第六節
お知らせ:活動報告にQ&A及び人物紹介を掲示しました。もしよろしければ、お読みください。
4月22日。
校門へ続く桜並木では、枝よりも地面に花が多く残っていた。
側溝に寄った花びらは、端から茶色く変わっている。
枝先には若葉が揃っていた。
校舎の向こうでは、生駒山の斜面が薄い緑を帯びている。
朝の空気には、まだ冷たさがあった。
だが、昼を過ぎると校舎の南側へ陽が回った。
教室の窓は半分開けられている。
風が入るたび、カーテンが膨らんだ。
「ここ、『思って』じゃなくて『想って』ね」
ユーリはノートの端に、その漢字を書いた。
まだ習っていない字だが、致し方ない。
目の前で、エリがその字を書き写している。
ユーリは周囲を見渡した。
昼休みもそろそろ終わる。
廊下や校庭から、子供たちが教室へ戻り始めていた。
遼太郎の席を見た。
空いている。
キックベースかケイドロにでも駆り出されているのだろう。
小学校のヒエラルキーは足の速さで決まる。
遼太郎は速い方だ。
引く手数多である。
良いなぁ。
自分の太ももに視線を移した。
スカートから覗く太ももは引き締まっている。
鍛え過ぎた。
そして、運動会で負けん気を出したのが仇になった。
校内一の俊足になってしまった。
チートを抑えていたにもかかわらずだ。
今や、最終兵器扱いだ。
…ウチも童心に帰って遊びたいんだけど。
ため息をついた。
「できた」
エリが満足げな顔で紙を差し出してきた。
一読する。
誤字はない。
冒頭から眩暈がするような甘い言葉が並ぶ。
高校時代なら、胸をときめかせて似た文言を書いたかもしれない。
今は、読んでいる方が恥ずかしい。
結論は、今度一緒に図書館に行こうという誘い。
しかし、途中から天気や給食の話に脱線している。
恋文というより、怪文書だ。
何と言おうか。
「エリちゃん、一緒に図書館に行きたいって、もっと強く書いた方が良いんじゃないかな?」
「うーん、文字を大きくする?」
難しい。
恋文の添削など経験がない。
「まぁ、遼ちゃんなら分かってくれるから大丈夫かも」
受け手の判断に任せることにした。
恋文を返すと、エリは安心したように折り始めた。
それにしても。
一番の恋敵に、恋文の添削を頼むなんて。
実に可愛らしい。
遼太郎が本当の七歳児なら、断っていた。
近づかせすらしなかった。
何という狭量だろう。
自分でも笑ってしまう。
遼太郎の顔を思い浮かべた。
きっと図書館にも付き合ってあげるのだろう。
保護者としてなら構わない。
こんな幼子に絆されるはずもない。
好みは知っている。
隅々まで。
いや。
万が一、絆されようものなら。
矯正してあげないとね。
犯罪だもの。
エリが顔を上げた。
「入れるの、靴箱が良いかなぁ?」
恋文は、小さな便せん一枚に収まっていた。
エリはそれを指先で揺らした。
靴箱。
遼太郎なら踏みかねない。
そういう注意力は皆無だ。
何度辛酸をなめたことか。
「ちゃんと手渡しした方が良いよ」
渡せる。
伝えられる。
面と向かえるなら、その方が良い。
お姉さんからのアドバイスだよ。
「わかった!ありがとう」
エリは笑顔で自席に戻っていく。
エリちゃん。
一年生の頃は険があった。
いや、今でもたまにある。
それでも打ち解けてきた。
それに引き換え。
「ユーリちゃん!」
来た。
アヤカが声を張り上げながら近づく。
「ゴールデンウィークに遼ちゃんと東京行くのってほんま?」
険が強い。
どこから漏れたのか。
「誰から聞いたの?」
聞いてから愚問だと気づいた。
漏らすのは一人しかいない。
「遼ちゃん。お土産何が良いかって」
優しすぎるのも考えものだ。
遼ちゃん。
メリット・フィッチに会いに行くんでしょ?
将来、数兆、数十兆円に化けるかもしれない交渉でしょ?
