第五節
4月16日。
夕方。
風は西からだった。
大阪平野で日中の熱を含んだ風が、生駒山の西麓まで届いていた。
空には薄い霞が残り、山の稜線はぼやけている。
西尾興業の駐車スペースには、まだ陽が差していた。
コンクリートは昼間の熱を保っている。
だが、二階から伸びた影の中だけは、もう冷え始めていた。
風が開け放されたシャッターを抜け、薄暗い一階の作業場へ吹き込んだ。
その暗がりから、白騎士が姿を現した。
白い剣道着。
白い袴。
面も、小手も、垂も白い。
胴まで白で揃えられていた。
遼太郎はシャッター脇の長椅子から立ち上がり、白騎士に駆け寄った。
「おかん、めちゃくちゃかっこええやん」
思わず、声が上擦った。
「ほんま? ちょっと高かったけど、奮発した甲斐あったわ」
面の奥から、母の弾んだ声が返ってきた。
「先生、着け心地はいかがですか」
栞が、その後ろから出てきた。
「まぁまぁやな。まだちょっと硬いから、明日からの稽古で慣らすわ」
「一週間あれば馴染みそうですね」
栞はそう返すと、シャッター脇に置かれた段ボールを畳み始めた。
母は両腕を上げ、肩を回した。
左右へ身体を捌き、足を運ぶ。
足元だけは、普段履きのサンダルだった。
動くたび、ゴム底がコンクリートを擦った。
母が新調した道着と防具一式は、今日届いたばかりだった。
母は駐車スペースをすたすたと歩き回る。
入念に確かめている。
遼太郎は再び長椅子に腰を下ろした。
その時、階段を下りる足音がした。
「お待たせぇ~」
ユーリが、赤いボディのPHSを片手に下りてきた。
「早速使ってるなぁ」
遼太郎はPHSを指さした。
「固定電話じゃ辛かったからね。やっぱり、ケータイがあるだけでも安心感が違うよ」
そう言って、真新しいPHSを指で撫でた。
顔が緩みきっている。
それは職業病やろ。
とても言えなかった。
ユーリが遼太郎の隣に腰を下ろす。
バッグの金具が長椅子に触れて音がした。
「ママ、病院寄るって」
「外反母趾やっけ?」
「痛みはかなり引いてきたみたい。ただ、主治医の先生と毎回揉めてるらしいよ」
「あの性格じゃな」
お医者さん可哀想。
向こうでは、母が防具姿のままストレッチをしている。
「いや、やばいのは主治医の方みたい」
「やばいって何? ヤブ?」
「遼ちゃん、言葉悪いよ。ヤブじゃなくて名医らしいけど、あたりが強いんだって」
あたりが。
強い?
あの性悪に?
「スタシアさんに強く出れるって凄くね?」
稀にみる逸材だ。
「うん。めちゃくちゃ凄い」
ユーリが笑った。
「気になるわ。どこの病院か分かる?」
「分かるよ。ちょっと待ってね」
ユーリはPHSをサマンサタバサのバッグに戻した。
そのまま中を探り始める。
向こうでは、母がストレッチを切り上げ、栞に声を掛けた。
「竹刀あらへん?」
「あ、無いですね……富田の部屋ならあるかも」
「じゃあ、ちょっと借りよか」
母と栞がシャッターの奥に戻っていく。
ユーリが、ようやく手帳を取り出した。
表紙には、プリクラや学校で交換したシールがペタペタと貼り付けてある。
手帳を開くと、几帳面な字と、何枚もの名刺が見えた。
ビジネス手帳やんけ。
ユーリは、後ろに挟んであった一枚を抜いた。
「あった。本町駅前の有栖川整形外科。担当は有栖川志麻」
えらくインチキくさい苗字だ。
「ヤブくせぇ」
「苗字だけでしょ。一応、やんごとない苗字なんだから」
「本町か…駅から出たことないな」
乗り換え駅というイメージが強い。
「ビジネス街だからね。けど、電車で一本だし、怪我した時にも良いんじゃない?」
「いやぁ、遠慮しとくわ」
胡散臭くてあたりが強いのは勘弁してほしい。
ユーリがクスクス笑いながら、名刺を手帳へ戻した。
手帳をバッグにしまう。
「ところで、なんでそんなに名刺持ってるん?」
ユーリがバッグをポンッと叩いた。
「ママが捨てる書類とかから、使えそうなのを失敬してる」
情報を食べてる……。
この子怖いわぁ。
「情報コンプラって知ってるか?……書類はちゃんと破棄せなアカンで」
「あら、民間風情が説教するのね?」
ユーリは、わざと低く甘い声を出した。
その声に弱いのが、もうばれている。
いや、二十年の積み重ねか。
「すいませんでした。お役所様」
頭を下げた。
「分かればよろしい」
ユーリは満足そうに顎を上げた。
スタシアに似てきた気がした。
シャッターの奥から、二人の話し声が聞こえてきた。
