第二十七節
11月14日。
早朝の西尾興業事務所前は、まだ人の気配が薄かった。
空は白く濁っている。
事務所の屋根に残った夜露が、弱い光を受けて鈍く光っていた。
シャッターは閉まっている。
看板の文字が、薄明の中でくっきりと見えた。
遼太郎はPHSを耳へ当てていた。
ダッフルコートの中のカイロが暖かい。
『車は、さっき荒本の交差点を過ぎたらしいよ』
ジョニーの声だった。
「時間通りだな。流石だ」
『本当は僕が行きたかったんだけど、ごめんね』
ジョニーの声は申し訳なさそうだった。
「呼び出しなら仕方ないじゃないか。出世するんだろう?」
『出世なのかな? リョウ君の情報を専門的に処理するタスクフォースを率いるだけだよ』
「あんまり、大事にしないでほしいんだがな」
外れた時に、傷を広げたくはなかった。
隣のユーリがダッフルコートのポケットを勝手に探ってくる。
カイロを盗られた。
返して。
寒い。
声を掛けようとした。
ユーリは悪戯っぽく微笑みながら、シャッターの前にいる富田と栞の方へと跳ねて行った。
『車には、運転手と世話役が乗ってるってさ』
カイロは諦めた。
「世話役?」
ユーリを見やった。
白いボアブルゾン。
黒い細身のパンツ。
ベージュのニット帽。
その隣で、富田と栞は揃って黒いスーツを着ていた。
外資の車が迎えに来ると聞いて、選んだらしい。
真面目やな。
『日本法人の人間だよ。移動中に、来年の契約のことで少し確認したいそうなんだけど、いいかな?』
ユーリと目が合う。
カイロはもういい。
一緒に聞こうや。
PHSを指さす。
ユーリが戻ってきた。
「いいけど。今年と同じでいいんじゃないか」
ユーリが身を寄せてくる。
銀色の髪が、遼太郎の頬に触れた。
そのままPHSへ耳を寄せている。
『遠慮しないでよ。リョウ君に全然報いてないって問題になってるんだ』
「遠慮はしてない」
『今年は、こちらが迷惑を掛けた。希望は言ってほしい』
思い当たる節はあったが許せる範囲だ。
窓口がジョニーで良かったな。
「言うだけ言ってみるよ」
『うん。それと』
ジョニーの言葉が、一度止まった。
『サンタの件なんだけど』
困ってる。
笑いを堪えながら、ユーリを見る。
同じ顔をしていた。
八重歯が覗いている。
悪い顔や。
「会いたいなぁ」
わざと子供らしい声を作ってやった。
ジョニーがどんなサンタを出してくるのか、楽しみになってきた。
『本気?』
「子供の夢を壊すのか」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
なんだ?
そんなタマじゃないと言いたいのか。
失礼なやっちゃ。
『…努力するよ』
「頼んだぞ。じゃあな」
通話を切った。
PHSをポケットに戻す。
「ジョニーさん、可哀想じゃん」
ユーリが言った。
顔は笑っている。
「言い出しっぺが何いうてんねん」
富田と栞が近づいてきた。
「……すごいですね」
富田が言った。
「何が?」
「若が、普通に英語で話してるところです」
「大体何言ってるか分かるやろ」
「わかりません」
富田は即答した。
栞も小さく頷く。
「私も、単語を追うので精一杯でした」
「サンタは分かったやろ」
「そこと契約がどうとかはなんとか…」
栞は悔しそうに目を伏せた。
二人とも成績優秀だったと聞く。
それでもネイティブの英語にはついていけないらしい。
…俺、ネイティブちゃうやんけ。
言語チートさまさまだ。
ユーリがくすくす笑う。
それから富田と栞を見た。
「遼ちゃんの英語はキザすぎて参考にならないよ。ウチが英語、教えようか?」
「良いんですか」
富田の顔が明るくなった。
栞も、目を見開く。
「お願いできるなら、ありがたいです」
ユーリ曰く、気持ち悪いくらいキザな口調らしい。
意識はしていない。
…やっぱり言語チートも考え物だ。
「Okay! Leave it to me. あ、発音もやるよ」
「発音……」
「逃げない」
「はい」
その時、道路の向こうから黒い車が現れた。
大きかった。
まず、それが目についた。
普通の乗用車ではない。
背が高く、幅があり、鼻先も長い。
事務所の前に、その車がゆっくり停まる。
なんじゃこりゃ。
「シボレー?」
ユーリが言った。
シボレー。
父のカタログを眺めている時に見た気がする。
もう少しで思い出せそうだ。
ユーリより先に。
自動車整備士の息子の面目を守らなければ。
なんで知識チートは車名を教えてくれないんだ。
映画で見たことがある車。
サバ―…。
「サバーバン?」
「うん。たぶん、大統領の警護とかで後ろを走ってるやつ」
「なんで買い物にそれが来るねん」
「遼ちゃんがデカい車って言ったからじゃない?」
加減を知らんのか、あいつら。
助手席の扉が開いた。
一人の男が降りてくる。
灰色のスーツを着ていた。
痩せていて、顔立ちは地味だった。
目立つ人間ではない。
だが、動きに無駄がない。
こちらと目が合うとすぐに頭を下げた。
「西尾遼太郎様とユーリヤ・ラマーノフ様でいらっしゃいますか」
「はい、そうです」
二人で声を合わせた。
