第三十節
12月24日。
夜明け前の空は、鈍い青色をしていた。
北から流れ込んだ冷気が町の低いところへ溜まり、屋根も塀も、薄い霜に縁取られていた。
遠くの山並みは稜線だけが鋭く、白み始めた東の空を切っていた。
新聞配達のバイクが通り過ぎると、乾いた排気音だけが長く残った。
西尾家の障子にも、夜の冷えが染み込んでいた。
栞は目を開けた。
枕元の目覚まし時計を見る。
六時。
今日も、アラームが鳴る前に起きられた。
六時半に起きる母より先に起きるのが、いつものことだった。
隣の布団では、母が眠っている。
規則正しい寝息。
布団から出た肩へ、掛け布団を戻した。
日焼けの色が、少し薄くなってきている。
最近、恵は日焼けサロンへ行きたいと零していた。
近いうちに、行ける日を作らないといけない。
お母さん。
自分の人生も楽しんでくださいね。
栞は母に微笑みかけた。
今日も一日頑張りましょう。
栞は静かに立ち上がった。
部屋の隅。
低い箪笥の上に、小さな写真立てがある。
前の家から持ってきた、数少ない物だった。
写真の中に女がいた。
痩せた頬。
困ったような笑い方。
化粧は薄い。
目元には、隠しきれなかった影がある。
実母だった。
栞は写真の前に座った。
手を合わせる。
安らかに。
ほかに何を祈ればよいのか、分からなかった。
それでも、手は合わせる。
習慣なのか。
義務なのか。
やめる理由を、まだ見つけられないだけかもしれない。
栞は立ち上がった。
襖を開ける。
廊下の板が冷たい。
台所へ入ると、窓の端が白く曇っていた。
炊飯器を確認する。
昨夜、タイマー炊飯をセットしておいた。
米は炊けている。
べちゃついていない。
母はタイマーを入れ忘れたり、水加減を間違えたりすることが多かった。
うまく炊けた。
思わず、口元が綻んだ。
米をほぐす。
炊き立ての良い匂いがした。
朝刊を取りに、玄関へ向かう。
扉を開けると、朝の空気が頬を刺した。
門柱の上には霜が残っている。
郵便受けを開けて、朝刊を取り出す。
その奥に、封書と葉書が入っていた。
西尾 剛三様。
西尾 恵様。
年末の挨拶。
請求書。
広告。
クリスマスセール。
一枚ずつ確認する。
その中に、見慣れない封筒があった。
茶色い封筒。
角ばった文字。
神谷 栞様。
手が止まった。
神谷。
その二文字を指で隠す。
指が穢れた気がした。
封を切った。
公判の日程が書かれていた。
被告人。
実父の名前。
田上から話は聞いている。
検察は、殺人罪の成立を主張する。
弁護側は、傷害致死を主張する。
殺すつもりで殴ったのか。
殴った結果、死んだのか。
何度も殴った。
倒れてからも殴った。
実母が動かなくなるまで。
それでも、殺すつもりはなかったと宣うらしい。
田上の見立てでは、求刑は十年ほど。
軽い方へ転べば、刑は五年ほど。
執行猶予は付かないだろう。
田上は苦い顔で言っていた。
鼻で笑った。
それが法だというのか。
人を殺しておいて。
十年も経たないうちに、あれは出てくる。
必ず、ここへ来る。
自分の娘がどこにいるのか。
誰の家に住んでいるのか。
何をしているのか。
調べる。
押しかける。
たかる。
断れば、暴れる。
母に手を上げるかもしれない。
父を傷つけるかもしれない。
弟に。
遼太郎に、触れるかもしれない。
紙が鳴った。
今になって思えば。
法ではなく、田上に任せておけばよかった。
手の中で、通知が折れている。
出てきたら、殺す。
人知れず。
実母を殺したからではない。