実に呑気だ。
ユーリはため息をついた。
「うん、行くよ東京。家族旅行だよ」
「え…」
アヤカは二の句が継げなかった。
ふふっ。
意味がわかったんだぁ。
アヤカもエリも賢い。
賢い分、扱いやすい。
「お土産、何がいい?」
「…ひよこ饅頭」
「オッケー」
ユーリはポケットから手帳を取り出した。
学校用の手帳。
普段使いの手帳よりもプリクラを多めに貼っている。
プリクラは全て遼太郎とのツーショット。
それを見たアヤカの顔が歪む。
楽しいなぁ。
大人げないとは分かっていた。
ただ、やめられなかった。
この子の険が取れるのは、まだ先らしい。
手帳にメモし終わった時、男の子が話しかけてきた。
「ふくいんちょー」
「なあに?」
副委員長、ね?
役職は正確に呼びなさい。
遼太郎はおとなしめの子たちをまとめていた。
目の前で誰かがいじめられていたら、寝覚めが悪いらしい。
同感だった。
手伝っているうちに、二人揃って学級委員長と副委員長に祭り上げられた。
「いんちょーが…」
述語がない。
何かあったのだろうか。
危険な予感はしていない。
それでも。
「遼ちゃんがどうしたの!?」
思わず立ち上がった。
「キックベース、手ぇ抜いとるー」
は?
その時、予鈴が鳴った。
遼太郎がそそくさと教室に入ってきた。
マスクで顔の半分を隠している。
その後ろから、キックベースをしていた子供たちも戻ってきた。
皆、汗だくだった。
だが、遼太郎は汗一つかいていない。
「本気で走ってなかったんでしょ?」
男の子に尋ねた。
「うん。ゆっくり走ってた。いんちょー来たら勝てるって思ったのに。税金ドロボーや」
男の子はそのまま自席へ戻っていった。
税金泥棒とよく叩かれたけど、用法が違うね。
どこからそんな言葉を覚えてくるのだか。
「遼ちゃん、体調悪いんかな」
アヤカが心配そうな顔をする。
「大丈夫だと思うよ」
そう言って腰を下ろした。
逆だよ。
汗をかきたくない。
体力も使いたくない。
そういうことでしょ。
肺炎になったせいで、恵さんの大舞台を台無しにした。
酒が入るたびに嘆いてたもんね。
自分にとっても恵は特別だ。
何度も見舞った。
真っ白な病室。
黄色いスカビオサの花束。
痩せ細った顔。
秘めた気持ちを察してか、応援すらしてくれた。
義母と呼びたかった。
そんな恵の邪魔はしたくない。
気持ちは分かる。
ただ。
わざと大きな咳をしてみた。
遼太郎は跳ね上がった。
あたりを見回している。
可愛い。
だが、過剰だ。
ほんと、小心者なんだから。
帰りの会が終わり、子供たちが蜘蛛の子を散らすように帰っていく。
「遼ちゃーん、一緒に帰ろ」
アヤカが遼太郎に近づく。
その後ろにはエリもいる。
「すまん、今日おとんが車で迎えに来るねん」
遼太郎は申し訳なさそうに答えた。
口元はマスクで見えないが、眉が八の字になっている。
「そうなんや……じゃあ、また明日やね」
「おう、すまんな。あ、エリ!」
「なに?」
エリが嬉しそうに近づく。
「手紙、返事書くからな」
遼太郎はランドセルから便せんを取り出して見せた。
エリの顔が明るくなる。
優しい人。
だけど。
そんなエリを、アヤカはじっと見つめている。
ほんと、女心の分からない人。
見てられない。
泥を被ってあげるよ。
後ろから声を掛ける。
「遼ちゃん、お父さん来ちゃうよ?」
「おお、ほんまや。行こか」
遼太郎がランドセルを背負う。
「ユ、ユーリちゃんも一緒なん?」
アヤカが狼狽えた。
エリは口を開けたまま動かない。
「そう。家が隣だから、一緒の車に乗せてもらうの」
生意気な声を作った。
「じゃ、バイバーイ」
そのまま遼太郎の腕を引いて教室を出た。
二人は睨んでいた。
ウチを。
遼ちゃん、貸しだからね?
