第二十九節
12月24日。
イブの朝は、視界が硬かった。
遠くの山は青黒く沈み、屋根の上の霜だけが薄い光を返していた。
西尾興業の事務所の二階には、暖房の音が続いていた。
窓の下が白く曇っている。
「遅いよ~ムカつく~」
ユーリは、栞の椅子に腰かけたまま苛立っていた。
パソコンの画面では、画像の読み込みが半分で止まっている。
ネットサーフィンも満足にできないのは辛い。
「しゃあないやん。回線の工事が年明けになったんやから」
折角買ったもう一台はカバーが掛けられている。
しばらくは、一本の電話回線で我慢するしかない。
テレビの画面に目を戻す。
ポーズを解除した。
操作しているカートは七位。
最終ラップ。
ユーリが残したラップタイムを更新するどころか、入賞すら怪しい。
「遼ちゃんも遅いね」
耳元で、低く甘い声がした。
ドキリとした。
いつの間にか、ユーリが隣に座っていた。
顔が近い。
画面の中で、カートが壁にぶつかった。
ああ、もう駄目や。
ビリや。
「練習や」
俺はまだ本気出してないだけ。
ポーズボタンを押した。
耳元には色香が残っていた。
「その声やめーや。大人のお姉さんの声やんけ」
小学生のレギュレーション違反やろ。
ゴーストが囁きそうな声しやがって。
「セクシーでしょ?」
ユーリは、からかうように笑った。
その時、机の上の時計が鳴った。
十時。
そろそろや。
アラームを止め、金色のニンテンドー64の電源を切った。
「あ、逃げた」
「ちゃうわ。そろそろ電話かかってくるやろ」
「本当に、あの社長さんがサンタやるの?」
ユーリがパソコンを見やる。
画面には、獅子然とした男の写真がようやく表示されていた。
「それしかないやろ。副社長が言うんやで? 社長まで引っ張り出すんとちゃうんか」
あの時の運転手の言葉。
それから、昨日のジョニーの電話。
『明日の朝十時頃って、都合大丈夫?』
ジョニーの声は硬かった。
『どうした、急に』
『メリ……サンタさんが電話したいって言ってるんだ』
『へぇ、サンタさんね。カウ副社長も言ってたな』
電話口で、息をのむ音がした。
『……その件はごめん。人選は知らされてなかったんだ』
『構わんさ。良い経験ができた。そういえば、クリスマスの予定は?』
若者よ。
恋人はいるのか。
俺はいるぞ。
『あ、イブの夜とクリスマス当日は電話しないから安心して』
『違う。お前、恋人いないのか?』
『え、え、え……リサ……いや、いないよ』
ふーん。
『想いは早めに伝えないと後悔するぞ』
俺たちみたいにな。
『……買い注文みたいに、思い切って出せたらいいんだけどね』
声が沈んだ。
余計なお節介だったか。
すまん。
『とりあえず、明日の十時は空けとくぞ。少し早いが、メリー・クリスマス』
『リョウ君も、メリー・クリスマス』
今度、ジョニーと飯でも食いたいな。
電話では毎週のように話しているが、ここしばらく顔を合わせていない。
PHSを手に取り、机の上へ置く。
「付き合わせて悪いな。買い物、行きたかったやろ?」
ユーリはかぶりを振る。
「ううん。付いていってもママたちの足手まといだし。こっちの方が面白そうだしね」
親たちは、夜のパーティーの買い出しに出ていた。
事務所の一階と、前の駐車スペースを使った小さなバーベキューパーティー。
西尾興業、初めてのクリスマスパーティー。
「買い出しはともかく、パーティーは面白そうやん。ドラム缶で丸鶏を焼くとか」
発案は父だった。
「ママ、もしかしたらジャージで来るかも。ドレスに匂いが付くの嫌がってた」
「ええんちゃう? 飾らん方が西尾興業らしいやん」
二人して笑った。
机の上で、PHSが鳴った。
来たか。
ディスプレイの表示は非通知だった。
ユーリと目が合う。
ユーリはただ頷いた。
通話ボタンを押した。
スピーカー通話に切り替える。
「もしもし」
数秒。
返事はなかった。
あれ、イタ電?
