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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第三章 1999年 Revenger,again
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第四節

 2月8日。

 立春を過ぎても、寒さは緩んでいなかった。

 町工場の間を抜ける風は乾いていた。

 路地の隅に溜まった砂埃が、風に巻かれて舞った。

 空は晴れていた。

 西尾興業事務所の二階の窓からは、薄い冬の日差しが入っていた。

 ガラスに貼られた『西尾興業』の文字が、床へ逆さに映っている。

 遼太郎は流し台に揃いのマグカップを二つ並べた。

 そして、冷蔵庫からタッパーを取り出した。

 栞に作ってもらった。

 風邪予防のレモンの蜂蜜漬け。

 だったもの。

 最初は、まだ原型があった。

 お湯に溶いて飲みやすかった。

 しかし、栞はあろうことか大根おろしや生姜も混ぜてしまった。

『風邪予防なら、これくらい入れないとダメです』

『遼太郎だけではなくて、皆も飲むべきです』

『先生にもしもがあってもいけませんから』

 言葉は心強かった。

 行動は極端だった。

「辛いねんなぁ」

 思わず零れた。

 大根は辛い部分を使っている。

 生姜も多い。

 マグカップにスプーンで少量ずつすくい入れた。

 ポットから湯を注ぐ。

 生姜の匂いが鼻を刺す。

 遼太郎は顔をしかめた。

 これが毎食後に出てくる。

 誰も文句を言わない。

 いや、言えなかった。

 言い出しっぺはなおさらだった。


 コン、コン。

 ノックの音がした。

 扉を開けるとユーリが立っていた。

 赤いマフラー。

 黒のフェイクレザージャケット。

 赤のタートルネックリブニット。

 ローライズのベルボトムジーンズ。

 下校の時に着ていた服装のままだった。

「おかえり」

 遼太郎はにっこり笑いかけた。

「ただいま」

 ユーリは蠱惑的な表情を浮かべ、遼太郎の背中へ腕を回した。

 唇を一度、重ねる。

 離す。

「あんまりやりすぎると、いざ結婚した時に新鮮味あらへんで?」

 俺らまだ小学生やぞ?