「本日、世話役を務めさせていただきます。ヨシノと申します」
丁寧だった。
丁寧すぎて、こちらの背筋まで伸びる。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
慣れた挨拶。
思わず胸元へ手をやった。
何もない。
名刺入れなど、あるはずがない。
職業病は不治の病だ。
ヨシノは富田と栞に挨拶している。
その隙に、ユーリが囁いた。
「名刺」
「探してへん」
「嘘、探してた」
「ユーリも分かるやろ? ああやって挨拶されたら、出そうとしてまうやろ?」
「ウチ、名刺は差し出される立場だからわかんなーい」
「出たよ。お役所様」
「民間さんは大変ね」
ユーリは楽しそうだった。
運転席の扉が開いた。
今度は別の男が降りてきた。
黒髪に、少し白いものが混じっている。
上着は着ていなかった。
白いシャツ。
濃い色のネクタイ。
手には、黒革の手袋を嵌めていた。
甲に小さな穴が並んでいる。
仕事で着けるものには見えなかった。
「本日、運転を担当いたします。カウと申します」
カウは軽く頭を下げた。
ヨシノが後部座席の扉を開ける。
暖められた空気が、冷えた頬へ触れた。
四人が乗り込むと、扉が閉まった。
通りの音が一段低くなる。
車はゆっくりと走り出した。
道は広くない。
軽トラックや自転車を避けながら、それでもカウは大きな車体を淀みなく進ませていく。
「カウさん、運転も日本語もお上手ですね」
ユーリが言った。
カウがミラー越しに目を上げる。
「ありがとうございます。台湾の出身でして。学生の頃、日本に留学しておりました」
「留学ですか」
「はい。学費を稼ぐために、運転手のアルバイトもしておりました」
カウは笑った。
「ただ、日本の道は相変わらず窮屈ですね。アクセルが踏み込めなくていけません」
「カウさん」
助手席のヨシノが言った。
「安全運転でお願いします」
カウは苦笑した。
「もちろんです」
返事は丁寧だった。
反省はしていないように聞こえた。
車の速度が落ちた。
東大阪JCTに差し掛かったあたりで、前方に車列が詰まっていた。
カウの指先が、ハンドルを軽く叩いている。
かっ飛ばすタイプの人やな。
ヨシノが身体をこちらへ向けた。
膝の上に、薄いファイルを置いていた。
表紙にブラックストームの文字がある。
「西尾様。ジョニーからもお話があったかと思いますが、来年度契約について確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええですよ」
「ありがとうございます」
ヨシノはファイルを開いた。
紙の音がした。
富田と栞が黙る。
ユーリも笑みを消した。
「弊社としては、来年度も契約継続を希望しております。窓口は引き続きジョニー・フィッチが担当いたします」
「タスクフォースを率いるとか聞いてますけど」
「はい。その方が双方動きやすいかと存じます」
大仰すぎる。
そう言うつもりだった。
だが、双方と言われると返しにくい。
「また、契約外の会話を弊社業務に利用する場合、今後は事前に西尾様の承認を取る形に改めます」
「今までは?」
「取り扱いが曖昧でした」
「曖昧」
だろうな。
ジョニーの狼狽した声を思い出した。
「はい。反省しております」
ヨシノは淡々と言った。
「海外案件は別枠扱い。西尾様には回答しない権利があります。学校、ご家族、私生活を優先していただいて構いません」
「小学生やしな」
「はい」
そこは真面目に頷くのか。
「報酬につきましては」
ヨシノが紙を一枚めくる。
「月額10万ドル、インセンティブは5%をご提案したいと考えております」
車内が静かになった。
富田が息を呑む。
栞も目だけを動かした。
ユーリは、遼太郎を見ている。
月10万ドル。
1200万円ほど。
月。
年ではない。
固定報酬は十倍。
インセンティブは五倍。
今でも、相場次第ではインセンティブだけで1000万円近く受け取る月があった。
総額で見ても、五倍か六倍になる。
悪くない。
成果に見合っているのだろう。
それとも、金の鎖にしては弱すぎると思ったのだろうか。
鎖。
会社員だった。
金を貰って縛られることには慣れている。
ただ、貰えば働くことになる。
働いてしまう。
金額に見合う何かを返さなければいけない。
今はもう少し、この幸せを嚙みしめていたい。
「月2万ドル、インセンティブは据え置きでええです」
ヨシノが瞬きをした。
口を開いたが、言葉が出てこない。
「信用はしてほしいけど、過度な期待までは要らん。この条件で十分です」
小学生一人に頼りきる仕事など、正しいわけがない。
スタシアの顔が浮かんだ。
「その代わり、海外も含めて調査できる仕組みを用意してほしいです。情報が無いとええ仕事はできまへん」
「調査支援、ということでしょうか」
「そんな感じです。報酬を増やす気があるなら、そっちに使ってください」
答えは未来知識が教えてくれる。
けれど、そこに理はない。
理が無ければ人は動かない。
会社員の頃、痛いほど味わった。
それに、危ないことを事前に知るアンテナも欲しい。
