第二十三節
10月5日。
朝からニューヨークに降っていた雨は、昼前に小雨になった。
窓の外には、濡れたビルの壁が並んでいる。
雲は低い。
陽は見えなかった。
ブラックストーム・インベストメント本社。
メリット・フィッチは、最上階の廊下を歩いていた。
右手に報告書。
左手に紙のカップ。
社内のカフェで買ったコーヒーだった。
新作という触れ込みだった。
一口飲む。
まだ温かい。
薄い。
いや、味が分からない。
儲かった。
莫大に。
本来なら、笑って席へ着けるはずだった。
ロシアは債務不履行を起こした。
ルーブルは崩れた。
新興国から金が逃げ、欧米の金融機関まで巻き込んだ。
ライバルのLTCMに至っては破滅した。
ブラックストームは、その前に持ち高を減らした。
下落へ乗った。
降りた。
反転して買った。
LTCMと関係金融機関が吐き出した債券も、安く拾った。
親会社のFNCへ、数字を叩きつけてやれる。
小遣い稼ぎ部門。
同じことが言えるなら、言ってみろ。
そう思っていた。
それなのに、胃が重い。
情報を出したのは、シール。
日本にいる少年。
聞き出したのは、ジョニーだった。
契約違反とは言い切れない。
言い切れないだけだった。
一体誰の入れ知恵だ?
ガールスカウトが知れば、怒るだろう。
訴状を書くかもしれない。
あの女ならやる。
真相を知る者を絞って正解だった。
大会議室が近づいた。
厚い扉の向こうから、声が漏れている。
「だから、それでは遅い!」
「手順を飛ばして損失を出した時、誰が説明する!」
「日本法人の案件です」
「全社の利益だろう」
「まだ会議は始まっていません」
「始まっていないから話しているんだ」
「なら、我が君が来てから話せばいいじゃないか」
メリーは足を止めた。
腕時計を見る。
三分前。
紙のカップを口へ運ぶ。
もういい。
飲めたものではない。
秘書にカップを渡した。
一人ずつなら、可愛い奴らなのだ。
どうして集めると、こうなる。
扉を開ける。
声が消えた。
長い楕円形のテーブル。
全員が立ちあがった。
メリーは最奥の席へ歩く。
議長席。
連中が勝手に玉座へ変えた椅子だった。
腰を下ろす。
全員が座った。
革が、一斉に鳴った。
一息ついて、右を見やる。
太い指に握られ、資料が筒になっていた。
さっきまで、これで机を叩いていたのだろう。
最高投資責任者〈CIO〉のバーキン。
向かいには、最高執行責任者〈COO〉のマクドネル。
散らされた資料を、神経質そうに番号順へ戻している。
二人とも、相手を見ない。
せめて俺の前では仲良くしろよ。
議長席の隣では、最高財務責任者〈CFO〉兼法務・コンプライアンス統括のドーウェルが議事録を開いていた。
黒いパンツスーツ。
細い眼鏡。
切れ長の目。
陰では、未婚を揶揄され、名字の前にミスを付けられている。
本人も知っている。
誰がそう呼んでいるのかも。
中央には、副社長兼アジア太平洋地域統括役員のカウ。
この中では、一番温厚だった。
留守を任せるために、副社長に置いた。
それなのに。
右に日本法人社長のヨシノ。
左に香港・中華圏統括のツーヤン。
互いに睨みあっている。
カウは二人の間へ視線を落としていた。
直属の二人すら、まともに御しきれていない。
窓際には、欧州地域統括役員のゼリアン。
一人だけコーヒーを飲んでいる。
新作のコーヒーだった。
お前、よくそのコーヒーが飲めるな。
総勢八人の最高幹部会議。
臨時経営委員会。
ジョニーが、日本では御前会議と呼ぶと教えてくれた。
ヨシノからは、言葉は合っているが、使い方が違うと言われた。
日本語は難しい。
「始めろ」
低く言った。
ドーウェルが時計を確認した。
「臨時経営委員会を開会します」
紙を一枚めくる。
「まずロシア金融危機、およびその後の市場混乱における運用実績について」
室内が静かになった。
「危機発生前のポジション整理により、推定6億3000万ドルの損失を回避しました」
声に抑揚はない。
「ロシア関連資産の下落。新興国市場からの資金流出。欧米金融機関への信用不安。以上の局面における確定利益は、11億9000万ドル」
バーキンが報告書を開いた。
丸められていた資料が、机の上で浮く。
「加えて、LTCMおよび関係金融機関のポジション解消に伴い値崩れした債券を取得しています」
「含み益は?」
マクドネルが口を開いた。
「2億7000万ドルです」
紙をめくる音がした。
「確定利益と含み益の合計は、14億6000万ドル。回避した損失を含む経済的効果は、20億9000万ドルと推定されます」