 ユーリがマフラーをほどく。

「いいの!ウチは飽きないから」

 飽きへんねやったらええか。

 俺も飽きへんし。

 ユーリがマフラーを丸めた。

「遼ちゃん、ここ来るの早くない?」

「今日、おかんと栞姉ちゃんおらへんねん」

 ランドセルは玄関にほっぽり出してきた。

「え、何かあったの?」

 ユーリが怪訝な顔をする。

「防具選びに行ってる。試合用に新調するんやって」

 先週から、防具を白で揃えるか、赤胴にするか二人で話していた。

「試合って四月だよね? 気が早くない?」

 ユーリがマグカップを見やる。

「気が早いのは遼ちゃんもか」

 呆れた顔だった。

「ユーリの分も用意してるで」

 ユーリが息をつく。

「気持ちはわかるけど…辛いのは何とかならないかな?」

「西尾家は毎食後これや。西尾家の嫁なら飲め」

「はーい」

 まんざらでもない顔だった。


 二人で応接スペースのソファに腰かける。

 二つのマグカップから立つ湯気は、もう薄くなっていた。

「今日何する? プレステ?」

 クリスマスプレゼントのプレイステーション。

 最近、二人で熱中していた。

「プレステかぁ、あのゲームは108人集めてクリアしたからねぇ」

 ユーリが考え込む。

 仲間を108人集めるRPG。

 高校時代に二人でやり込んだレトロゲーム。

「攻略本無しでよぉやるわ」

「え、覚えるでしょ? 逆に遼ちゃんが全然覚えてなくてショックなんだけど」

「いや、覚えへんって普通」

 108人の加入条件を覚えてるのはお前だけやで。

「ゲームの気分やなかったら、ここ片付けて、うちの居間で映画見るのとかでもええで」

「良いかも。実はママも今日帰りが遅いの」

「残業?」

 ユーリがマグカップに口を付ける。

「辛っ…ううん。病院」

 初耳だった。

「スタシアさん、どっか悪いん?」

「悪いというか、外反母趾。まだ軽いみたいだけど」

「あぁ…ヒールか」

 あれだけカツカツ歩き回ってたら患うか。

「うん、医者からはヒールやめろって。けど」

 ユーリがため息をついた。

「ママが人の意見聞くと思う?」

 不思議だ。

 見てもいない診察室の光景が浮かんだ。


 その時。

 ポケットのPHSが震えた。

 ディスプレイを見る。

 非通知だった。

 国際電話は非通知表示になるとジョニーが教えてくれた。

「ブラックストームかもしれへん」

「令和で働いてた時より忙しいんじゃない?」

 ユーリが軽口を叩く。

「かもな」

 思わず笑った。

 通話ボタンを押す。

 スピーカーボタンも押した。

「西尾だ」

 ジョニーか。

 サンタか。

 誰だ。

『あのぅ、ボスですか』

 覇気の無い男の声だった。

 ボス?

 ボス…ボス…。

 カリフォルニア。

 ガレージ。

 男女の凸凹コンビ。

 Gagoyle。

「おお、ニコラスじゃないか。どうかしたか。そっちは深夜じゃないのか」

 話しながら栞の机に急ぐ。

 Gagoyleの資料がまとめられたバインダーを探す。

『はい、午前零時です。スタシアさんから番号を聞きました。今お時間よろしいですか』

 スタシアからは何も聞いていない。

 緊急か。

 ただ事ではない。

 バインダーがあった。

 背表紙に几帳面な字でGagoyleと記してあった。

 整理する時間が欲しい。

「ああ。三分だけ待ってもらってもいいか」

『どうぞ』

 保留ボタンを押した。

 振り返ると、ユーリが低い机の上を片づけている。

 てきぱきとコントローラーを片づけ、遼太郎のマグカップまで持ち上げた。

 まだ飲んどるんやけどなぁ。

 遼太郎はソファに腰を落とした。

 ユーリが開けたスペースにバインダーを広げる。

 ページを捲る。

 同じ時期に投資したセイバーエージメントは優等生だった。

 利益も順調に上げ続けている。

 四月には、渋谷の事務所を引き払い、ちゃんとしたオフィスに移るそうだ。

 対してGagoyleはどうか。

 先月の総合レポートのページ。

 特に問題があるように見えない。

 …お。

 備考欄。

『キャッシュ量、減少気味。注意されたし』

 ユーリの字だった。

 財務報告のページを読み始める。

 赤字ではない。

 売上は伸びている。

 だが、確かに現金は減り続けている。

 まさか追加資金の要請だろうか。

「追加の資金でしょ?」

 上から声がした。

 ユーリが立ったまま財務報告を覗き込んでいる。

「多分な。100万ドルでも1年もたへんかったか」

 ユーリも隣に腰を下ろした。

 バインダーの横へ画用紙を広げ、電卓を置く。

「天下のGagoyle様だからね。金喰い虫だよ」

「ほんまやで」

 青田買いも楽ではない。

 保留を解除した。

「待たせたな。金が要るのか?」

『え?』

 違うのか。

『凄い。なんで分かるんですか』

 サーシャの声だ。

「財務報告をちゃんと読んでるからな」

 嘘だった。

 ユーリしか読んでいない。

 数字は嫌いだ。

「で、いくら欲しいんだ? 100万ドルか、200万ドルか」

 随分と羽振りが良くなったものだ。

 得意げに笑った。

『2500万ドルです』

 なんだ、2500万か。

「なんだ、2500万……」

 ドル?

 円じゃなくて?

