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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
56/58

第二十五節

 10月10日。

 昼。

 十月の空気は、澄んでいた。

 遠い鉄塔まで見え、山の斜面には陽の当たる場所と影の場所がくっきり分かれていた。

 風が吹くたび、西尾興業の看板が小さく鳴る。

 事務所前の駐車スペースに、遼太郎とユーリは立っていた。

「遅いな」

 遼太郎は焦れてきた。

 通りの先に、富田と栞の姿を探す。

「どこまで行ったんだろう? いつものスーパー玉下駄じゃないのかな?」

 ユーリが両腕を伸ばした。

 そのまま身体を後ろへ反らす。

 手が地面に着いた。

 足が宙を回る。

 両足が、ほとんど音を立てずに地面へ戻った。

 体操選手のような動きだった。

 今のはなんだ。

「え、今のなんや?」

 遼太郎が目を見開いた。

 さらりとやりやがった。

「バックウォークオーバー」

「何それ」

 横文字は嫌いだ。

「後方倒立回転」

 ユーリは言い直した。

 回転焼きの仲間だろうか。

 俺は御座候派や。

 とにかく凄い。

 これが運動チートの力か。

 チートの話は聞いていた。

 足が速いくらいにしか認識していなかった。

「やっぱりすごいな、その力」

「うん、体が軽い」

 ユーリが軽く膝を曲げた。

 次の瞬間、身体が後ろへ回った。

 両足が、また同じ場所へ着く。

 バク宙だった。

 身体が柔らかい。

 動きが速い。

 着地しても、軸がぶれていない。

「これやったら、剣道が上手いのもチートのせいやな」

 最近はもう、てんで勝負にならなかった。

 今やユーリは母に直接稽古をつけてもらっている。

 その稽古についていけている。

 それが、悔しかった。

 チートのおかげや。

 そう思うしかない。

「いや、遼ちゃん」

 ユーリが腰へ手を当てた。

「剣道は実力だよ?」

 聞きたくなかった。

「ちゃんと練習したから」

 ユーリは胸を張った。

 遼太郎は額を押さえた。

 どうやら剣道に関しては、母の血を継げなかったらしい。

「運動チートあって、剣道も実力なん?」

「うん」

「ずるない?」

 口から漏れた。

 天才はいる。

 悔しいが。

「遼ちゃんもチートあるでしょ」

「運動には使われへんやん」

 人の属性や未来の株価を知っていても、足元の危険は消えてくれない。

 階段。

 濡れた床。

 大阪支店の段差。

 何度、怪我をしかけたか分からない。

「危ないことも分かるんやろ?」

「何となくね」

「羨ましいわ」

「ウチが守ってあげるからいいでしょ」

 ユーリが笑った。

「前は守ってねって言ってなかったっけ?」

 初めてユーリにお手本を見せた日。

 張りきったんやけどな。

 ユーリの笑顔が止まった。

 一歩、近づく。

「何や」

 もう一歩。

 遼太郎は後ろへ下がった。

 背中が壁へ触れる。

 ユーリが右手を上げた。

 顔の横。

 小さな手が壁へ着く。

 青い目が、真っ直ぐこちらを見ている。

 凛々しい。

「ウチが守るから」

 低い声だった。

 顔が近づく。

「離さないよ?」

 胸の奥が鳴った。

 やだ、イケメン。

 まさか。

 壁ドン?