この家に近づくからだ。
迷いはなかった。
公判の日付を見る。
覚えた。
紙を縦に裂く。
もう一度裂く。
横に裂く。
標的の名前が消えるまで。
神谷の文字が読めなくなるまで。
細かくなった紙を、玄関脇のごみ袋の底へ押し込んだ。
息を吸う。
冷たい空気が胸へ入った。
ゆっくり吐く。
もう一度。
「栞?」
廊下から声がした。
振り向くと母が立っていた。
髪が少し乱れている。
肩にはカーディガンを掛けていた。
「恵さん、おはようございます」
声を高くした。
さっきまでの殺意を隠すように。
日頃から秘めた想いを隠すように。
「おはよう。早いな」
寒そうに身体をさすりながら、こちらへ近づいてくる。
「ご飯、炊けてますよ」
「いつも悪いなぁ」
母は台所へ入っていった。
栞もあとに続いた。
母が出汁の入った鍋を火にかけた。
栞は冷蔵庫を開ける。
大根。
パックの中でタレに浸った豚肉。
昨夜の煮物。
漬物。
栞は煮物と漬物を手に取り、食卓へ運んだ。
戻ると、母が包丁を握っていた。
同じ厚さに大根を切る。
それを鍋へ入れた。
栞は隣で味噌を溶く。
味噌の匂いが広がった。
「食器運んでくれる? 私、生姜焼き焼くから」
「わかりました」
母が豚肉を炒める。
栞は茶碗と箸を並べた。
肉の焼ける音。
鍋が小さく沸く音。
二人で作る朝食だった。
七時。
そろそろ、家族が起きる時間だった。
父は、声を掛ければ自分で起きてきてくれる。
問題は弟だ。
「遼太郎を起こしてきます」
「お願い。昨日も夜更かししてたみたいやから」
「ゲームですか」
「たぶん」
「ぐうたらですね」
「誰に似たんやろなぁ」
母が笑った。
炊飯器に視線を移した。
答えは出さない方が良さそうだった。
子供部屋まで小走りして襖を開ける。
薄暗い。
カーテンの隙間から、細い光が入っている。
弟は布団の中に埋まっていた。
頭だけが出ている。
枕元には、黒いコントローラー。
子供部屋にまでテレビを置いたのは、失敗だった。
学校が休みだからといって、だらけすぎだ。
「遼太郎。朝です」
返事はない。
「遼太郎」
布団が僅かに動いた。
「起きてください」
「……あと五分」
五分で済んだためしはない。
「五分経っても、同じことを言います」
「今日は言わへん」
「昨日も言いました」
問答無用。
布団の端を掴む。
引いた。
「寒っ!」
遼太郎が丸くなった。
「起きてください」
「栞姉ちゃん、酷いやん」
「朝食が冷めます。まだ文句を言うなら、着替えも手伝いますよ」
弟の肩へ手を伸ばす。
小さい。
濡れた土。
暗い木々。
泥のついた膝。
あの日、自分を追ってきた小さな身体。
栞。
名前を呼んだ声。
私の遼太郎。
「起きる! 起きるから手伝わんでええ! 恥ずかしい!」
弟が飛び起きた。
髪が四方へ跳ねている。
寝癖が酷い。
「顔を洗ってください」
「分かってる」
「髪も直してください」
「栞姉ちゃん、細かい」
弟は布団から出た。
寒そうに肩をすくめながら、洗面所へ向かった。
朝食が始まった。
隣に座る弟は、生姜焼きに舌鼓を打っている。
頬には米粒がついている。
遼太郎、美味しいですか。
寝癖は、まだ後ろに一本残っていた。
「今日は何時から買い出し行くん?」
沢庵を一枚取りながら、父が聞いた。
「九時頃でええんちゃう? 若江のイズミヤやったら、もう開いてるやろ」
母が自分の茶碗にご飯をよそいながら答えた。
「丸鶏、いくらぐらいするんかなぁ」
父が沢庵を齧る。
あれ?