 目の前に電卓が出された。

 2,900,000,000。

 いち。

 じゅう。

 ひゃく。

 …数えられない。

 ユーリが耳元で囁いた。

「29億円だよ」

「は?」

 ちょっと待てや。

 いきなりスピード上げ過ぎちゃうんか。

 ユーリが口を開いた。

「ちょっといいですか?」

 低い声。

 キレのある英語。

『ど、どちら様でしょうか』

 あ…。

 ユーリと顔を見合わせた。

 なんと言おう。

 無難に。

「秘書だ」

 ユーリの顔が変わる。

 なんで妻と言わないのか。

 そんな顔だった。

『前に来たマネーペニーじゃないのですか』

 サーシャの声。

 まずい。

 面倒なやつが食いついた。

 ユーリが首を傾げた。

 口が動いた。

「マネーペニー?」

 声は出ていない。

 致し方ない。

「マネーペニーの上司だ」

『ああ、じゃあMですね』

 ば。

『馬鹿!』

 ニコラスの方が早かった。

 この時代のMはおばあちゃんだ。

『すみません、ミス…』

「ユーリヤです。ユーリヤ・ニシオです」

 気が早すぎるだろう。

 ただ、ユーリはM呼ばわりされても機嫌を損ねていないようだった。

 レイフ・ファインズのイメージが強いのだろうか。

『相棒がすみません。ミス・ユーリヤ。なんでしょう?』

「いきなり2500万ドルが必要な財務状況には見えません。段階的に必要ということではないのですか」

『おっしゃる通りです。サーシャが総額だけ先に言ってしまいました』

「では、数年単位で2500万ドルということですね?」

 数年ならば大丈夫だ。

 捻出できるだろう。

『いえ、1年以内です。できれば7月までに、ある程度まとまった額が欲しいです』

 ユーリと顔を見合わせる。

 ユーリの顔は険しい。

「まとまった額ではわかりません。数字はきちんと出しなさい」

 ユーリがぴしゃりと言った。

『ひっ、はい…ちょっと待ってください』

 電話口の向こうでひそひそ話が聞こえる。

 ユーリは不機嫌そうにソファにもたれ掛かる。

 指で何度もペンを回している。

 懐かしい光景だった。

 舌打ちしないだけ冷静だった。

『お待たせしました。7月までに1000万ドル。残りの1500万ドルは、来年2月までに必要です』

 ニコラスの声ははっきりしていた。

「使途はなんですか?」

 ユーリのペンは回り続けている。

『人員とサーバーの増強です。このままだと、7月には増え続けるアクセスにサーバーが追いつかなくなります』

 サーシャが食い気味に答える。

「分かりました。少し、こちらで確認します。もう寝ますか? 寝ないなら15分後に掛け直してください」

『大丈夫です! 掛け直します。本当にすみません』

「では、15分後に」

 ユーリが電話を切った。

 ペンが止まった。

 沈黙。

「誰が、ジュディ・デンチだって?」

 ユーリの額には筋が立っている。

「やっぱり?」

 ゴールデンアイ世代やもんなぁ。

 ユーリがため息をつく。

「いやぁ、残り半年もないのに1000万ドル欲しいとか、さすが学生さんだね」

 声に棘がある。

 仕事終わりの酒の席で、よくこんな愚痴を聞かされた。

 懐かしい。

「とりあえず、資金を出せそうか考えるか」

 財布の中身が分からないと話にならない。

「明確な資金源は?」

 ユーリが尋ねた。

「来年2月までで良ければ、光通信で4000万ドル」

 Amazonから光通信に乗り換えた資金はドットコムバブルに乗るはずだ。

「史実通りかって懸念はあるけど、総額を捻出できる可能性は高い。問題はやっぱり時期だよね」

 ユーリが字を書き始める。

 現在のキャッシュは20万ドル。

 そこに月収見通しを足していく。

 更に月次の経費目安を引いていく。

「遼ちゃんは20万ドルをどこまで増やせるか探ってみて」

「任せろ」

 未来知識をたぐる。

 Qualcomm。

 分割調整。

 伸びるチャート。

 チャートを浮かべながら電卓を叩く。

 分割調整後で見れば、二月から年末までに十八倍近く増える優良銘柄。

 20万ドルが360万ドルに化ける。

 だが、遅い。

 足りない。

 7月までに1000万ドルを得るには。

 信用取引。

 秒刻みのトレード。