 ユーリの口元が震えた。

「ふっ」

 顔を背ける。

「ふふっ」

「おい」

「あはははっ」

 壁から手を離し、腹を押さえた。

「何笑ってんねん!」

「一回、やってみたかったの」

 乙女の純情を弄びやがって。

「けど」

 ユーリの手が、遼太郎の頬へ伸びた。

 指先が触れた。

「本当に守るからね」

 その手を取った。

「俺が守るんや。お前だけに守らさへん」

 くさかった。

 そこだけは譲れなかった。

 唇を重ねた。

 数秒後、照れが追いついた。

 二人して離れた。

「遼ちゃんくさすぎ」

 ユーリの顔は真っ赤だった。

 何も言えなかった。


「それにしても、来ないね」

 ユーリは誤魔化すように腕を伸ばす。

「せやな」

 風が抜けた。

 首筋が冷える。

「寒っ」

 遼太郎は、その場で跳ねた。

 一回。

 二回。

 三回。

「玉下駄じゃなかったら、車ないから結構かかるかも」

 ユーリは車道を見やった。

 富田も栞も免許を持っていない。

 買い出しは徒歩だった。

 徒歩で行けるスーパーは玉下駄しかない。

「タコパなら、前から準備しておいた方が良かったね」

「思いついたん、昨日やからな」

 今日は、親たちがいない。

 父。

 母。

 スタシア。

 三人とも人間ドックだった。

 会社になった以上、健康診断は必要になる。

 どうせなら、詳しく調べることにした。

 父と母に、監査役のスタシアも加えた。

 親がいない好機。

 羽目を外そうと二人で企んだのが昨日だった。

「そういえば」

 ユーリが片足を持ち上げた。

 膝を曲げ、背中側へ引く。

「ママが人間ドックを受けれるようにしてくれたの、ありがとね」

「ユーリのママやねんから、当然や」

「あれだけ仲悪いのにね」

「何言ってるか分からんやろ?」

「英語なら分かるよ。ロシア語は勉強中」

 足を替える。

「でも、お互いに罵ってるのは分かる」

「罵ってへん」

「この前、ママが遼ちゃんにクソガキって言ってた」

「その単語は覚えたらあかんで。それに、あれは挨拶みたいなもんや」

「遼ちゃんは性悪女って言ってた」

「正当な評価や……嫌か?」

 身内を悪く言われるのは嫌なものだ。

 罪悪感が湧いた。

 クソガキ。

 すぐに失せた。

 ユーリが笑った。

「ううん。喧嘩するほど仲がいいじゃない。ママも喧嘩してる時、元気そうだし」

「元気なんやったらええけど、仲は良くないな」

 そこは断じて違う。

 しばらくして、ユーリが足を下ろした。

「恵さん、何もなかったらいいね」

「罹らせへんよ」

 そのために今、この世界にいる。

 風が吹いた。

「絶対に」

 ユーリは、しばらく遼太郎を見ていた。

「ウチも見てるよ」

「ありがとな」

 目頭が熱くなった。


「若ー!」

 通りの向こうから声がした。

 目を拭う。

 富田だった。

 両手に買い物袋を提げている。

 隣には栞。

 こちらも袋を抱えていた。

「遅くなって申し訳ありません」

 栞が頭を下げる。

「ええよ。逆にわがまま言ってごめんなぁ。玉下駄じゃなかったん?」

「臨時休業でした。なので、スーパー番台に」

「番台まで? 遠かったやろ」

 車か自転車で行く距離だった。

 二人の手に下がった袋を見る。

 思いつきに付き合わせてしまった。


 その時だった。

 車道の方から、一台の車が近づいてきた。

 白と黒。

 屋根には赤い灯り。

 パトカーだった。

 速度は遅い。

「ポリさんや」

 遼太郎が指さした。

「遼ちゃん捕まえに来たんじゃない?」

 ユーリが軽口を叩く。

 パトカーは西尾興業の前で止まった。

 窓がゆっくり下がった。

「よっ」

 田上だった。

 制服姿。

 左胸には階級章。

 中央の日章。

 その左右に、金色の線が二本ずつ入っている。

「田上のおっちゃん」

「若に、お嬢に、富田に……」

 田上の目が、栞で止まった。

「……栞。元気か」

「はい」

 栞が頭を下げた。

「そうか。お前ら、何しとんじゃ?」

「田上のおっちゃんこそ、どうしたん?」

 制服姿なんて滅多に見ない。

 明日は雨に違いない。

「府警本部まで行っとった」

「もしかして、クビですか?」

 富田が笑いながら言った。

 栞も、ふっと笑う。

 田上は栞を見て、目元を緩ませた。

「違う。会議じゃ。お偉方に呼ばれての」

 田上は買い物袋へ目を向けた。

「お前らは、何しよる」

