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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
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第二十九節

 12月24日。

 イブの朝は、視界が硬かった。

 遠くの山は青黒く沈み、屋根の上の霜だけが薄い光を返していた。

 西尾興業の事務所の二階には、暖房の音が続いていた。

 窓の下が白く曇っている。

「遅いよ~ムカつく~」

 ユーリは、栞の椅子に腰かけたまま苛立っていた。

 パソコンの画面では、画像の読み込みが半分で止まっている。

 ネットサーフィンも満足にできないのは辛い。

「しゃあないやん。回線の工事が年明けになったんやから」

 折角買ったもう一台はカバーが掛けられている。

 しばらくは、一本の電話回線で我慢するしかない。

 テレビの画面に目を戻す。

 ポーズを解除した。

 操作しているカートは七位。

 最終ラップ。

 ユーリが残したラップタイムを更新するどころか、入賞すら怪しい。

「遼ちゃんも遅いね」

 耳元で、低く甘い声がした。

 ドキリとした。

 いつの間にか、ユーリが隣に座っていた。

 顔が近い。

 画面の中で、カートが壁にぶつかった。

 ああ、もう駄目や。

 ビリや。

「練習や」

 俺はまだ本気出してないだけ。

 ポーズボタンを押した。

 耳元には色香が残っていた。

「その声やめーや。大人のお姉さんの声やんけ」

 小学生のレギュレーション違反やろ。

 ゴーストが囁きそうな声しやがって。

「セクシーでしょ?」

 ユーリは、からかうように笑った。

 その時、机の上の時計が鳴った。

 十時。

 そろそろや。

 アラームを止め、金色のニンテンドー64の電源を切った。

「あ、逃げた」

「ちゃうわ。そろそろ電話かかってくるやろ」

「本当に、あの社長さんがサンタやるの?」

 ユーリがパソコンを見やる。

 画面には、獅子然とした男の写真がようやく表示されていた。

「それしかないやろ。副社長が言うんやで? 社長まで引っ張り出すんとちゃうんか」

 あの時の運転手の言葉。

 それから、昨日のジョニーの電話。


『明日の朝十時頃って、都合大丈夫?』

 ジョニーの声は硬かった。

『どうした、急に』

『メリ……サンタさんが電話したいって言ってるんだ』

『へぇ、サンタさんね。カウ副社長も言ってたな』

 電話口で、息をのむ音がした。

『……その件はごめん。人選は知らされてなかったんだ』

『構わんさ。良い経験ができた。そういえば、クリスマスの予定は?』

 若者よ。

 恋人はいるのか。

 俺はいるぞ。

『あ、イブの夜とクリスマス当日は電話しないから安心して』

『違う。お前、恋人いないのか?』

『え、え、え……リサ……いや、いないよ』

 ふーん。

『想いは早めに伝えないと後悔するぞ』

 俺たちみたいにな。

『……買い注文みたいに、思い切って出せたらいいんだけどね』

 声が沈んだ。

 余計なお節介だったか。

 すまん。

『とりあえず、明日の十時は空けとくぞ。少し早いが、メリー・クリスマス』

『リョウ君も、メリー・クリスマス』


 今度、ジョニーと飯でも食いたいな。

 電話では毎週のように話しているが、ここしばらく顔を合わせていない。

 PHSを手に取り、机の上へ置く。

「付き合わせて悪いな。買い物、行きたかったやろ?」

 ユーリはかぶりを振る。

「ううん。付いていってもママたちの足手まといだし。こっちの方が面白そうだしね」

 親たちは、夜のパーティーの買い出しに出ていた。

 事務所の一階と、前の駐車スペースを使った小さなバーベキューパーティー。

 西尾興業、初めてのクリスマスパーティー。

「買い出しはともかく、パーティーは面白そうやん。ドラム缶で丸鶏を焼くとか」

 発案は父だった。

「ママ、もしかしたらジャージで来るかも。ドレスに匂いが付くの嫌がってた」

「ええんちゃう? 飾らん方が西尾興業らしいやん」

 二人して笑った。


 机の上で、PHSが鳴った。

 来たか。

 ディスプレイの表示は非通知だった。

 ユーリと目が合う。

 ユーリはただ頷いた。

 通話ボタンを押した。

 スピーカー通話に切り替える。

「もしもし」

 数秒。

 返事はなかった。

 あれ、イタ電?