 タイミングを誤れば破滅。

 綱渡りの道筋しか見えない。

 これはダメだ。

「あかん、現物だけなら12月に360万ドルはいけそうやけど、7月までならレバレッジ掛けまくって綱渡りしても怪しいわ」

「レバレッジはやめた方が良いね。うーん、お悩み相談料でも12月までに80万ドルくらいにしかならない」

 ユーリが電卓のキーを叩いていく。

「かき集めても、今年中じゃ500万ドルにすら届かないね。7月なんてもってのほか」

「間に合わへんな」

 ユーリが頷く。

 タイムリミットは7月。

 あの手しかない。

「サンタさんに頼るか。5月来るらしいし」

「ママがまた怒るよ」

 ユーリが苦笑いを浮かべる。

 年一回のお願い。

 ただ、万能ではない。

「素直に聞いてくれるやろか?」

「多分、聞いてくれない。一枚噛ませろ、外部役員をねじ込ませろとか言ってくるだろうね」

 ユーリは銀髪を指先で巻いている。

「外部役員入れて、成長が止まるのは困るわ」

「わかるよ。けど、外部役員は必要だよ。あの二人じゃ経営は無理。ちゃんとした大人が要る」

「あいつらの話、聞いてみよか」

 ユーリが頷いた。


 その時、PHSが鳴った。

「ナイスタイミング。出るで?」

 ユーリはOKサインをした。

 通話ボタンを押す。

「待たせたな」

『いえ、どうでした?』

 ニコラスの声は硬い。

「単刀直入に言おう。7月に1000万ドルは無理だ」

 電話口でため息が聞こえた。

「だが、ブラックストームを巻き込む。奴らと交渉して引っ張ってくる」

『本当ですか! ありがとうございます』

「待って」

 ユーリが割って入る。

『はい、ミス・ユーリヤ』

「ブラックストームは…ボスよりシビアです」

『でも、見ず知らずの会社じゃないですよね。スタシアさんの名刺にありました』

「関係ありません。慈善事業ではないのだから、何かしらの代償を求めてくるのは確実です。だから、最終防衛ラインは決めておかないとダメです」

『防衛ライン…』

 分かっていなさそうな声だった。

「議決権のある株式は、どこまで差し出せますか?」

 しばらく間があった。

『僕たち二人が、会社を動かし続けられるラインまでなら』

「創業者二人で経営権を維持。それが最低ライン」

 ユーリがメモする。

「私たちも追加支援をしますから、その分の株式も貰いますよ?」

『はい、貰ってください』

 ユーリは息をついた。

「もう少し抵抗しなさい。あなたたちの会社の一部ですよ」

『分かっています。ですが、生き残って、この理想を叶えるには必要なことです。この時間まで二人で話し合って、決めました』

 ペンを回し始める。

「覚悟しているなら結構。ようこそ、ビジネスの世界へ」

 ユーリは冷めた笑いを浮かべた。

「株式とは別に、外部役員の受け入れを求められる可能性もあります。理解していますか」

『外部役員ですか』

「あなたたちの味方になってくれることもあるけど、やりたいことを制限してくるかもしれない大人です」

 答えがない。

「嫌なら拒否はできます」

『いえ、受け入れます』

 サーシャの声だった。

『私は法律とか決まりとかよくわかりません。だから、ニコラスにずっと助けてもらってました。だけど……』

「だけど?」

『最近はニコラスがずっと調整とかしてくれて、一緒に作りたいものが作れていません』

 サーシャの声は濡れていた。

『今回みたいに、ギリギリになってボスにも迷惑を掛けてしまいました』

「そこは気にしていない」

 口を挟んでしまった。

「ニコラスはそれでいいのか? 外部の人間を入れても」

『はい。ただ、実務に明るくて、会社を奪おうとしない方にしていただきたいです』

「外部役員に野心の無い実務屋をご所望か。大きく出たな」

『ボスならやってくれると信じています』

 ニコラスの声も濡れていた。

 ボスなら、か。

「おだてても何も出ないぞ? ただ、努力はする。交渉は5月だ。期待して待っておけ」

『ありがとうございます』

 いっちょやったるか。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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