「今から、たこ焼きを作るんです」

 富田が袋を持ち上げた。

「自分らで飯作るんは、ええこっちゃ」

 田上の声が少し低くなった。

「しばらく、外で出されるもんには気ぃつけぇよ」

「外で?」

「誰が作ったか分からんもんや、置きっぱなしのもんは口にすんな」

 府警本部。

 会議。

 食べ物。

 和歌山。

 カレー。

 遼太郎は小さく息を吐いた。

「それとな」

 田上が西尾興業へ目を向ける。

「この辺で、見慣れん奴を何人か見たいう話が出とる」

「不審者?」

「まだ何かしたわけじゃない。じゃが、同じ辺りをうろついとるらしい」

 田上は遼太郎を見る。

「そういうアンテナも張っとけ」

 アンテナ。

 情報は大事だ。

 何かが起きてからでは遅い。

「田上さんも、たこ焼き食べる?」

 ユーリが聞いた。

「ワシは平たい方が好きじゃけぇ、遠慮しとくわ」

「広島焼?」

 禁句らしい。

 ほんまやろか。

 田上の目が細くなった。

「若」

「はい」

「次それ言うたら逮捕じゃ」

 禁句だったようだ。

 田上は笑いながら窓を上げた。

「そいじゃな、戸締まりしとけよ」

 パトカーは、そのまま角を曲がっていった。


 四人は西尾興業へ入った。

 二階の事務所。

 机を壁際へ寄せた。

 栞とユーリが、買ってきた食材を広げる。

 遼太郎と富田は、一階からホットプレートと食器を運んだ。

「重っ」

「若、無理しなくていいですよ」

「大丈夫や。たぶん」

「たぶんですか」

 階段を上がる。

 富田がホットプレートを机へ置いた。

 遼太郎も、食器を載せたトレイをシンクへ置く。

 ふと、窓際を見た。

 ユーリが、向かいのマンションを見ていた。

「何かあったんか?」

 ユーリが振り返る。

「ううん。何でもない」


 後ろでは栞がボウルの生地を混ぜていた。

 泡立て器が、ボウルの縁に当たる音がした。

 トレイの中を探っていた富田が声を上げた。

「あれ」

「どうしたん?」

「千枚通しがないですね」

 シンクの上も見る。

「あ」

 富田が顔を上げた。

「一階の台所に置いたままです」

「ウチ、取ってくる」

 ユーリが言った。

「場所、分かります?」

「たぶん」

「流し台の下です。右側の引き出しだったと思います」

「分かった」

 ユーリは駆け出した。

 階段を下りる足音。

 すぐに聞こえなくなった。


 数分後。

 階段を上がる音がした。

 ユーリが戻ってくる。

 手には千枚通し。

「置き場所、分かりました?」

「分かったよ」

 ユーリは流し台へ向かった。

 蛇口を捻る。

 水の音。

 千枚通しを洗い始めた。

 洗剤でごしごしと洗っている。

「ちょっと汚れちゃった」

「すいません」

 富田が頭を下げる。

「置き場所が悪かったですね」

「大丈夫」

 ユーリは布巾で水気を拭った。


 ホットプレートに油を引く。

 生地を流した。

 じゅっ。

 白い生地が穴へ広がる。

 蛸。

 葱。

 紅生姜。

 天かす。

「富田兄ちゃん、入れすぎ」

「多い方が美味しいでしょう」

「回されへんやろ」

「そこは若の技術で」

「無茶言いな」

 技術を見せたろうやないか。

 千枚通しを差し込む。

 手首を返す。

 生地が、くるりと回った。

 よっしゃ。

 遼太郎は満足げに笑った。


 油とソースの匂いが、事務所に広がる。

 焼けたたこ焼きを皿へ移す。

 鰹節が、熱で揺れた。

 遼太郎は一つ取った。

「若、まだ熱いですよ」

 そのまま口へ入れる。

「熱っ!」

「言ったでしょう」

 舌が焼ける。

 息を吐きながら、口の中で転がす。

 ユーリが笑った。

「遼ちゃん、学習しないね」

「たこ焼きは熱いうちが一番やろ」

 栞が冷たいお茶を差し出した。

「ありがとう」

 一口飲む。

 二個目は、半分に割った。

「なあ」

 遼太郎は皿を持ったまま言った。

「今度、日本橋へ行きたいねん」

「日本橋ですか?」

 富田が楊枝を突きながら聞く。

「うん」

「何をしに?」

「買い物」

 ユーリを見る。

 目が合った。

「親抜きで」

 富田は首を傾げた。

 栞は分かったようだった。

 遼太郎とユーリを交互に見る。

「デートですか」

「まあ」

「夏祭りの時」

 声が冷えた。

「遅刻しましたよね?」

 遼太郎とユーリは顔を見合わせた。

 二人して泣いた。

 ようやく落ち着いた頃には、花火は終わりかけていた。