「お父様、予約されてないんですか?」
父の目が見開かれる。
「え、予約? クリスマスやねんし、いっぱいあるんとちゃうの? 富田君も大丈夫や言うてたで」
富田は何をしているのか。
「まぁ、無かったら無かった時や」
母がケラケラと笑う。
父が弟に目をやる。
「遼は留守番するんやっけか」
弟が茶碗の米粒を集めながら答える。
「せやで、事務所でユーリと遊んでるわ」
「おう、戸締まりと暖かくしとけよ」
あとで暖房を入れておいてあげよう。
食後、栞は先に家を出た。
冬の住宅街は、音が少なかった。
白い息。
乾いた道。
門扉の影だけが長い。
西尾興業まで歩く。
角を曲がると、竹箒の音が聞こえた。
富田が、事務所前を掃いていた。
黒い作業着。
首にはタオル。
吐く息が白い。
「おはようございます」
「おはようございます、栞」
富田は箒を止めた。
「早いですね」
「富田もです」
「今日は掃除が多いので」
一階のシャッターは半分開いていた。
中には、机と折り畳み椅子が積まれている。
「駐車スペースは終わりました。次は一階です」
「ドラム缶は?」
富田が、駐車スペースに置かれたドラム缶を見やった。
「社長が昨日持ってきました。中も洗ってあります」
「消火用の水は」
「バケツを三つ用意しました」
「炭は」
「買い出しですね」
「網は」
「あります。栞は心配性ですね」
富田が笑った。
「丸鶏以外は抜かりないですね」
「社長に言った後で、まずいと思いました。もうバレましたか」
富田は苦笑いを浮かべていた。
まったく、ふざけた男だ。
富田が、シャッター脇の郵便受けから封書の束を取り出した。
「こちら、事務所宛です」
請求書。
金融機関からの案内。
紛れ込んだチラシ。
年末年始の休業通知。
「ありがとうございます。出発は九時過ぎです」
富田が腕時計を見た。
G-SHOCK。
スピードモデル。
富田の誕生日に、弟が贈ったもの。
毎日着けられるのが、羨ましい。
弟に貰ったCOACHの時計は、傷をつけるのが怖くて使えなかった。
「遼太郎とユーリさんが留守番です」
富田の顔が曇った。
「ユーリちゃん、ですよ。本人の前では間違えないでください」
しまった。
弟はともかく、目上の相手をちゃん付けで呼ぶのには抵抗がある。
「気を付けます」
富田も間違えるくせに。
「引き続き一階の準備をお願いします。二人の邪魔はしないように」
指摘されるのは、悔しい。
あなたはずっと準備してなさい。
二階に上がると事務所は冷えていた。
窓ガラスの下が白く曇っている。
暖房のスイッチを入れる。
低い音が始まった。
チラシをゴミ箱に入れる。
中には経済新聞が数部入っていた。
夏ごろから弟が取り始めたものだ。
読んでいる姿は見たことがない。
今日の火おこしに使っても良いかもしれない。
文句は言わないだろう。
自分の席に着く。
番号順に並んだファイル。
四隅の揃った書類。
整理されていると気持ちが良い。
それに引き換え。
応接スペースを見やった。
ソファの上には漫画本。
ファッション雑誌。
週刊誌。
低い机の上には金色のゲーム機。
コントローラー。
整理整頓に厳しいユーリさんも、自分たちには甘いんですね。
ため息が出た。
机に向き直る。
郵便物をデスクトレーに振り分ける。
支払い。
保管。
確認待ち。
三つのトレー。
ユーリの提案で用意したトレー。
封筒の向きを揃えた。
机の上には、新しいパソコンがある。
白い本体。
白いモニター。
以前は、ゲームの操作一つにも悪戦苦闘していた。
今は違う。
表計算ソフトは、弟に教わった。
まだ、簡単なものしか作れない。
それでも、決まった表から、決まった数字を拾うだけのマクロは自信作だ。
文書作成ソフトは、ユーリに教わった。
やたら様式にうるさいのが玉に瑕だった。
OJTだと、二人は言っていた。
