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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
57/61

第二十六節

 10月10日。

 早朝のニューヨークの空は、雲が速かった。

 高層ビルの上を、灰色の帯が流れている。

 陽が差しては陰り、そのたびにガラス張りの街は色を変えた。

 ブラックストーム・インベストメント本社。

 最上階。

 ジョニー・フィッチは、大会議室に向かっていた。

 厚い絨毯が靴音を吸い込んだ。

 歩くたび、上着のポケットに入れた紙の角が腿へ当たる。

 招集状。

 諮問。

 その二文字だけが、ほかの文章より濃く見えた。

 身から出た錆だと思った。

 ジョニーは廊下の途中で足を止め、手洗いへ入った。

 照明は白かった。

 大理石の壁も、洗面台も、磨かれた鏡も白い。

 人の気配はない。

 蛇口を捻る。

 冷たい水が指へ当たった。

 顔を上げる。

 鏡の中に、母によく似た顔があった。

 目元。

 鼻筋。

 母を亡くした、あの日。

 棺の前で、片方の親指を何度も撫でていた。

 止めようとしても、指が動いた。

 後ろから抱き締められた。

 顔は見えなかった。

 ただ、耳元で聞いた声は震えていた。

『妹が安心できるよう、立派に育ててやる』

 そう言っていた。

 メリット・フィッチ。

 メリーおじさん。

 蛇口を閉めた。

 水滴が、白い陶器へ落ちる。

 一滴。

 もう一滴。

 メリーは、合理主義の塊のような人だった。

 引き取られて初めてのクリスマス。

 サンタなどいないと、真顔で宣言された。

 唖然としていると、メリーは財布から三百ドルを取り出した。

『俺がサンタだ』

『好きなものを買え』

 何故か、その時だけは本物のサンタに見えた。

 鏡の中の自分は、まだ動こうとしなかった。

 行かなければならない。

 メリーが待つ部屋へ。

 皆が待つ部屋へ。

 ネクタイの結び目を直す。

 歪んではいなかった。

 廊下の窓を、雲の影が横切った。

 大会議室へ向かって歩き出す。

 メリーには、悪友たちがいた。

 皆、今より若かった。

 バーキンには、農場で馬の乗り方を教えてもらった。

 マクドネルには、勉強を見てもらった。

 カウは、よくドライブへ連れて行ってくれた。

 見かけに寄らず派手な車だった。

 ヨシノとツーヤンは、それぞれ自分の薦める映画を見せたがった。

 ヨシノが選ぶ映画は、退屈だった。

 三時間も捕虜たちがトンネルを掘っているだけの映画。

 今では好きな映画の一つだ。

 ゼリアンは、昔から相談を聞いてくれた。

 答えは大抵どこかずれていた。

 時々、迷いを簡単に取り除いてくれたので侮れなかった。

 隣家に住んでいた、七つ年上のリサ姉さん。

 リサ・ドーウェルには、何度も面倒を見てもらった。

 いつの間にか、恋心を抱いていた。

 今も、胸の内に隠している。

 彼らは皆、メリーに目を掛けられ、金融の世界へ入っていった。

 自分も、その中へ入りたかった。

 皆のようになりたかった。

 こんな自分を可愛がってくれた。

 その恩を返したかった。

 必死に勉強した。

 数字を覚えた。

 市場を学んだ。

 結果を出せば、メリーは褒めてくれた。

 だが、肝心なところで足がすくんだ。

 損失の数字が大きくなる。

 相場が予想と逆へ動く。

 そのたびに呼吸が乱れた。

 皆が失望する顔が浮かんだ。

 そんな人たちではないと、分かっているのに。