白騎士姿の母と栞が戻ってくる。
母の手には、竹刀が一本握られていた。
「富田の部屋、初めて入ったけど、めちゃくちゃ綺麗やん」
「洒落てますよね。富田のくせに」
「ほんまや。おもんないわ。あとで色々片付けたろう思ってたのに」
汚くても文句を言われ、綺麗でも文句を言われる。
不条理だった。
ユーリが袖を引っ張ってきた。
「遼ちゃん。富田さん、最近見ないけど、どこ行ったの?」
しまった。
話してなかった。
「免許合宿です。明後日には帰ってきますよ」
栞が答えてくれた。
「おとんに、男たるものマニュアルで取れって放り込まれたんや」
AT限定は女子が取るもの。
父の評だった。
「それこそ、コンプライアンス……」
ユーリが小さく呟いた。
「あーあー、聞こえへん」
今は平成や。
良くも悪くも。
母が駐車スペースの真ん中に立っている。
「ほな、一通りやってみるで。栞、よろしく」
栞が頷く。
白騎士姿の母が竹刀を中段で構える。
膝を深く曲げて腰を落とした。
そのまま蹲踞の姿勢を取る。
「始め!」
栞の声は大きい。
母はバネが弾けるように立ち上がった。
吸い込まれるように竹刀が頭上へとせり上がっていく。
左足を前に、右足を一歩後ろへ。
掲げられた竹刀の先は、天を衝くようにまっすぐだった。
上段の構えというらしい。
変わった構えだとしか知らなかった。
母は竹刀を掲げたまま前へ出る。
一歩、下がる。
左右へ身体を捌く。
説明できない怖さがあった。
「栞姉ちゃん、おかんのあの構えって強いん?」
栞の目が見開かれる。
隣を見るとユーリの目も見開かれている。
「遼太郎、本気で言ってますか?」
栞の声色が冷たい。
ユーリが割り込む。
「遼ちゃん……ウチ、そこまで教えてなかったっけ?」
遼太郎は目を閉じた。
またしても何も知らない遼太郎君ですか。
「すいません、教えてください」
二人に頭を下げる。
栞は良い。
姉弟子だから。
ユーリは…。
天才だから仕方ない。
努力の。
実力の差ではない。
そう思わないと自分を守れない。
栞はため息をついた。
「上段は、相手を威圧して、先に崩す構えです」
栞は母に目を向けた。
「先生のは左諸手上段です。左手が前に出ているでしょう」
母の左拳は、額より高い位置にある。
「左手一本でも打てますから、中段より遠い間合いから面を狙えます。それに、竹刀を上げているので、相手に剣先を押さえられにくいんです」
リーチが長いってやつか。
「え、ずるない?」
ユーリが口を開く。
「その代わり、身体は空いてるよ。左小手も狙われるし、喉元を剣先で守れない」
「喉?」
「突きに弱い」
思わず、自分の喉を押さえた。
「ほな、弱点だらけやん」
「うん。誰にでも使える構えじゃないの」
「ですから」
栞が母の方を向いた。
「打突される前に、構えだけで相手を下がらせる。それだけの気迫が必要です」
「おかんに向いてるな」
「向きすぎてます」
遼太郎は母を見た。
竹刀は微動だにしない。
こちらを見ているのかさえ、面越しには分からなかった。
なるほど。
やられる前にやる。
やらせないように圧を掛ける。
母らしい。
怖いわけだ。
「遼ちゃん、ごめんねぇ。ウチが教えてあげてれば、恥かかなかったのにねぇ」
ユーリがわざとらしく悲しげな声を出す。
泣いてる仕草もしている。
腹立つわぁ。
「いーえ、勉強になりました。ありがとうございました!」
ユーリは嘘泣きをやめ、口元を緩めた。
八重歯が夕日に光っていた。
母が竹刀を置いた。
面の奥から声がした。
「遼太郎。確かに突きは上段の弱点やけど」
母が面を取りながら近寄ってくる。
「私が突きで一本取られたんは、一回だけや」
母は得意げな顔だ。
「いつですか。見たことないですよ」
栞が首を傾げる。
「大昔や。最近の試合相手には、そこまで度胸あるやつおらんからな」
「恵さんに敵う人、いないんじゃないですか?」
ユーリが尋ねる。
「わからんなぁ。だから全日本に行って確かめるんや。あと8日、慢心せずに気合入れなあかん」
母は自分の頬を叩いた。
あと8日。
体調は万全のはず。
それでも、何があるか分からない。
胃が痛くなってきた。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
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