不審者が出た時から、ずっと思っていた。
ユーリと目が合った。
声は出していない。
「やるじゃん」
唇が動いた。
民間魂を舐めないでもらおうか。
ヨシノはすぐに返事をしなかった。
ファイルの端を指で押さえている。
考えている顔だった。
「良いでしょう」
運転席から声がした。
カウだった。
ヨシノの肩が小さく動いた。
「ええ。良いと思います」
ヨシノがすぐに言葉を重ねる。
「その方向で進めさせていただきます」
雰囲気で分かっていた。
カウさん、ただの運転手ちゃうやろ。
ヨシノとカウを見比べる。
OJT。
その言葉が浮かんだ。
ヨシノの付き添いの上司か。
ヨシノを見た。
少しだけ温かい気持ちになった。
皆通った道や。
がんばれ。
ユーリに視線を移した。
ユーリもこちらを見ている。
同じことを考えている顔だった。
カウは前を向いたままだった。
何もなかったように、車線を変える。
「そういえば」
ユーリが言った。
「ジョニーさんに契約外の事を聞くように言った人は、どうなったんですか」
確かに顛末を聞いていなかった。
ヨシノの表情が固くなった。
「処分されました」
「どんな」
「訓告です」
「訓告」
重いのか軽いのか。
会社による。
「訓告とは、重い処分なのですか」
横から栞が聞いた。
俺も分からへん。
ユーリが口を開く。
「微妙」
お前も分からんのかい。
ヨシノは苦い顔をしている。
「本当は、もっと重い処分にしたかったのですがね」
カウが言った。
ヨシノが運転席を見る。
「カウさん」
「失礼」
カウは穏やかだった。
「あれでも、それなりに能力はある人間なので」
会社やなぁ。
遼太郎はため息をついた。
できる人間は、少々やらかしても残る。
そこは外資でも変わらないらしい。
それにしても、カウは人事権まであるのか。
かなり上役だ。
日本法人の部長か役員だろう。
「続きまして」
ヨシノが咳払いをする。
「ロシア危機に関する特別評価金についてです」
ユーリの指が、遼太郎の袖に触れた。
「まだ正式な算定中ではありますが、数億円規模となる可能性がございます」
窓の外で、信号が赤に変わる。
車が止まった。
数億円。
欲しい。
欲しくないわけがない。
だが、ジョニーに言った言葉は仕事ではない。
弱っていた友達に、勝手なことを言っただけだ。
そこに値段を付けられると、違うものになる。
富田を見る。
落ち着かない顔をしている。
栞を見る。
膝の上に置いた手が、少し強く握られていた。
表情は静かだった。
金は欲しい。
あれば、手が届くことが増える。
それでも。
ユーリを見た。
困ったような笑みだった。
『二人で稼ごうよ』
あの声が蘇る。
小さいアパート。
温泉のある家。
いざとなれば、そういう未来もある。
ここで友情を金に換える必要はない。
「要りません」
静かに言った。
ヨシノが顔を上げる。
「はい?」
「その特別評価金は要りません」
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ジョニーへの言葉に、報酬は要らんからです」
「しかし、結果として弊社には大きな利益が」
「それはそっちの仕事です」
契約の内外など関係ない。
「俺は、友達に独り言を言っただけです」
車内が静かになった。
エンジンの低い振動だけが、床から伝わってくる。
カウが、ミラー越しにこちらを見た。
「君にとって、金とは何ですか」
難しいことを聞く。
ユーリを見る。
栞を見る。
富田を見る。
それから、ミラーの中のカウを見据えた。
「道具です。ないと困る。あれば、できることも増える」
「嫌いではないと?」
ミラーの中のカウは、真剣だった。
「好きです。大好きです」
そこは、嘘をつくところではなかった。
「でも、家族とか友達に値段を付けるもんではないです」
どこかで拍手が聞こえた気がした。
気のせいだった。
カウは黙っていた。
信号が青になる。
車がゆっくり動き出す。
「そうですか」
返事はそれだけだった。
さっきより声が低かった。
ヨシノがファイルを閉じた。
ぱたんと音がした。
「では、別件を」
「まだあるんですか」
「サンタに会いたいと伺っております」
ユーリが吹き出した。
富田が目を丸くする。
栞も珍しく瞬きを繰り返した。
ジョニーへの悪ふざけを、真面目に検討されるとばつが悪い。
「あれは冗談です」
ユーリが横から言う。
「半分くらいやけどな」
「半分ですか」
富田が呟く。
ルームミラーの中で、カウが目を細めた。
「サンタらしい人なら、用意できるかもしれません」
「ほんまに?」
「直接お会いするのは難しいでしょう」
「まあ、そらそうやろな」
「電話口なら、可能かと」
ユーリはまだ笑っている。
おもろいやん。
黒いサバーバンは、混んだ道を抜けていく。
窓の外で、朝の大阪が少しずつ動き始めていた。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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