 気づけば、母の棺の前にいた子供へ戻っていた。


 向こうから来た社員が、ジョニーに気づいて足を緩めた。

「おはようございます」

「おはよう」

 笑顔は作れた。

 声も震えなかった。

 すれ違ってから、息を吐く。

 日本へ行けと言われた時、自分を変える機会を与えられたのだと思った。

 一人前になれる。

 メリーに、任せて良かったと思ってもらえる。

 そう考えた。

 だが、日本へ行ってからも、事あるごとにメリーへ泣きついた。

 結局、子供に戻ってしまった。

 そんな中、子供と出会った。

 その子供は、対等に話しかけてきた。

 そして、一番知りたかったことを教えた。

 最後に、缶ココアをくれた。

 メリーたちとは違った。

 何故か、あの言葉を聞いた後は、足がすくまなかった。

 言われたことを、試してみようと思った。

 怖くなかった。

 そして、結果が出た。

 出てしまった。

 冷静になった。

 子供の言うことを信じて、結果を出してしまった。

 自分は狂っているのではないかと思った。

 ゼリアンに相談した。

 きっと、ゼリアンでさえ狂っていると言うだろう。

 そう思っていた。

『結果が出た。怖くなくなった。良いことじゃないか。何故悩む?』

 だって、子供の言うことを信じたんだよ。

『世の中には、子供より愚かな大人などごまんといるよ?』

 それは……。

『僕の主義には合わないけど、世の中には不思議な巡り合わせ――東洋では、縁というものがあるそうだ』

 縁。

『その子供と縁があったんだろう? なら、迷わず探せ。法律やモラルが気になるなら、近道を教えるよ』

 いつものように、ずれていると思いたかった。

 だが、その言葉は胸にすとんと落ちた。

 近道を聞いてしまった。

『まず、大阪支店を力押ししてみよう。社長の甥の力を見せるんだ。それで駄目なら、我が君のもとへ行くといい。ルールの上にいる王の力を使うのが、一番の近道だよ』

 危ない橋だと思った。

 けれど、酷く甘美だった。

 日本経済の悲鳴が聞こえ始める中、その甘い果実を取らずにはいられなかった。

 メリーがゼリアンを悪魔と呼ぶ理由が、分かった気がした。

 そして、ようやく、あの時の子供――遼太郎と再会できた。

 遼太郎は不思議だった。

 遥かに年下のはずなのに、年上のような、メリーたちと同じ匂いがした。

 それでいて、対等だった。

 初めてできた、対等な友達だった。

 友達という関係に慣れていない自分は、よくない言動も重ねてきたのだろう。

 それでも遼太郎は、文句を言いながら許してくれた。

 契約という枠を越えて、親身になってくれた。

 大会議室の扉の前。

 空調の低い音だけが、長い壁に沿って流れている。

 扉の向こうから、低い声が聞こえた。

 マクドネル。

 バーキン。

 ドーウェル。

 紙を揃える音。

 カップを置く音。

 短く咳払いする音。

 その音も、誰のものか分かった。

 幼い頃から知っている。

 ため息をついた。

 親身になってくれる友達に、自分は甘えた。

 あの日、ゼリアンから電話が来た。

 ロシアのことが気にならないか。

 シール――あの少年の答えが知りたくないか。

 契約外だと答えた。

『業務として答えを求めるから、契約の問題になるんだよ』

 では、どうすればいい。

『彼が友人として話す意思があるか、確認すればいい』

 友人として。

『答える必要はないと伝える。拒まれたら、そこで終わりだ。君は強制していないし、会社の権限も使っていない』

 何を聞けばいい。

『それは君が決めることだよ。僕が決めたら、本当に業務命令になってしまうだろう?』