窓際から、短い口笛が聞こえた。
20億9000万ドル。
何度見ても、桁は変わらない。
良すぎる。
大金星だ。
「第一報は」
マクドネルが聞いた。
「日本法人主任トレーダー、ジョニー・フィッチを経由しています」
ドーウェルの指が、次の行へ移る。
「情報提供者は、契約上の市場調査協力者です」
「シールか」
バーキンが呟いた。
「通話記録と逐語録は、事前に配布した通りです」
全員の前に、同じ綴じ資料がある。
半年分。
通話日時。
通話時間。
書き起こし。
発言要旨。
契約上の分類。
「ただいまより、ロシア金融危機に関する通話音声を再生します」
ドーウェルが卓上の機器へ触れた。
小さな雑音。
ジョニーの声が流れた。
続いて、少年の声。
誰も資料を見なかった。
再生は数分で終わった。
『俺の友達をいじめるなよ』
『……え?』
『お前に言ったんじゃない。これを聞いてる奴にだ。じゃあな』
通話が切れた。
機器の赤いランプだけが残った。
マクドネルが額を押さえた。
ドーウェルはペンを置き、目を閉じた。
ヨシノも資料へ視線を落としたまま動かなかった。
「アウトだ」
マクドネルが口早に言った。
ゼリアンが顔を上げる。
「どこがだい?」
マクドネルの顔が動いた。
「ちゃんと聞いていたのか?」
「もちろんさ」
ゼリアンは肩をすくめた。
マクドネルが逐語録の一行を示した。
「契約外と確認した上で、ロシア市場の見通しを尋ねている」
「答える必要はないと、先に伝えているよ」
「その答えを引き出すよう、ジョニーが質問している」
「質問に答えただけだよ。LTCMもサービスじゃないか」
ゼリアンは不敵に笑った。
「質問するのが調査だろう。明確な違反になっていない。ならないように助言したんだ」
マクドネルの手が、資料から離れた。
バーキンがゼリアンを見る。
ヨシノは目を伏せていた。
ドーウェルは睨みつけていた。
やっぱりお前か。
「何だい」
ゼリアンが言った。
誰も答えなかった。
答える必要もなかった。
「おかしいと思ったんです。あの子が、自分でこんなことを思いつくわけがない」
ドーウェルが言った。
ゼリアンは眉を上げた。
「ジョニーは昔から、自信の無い子だ。そこにつけ込むな」
カウが忌々しげに言った。
「つけ込んだ? お言葉ですが、副社長。その結果が20億9000万ドルだよ?」
悪魔め。
お前のところも、おこぼれに与っただろうが。
「ドーウェル、契約違反になるのか」
マクドネルが尋ねた。
「直ちに契約違反とは判断できません」
ドーウェルは眼鏡をかけ直した。
「ただし、通話全体を一連のものとして見れば、契約上の調査範囲を越えたと解釈される可能性があります」
「セーフか。アウトかで答えてほしいのだが?」
バーキンが聞いた。
「法務に二択を求めないでください」
「便利な仕事だな」
「投資部門ほどではありません」
バーキンは鼻を鳴らした。
「私はセーフと考えます」
ヨシノが言った。
マクドネルの視線が移る。
「シールは売買を助言していません。注文を出したのはジョニーです」
「競合会社が同じことをしていても、セーフと言うか?」
マクドネルが笑った。
ヨシノの指が、資料の端を押さえた。
返事はなかった。
セーフ、アウトの話題はうんざりだ。
メリーは机を指で叩いた。
室内が静まった。
ドーウェルが眼鏡を押し上げた。
カウが水差しへ手を伸ばす。
ゼリアンは何も入っていないカップを覗いている。
「半年分の録音を全部聞いた」
バーキンが口を開いた。
指が、綴じ資料の表紙を叩く。
「本物なのは信じている」
その手が止まる。
「間違いなく、凄腕の勝負師だ」
窓の外へ目を向けた。
「それでも、あれが子供だとは信じられん」
誰も笑わなかった。
「助言の価値は大きい」
カウがグラスへ水を注いだ。
「八月中旬を峠とし、LTCMへ注意を向けた。準備期間を買ったことになります」
カウの口調は静かだった。
「持ち高を減らした。下落へ乗った。途中で降りた。反転して買った」
バーキンが言った。
声が少し低くなった。
「シールは方向を示した。逃げ切ったのはジョニーだ」
「同意します」
ヨシノが頷く。
バーキンは椅子へ身体を戻した。
「いくら凄腕の勝負師が示してくれていても怖かっただろうな。なかなかできん」
報告書を机へ置く。
「それでも、やった。評価すべきだ」
間を置いて、バーキンが続けた。
「昇進させろ。報いてやるんだ」
ヨシノが顔を上げる。
「日本法人の副社長級を考えています」
マクドネルの手が止まった。