ありがたかった。
階下で、車の扉が閉まる音がした。
母の笑い声に、何人もの声が重なる。
続いて、階段を上がる足音がした。
弟が事務所に入ってきた。
「お、あったかい。栞姉ちゃん、ありがとう」
いえいえ。
ユーリが、その後ろから顔を出した。
「栞姉ちゃん、パソコン借りてもいい?」
「構いません。仕事のファイルは触らないでください」
「はーい」
「返事が軽いですね」
「大丈夫。遼ちゃんより上手だから」
「何で俺が比較対象やねん」
弟が不満そうに言った。
「私たちが帰ってきたら、一階の準備を手伝ってください」
「分かってる」
「本当に?」
「栞姉ちゃん、最近おかんに似てきたで」
「光栄です」
弟が黙った。
それは褒め言葉ですよ。
買い出しに出た。
若江のイズミヤには、丸鶏はなかった。
吉田のイトーヨーカドーにもなかった。
父の口数が減っていく。
一縷の望みをかけて、瓢箪山のサカエに立ち寄った。
店員が奥へ確認に行った。
「一羽だけなら」
そう言って店員は父に丸鶏を渡して去って行った。
プラスチックの深いトレーに、内臓を抜かれた丸鶏が収まっている。
父の顔が一気に明るくなった。
「ほら、なんとかなったやん」
「一羽では足りません」
何羽も焼くと仰っていませんでしたか?
「ほかにも肉あるから」
「丸鶏を焼くことが目的だったのでは」
「雰囲気や、雰囲気」
お父さんは、勢いで生きすぎです。
富田が横を向いた。
肩が揺れている。
笑わないでください。
あなたにも責任があるのですよ、富田。
母とスタシアは、酒の棚の前にいた。
「これ美味しそうやな」
母が日本酒の瓶を掴む。
「こっちも良さそう」
スタシアが赤ワインの瓶を握る。
「両方買う?」
「買いましょう。ビールは箱でいいですか」
相談になっていない。
監査役は役に立たなかった。
最後に、家電量販店に寄った。
父と母が、店員から大きな箱を受け取った。
青い文字。
灰色の本体が印刷されている。
プレイステーション。
「これでええんやんな」
「遼ちゃん、CMのたびに見てたから」
母が箱を撫でた。
「欲しいって言わへんかったけど」
「言わへんから、余計にな」
父が笑った。
母がスタシアに顔を向ける。
「ところで、ユーリちゃんの分はあるんですか」
ラフな格好に普段のバッグ。
プレゼントを抱えている様子はない。
スタシアが指で丸を作った。
「昨日買ってきて、もう枕元に置くだけです。ユーリは私のバッグに興味津々なんですよ」
スタシアは、自分のバッグを見せびらかした。
母が食いつく。
「そのサマンサに? じゃあ、プレゼントってサマンサ?」
「もちろん!」
母とスタシアが笑った。
クリスマスプレゼントにサマンサタバサは、どうなんでしょう。
プレイステーションの箱に目を移した。
二人とも、欲しければ手に入れられる。
それでも、自分では買わなかった。
親から贈られるのがいい。
きっと、そう言うのだろう。
その気持ちは分からない。
だけど、羨ましくもあった。
夕方。
西尾興業には、炭の匂いが広がっていた。
シャッターは全開。
外はもう暗い。
駐車スペースに置かれたドラム缶から、赤い火が見える。
煙が冬の空へ上がっていく。
丸鶏は、富田が見張っていた。
表面に油を塗り、何度も向きを変えている。
一階には机が並んでいた。
皿。
料理。
飲み物。
父が紙コップを持って立つ。
「えー。本日は、創業後初のクリスマスパーティーということで――」
「長い!」
母から声が飛んだ。
頬が赤い。
もう飲んでいる。
「まだ始まったばっかりや」
「肉が焦げるわよ! 早くしろ、馬鹿社長!」
ジャージ姿のスタシアがヤジを飛ばす。
こちらも飲んでいた。
「乾杯だけでええやろ!」
母が言う。
「社長の挨拶やぞ」
「普段は社長らしいことしてへんやん」
「してるわ!」