 いつもの調子だった。

 軽く。

 楽しそうに。

 責任の境目だけを、綺麗に避けていた。

 悪魔め。

 初めて人を罵ったかもしれない。

 できない。

 そう一言言えば、ゼリアンはあっさり引いたはずだ。

 それは分かっていた。

 それでも、ロシアは気になっていた。

 きっと、何か酷いことが起きると思っていた。

 もし聞き出せれば、皆が喜んでくれる。

 今まで迷惑を掛けてきた。

 その罪滅ぼしになる。

 そう考えた。

 電話を掛けた。

 教わった通りに、答えなくていいと伝えた。

 今すぐ切っても構わないと言った。

 遼太郎は、渋々答えてくれた。

 一肌脱いでやる。

 そんな声で。

 こちらの意図を見抜いた上で、乗ってくれた。

 自分はなんて身勝手だったのだろう。


 その報いで、今ここにいる。

 いかなる処分でも受ける覚悟はできていた。

 最後に、遼太郎へ謝る電話だけは掛けさせてほしい。

 そう願い出るつもりでいた。

 拳を上げた。

 二度、扉を叩く。

「入れ」

 メリーの声だった。

 扉を開けた。

 長い楕円形の机。

 議長席の中央に、メリーが座っている。

 右側。

 マクドネル。

 カウ。

 ツーヤン。

 左側。

 ドーウェル。

 バーキン。

 ヨシノ。

 全員、正装だった。

 濃い色のスーツ。

 白いシャツ。

 結ばれたネクタイ。

 机の手前には、椅子が二つ並んでいた。

 一つは空いている。

 もう一つには、ゼリアンがいた。

 背もたれに身体を預けている。

 脚を組んでいた。

 目の前には、コーヒー。

 裁判だ。

 そう思った。

「やあ」

 ゼリアンが片手を上げた。

 ゼリアンには、思うところもある。

 この男の囁きさえなければ……。

 ただ、その囁きが無ければ遼太郎とは再会できなかった。

 そう思うと、責める気にはなれなかった。

「座れ」

 メリーが言った。

 椅子へ腰を下ろした。

 革が鳴る。

 全員の視線が集まった。

 喉が渇いた。

 自分の前に、水はない。

「では」

 ドーウェルが議事録を開いた。

 ペン先が紙へ触れる。

「日本法人主任トレーダー、ジョニー・フィッチに対する諮問を開始します」

 声に抑揚はなかった。

 リサ姉さん。

 ごめんよ。

「議題は、契約上の調査範囲を越えかねない質問を、市場調査協力者に対して行った件について」

 紙をめくる。

「併せて、その行為を教唆した欧州地域統括役員、ゼリアンの責任を問います」

「責任?」

 ゼリアンが首を傾げた。

「君は黙っていろ」

 マクドネルが言った。

「まだ何も話していないよ」

 ドーウェルのペンが動く。

「ジョニー」

 メリーが呼んだ。

「はい」

「ロシア市場について、シールへ質問したな」

「はい」

「契約上の範囲を越える可能性があると、理解していたか」

「はい」

 その通り。

 隠し立てする気はなかった。

「質問の仕方を教えたのは誰だ」

 答えは分かっている。

 全員が知っている。

 それでも、口にしなければならなかった。

「ゼリアンです」

「ほら」

 ゼリアンが言った。

「正直に答えた。何も問題はない」

 何を言っている?

「お前は黙っていろと言ったはずだ」

 マクドネルの声が低くなる。

「僕の話をしているのに?」

「あなたが教えたのですね」

 ドーウェルが聞いた。

「そうだよ」

 ゼリアンは、あっさり答えた。

 メリーが前のめりになる。

「よし。判決だ。ゼリアン、お前を訓告処分とする。二度とジョニーに囁くな」

 なんで?