「その待遇は早すぎる」
「成果は十分です」
「成果の話ではない」
マクドネルは資料を閉じた。
乾いた音がした。
「経験が足りない。肩書きを渡せば、責任も増える」
「すでに、それだけの責任を負っています」
「あいつがそれに耐えられないのは解るだろう? 何年見てきた?」
ヨシノは口を閉じた。
マクドネル。
ジョニーに厳しいつもりだろうが、お前が一番過保護なんだよ。
メリーはドーウェルを見つめた。
助け舟を出してやってくれ。
ジョニーの幼馴染じゃないか。
ドーウェルが頷いた。
「昇進そのものには反対しません」
ドーウェルが続ける。
「今回の精査を終えてからです」
「また手続きか」
バーキンが眉を寄せる。
「今回は、本人のためです」
丸めかけていた報告書が止まった。
バーキンは何も返さなかった。
「次へ進みます」
ドーウェルが資料をめくった。
「今回の運用成果に対する、シールの寄与を確定する必要があります」
「20億9000万ドル、全部でいいだろう」
ゼリアンが言った。
「馬鹿者、1%でも2000万ドルだぞ?」
思わず声が出た。
「CEOの仰る通り、あり得えない」
マクドネルも合わせた。
「警告と取引執行を、同じ成果として扱うべきではない」
「警告がなければ利益もないよ」
ゼリアンはいじけた顔で言った。
「警告だけでも利益は出ない」
「では、いくらになるんだ?」
「それを分けるための記録です」
ドーウェルの指が、一覧をなぞる。
「損失回避。下落局面。手仕舞い。反転後。LTCM関連債券。助言との因果関係を個別に精査します」
「分けられるのか」
「分けます。それしかない」
バーキンは通話一覧を開いていた。
一枚めくる。
次の紙へ移ろうとして、止まった。
「そういえば、前から記録が一本無かったよな」
ドーウェルが顔を上げる。
「どれです?」
「八月頭」
バーキンの爪が、発言要旨を叩いた。
「この前の電話で、シールが言っている。明日、個人的に話したいことがあると」
指が一行下へ移る。
「次の電話はその翌週。間の通話がない」
ドーウェルの視線が、一覧へ落ちた。
数秒。
「欠落ではありません」
「なら、どこだ。気になって仕方なかったんだ」
「私用通話として処理しました」
ヨシノが言った。
「業務と関係のない内容だったと、ジョニーから報告を受けています」
「待て、会社の設備を使ったんだろう?」
マクドネルが顔を向ける。
「使っています」
「相手は契約者だ」
声が低くなる。
「録音を残さない理由にはならない」
ヨシノが身を乗り出した。
「私的な用件です」
「誰が判断した」
ヨシノは答えなかった。
ドーウェルがペンを置いた。
「私です」
マクドネルの目が動いた。
「君が?」
「ジョニーから申告を受けました。業務外の通話として、保管対象から外しました」
「内容を確認したのか」
「本人へ確認しました」
「内容を聞いたのかと聞いている」
ドーウェルの指が、ペンから離れた。
「聞いていません」
静かだった。
「虚偽の申告をする子ではありません」
鉄の女のくせにジョニーには甘すぎるだろう。
「内容が私的かどうかと、記録義務は別だ」
マクドネルが資料の角を揃えた。
「弟分に甘いな」
ドーウェルの眉が動いた。
過保護の癖に言えた立場か、マクドネルよ。
「その電話に」
バーキンが一覧を持ち上げる。
「シールとの交渉のヒントがあるかもしれん」
「私用であれば、聞く必要はありません」
ドーウェルが返した。
「私用だったか確認できていない」
マクドネルが言う。
「半年聞いても分からなかった」
バーキンの指が、分厚い資料の上を滑る。
「あの勝負師が、何を考えてジョニーと話しているのか」
窓の外で、車の警笛が短く鳴った。
本人抜きで話していても埒が明かん。
「ジョニーを呼べ」
ヨシノが姿勢を正す。
「名目は聴取でしょうか」
「諮問です」
ドーウェルが先に答えた。
メリーはそちらを見た。
ペンは、もう手の中へ戻っている。
諮問。
お灸を据えるべきだ。
「契約の境界を越えかねない質問をした件についての諮問、だな」
メリーは腕を組んだ。
ゼリアンが空になったカップを置く。
「少し大げさじゃないかな」
全員の目が向いた。
「何だい」
「お前も横に座るんだ。主犯なんだからな」
ゼリアンは瞬きした。
ちょっとは懲りろ。
メリーは全員を見た。
「そこで欠けた通話について聞く。それから」
半年分の記録へ目を落とす。
「シールと、今後どう付き合うべきか。次の議題で話し合う。それについて、あいつの意見も聞く」
ヨシノが頷いた。
