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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第三章 1999年 Revenger,again
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第七節

 4月24日。

 見知らぬ天井だった。

 瞼が重い。

 ぼやけた視界は白い。

 手術室を思わせるような明るい照明。

 頭の下には、柔らかい感触。

 良い枕だ。

 頬にぬるりとした液体を感じる。

 生温かい。

 背中が痛い。

 身体が重い。

 胸を押さえつけられているようだ。

 息が苦しい。

「遼ちゃん!」

 誰かが呼んでいる。

「起きて!遼ちゃん」

 ユーリだ。

 ユーリが呼んでいる。

「ふは!」

 遼太郎は飛び起きた。

 胸に載っていたリュックが落ちる。

 ベンチの硬い感触が背にまだ残っている。

「ここどこ? 今何時?」

 ユーリの声が後ろからした。

「十時半。開会式、終わったよ」

 声が低い。

 開会式。

 振り返るとユーリは隣の席に座っていた。

 ネイビーのポロニット。

 ミニ丈のフレアスカート。

 その太ももには光る筋がついている。

 ユーリはティッシュで太ももを拭う。

「ウチの膝は寝心地良かった?」

 声に険がある。

 あたりを見渡した。

 観客席。

 青いベンチ。

 席は程よく埋まっていた。

 ワックスのかかった板張りの床が、照明を白く反射していた。

 東大阪市立総合体育館。

 頬が冷たい。

 手を当ててみた。

 べっとりと濡れていた。

 やっぱり。

「す、すまん。涎たらして寝てもうた!」

 ユーリがため息をつく。

 ティッシュを渡してきた。

「どうせ昨日、心配で寝つけなかったんでしょ」

 よくわかってらっしゃる。

 受け取って、頬を拭う。

「試しに膝の上に転がしたら、鼾かき始めちゃうんだもん」

「いや、お前が寝かしたんやん」

「けど、スッキリしたでしょ?」

「…はい」

 否定はできなかった。

 ん?