「ジョニー」

 メリーが目を細める。

「この悪魔の言うことを聞いて、散々な目に遭ってきただろう? もう聞くな」

 心当たりはあった。

 沢山あった。

 けれど。

 違う。

 違うんだ。

「違います」

 声が出た。

 小さかった。

 全員の顔がこちらへ向く。

 親指が動いている。

 止められない。

「何が違う」

 メリーが聞いた。

「質問の仕方を教えてもらったのは、本当です」

 喉が震えた。

「でも、聞きたかったのは僕です」

 ゼリアンがこちらを見る。

「ロシアが危ないと思った。IMFの融資があっても、何かがおかしかった。リョウ君なら、分かるかもしれないと思った」

 息を吸う。

「電話を掛けたのも僕です。契約外だと分かっていて、僕の言葉で聞きました」

 声が掠れる。

「取引を決めたのも、僕です」

 親指を撫でていた手を、強く握った。

「ゼリアンだけの責任じゃありません」

 沈黙。

 ゼリアンが、わずかに笑った。

「ほら」

「お前は黙れ」

 今度は全員の声が重なった。

 ゼリアンは口を閉じた。

 不満そうだった。

「では、聞く」

 メリーが両肘を机へ置いた。

「なぜ、私に相談しなかった」

 胸の奥で、何かが縮んだ。

「それは……」

「日本へ行く前にも言ったはずだ。困った時は連絡しろと」

「はい」

「なぜしなかった」

 答えられなかった。

 メリーの目を見る。

 深く窪んだ青い目。

 母と似ている。

 母の棺。

 白い花。

 黒い服。

 震える指を、大きな手が包んだ。

 それから、ずっと守られてきた。

「ジョニー」

「失望されたくなかった」

 口からこぼれた。

 しまった。

 そう思った時には、もう遅かった。

「誰に」

「メリーおじさんに」

 視界が滲んだ。

「みんなに」

 俯く。

「また助けてほしいって言ったら……何もできないと思われる気がして」

 呼吸が浅くなる。

「今度こそ大きなものを返したくて」

 頬へ何かが落ちた。

 手の甲で拭う。

 次も落ちた。

「なのに、結局ゼリアンに頼って……」

 声が崩れる。

「ごめんなさい」

 机の木目が揺れた。

「ごめんなさい」

 椅子が鳴った。

 大きな手が、頭へ触れた。

「馬鹿者」

 メリーの声だった。

 顔を上げられなかった。

「失敗するなと言った覚えはない」

 頭を乱暴に撫でられる。

「相談しろと言ったんだ」

「でも」

「でもじゃない」

 手が離れる。

 ハンカチが目の前へ差し出された。

 受け取る。

「相談を隠される方が困ります」

 ドーウェルが言った。

 議事録へ視線を落としたまま。

「失敗の報告より、後から問題を見つける方が処理に時間が掛かるので。ただ……仕方のない子ですね」

 ペンを持つ指から、力が抜けていた。

「お前に主任トレーダーは早いと言ったのは私だ」

 マクドネルが資料の角を揃えた。

「能力がないと言ったのではない」

「ジョニー」

 バーキンが身を乗り出す。

「お前の成果を一番高く評価したのは俺だぞ」

 胸を張る。

「副社長にしろと言った」

「今それを言う必要がありますか」

 ヨシノが冷たく返した。

「励ましているんだ」

「逆効果です」

 ヨシノがジョニーを見る。

「日本法人としても、あなたの判断を評価しています」

 そして、ゼリアンを睨みつけた。

「ただし、次から契約に関する相談をゼリアンへ持ち込むのは禁止します。電話は着信拒否にしてください」

「なぜだい?」

 ゼリアンが口を挟んだ。

「黙っていてください」

「皆、君に失望しているわけではありません」

 カウが静かに言った。

「心配しているだけです」

「そうそう」

 ツーヤンが頷く。

「君が泣くと、メリーが仕事にならなくなる」

「余計なことを言うな」

 メリーが睨んだ。

 ツーヤンは肩をすくめた。

 皆の声が違っていた。

 同じではない。

 全員へ同時に応えることなど、最初からできなかった。

「処分を言い渡す」

 メリーが席へ戻った。