 電話の向こうで、紙の擦れるような音がした。

 それから、渋い男の声が聞こえた。

『少年。私はサンタだ』

 英語だった。

「わぁい! サンタさんだぁ!」

 わざとらしい声を上げてやった。

 ユーリが口元を押さえた。

 笑いを堪えている。

『……聞いていた話と違うようだが?』

 つまらん。

 陽気なニューヨーカーちゃうんか。

「そちらもサンタらしくないな。どんな子供だと聞いていた? それとも、予習は済んでるのかい?」

『録音は聞いている。一言一句覚えているトナカイもいる』

「それは嬉しいね。サインでもしようか?」

 一言一句、か。

 今度から、ジョニーとの雑談はもっとふざけてやろう。

『いや、結構。万が一、別の紙にサインを頼んでくるトナカイがいたら、無視してくれ』

 電話の向こうで、楽しげな声がかすかに混じった。

 さらに遠くから「黙れ」と聞こえた気がした。

「トナカイたちもお揃いのようだな」

 電話の向こうのざわめきが大きくなる。

『ああ。ここのトナカイどもと、お前に何を贈るべきか、随分考えた』

 呆れた声だ。

「サンタも大変だな。副社長までトナカイにして」

『隣にいるが、代わろうか?』

 ユーリが小さく鼻を鳴らした。

 聞こえたかな。

「いや、結構。運転ありがとうと伝えておいてくれ」

『皆で聞いているから、伝わっているさ。せっかく見に行かせたのに、かえって分からなくなった』

「金の鎖なら、もう十分だが?」

 おふざけは終わりだ。

 ユーリが身を乗り出した。

 その顔から、笑みが消えた。

『ジョニーと話す時みたいに、手加減してはくれないのか?』

「そんなタマじゃないだろ、アンタら。甥っ子さんは大丈夫か。良い奴だが、心配になる」

 ジョニーの泣きつく顔が目に浮かぶ。

『あれでも、かなりマシになってきたんだ。良い友達ができたんだろう』

「その友達を利用するように、けしかけた奴がいるんだってな?」

『ずいぶん手厳しいな』

「小細工を弄する方が悪い。気になることがあるなら、直接聞けばいい」

 電話の向こうで、何人かが笑った。

『よろしい。ならば、少年。何が欲しい?』

「数百億ドルを動かすサンタさんたちにも、分からないことがあるんだな」

『ああ、恥ずかしい限りだ』

「契約と情報の件はヨシノさんに伝えた通りでいい。それと、あの人にはもう少し貫禄が要る。ヒラだと思ってたぞ」

 ヨシノの地味な姿を思い出した。

 ひときわ豪快な笑い声が上がった。

『同感だな。で、それ以外は何かないのか』

 欲しいもの。

 品物なら、特にない。

 あるとすれば。

「毎年一つだけ、俺の願いを聞いてくれないか」

 ユーリがこちらを見た。

『毎年?』

「一年で縁を切るつもりか? 末永く付き合いたいんだがな」

『いや、こちらこそ末永く頼む。願いとは?』

「その時の気分だ」

 少し間があった。

『実現できない願いだったら……』

「無理なら無理でいい」

『叶えるとは約束しない』

「それもいい」

『契約書は必要か?』

「要らない。口約束で良い」

『では、何を求める』

「できる限り努力してほしい」

『努力?』

「俺が求めるのは誠意だ。俺たちは仕事のパートナーだろう?」

 この一年、アンタらに足りんかったもんや。

 サンタが笑った。

『そうか。パートナーか。その発想はなかったな。では、サンタからランプの魔人にでもなるかな』

「魔人ならいるだろう? ジーニーが。アンタらはランプだよ」

 サンタはくつくつと笑う。

『ああ。実に頼りなくて泣き虫のジーニアスがいるな』

「私からも、いいですか」

 ユーリが口を開いた。

 甘さを消した低い声。

 冷たい印象まで受ける。

 見事なまでのクイーンズ・イングリッシュ。

 なんや?

 話す予定はなかったやんけ。

『誰だ』

「ユーリヤ・ラマーノフです。ガールスカウトの娘です」

 電話の向こうが、気まずく静まった。

『ガールフレンドだったな。何だ?』

「私から、一つだけお願いがあります」

『……言ってみろ』

「この人を。遼太郎を守ってください」

 ユーリはPHSを見つめていた。

「ボディガードという意味ではありません。遼太郎一人を、矢面に立たせないでください」

 沈黙。

 電話の向こうで、一つ息を吐く音がした。

『分かった。それは約束しよう。我々は、パートナーを必ず守る』

 ユーリの手を握った。

 握り返してくれた。

 その手は暖かかった。

 目頭が熱くなる。

『では、少年。今年の願いは何だ』

「今年はもう貰ったから、いらない」

 鼻をすすった。

『私が何か贈ったか?』

「VIPに車を出してもらった」

 ユーリが下を向いた。

 笑うな。

「本社の副社長に運転してもらうなんて、なかなかできない体験だからな。日本法人の社長まで付き添いだ。良い接待だった」

『……そうか。見に行かせた甲斐があったな。そうだ、少年』

「何?」

『先ほどのランプの話だが』

 声の調子が変わった。

『ロイヤリティは発生しないかね? 発生しないなら、貰っても良いか』

 ユーリと目が合った。

 何に使うねん。

「別に構わないよ」

『本当に?』

「好きに使えばいい」

『言ったな』

「言った」

『後から請求されても払わないぞ』

「しないよ」

 電話の向こうで、短い笑い声がした。

『分かった』

 すぐに、元の調子へ戻った。

『では、少年』

 少し間があった。

『メリー・クリスマス』

「メリー・クリスマス、サンタさん」

 通話が切れた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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