富田が笑っている。
弟とユーリも、腹を抱えて笑っている。
父は諦めたように紙コップを上げた。
「ほな、今年一年お疲れさん! 乾杯!」
「乾杯!」
声が重なった。
紙コップが中身を揺らした。
網の方を見ると、さっそく弟とユーリが肉を並べている。
「ユーリ、肉はな、じっくり育てるんや」
「ウチ、レアがいい」
「昔から、生肉好きやもんなぁ」
昔から。
その言葉を聞いて、あの日のことを思い出した。
日本橋。
家電量販店の手洗い。
蛍光灯の白い光。
鏡。
中には、自分たちしかいない。
栞は個室にいた。
尿意も便意もない。
便器にも腰掛けず、立っていた。
この時を待っていた。
ずっと、二人を見てきた。
弟は、あの裏山の日から。
ユーリは、入学式の日から。
弟も、子供としては異質だった。
けれど、西尾家の子供としては自然だった。
中身が何であろうと、母の子だった。
なら、何でもいい。
遼太郎は、私の弟だ。
だが、扉の向こうにいる子供は違う。
弟の弱みを握っていた。
弟は怯えていた。
だから、ずっと見ていた。
守る気でいた。
以前にも一度、ユーリを問いただした。
弟が電話で席を外した、ほんの短い間。
殊勝な態度。
その時は、子供同士のじゃれ合いなのだと思った。
弟を傷つけたいわけではない。
それが分かって、安心した。
けれど、八月の夏祭りを境に、二人の距離は変わった。
子供同士のじゃれ合いではない。
母と父のような夫婦。
それが、一番近かった。
あまりにも不審だった。
ただ、それ以上に気に入らないことがある。
ユーリから臭うのだ。
自分と同じ臭いが。
母――先生は教えてくれた。
相手の間合いに入るなと。
相手の土俵で勝負するなと。
ユーリの土俵は子供であること。
いたいけな姿も、扉越しでは役に立つまい。
水の音。
ユーリが、洗面台で手を洗っている。
どうやって?
ここの洗面台は、ユーリの背丈では蛇口まで手が届かない。
道場での身のこなし。
おそらく、洗面台へ飛び乗ったのだろう。
口元が、僅かに緩んだ。
斬りかかるのは今しかない。
扉越しに声を掛ける。
『ユーリちゃん』
『なあに?』
『手が届かないのに、どうやって手を洗っているのですか?』
答えはなかった。
蛇口から、水だけが流れている。
少しして、声が返った。
『えっと……よじ登って?』
息を吸った。
『ユーリさん。誤魔化すのは、なしにしませんか』
沈黙。
そして。
舌打ちが聞こえた。
扉の向こうの気配が変わった。
『随分と、失礼な真似をするんだね』
低い。
氷のような声。
扉の向こうに、少女はいなかった。
妙齢の女がいるように思えた。
『聞くには、今しかないと思いました。二人きりになるのを避けておられましたから』
ユーリは、喉の奥でくつくつと愉しげに笑った。
『あ、分かってたんだ。流石、よく見てるね』
『単刀直入にお聞きします。遼太郎とは、どういう関係なのですか』
『関係? 恋人だけど……正体を聞きたいんじゃないの?』
扉の向こうの声が、わずかに上擦った。
『関係が不審だから、お聞きしています。遼太郎にも、西尾家にも害がないのであれば、正体などどうでもいいです』
本当に、弟もこの女を恋人だと思っているのなら。
自分と同じ臭いがしようとも。
それは家族だ。
実に気に入らないが。
獣じみた低い笑い声が聞こえた。
『そうかぁ。栞ちゃん、そういう子だもんね』
『どういう意味ですか』
聞き捨てならなかった。
『居候のくせに、いつの間にか西尾家に入り込んだ子。でしょ?』
居候。
拳に力が入った。
痛い言葉だった。
それでも私は。
『私は……』
『責める気はないよ。遼ちゃんたちは自然に受け入れちゃったもの。そこを荒立てる気はないよ。Congratulations♪』
妙に良い発音だった。
『だから、僕の邪魔はしないでほしい』
僕……?