 声が、叔父から社長へ変わる。

 思わず背筋を伸ばした。

「契約の境界へ近づく質問を、事前承認なく行った点について、厳重注意とする」

「はい」

「次からは、一人で判断するな。誰かに相談しろ」

「はい」

「ゼリアン以外にな」

「なぜ僕だけ? 訓告は納得いかないなあ」

 ゼリアンが不満げな顔をした。

「お前は近道しか教えないからだ」

 メリーはゼリアンを睨んだ。

「早い方がいいだろう?」

「黙れ」

 メリーは、ジョニーへ視線を戻した。

「ゼリアンから助言を受けること自体は禁止しない」

 ゼリアンの口元が上がる。

「ただし、あいつの言葉は命令ではない。最後に決めるのはお前だ」

「はい」

「成功も、お前のものだ」

 間があった。

「失敗もな」

「はい」

 まだ、目の奥が熱い。


「次です」

 ドーウェルが議事録をめくった。

 これで終わりでは無いのか。

 他に諮問される心当たりがなかった。

「八月の欠落通話について」

 欠落通話とは。

 身体が固まった。

 メリーが気づく。

「何のことかわかるか?」

「わかりません」

 言葉が先に出た。

 ドーウェルのペンが止まる。

 マクドネルが顔を上げた。

「ジョニー、八月に録音せずにシールと話したことがあったろ?それの話だ」

 思い出した。

 ガールスカウト――スタシアの娘とデートしたいからスタシアに仕事を振ってくれ。

 そんな事だった。

「仕事とは関係ありません」

 あまりにも可愛らしく、ばかばかしい依頼だった。

「それを判断するために聞いている」

「本当に、関係ありません」

「相手は契約者だ」

「でも、私用です」

 声が震える。

 なぜ、契約違反を咎められた時より、皆の目が怖いのだろう。

「リョウ君に、話さないと約束しました」

 約束しなくとも人の恋路をぺらぺら話すようなことはできなかった。

 バーキンが腕を組んだ。

「会社の記録を一本消してまで守る内容か」

「消していません。私用として申告しました」

「同じことだ」

 ええ…。

 また全員の視線が集まる。

 怖い。

 意味が分からない。

 それでも。

「友人を会社へ売ることはできません」

 誰も話さなかった。

 空調の音だけが響く。

 メリーは、しばらくジョニーを見ていた。

 やがて、ネクタイへ手を掛けた。

 結び目を緩める。

 引き抜く。

 黒いネクタイを、机へ置いた。

「お前たち」

 全員を見回す。

「ネクタイを外せ」

 マクドネルが最初に動いた。

 結び目を解く。

 カウ。

 ツーヤン。

 ドーウェル。

 バーキン。

 ヨシノ。

 一人ずつ、ネクタイが机へ置かれていく。

 ゼリアンも外した。

「これに何の意味があるんだい?」

「お前は雰囲気を読め」

 バーキンが言った。

 ドーウェルが議事録を閉じた。

 ペンを置く。

 メリーはシャツの襟元を緩めた。

「友人を会社に売れないというのは解った」

 社長の声ではなかった。

 幼い頃から聞いてきた、叔父の声だった。

「じゃあ、俺たちも友人として聞こうじゃないか」

「メリーおじさん」

「記録には残さない」

 ドーウェルが閉じた議事録へ手を置く。

「今からの発言は、諮問の対象外とします」

「仕事には使わないでください」

 人の恋路を、仕事の材料にしてほしくない。

「リョウ君に確認もしないでください」

「ああ」

 メリーが頷く。

「約束する」

「私も」

 カウが続いた。

「黙っています」

 ヨシノが言う。

 マクドネルも頷いた。

「話さない」

 バーキンが言った。

「友人の秘密だ。守る」

「僕も約束するよ」

 ゼリアンが笑う。

 全員がそちらを見た。

「何だい」

「お前が一番信用できない」

 マクドネルが言った。

「分かった」

 脚を組み直す。

「君の友人の秘密として、誰にも話さない」

 そこまで言われたら言うしかなかった。

 ただ、明らかにする情報が釣り合っていないように感じた。

「夏祭りのことです」

「夏祭り?」

 メリーが聞き返す。