「したな」

「したね」

「探し回ったの、覚えてますよ」

「ごめんなさい」

 二人で頭を下げる。

「今度は、勝手にいなくならないでください」

「はい」

「時間も守ってください」

「はい」

「連絡もしてください」

「はい」

「ユーリさんもです」

「はーい」

 栞は小さく息を吐いた。

「それなら、いいです」

「よっしゃ」

「何で栞だけ話が分かってるんです? 夏祭りと何の関係が?」

 富田が言った。

 ユーリが富田の肩に手を置いた。

「知らない方がいいこともあるよ」

「そういうものですか……何を買うんです?」

 遼太郎はマヨネーズをかけながら答えた。

「パソコン」

 富田の手が止まった。

「パソコン?」

「本体と、モニターと、色々」

「それ、電車で持って帰るんですか?」

「そのつもりやったけど」

 栞も首を傾げる。

「本体だけでも重いのでは?」

 言われてみればそうだった。

 令和の機材のイメージが抜けていない。

「モニターもあるしな」

「店から送ってもらった方がいいと思います」

「やっぱり?」

「壊したら大変です」

「配送にするかぁ」

 買った日に持ち帰りたかった。

 何軒か店も回りたい。

 だが、電車で箱を抱えるよりはましだった。

「車があれば楽なんですけどね」

 富田が言う。

「免許持ってへんやろ?」

「ありません」

 栞も首を振った。

「私もありません」

「まあ、配送でええか」

 遼太郎はたこ焼きを一つ取った。

 今度は、きちんと冷ましてから口へ入れた。


 その日の夜。

 西尾家の子供部屋には、布団が二組敷かれていた。

 居間から、笑い声が聞こえていた。

 人間ドックを終えた父と母。

 スタシアもいる。

 三人で酒を飲んでいた。

 健康を調べた日の夜に酒盛り。

 意味あるんか、それ。

 ユーリが布団の端を揃える。

「そっち、壁から冷えへん?」

「大丈夫」

「ほんま?」

「遼ちゃんの方が、ずれてるよ」

 ユーリが掛け布団を引いた。

「これでいい」

「ありがとう」

「枕、こっちでいい?」

「ええよ」

 二人で布団へ入る。

 電灯を消す。

 橙色の小さな灯りだけが残った。

 居間から、また笑い声が聞こえた。

「楽しそうやな」

「ママ、酔うとよく喋るよ」

「いつも喋ってるやろ」

「もっと」

「怖いな」

 ユーリが笑う。

「そうそう」

「何?」

「田上さんが言ってた不審者」

 ユーリはこちらを向いた。

「多分、ママの会社の人だよ」

「そうなん?」

「うん」

「それもチートで分かるん?」

「うーん…分かるよ」

 歯切れが悪かった。

 チートは感覚的なものだから仕方ないのかもしれない。

「便利やな」

「ウチらを調べてたみたい」

「そうやろうな。不気味な子供やからな」

 ブラックストーム。

 気持ちは解るけど、怪しまれんようにやってや。

 プロやろ。

 そう思った時だった。

 机の上で、PHSが鳴った。

 遼太郎は布団から顔を出す。

「誰や、こんな時間に」

 時計を見る。

 午後九時。

 PHSを取る。

 液晶を見た。

 非通知だった。

「誰やねん」

「いたずら電話?」

「わからん。出てみるわ。何時や思ってんねん」

 ユーリも画面を覗き込み、顔をしかめた。

 通話ボタンを押す。

「もしもし」

『リョウ君?』

 英語だった。

 ジョニーの声だった。

 声には、微かな反響が混じっていた。

 広い部屋にいるらしい。

 非通知で掛けて来るなよ。

「ジョニーか。何の用だ」

 ユーリが身体を寄せる。

 銀色の髪が頬へ触れた。

『うん。あの……ごめん』

「何が」

『ブラックストームの人間が、西尾興業の近くにいたんだ』

 ユーリが頷いた。

「ああ。そのことか」

『知ってるの?』

「聞いた」

『誰に?』

 ユーリを見る。

「それはいい。それで?」

『君の周りを調べていた。接触は禁止していたんだけど、見つかったみたいで』

「実害はない」

『でも』

「近所を少し騒がせたくらいだ。次から気をつけろ」

 ちゃんとしろよ。

 気になることがあるなら聞きに来い。

『うん。ごめん』

「もういい」

『本当に?』

「しつこいな」

 いつものジョニーだった。

「今日はお悩み相談は要らないのか?」

『え?』

「電話してきたら、いつも何か聞くだろ」

『今日は違うよ』

「珍しいな」

『謝るために掛けたんだ』

