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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第三章 1999年 Revenger,again
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第一節

 1月1日。

 夜明けとともに、生駒の山から冷気が下りてきた。

 山裾に溜まった空気は、傾斜に沿って平地へ流れ、町工場の屋根を越えて狭い路地の底へ沈んでいた。

 東の空から日が昇り始めていたが、低い家並みに遮られた場所には、まだ夜の冷たさが残っていた。

 軒先の正月飾りも、風に揺れることなく固まっていた。

 町工場のシャッターは、どこも閉じられていた。

 西尾家の居間には、酒の匂いがしていた。

 金箔入りの大吟醸は、もう封が開いている。

 母が味見と称して、先に口をつけていた。

 食卓には、三段の重箱が並んでいた。

 遼太郎が蓋を開けるたび、去年はなかったものが出てくる。

 大きな海老。

 トコブシの煮つけ。

 厚く切られた数の子。

 別の皿には、スルメが丸ごと載っていた。

 豪華や。

 以前の母なら、こんなに大きな海老なんて見向きもしなかっただろう。

 自分の稼いだ金が、こういうところに表れるのは嬉しかった。

 だが、変わらないものもある。

 重箱の横に、大鉢が置かれていた。

 黒豆だった。

 いや、量だけは変わっていた。

 去年より遥かに多い。

 表面が盛り上がるほど、黒い豆が詰まっている。

 何故だ。

 何故増えた。

 向かいでは、祝い箸を並べていた栞が手を止めていた。

 黒豆を見て、眉尻を下げている。

 …そうか。

 栞姉ちゃんの分や。

 栞は甘党だ。

 冷蔵庫の甘味が消える事件の主犯である。

 母が気を利かしたのだろう。

 よく見ると、重箱の一角に栗きんとんがみっしり。

 遼太郎は目を逸らした。

 ……あとでユーリに持っていこう。

 新年の挨拶である。

 在庫処分ではない。


「ほな、改めて」

 父が手を合わせた。

 母は既に杯を持っている。

 栞も背筋を伸ばした。

「あけましておめでとう。今年もよろしく」

「あけましておめでとうございます」

 栞が頭を下げ、母と遼太郎も続いた。

「いただきます」

 声を合わせ、皆が箸を取った。

 遼太郎の箸は数の子に伸びた。

 一つを口へ入れる。

 ぷちぷちとした歯応えと、鰹出汁の味が口に広がった。

 二つ目に箸を伸ばす。

 数の子は好物だ。

 いや、魚卵自体が好物だ。

 プリン体。

 嫌な言葉が頭をよぎった。

 三つ目に箸を伸ばす。

「遼、数の子ばっか取るなや」

 父が苦言を呈する。

「大丈夫、海老も取るから」

 甲殻類も好物だ。

 父がツッコむ前に、横から箸が伸びてきた。

 たたきごぼう。

 里芋。

 れんこん。

 紅白なます。

 次々と遼太郎の取り皿に盛られていく。

「お野菜も食べてくださいね」

 栞は最後に、金時人参の煮物まで載せた。

 ノルマか。

 今年七歳になる身体では、これを片づけるだけで限界だろう。

「遼ちゃん、雑煮もあるから、お代わりしてや」

 母が明るい声を出した。

 これ以上、食えない。

 正月から野菜なんて食べたくない。

 ノルマを減らしてもらおうと、母を見た。

 母は手酌で、大吟醸を杯へ注いでいた。

 見間違いだろうか。

 一升瓶は、既に1/3ほど空いていた。

「おかん、何杯目?」

「覚えてへん」

「人間ドックで異常なかったからって、飲み過ぎやで」

「正月やからええの」

 母は杯を空けた。


 栞は黙って雑煮を食べていた。

 箸で餅を切ろうとする。

 餅は切れず、椀から細く伸びた。

 栞はそのまま口へ運んだ。

 しばらく噛んでいたが、急に動かなくなった。

「栞姉ちゃん?」

 詰まったんちゃうやろな。

 栞は返事をせず、爪楊枝を一本取った。

 口元を隠し、横を向く。

「歯についたん?」

 小さく頷く。

「……見ないでください」

 まだ取れないらしい。


 重箱の隙間が目立ち始めた頃、父が思い出したように立ち上がった。

「遼」

 箪笥の引き出しから、赤いポチ袋を取り出す。

「ほら」

 お年玉だった。

「ありがとう!」

 遼太郎は両手で受け取った。

「無駄遣いすんなよ」

 父が言った。

「うん!」

 お年玉は良い。

 自分で稼いだ金とは違う。

 貰えることに意味がある。

 自然と笑顔になった。

 ポチ袋の中を覗き込む。

 3万円。

 お年玉としては上々だ。

 ポチ袋をポケットにしまう。

 上々、か。

 昨年、西尾興業に入った金は、4億円を超えている。

 4億円よりもポチ袋の3万円が嬉しかった。

 可笑しなもんや。

 箸でたたきごぼうをつつく。

 土臭さが、どうも苦手だった。

 お年玉で何買うかな。

 ゲームか、漫画か。

 無駄遣い。

 父の言葉が過った。

 たたきごぼうをつまみ上げた。

 4億円の内、2億円近くは税金のために取っておかなければならない。

 残りも株や出資に回した。

 手元に残した現金は、1000万円と少し。