「リョウ君が、ガールスカウト…ラマーノフの娘と二人で祭りへ行きたいから……」

 ヨシノの眉が、わずかに動いた。

「祭りの間、ラマーノフへ急ぎの仕事を回して、娘から注意を逸らしてほしいと頼まれました」

 静かだった。

 誰も動かない。

 メリーが瞬きをした。

 マクドネルの口が、少し開く。

 カウはグラスを持ったまま止まった。

 バーキンは眉間へ皺を寄せている。

「それだけか?」

 メリーが聞いた。

「はい」

「市場の話は」

「していません」

「欠けた通話は」

「全部、それです」

「秘密の話は」

「その仕事を頼まれただけです。強いて言えば、娘と付き合っていることをラマーノフ本人には言わないでほしい、と。命の危険があるから、と」

 また静かになった。

 最初に音を立てたのは、バーキンだった。

 喉の奥で、妙な音がした。

 口元を押さえる。

 肩が揺れた。

「お前……」

 声になっていない。

 次に、ツーヤンが吹き出した。

 カウが目を見開いていた。

 マクドネルが顔を背ける。

 メリーの頬が引きつった。

「子供が」

 バーキンが、やっと声を出した。

「会社を使って、ガールフレンドの母親を仕事へ追いやったのか」

「違います。急ぎの仕事を一本頼んだだけです」

「同じだ!」

 バーキンが机へ突っ伏した。

 笑い声が弾けた。

 ツーヤンが腹を押さえる。

 カウは目元を拭っている。

 マクドネルまで肩を震わせていた。

 メリーは顔を背けた。

 顎髭の下から、堪えきれない声が漏れている。

 ドーウェルは眼鏡を外した。

 目頭を押さえる。

「笑わないでください」

 何て失礼なんだ。

「リョウ君は真剣だったんです」

「分かってる」

 バーキンが涙を拭う。

「分かった。黙ってるよ!」

 また笑う。

「それにしても、よりによって、あの女の娘と……」

「一応、私の部下ですが?」

 ヨシノの声だけが冷たかった。

 笑いが止まる。

「いや」

 バーキンが姿勢を戻した。

「君の、たいへん優秀な部下の娘と」

「言い直しても同じです」

「でも、合理的だね」

 ゼリアンが言った。

「保護者を仕事で拘束して、目的の相手と二人になる。費用もほとんど掛からない」

「お前は黙れ」

 また全員の声が重なった。

 ジョニーは目元へ残った涙を拭った。

 自分が笑われているわけではない。

 分かっていた。

 皆は、秘密を守ると言った。

 会社へ話すことを拒んだ。

 叔父の求めにも逆らった。

 それでも、誰も失望した顔をしていない。

 胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけた気がした。

 メリーが笑いを収めようと、何度か息を吐いた。

「いいか」

 まだ声が震えている。

「この話は、ここだけだ」

 全員が頷いた。

「シールの恋路へ、ブラックストームは一切干渉しない」

「それがいい」

 バーキンが言った。

「あの少年の恨みを買って、次の暴落で出口を教えてもらえなくなったら困る」

「会社として聞いているように聞こえますが」

 ドーウェルが眼鏡を掛け直した。

「個人としても怖い」

 また笑いが起きた。


 その時だった。

 大会議室の扉が、勢いよく開いた。

 鈍い音。

 全員の顔が向く。

 若い社員が、扉の前に立っていた。

 息を切らしている。

 手には、薄い紙が一枚。

「失礼します!」

 声が裏返っていた。

「日本から緊急連絡です」

 笑いが消えた。

 メリーの顔が変わる。

「何があった」

「シール周辺の行動調査を行っていた班が――」

 社員が息を吸う。

「現地側に捕捉されました」

 誰も動かなかった。

「何だと?」

 メリーの声が低くなる。

「本人にか」

「詳細は確認中です。ただ、調査員が接触を受けたと」

「本人に気づかせるなと言っただろう!」

 メリーが立ち上がった。

 椅子が大きく鳴る。

 スタッフが会議室になだれ込んでくる。

「接触は禁止していたはずです」