 お尻の下に、何かがあった。

 手を伸ばすと紙に触れた。

 紙を引き出す。

 くしゃくしゃになったトーナメント表だった。

 紙を広げる。

 皺を伸ばす。

 表の中に名前があった。

『Aブロック 西尾 恵 五段』

 紙から顔を上げた。

 Aブロックの試合場に目を移す。

 母がいた。

 白騎士がそこにいた。

 なんとか母を連れてこられた。

 この場に。

 目頭が熱くなる。

 ダメだ。

 我慢しないと。

 我慢できなかった。

 堪えていたものが溢れ出してきた。

 白騎士の姿が歪む。

 ずっと。

 ずっと。

 自分が嫌だった。

 なんでや。

 なんで肺炎になったんや。

 そう思い続けていた。

 耐え切れなくなって、記憶の底へ沈めた。

 それでも、消えてはくれなかった。

 鼻水が出始めた。

 止まらない。

 やっと果たせた。

 やっと。

 横からタオルが差し出される。

 ユーリの手ごと握った。

 ユーリはそのまま身体を寄せ、抱き締めてくれた。

 何も見えなくなった。


 どのくらいの時間が経っただろうか。

 涙も鼻水も落ち着いてきた。

 ユーリの腕の力は強い。

 心地良い。

 ずっと包まれていたかった。

 その腕が緩んだ。

「そろそろ、試合始まるよ?」

 ユーリの声は優しかった。

 ああ。

 戻ってきて良かった。

 鼻をすする。

 顔を上げるとユーリと目が合った。

 ユーリはただ頷いた。

 よし。

 自分の頬を叩いた。

 あとはおかんが優勝して焼肉食ったら完璧や。

 大会の後は焼肉。

 荒本の焼肉屋。

 父が計画していた。

 休日出勤のスタシアも合流してどんちゃん騒ぎ。

「ありがとうな」

 ユーリの背中に腕を回して、抱き返す。

「当たり前だよ」

 ユーリは微笑んだ。

 その時、場内放送が響いた。

『只今より、第一試合を開始いたします』

 おっと。

 始まってしまう。

「いちゃついてないで、試合見ようよ」

 ユーリが試合場を見据える。

 選手名の読み上げが始まった。

『赤、烏丸少子四段』

 紺の騎士が一礼をする。

 そういえば。

「おとんとかどこに行ったん?」

 父たちが座っていた席には場所取りのペットボトルしか置かれていなかった。

 ユーリが指をさす。

『白、西尾恵五段』

 白騎士が一礼をする。

 その遥か後ろ。

 体育館の壁際に光るものがあった。

 父の頭だ。

 白のポロシャツにチノパン姿だった。

 その横には、ジャージ姿の男女が立っていた。

 富田と栞だ。

 富田はカメラを白騎士に向けている。

「あそこか。見づらくないんかな」

「ここもそこそこ遠いし、どっこいじゃない?」

 そう言いながらユーリはバッグからオペラグラスを取り出した。

 目に当てる。

 良いもん持っとるわ。

「あとで貸してな」

 ユーリがオペラグラスを下ろして、こちらを見た。

 わざとらしく目を見開いている。

「遼ちゃん、見ても凄さ分かるの?」

 口元が緩んでいる。

「きぃぃ!分かるわい!」

 多分。

 ユーリは再びオペラグラスを覗く。

「気が向いたら貸してあげるね」

 そう言ってケラケラ笑った。

 絶対貸してくれへんやつやんけ。


 会場内が静まった。

 じっと目を凝らす。

 白騎士は遠目にもよく目立つ。

『白い分、部位が見えやすくて不利ですよ』

 富田が心配げに言っていた。

『せっかくの大舞台や。目立たなあかんやろ』

 その心配を母は一蹴した。

 実に母らしい。

 試合場の中央で、二人が蹲踞の姿勢を取った。

 立ち上がる。

 竹刀を中段に構えた。

「始め!」

 主審の声が響いた。

 白騎士の竹刀が頭上へせり上がる。

 左足が前。

 左拳は額より高い。

 左諸手上段。

 駐車スペースで見た構えだった。

 相手が半歩下がる。

 白騎士が一歩詰めた。

 また下がる。

 白騎士の竹刀は揺れない。

 相手の竹刀だけが、落ち着きなく上下している。

 怯んでいる。

 白騎士がもう一歩出た。

 相手の剣先が、白騎士の左手に向いた。

「左小手」

 ユーリが呟いた。

 上段の弱点。

 相手が踏み込んだ。

 床が鳴る。

「コテェッ!」

 その声をかき消すように気合が響く。

「メェェン!」

 乾いた音は一つだけだった。

 白騎士は相手の脇を抜けていた。

 竹刀はすでに頭上へ戻っている。

 白い旗が上がった。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

「面あり!」

 主審の声。

 速い。

 何が起きたのか、ほとんど見えなかった。


 二人が開始線に戻った。

「二本目!」

 主審が声を上げる。

 白騎士はまた竹刀を掲げた。

 相手の剣先は、迷っている。

 やがて、白騎士の喉元へ伸びかけた。

 突きを狙っている。

 それは分かった。

 だが、相手は出ない。

 白騎士が一歩進む。

 相手の剣先が揺れた。

 さらに一歩。

 相手の両手が上がる。

「あーあ、引いちゃった」

 ユーリが小さく笑った。

 相手は面を守っている。

 白騎士の右手が柄から離れた。

 竹刀が伸びる。

「コテェッ!」

 鋭い音がした。

 相手の右手が跳ねる。

 白い旗が三本上がっていた。

「小手あり!」

 二本。

 二人が開始線へ戻る。

「勝負あり!」

 場内に拍手が広がった。

 一分も経っていない。

 白騎士は竹刀を下ろし、相手と礼を交わした。

 何事もなかったように試合場を出ていく。

 ユーリがオペラグラスを下ろした。

「遼ちゃん、凄さ分かった?」

 その声は嬉しそうだ。

 分からんが凄い。

「分かった」

 負けるわけにはいかない。

「へぇ~何が凄かった?」

 うっ。

 小悪魔め。

「…速かった」

 ユーリが吹き出した。

「それ、分かってないよ」

 …もう一回泣いたろかな。


 少しして母が戻ってきた。

 母は防具を外し、袴姿になっていた。

「あれ? 遼ちゃん起きたん?」

 母はペットボトルのお茶を持っている。

 汗だくだった。

「試合、ちゃんと見たで。おかん凄いやん」

「ありがとうなぁ。もうちょいカッコよくかませたらよかったんやけど」

 母が残念そうにする。

「先生、十分ですよ」

 後ろから声がした。

 栞だった。

「遼太郎、はい」

 栞は缶コーヒーを手渡してきた。

 ブラックだった。

「遼、飲めるんかぁ?」

「社長、若は事務所では飲んでますよ」

 父と富田も戻ってきた。

「舌まで大人なったなぁ。寝れんようになっても知らんで」

 父がゲラゲラ笑う。

「寝れるわ!」

 遼太郎は缶コーヒーを開けた。

 一口含む。

 苦みが脳に響いた。

 その横でユーリが母に駆け寄る。

「恵さん、凄かったです。片手小手の切れ味が良かった」

 ユーリと目が合った。

 小悪魔の笑顔。

 正解はそれか。

「ユーリちゃんもありがとうなぁ」

 母が微笑む。

「先生、お茶です」

 富田が横からペットボトルを二本手渡す。

 母が持っていた500mlのペットボトルは、既に空になっていた。

「おかん、よぉ飲むなぁ」

「昔から、試合になるとめっちゃ汗かくねん」

 母は一本の蓋を開けた。

「そんなに動いてへんねんけどなぁ」

 母は飲み始めた。

 その隣で父が栞に話しかけた。

「栞ちゃん、次の対戦相手って誰なん?」

「えっと…本部の前にトーナメント表があるのですが…」

 栞が目を凝らす。

「ウチ、オペラグラス持ってるよ」

 ユーリが覗き込む。

「どうせやったら」

 遼太郎はリュックの脇に差していた赤ペンを引き抜いた。

「ユーリ、次戦に進んだ選手読み上げて。書くわ」

「お、遼ちゃんナイス~」

 畳んでいたトーナメント表を広げる。

「ええで」

「じゃあ、恵さん」

「はい、って分かっとるわ」

 ユーリの笑い声が聞こえた。

 母の線を上に伸ばす。

 書きづらい。

 くしゃくしゃにしたのを後悔した。

「おふざけなしで一気に行くよ。茶川、森、荒木、磯谷、宮本、但馬、牧野、田宮、天草、由比、関口…」

 次々と勝者の線を伸ばしていく。

「それから、山田、木村、逸見、有栖川」

「有栖川?」

 父の声だった。

 父は母を見やった。

 母はお茶を飲みながら目を瞑っていた。

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