 資産は増えた。

 だが、自由に使える金は、思ったほど残っていない。

 税金。

 何で2億円近くも持っていかれなあかんねん。

 それこそ無駄や。

 世の金持ちは、よう正気でおれるわ。

 たたきごぼうを口に入れた。

 忌々しげに噛み砕いた。

 酸っぱい。

 口直しが欲しくなった。

 皆の目を盗み、トコブシの煮つけを二つ摘まむ。

 重箱の一角が空になった。

 数が合わないことなど知ったことか。

 トコブシの身は、照りのある深い琥珀色に輝いている。

 こんな逸品は滅多に食えない。

 ……何が2億や。

 こういうおせちが食えるだけ幸せやんけ。

 二つを一気に頬張った。

 噛むほどに上品な磯の香りが広がる。

 コリコリと小気味よい音が響く。

 実においちぃ。

 

 父を横目で見た。

 二つ食べたのはバレていない。

 父はまだトコブシを食べていない。

 悪く思うなよ、おとん。

 世の中は弱肉強食なのだ。

 口元が緩んだ。

 …ただ、可哀想な気もしてきた。

 そういえば。

「おとん」

「何や」

「スカイライン、どうするん?」

 父の箸が止まった。

「何の話や」

「事務所の引き出しの資料、見たで」

 父は伊達巻をつまんだ。

 箸先で崩れた。

「見てたんか」

「買わへんの?」

「簡単に言うな」

「買えなくはないやろ」

 今ある現金だけでも十分だ。

「そら、欲しいけどな」

「ほな、買ったらええやん」

 金ならある。

 その言葉は飲み込んだ。

「お前の金でか?」

「会社の金やで」

「その会社に金入れたん、誰や」

 言い返せない。

 父は箸を置いた。

「車くらい、自分で稼いだ金で買いたいやろ」

 父は頭を掻いた。

「このままやったら、いつになるか分からんけどな」

 困ったように笑っていた。

 気持ちは分かる。

 それでも、親孝行くらいさせてほしかった。

「まぁ……ちょっと考えるわ」

 父はそう言って、話を切った。

「黙って受け取っとけや、剛三!」

 母が口を開いた。

 頬が赤い。

 空になった杯を握ったまま、父を睨んでいる。

「せっかく遼ちゃんが、私らのこと気にしてくれとんねやから、乗らんかい!」

 父は苦笑いで誤魔化す。

 母は構わず、大吟醸を手酌で注いだ。

「おかんは今年やりたい事とかないん?」

 流れで聞いてみた。

「私はなぁ、でかい大会出るで!」

「いつものやつか?」

 父が聞いた。

「ちゃう。全日本の府予選や!」

 栞が顔を上げた。

「本当ですか、恵さん」

「ほんまや! 栞、剣道の話や。先生って呼べぇ」

 母はゲラゲラ笑っている。

 おかん、もう限界やろ。

「は、はい。先生、ついに全日本を目指すのですか」

 栞の声が大きくなった。

 その顔は明るい。

「せや。府警の婦警ボコすんも飽きたからな! ダハハハハ!」

 母は高笑いした。

 誰も笑わなかった。

 母は気にせず、杯を一息に空けた。

「先生なら、必ず勝ち上がれます」

 栞が拳を握る。

「栞は分かっとるなぁ。まぁ、呑めや」

 母が栞に杯を差し出した。

「いえ……今日はまだ十九歳ですので。あと三か月ですが」

 栞がかぶりを振る。

「ほとんど変わらんやん。私なんて学生時代から呑んでたで」

 そう言って杯を渡そうとした手を父が止めていた。

 おかん、流石にあかんて。


 ん?

 全日本の府予選……。

 突然、記憶がうずいた。

 七歳の時。

 熱。

 汗で湿った寝巻き。

 脇に挟まれた体温計。

 病室。

 見舞いの花束。

 橙色の花。

 枕元には、母が座っていた。

『大会は、またあるから』

 そう言って、濡れた手拭いを額に載せてくれた。

 そうや。

 七歳のこの年。

 予選当日に肺炎をこじらせた。

 そして、救急搬送された。

 母は予選を欠場した。

 送り主の分からない見舞いの花束。

 ガーベラ。

 花言葉は『前進』。

 枕元で母が教えてくれた。

 けれど、母の剣道人生はそこで止まった。

 母は大会に出なくなった。


「遼太郎?」

 栞の声で、食卓に戻った。

 随分、黙り込んでいたらしい。

「大丈夫。俺も歯に挟まったみたいや」

 咄嗟に誤魔化した。

 栞が爪楊枝を取ってくれた。

 遼太郎は、何も挟まっていない奥歯を爪楊枝でつついた。

 予選は、いつだった。

 春だったはずだ。

 日付までは思い出せない。

 なら、今から気をつけるしかない。

 手洗い。

 うがい。

 早寝。

 ソーシャルディスタンス。


 その時、笑い転げていた母の動きが止まった。

 顔色が変わり始める。

 来たか。

 父と栞が、すぐに母の両脇へ回った。

 ビニール袋を取ってこよう。

 遼太郎も立ち上がった。

 今年の目標。

 風邪を引かない。

 この母を、全日本に連れていく。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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遼ちゃんよくばり!今生は欲しいもの全部持ってくんやで!
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