校舎を出ると、下校する子供たちの声が校庭に広がっていた。
駐車場では、午後の陽を受けて車の屋根が白く光っている。
風が吹いた。
アスファルトの隅に残っていた桜の花びらが、白線の上を転がっていく。
「まだ来てへんなぁ」
遼太郎が口を開いた。
マスクは既に外している。
駐車場には、教職員のものらしい車しかなかった。
「遼ちゃん、キックベースで手抜きしたでしょ?」
副委員長の仕事は果たさねばならない。
「何で知ってんの?」
遼太郎の目が見開かれた。
「クレームあったから」
「クレーム?」
「試合が明後日だから、体力使いたくないのは分かるけどさ。やるときはやろうよ?」
「うっ……すまん。やる気なかったんやけど、出てくれるだけでええって頼まれて、つい……」
頼まれたら断れない。
結局、中途半端な小心者。
ジョニーのことを言えた口ではない。
だけど。
それが遼ちゃんらしい。
だからこそ、放っておけない。
「そういう時は、その場では断って、来週、埋め合わせするの」
「はい……」
遼太郎はしゅんと肩を落とした。
顔はしょんぼりとしている。
ああ。
駄目だよ。
そんな情けない顔しちゃ。
ウチの遼ちゃん。
なんで。
そんなに愛おしいの。
ずっと愛でてたい。
ずっと。
ずっと。
遼ちゃんさえいればいい。
二人だけで。
そんな想いが、頭の奥で明滅した。
いけない。
止まれ。
落ち着け。
深呼吸をした。
遼太郎は気づいていない。
安寧であれば。
側に居られれば。
二人で居られれば。
どんどん膨らんでいく。
抑え込むのが大変なんだよ?
その時、二台の車が駐車場へ入ってきた。
前を走るのは、白いワンボックス。
ボンネットの初心者マークが真新しい。
車体の横には『西尾興業株式会社』の文字。
もとは西尾家の車だった。
今は、西尾興業の社有車になっている。
その後ろを走る車から、低く野太い排気音が響いていた。
鮮烈な青。
ベイサイドブルー。
低い車高。
直線的なボディライン。
張り出したフェンダー。
大きなフロントインテーク。
日産スカイラインGT-R。
R34。
今の西尾家の車だった。
剛三が、遼太郎から金を借りてまで買った車。
確かに美しい。
欲しくなるのも分かる。
ウチは、もっとシュッとした車が好きだけどね。
二台の車が目の前で止まった。
「おとーん!」
遼太郎が手を振った。
GT-Rから剛三が下りてくる。
「待たせたなぁ」
禿げ頭に西日が反射している。
ワンボックスの運転席からも人が下りてくる。
富田だった。
「富田兄ちゃんの練習?」
遼太郎が首を傾げる。
「ええ。社長に付き添ってもらってます」
富田がはにかむ。
「免許取って三日やのに、だいぶ上手いわ」
この青年は何をやらせてもそつなくこなす。
頭もいい。
前の職場に、こういう部下が欲しかった。
富田は手を横に振った。
「いえ、僕なんてまだまだですよ」
「明日からは、俺の付き添いも要らんとちゃうかな」
剛三は豪快に笑った。
「練習ついでに迎えに来るん、珍しいやん」
遼太郎の問いに剛三が声を潜める。
「今日な、お母ちゃんと栞ちゃんが練習で遅なるのは知ってるやろ?」
「うん」
「てんやもの買っとけ言われとるけど、どうせやったら壮行会やったろ思うてな」
遼太郎の目が輝く。
「くらで寿司買って帰るで! 向こうでお前らの好きなネタ選べや」
「ほんま!?」
剛三と目が合った。
「ほんまや。ユーリちゃんも遠慮なく頼みや」
「い、良いんですか」
生唾が出た。
寿司。
大好きだ。
遼ちゃんの次くらいに。
「水臭いこと言うなや。スタシアさんにも言うてある。デパ地下でなんか差し入れ買うてきてくれるらしいし、皆で食おう」
「おとん、おかんに酒は飲ませたらあかんで?」
遼太郎がおどける。
「分かっとるわ!勝てる試合にも負けてまうやろ。ほな、そろそろ行くで」
富田がワンボックスのスライドドアを開ける。
「若とユーリちゃんは後ろにどうぞ」
「富田君、安全運転で頼むで」
「任せてくださいよ。社長」
「富田兄ちゃん、よろしゅうたのんます!」
遼太郎が乗り込む。
「運転よろしくお願いします」
ユーリは富田に頭を下げた。
「かしこまらないでくださいよ、ユーリさん」
あ。
ひっどーい。
富田がしまったという顔をしている。
ちゃんで呼びなさいよ。
「じゃあ、運転よろしく。運転手さん」
意地悪く言って乗り込む。
富田は苦笑したままドアを閉めた。
ユーリはシートベルトを締めた。
ふと、隣を見やった。
遼太郎の横顔。
機嫌よく笑っている。
遼ちゃんもお寿司好きだもんね。
ああ。
この日々が続くなら、あの想いは奥にしまっておける。
そう思った。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
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