 ドーウェルが議事録を開き直す。

「向こうから接触されたんです!」

「誰が調査班を編成した」

 マクドネルが立つ。

「現場の指揮は」

 ヨシノが続く。

「今すぐに航空券を。日本に戻る」

「調査は即時中止だ」

「記録を全部回収しろ」

「身元は割れていないだろうな?」

「何を見られた?」

 声が重なった。

 さっきまで机へ置かれていたネクタイが、紙の間で乱れている。

「静かにしろ!」

 メリーが机を叩いた。

 全員が黙る。

 社員の顔は青かった。

「現在、日本法人が状況を確認しています。現場班との連絡は取れていますが、相手側がどこまで把握しているかは――」

 ジョニーの耳から、声が遠ざかった。

 ブラックストームの人間が周囲を嗅ぎ回っていた。

 遼太郎がどう思うか。

 息が苦しくなった。

 メリーを見た。

 助けてほしい。

 どうすればいいか、決めてほしい。

 その言葉が、喉まで上がった。

 だが、止めた。

 腹を括るときだ。

 リョウ君。

 すまない。

「僕が連絡します」

 声は震えていた。

 全員がこちらを見る。

「待て」

 メリーが言った。

「会社として状況を整理してから――」

「僕が連絡します」

 もう一度言った。

「リョウ君は、僕に秘密を話したんです。その後に、これでは信を失う」

「ジョニー」

「僕の友人です」

 親指へ指が伸びる。

 爪の縁に触れた。

 それでも、顔は逸らさなかった。

「僕から説明し、詫びなければなりません」

 メリーは、ゆっくり頷いた。

「分かった。掛けろ。向こうは…21時か」

 卓上の電話を引き寄せた。

 いつもの番号を叩いた。

 呼び出し音。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度目の前に、音が途切れた。

『もしもし』

「リョウ君?」

 音声をスピーカーに切り替えた。

『ジョニーか。何の用だ』

 声が、大会議室に広がる。

 流暢な英語だった。

「うん。あの……ごめん」

『何が』

「ブラックストームの人間が、西尾興業の近くにいたんだ」

『ああ。そのことか』

「知ってるの?」

『聞いた』

 全員の顔が強張った。

「誰に?」

『それはいい。それで?』

「君の周りを調べていた。接触は禁止していたんだけど、見つかったみたいで」

『実害はない』

「でも」

『近所を少し騒がせたくらいだ。次から気をつけろ』

「うん。ごめん」

『もういい』

「本当に?」

『しつこいな』

 いつもの声だった。

 怒っているようには聞こえない。

『今日はお悩み相談は要らないのか?』

「え?」

『電話してきたら、いつも何か聞くだろ』

「今日は違うよ」

『珍しいな』

「謝るために掛けたんだ」

『もう謝った』

「でも、何かお詫びをさせてほしい」

『要らない』

「欲しいものは?」

『ない』

「会いたい人でもいいよ」

『人まで用意できるのか?』

「できる限りは」

 電話の向こうが静かになった。

『なら、車と運転手を出してくれ』

「車?」

『今度、日本橋にショッピングに行く。だが車も免許も持っていない。デートだから困っていた。デカい車がいい』

 カウが目を見開いた。

 バーキンが笑いをこらえている。

「分かった」

『本当か?』

「うん。用意するよ」

『助かる』

「それだけでいいの?」

『十分だ』

「ほかには?」

『まだ言うのか』

「だって、それだけじゃ」

『しつこいな』

 電話の向こうで、微かな声がした。

 何を言ったのかは聞き取れない。

 少し間があった。

『会いたい人なら、サンタかな』

「サンタ?」

 電話の向こうから、小さな笑い声がした。

『もうすぐクリスマスだし』

 メリーの眉間に皺が寄る。

『無理ならいい。車と運転手だけ頼む。じゃあな』

「待って、リョウ君」

 通話が切れた。

 短い電子音が、大会議室に響いた。

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