電話の向こうで、紙の擦れるような音がした。
それから、渋い男の声が聞こえた。
『少年。私はサンタだ』
英語だった。
「わぁい! サンタさんだぁ!」
わざとらしい声を上げてやった。
ユーリが口元を押さえた。
笑いを堪えている。
『……聞いていた話と違うようだが?』
つまらん。
陽気なニューヨーカーちゃうんか。
「そちらもサンタらしくないな。どんな子供だと聞いていた? それとも、予習は済んでるのかい?」
『録音は聞いている。一言一句覚えているトナカイもいる』
「それは嬉しいね。サインでもしようか?」
一言一句、か。
今度から、ジョニーとの雑談はもっとふざけてやろう。
『いや、結構。万が一、別の紙にサインを頼んでくるトナカイがいたら、無視してくれ』
電話の向こうで、楽しげな声がかすかに混じった。
さらに遠くから「黙れ」と聞こえた気がした。
「トナカイたちもお揃いのようだな」
電話の向こうのざわめきが大きくなる。
『ああ。ここのトナカイどもと、お前に何を贈るべきか、随分考えた』
呆れた声だ。
「サンタも大変だな。副社長までトナカイにして」
『隣にいるが、代わろうか?』
ユーリが小さく鼻を鳴らした。
聞こえたかな。
「いや、結構。運転ありがとうと伝えておいてくれ」
『皆で聞いているから、伝わっているさ。せっかく見に行かせたのに、かえって分からなくなった』
「金の鎖なら、もう十分だが?」
おふざけは終わりだ。
ユーリが身を乗り出した。
その顔から、笑みが消えた。
『ジョニーと話す時みたいに、手加減してはくれないのか?』
「そんなタマじゃないだろ、アンタら。甥っ子さんは大丈夫か。良い奴だが、心配になる」
ジョニーの泣きつく顔が目に浮かぶ。
『あれでも、かなりマシになってきたんだ。良い友達ができたんだろう』
「その友達を利用するように、けしかけた奴がいるんだってな?」
『ずいぶん手厳しいな』
「小細工を弄する方が悪い。気になることがあるなら、直接聞けばいい」
電話の向こうで、何人かが笑った。
『よろしい。ならば、少年。何が欲しい?』
「数百億ドルを動かすサンタさんたちにも、分からないことがあるんだな」
『ああ、恥ずかしい限りだ』
「契約と情報の件はヨシノさんに伝えた通りでいい。それと、あの人にはもう少し貫禄が要る。ヒラだと思ってたぞ」
ヨシノの地味な姿を思い出した。
ひときわ豪快な笑い声が上がった。
『同感だな。で、それ以外は何かないのか』
欲しいもの。
品物なら、特にない。
あるとすれば。
「毎年一つだけ、俺の願いを聞いてくれないか」
ユーリがこちらを見た。
『毎年?』
「一年で縁を切るつもりか? 末永く付き合いたいんだがな」
『いや、こちらこそ末永く頼む。願いとは?』
「その時の気分だ」
少し間があった。
『実現できない願いだったら……』
「無理なら無理でいい」
『叶えるとは約束しない』
「それもいい」
『契約書は必要か?』
「要らない。口約束で良い」
『では、何を求める』
「できる限り努力してほしい」
『努力?』
「俺が求めるのは誠意だ。俺たちは仕事のパートナーだろう?」
この一年、アンタらに足りんかったもんや。
サンタが笑った。
『そうか。パートナーか。その発想はなかったな。では、サンタからランプの魔人にでもなるかな』
「魔人ならいるだろう? ジーニーが。アンタらはランプだよ」
サンタはくつくつと笑う。
『ああ。実に頼りなくて泣き虫のジーニアスがいるな』
「私からも、いいですか」
ユーリが口を開いた。
甘さを消した低い声。
冷たい印象まで受ける。
見事なまでのクイーンズ・イングリッシュ。
なんや?
話す予定はなかったやんけ。
『誰だ』
「ユーリヤ・ラマーノフです。ガールスカウトの娘です」
電話の向こうが、気まずく静まった。
『ガールフレンドだったな。何だ?』
「私から、一つだけお願いがあります」
『……言ってみろ』
「この人を。遼太郎を守ってください」
ユーリはPHSを見つめていた。
「ボディガードという意味ではありません。遼太郎一人を、矢面に立たせないでください」
沈黙。
電話の向こうで、一つ息を吐く音がした。
『分かった。それは約束しよう。我々は、パートナーを必ず守る』
ユーリの手を握った。
握り返してくれた。
その手は暖かかった。
目頭が熱くなる。
『では、少年。今年の願いは何だ』
「今年はもう貰ったから、いらない」
鼻をすすった。
『私が何か贈ったか?』
「VIPに車を出してもらった」
ユーリが下を向いた。
笑うな。
「本社の副社長に運転してもらうなんて、なかなかできない体験だからな。日本法人の社長まで付き添いだ。良い接待だった」
『……そうか。見に行かせた甲斐があったな。そうだ、少年』
「何?」
『先ほどのランプの話だが』
声の調子が変わった。
『ロイヤリティは発生しないかね? 発生しないなら、貰っても良いか』
ユーリと目が合った。
何に使うねん。
「別に構わないよ」
『本当に?』
「好きに使えばいい」
『言ったな』
「言った」
『後から請求されても払わないぞ』
「しないよ」
電話の向こうで、短い笑い声がした。
『分かった』
すぐに、元の調子へ戻った。
『では、少年』
少し間があった。
『メリー・クリスマス』
「メリー・クリスマス、サンタさん」
通話が切れた。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
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