『失礼、ウチの邪魔をしないでほしいの。互いにWIN-WINでしょ?』
邪魔とは。
分からなくなってきた。
『結局、あなた方は何なのですか?』
水の音が止まった。
蛇口を閉めたのだろう。
『前世からの恋人って言ったら、信じる?』
前世。
ああ。
弟の言葉。
子供とは思えない立ち振る舞い。
二人の会話。
扉の向こうの女。
思わず笑いが出た。
そうか。
そういうことか。
『そんなにおかしい?』
声に甘さが戻っている。
『信じます』
『理解が早いね』
『二人を見ていれば分かります』
『前世までは分からないでしょ』
『普通ではないことは分かります』
『栞姉ちゃんに言われたくないねぇ』
栞姉ちゃん。
再び、笑いが出た。
『あなたの方が、遥かに年上でしょう? ユーリさん』
年増め。
『六歳の女の子に対して酷くなーい? そういう性格なのは分かるけど、年上扱いはやめてよね』
嫌がっている割には声は楽しそうだった。
『代わりに、英語とお仕事を教えてあげるからさ』
癪だが致し方ない。
『助かります。最後に一つだけ、よろしいですか』
『お姉さん、そろそろ戻りたいんだけどなぁ』
低く甘い声だった。
色香を感じた。
扉を開けた。
そこには、いたいけな少女がいた。
『西尾家。いや、遼太郎を守ってくれますか』
家は私が守る。
『勿論。そのために、この命はある』
即答だった。
『であれば、これからよろしくお願いしますね』
『こちらこそ』
少女は笑った。
口元の八重歯が、光って見えた。
網の上で、脂が弾けた。
弟とユーリが、二人して飛び退いた。
駐車スペースには、笑い声が広がっている。
煙。
酒。
焼けた肉の匂い。
作業場の椅子に座り、一息ついた。
その時、肩を叩かれた。
母だった。
顔が真っ赤だった。
お母さん、飲み過ぎですよ。
「栞ぃ~、これ」
袋を手渡された。
大きい。
「これは何ですか?」
「ええから、開けてみ」
袋を開ける。
中には、服が二組入っていた。
一組は、丈の短い上着と細身のスカート。
母が普段着ているような、華やかな服。
もう一組は、黒い布地にフリルのついた、甘い服。
これは……。
「私がいつも着てるブランドの服と、スタシアさんに教えてもらったゴスロリ服や」
え?
「私も同じの持ってるから、今度お揃いで遊びに行こうや」
なんで。
「ほんまは、栞の枕元に置いたろう思ってんけど、今渡すわ」
母は恥ずかしそうに頬を掻いている。
「で、悪いんやけど、私らと一緒に遼太郎とユーリちゃんの枕元にプレゼント置くの、手伝ってくれへん?」
母は自分の手を眺めた。
「こんなに酔ってもうたら、手元怪しいから」
袋を持つ指に、力が入った。
目の前が霞む。
初めてのクリスマスプレゼント。
ああ、お母さん。
私の家族。
「はい。喜んで」
母が笑った。
神様。
この夜を明けさせないでください。
この夜の向こうに行きたくありません。
※明日より第三章開幕です。更新スケジュールは変更がございますので活動報告をご覧ください。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。
よろしくお願いいたします。




