
「先生ぇ!」
栞の叫び声。
「下段から、退きながら喉を取った……あの角度の突きなんて…」
ファインダーから目を離した富田の声は掠れていた。
「人間技じゃない」
赤い旗が上がった。
一つ。
二つ。
三つ。
「突きあり!」
主審の声。
「勝負あり!」
観客席から拍手が湧いた。
残酷な音色だった。
白騎士はゆっくりと立ち上がった。
咳き込みながら、黒騎士と礼を交わした。
その背中は震えていた。
母はゆっくりと選手席に戻ってきた。
そして、倒れるようにへたり込んだ。
咳は止まっていない。
栞が駆け寄った。
皆が続いた。
「先生、大丈夫ですか!」
栞は母の面を外し始める。
「し、栞、大丈夫やから」
声はか細かった。
白い病室。
痩せた母の顔。
一瞬で、あの日が脳裏に蘇った。
足が震えた。
歩みが止まる。
目の前にいるのに、近づけない。
顔を上げられない。
違う。
動け。
その時、両腕を掴まれた。
二人に挟まれ、半ば引きずられるように母の元へ進む。
顔を上げた。
左には父がいた。
右にはユーリがいた。
震えは止まらない。
それでも、足は動いていた。
面を外された母は汗だくだった。
顔は酒を飲んだ時よりも赤い。
熱中症もあるかもしれない。
ユーリが手元のペットボトルを振った。
「これじゃ足りない。富田さん、水買いに行くよ!」
「はい!若、お願いします!」
二人は手にしていたペットボトルを遼太郎に預け、駆け出した。
母の咳は、まだ止まらない。
気づけば、周囲には人だかりができていた。
「見せもんちゃうぞ!」
思わず言葉が出た。
栞が母の喉元を確認している。
傷はない。
赤くなっているだけだった。
「だいじょう、ぶ。むせただけやから」
母が咳の合間に答えた。
「恵、ほかに痛いとこ無いか?」
父の声が上ずっている。
「おかん、水飲んで!」
ペットボトルを差し出す手が震えた。
「ごう、ぞう。りょうた、ろう。あわてんなや」
母が口元を緩めた。
その時だった。
「あんたら、なんもせえへんのやったら、どいてくれはります?」
後ろから声がした。
「邪魔どすなぁ」
「救護も呼ばへん野次馬が、でかい顔せんといてくれはります?」
妙に柔らかな声が近づいてくる。
そして、声の主が人垣を割って現れた。
面を小脇に抱えていた。
漆黒の袴。
黒髪のシニョン。
切れ長の一重。
顔立ちには、はんなりとした品があった。
すれ違いざま、汗の匂いが鼻を掠めた。
その奥に、控えめな香水。
消毒液の匂い。
さらに、乾いた苦い匂いが混じっている。
どこかで嗅いだことのある匂いだった。
その目が、母を捉えた。
「あら、タヌキちゃん。お久しゅう」
女は目を細めて微笑んだ。
「あ、あ、ありすがわぁぁ」
母の顔が歪む。
「わての苗字覚えててくれて嬉しいわぁ。わてなんて、タヌキちゃんの苗字覚えられへんのに」
なんだこいつは。
「し、志麻さん。今はちょっと」
父が母の前に出る。
「あらら、ゴンちゃんやないの。えらいサッパリしはったけど男前は変わらへんなぁ」
ゴンちゃん?
「昔話やったらゆーっくりしたいとこやけど、先に仕事させてくれますぅ?」
そう言って有栖川は父を押しのけた。
栞が割って入る。
「先生に何の用ですか!」
声が大きい。
「せんせぇ? ああ、あの道場で師範やってるって風のうわさで聞きましたわ。お弟子さんですか?」
「だったら何ですか?」
栞の声がさらに大きくなる。
「タヌキちゃん、弟子取るようになったんやぁ。成長しはって感動しましたわ」
有栖川は口元を押さえて笑った。
「せやけど、治療の役に立たへんお弟子さんは邪魔ですわぁ。さいなら~」
そう言って左手で栞の肩を掴み、脇に退けた。
栞は怒りを忘れたように唖然としている。
有栖川は母の前に膝をついた。
「なにしに来た」
母は絞り出すように吐き捨てた。
「ええから、首見せてみ。医者や」
「は? アンタが医者? ゲホッ」
母がまたむせた。
有栖川は構わず、母の顎を持ち上げた。
喉元へ指を当てる。
「ほーん、腫れは大したことあらへん。息もできてる。首はひとまず打ち身やなぁ。ちゃんと水飲んで、涼しいとこで休んどき」
有栖川が立ち上がった。
「まぁ、手加減しましたさかい当たり前ですわ」
「あ? 手加減? あんな突きしといてよう言うわ。 人斬りの家系のくせに!」
母が立ち上がろうとするが、立てない。
それでも、有栖川の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。
有栖川は薄ら笑いを浮かべている。
「わては獣医ちゃいますさかい、痛みが引かへんかったら獣医さんに診てもろてくださいねぇ」
「志麻さん!」
父が怒鳴った。
そして、声を落とした。
「もう……勘弁してください」
「ゴンちゃん、勇ましいわぁ。せやけど、もうちょっと感謝してくれる思うたのに残念やわぁ」
有栖川はまだ笑っている。
それでもどこか、悲しげに見えた。
父が再び前に出る。
「恵の怪我見てくれたんは感謝してます。けど、帰ってください」
そんな父を意にも介さず有栖川は、父の横をすり抜ける。
「つれへんゴンちゃんもええ男やわぁ。ほな、一言二言、言わせてもろたら退散しますわ」
そして、母に向き直った。
「タヌキちゃん、肌もえろう黒くなって、ほんまにタヌキみたいやわぁ」
「あぁ? このクソ女が」
母が再び手を伸ばした。
「あー恐ろし。わてとギャルやってたのに、抜け駆けで結婚して、母親なって、先生やって、ギャルに戻って、えらい中途半端やなぁ」
有栖川は母に顔を近づけた。
薄ら笑いは消えている。
声が変わった。
「恵。アンタ、なんで上段やめた? なんで上段で、命賭けて打ち込んでけぇへんかったんや?」
有栖川が吐き捨てる。
「わてがアンタと白黒つける時は、あの突きや。負けるんが嫌で中段にしたんか? せやから中途半端やねんで」
母は震えている。
表情は見たくなかった。
有栖川は踵を返した。
「わて、本町で整形外科やってますぅ。そこのタヌキの治りが悪かったらおいで」
有栖川は深く頭を下げた。
最敬礼だった。
「ほな、さいなら」
そう言って、有栖川は人垣の中に消えて行った。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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