「もう謝った」

『でも、何かお詫びをさせてほしい』

「要らない」

『欲しいものは?』

「ない」

『会いたい人でもいいよ』

 ほぉ。

「人まで用意できるのか?」

『できる限りは』

 昼の会話が浮かんだ。

 日本橋。

 パソコン。

 モニター。

 車。

 ドライバー。

 アッシー。

「なら、車と運転手を出してくれ」

『車?』

「今度、日本橋にショッピングに行く。だが車も免許も持っていない。デートだから困っていた。デカい車がいい」

 隣で、ユーリが笑いを堪えている。

『分かった』

「本当か?」

『うん。用意するよ』

「助かる」

『それだけでいいの?』

「十分だ」

『ほかには?』

「まだ言うのか」

『だって、それだけじゃ』

「しつこいな」

 遼太郎は息を吐いた。

 ユーリを見る。

 悪戯っぽく目が細くなる。

 ユーリがPHSへ口を寄せた。

「サンタ」

 小さな声だった。

 おもろいやんけ。

 遼太郎も笑った。

「会いたい人なら、サンタかな」

『サンタ?』

 ユーリが肩を震わせる。

「もうすぐクリスマスだし」

『でも――』

「無理ならいい。車と運転手だけ頼む。じゃあな」

『待って、リョウ君』

 通話を切った。

 遼太郎とユーリは顔を見合わせた。

「よっしゃ!」

 二人で手を上げる。

「車、ゲットだぜ!」

 ユーリの手が重なった。

 ぱん。

 乾いた音が、子供部屋に響いた。








 八時間前。

 西尾興業の向かいに建つマンション。

 屋上。

 男は、給水塔の陰に座っていた。

 手には無線機。

 足元には双眼鏡。

 フェンスの向こうに、西尾興業が見える。

 男は無線機のボタンを押した。

「三班、近すぎる。一旦、下がれ」

『事務所の中が見えません。子供が一階に降りてきました』

「地域で顔を見られ始めている。通報されたら終わりだ。その子供は放っておけ」

『了解』

 通信が切れた。

 男は西尾興業の建物を睨んだ。

 今回の仕事は割がいい。

 通常業務よりも。

 ただ、成果を求めすぎる。

 人数を増やせ。

 出入りする人間を洗え。

 交友関係を調べろ。

 そのせいで、地域から怪しまれ始めていた。

 人を減らす必要がある。

 こんな連中を見張って、何の成果を上げろというのか。

 男は無線機を足元へ置いた。

 その瞬間だった。

 背中へ強い衝撃。

「ぐっ!」

 身体が前へ倒れた。

 頬が、コンクリートのざらつきで削れた。

 背中へ重さが掛かった。

 動けない。

 一瞬、獣の気配がした。

 首筋に、硬いものが押しつけられる。

 細い。

 鋭い。

 牙。

 いや。

 細身の刃物。

 スティレットという名が浮かんだ。

「動くな」

 低い女の声。

 首筋に押しつけられた牙と、同じ冷たさだった。

 感情がなかった。

「振り向くな」

 男の手が止まった。

「首筋のどこに当たっているか分かるか?」

 急所だ。

 刺されれば終わる。

 声の主は見えない。

「お前らは何だ?」

 鋭い先端に力が入った気がした。

「何故、僕たちを見張っている? 答えろ」

 直感で分かった。

 殺される。

 人を人だと思っていない声だった。

 こんな仕事で殺されてたまるか。

「ブ、ブラックストームだ!」

 声が裏返った。

「西尾興業の周囲を探れって言われた!」

 背中の圧力は変わらない。

「監視するだけだ! 何もしない!」

 声が大きくなった。

「殺さないでくれ!」

 息が詰まった。

 勝手に涙が滲んだ。

 沈黙。

 風が屋上を抜けた。

 舌打ち。

「なあんだ」

 声だけが、急に幼くなった。

「ぺらぺら喋っちゃうんだぁ」

 呆れたように続けた。

「へたくそ」

 吐き捨てるような声に変わった。

 背中の重さが消えた。

 首筋にまとわりついていた死の気配も、消えた。

 男は、しばらく動けなかった。

 やがて、恐る恐る顔を上げる。

 振り返った。

 誰もいない。

 閉じた屋上扉。

 給水塔。

 金網。

 澄んだ秋空。

 風だけが吹いていた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
上手にチート使う感じいいなー
正妻が遼ちゃん守るという覚悟ガンギマリなのが怖いわw
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