「招集状は私から出します」
ドーウェルが言った。
「怖がらせるなよ」
バーキンがおどけた。
ドーウェルが、眼鏡越しに見た。
「誰に言っているのです?」
バーキンは視線を外した。
「通常の文面です」
「ならいい」
「次の議題です」
ドーウェルが資料を替えた。
「契約更新後の関係維持について」
「報酬を増やせ」
バーキンが吐き捨てるように言った。
「成果を出した。金で評価しろ」
「すでに十分な資産を保有しています。推定ですが300万ドル程度」
「子供と言い切る自信がなくなった」
バーキンが、天井を見上げた。
「コンピューターは?」
ツーヤンが言った。
「ちょうどAppleに伝手がある。最新型を専用回線込みで進呈しては?」
ヨシノが鼻で笑った。
「皆が皆、お前みたいなMac信者だと思うなよ?」
「専用端末には賛成だ」
マクドネルが言った。
「ただし、連絡手順と記録方法を統一する」
「また手続きか」
「今回の原因を忘れたのか」
バーキンの口が閉じた。
「家族との関係を作るべきです」
カウが言った。
「教育支援。長期的な――」
「それは日本法人で用意します」
ヨシノが割り込む。
カウの声が止まった。
「本人との契約は、日本法人が管理しています」
「全社の資金で得た利益だ」
ツーヤンが返した。
「日本だけで囲う理由はない。独り占めしないでくれ」
「囲っているのではありません」
カウが二人を見る。
口を開く。
また閉じた。
グラスの水を飲む。
カウ、頼む。
もっと強く出てくれ、副社長だろ。
「ラマーノフの待遇を上げるべきです」
ドーウェルが言った。
二人の声が止まる。
「職位と権限を上げ、窓口を固定します。本人と家族から一定の信頼を得ている。契約管理上も有効です」
「信頼されているのか?」
バーキンが聞いた。
ドーウェルのペン先が、紙の上で止まる。
「少なくとも、当社の他の人間よりは」
メリーは鼻を鳴らした。
待遇を上げてやるのだから感謝しろ。
スタシアに言えば、訴状が一枚増える。
そんな気がした。
「有名人に会わせるのは」
ヨシノが言った。
「誰だ」
「スポーツ選手。俳優。本人が好む相手を――」
「好む相手が分からないから困っている」
マクドネルが切った。
ヨシノは口を閉じた。
「だったら、ヨーロッパに来てもらうのはどう?」
ゼリアンが言った。
全員が動きを止めた。
何言ってんだお前?
「ちょうどロンドン市場を見てほしいと思っていたんだ」
「ロンドンに呼ぶ気ですか」
ドーウェルの声が低くなった。
「招待するだけだよ」
「保護者は」
「家族も一緒でいい」
「本件は日本法人の契約です」
ヨシノが言った。
「彼は日本法人の所有物ではない」
ツーヤンが返す。
「欧州の所有物でもありません」
「所有するとは言っていない」
ゼリアンは首を傾げた。
「旅費と宿泊費を出す。市場を見せる。助言を得る。何が問題なんだ」
「その発想です」
ドーウェルが言った。
「合理的だと思うけど」
「お前、黙ってろよ」
バーキンまで加わった。
「なぜ?」
1000億ドルを超える資産を運用する大の大人八人が、子供一人の欲しいものを知らない。
そして、このザマだ。
こんな情けないことがあるだろうか。
メリーは頭を抱えた。
「シールの支出の傾向なら、資料があります」
ドーウェルの声で、言い争いが止まった。
資料が配られる。
「まず、Amazon社株式購入」
バーキンが紙を引き寄せた。
「今年一月、一株59ドルで2050株を取得。その後、3万ドルを追加し、分割前換算で2477株まで買い増しています」
「六月に分割したよな?」
「はい。現在の保有数は、4954株です」
次の数字へ指が移る。
「取得額、約15万1000ドル。前営業日の終値による時価は、約51万7000ドル」
マクドネルが数字を追った。
「三倍を超えている」
「九か月足らずでな」
バーキンが笑った。
「成長企業を見る目もある。完璧だ」
「一銘柄です」
マクドネルは顔を上げない。
「一銘柄で証明できるなら、相場師は全員天才になる」
ドーウェルが続ける。
「次にセイバーエージメントへの出資。日本の新興広告会社。六月、5000万円を出資。経営権は創業者側に残されています」
場がざわつき始める。
「Gagoyleへの出資。米国の検索技術会社。七月、100万ドルを出資。完全希薄化後20%。無議決権。取締役派遣なし。拒否権なし」
バーキンの笑みが消えた。
「無名の会社に100万ドル?」
「はい」
「売上は」
「ほぼありません」
「利益は」
「ありません」
紙を擦る音がした。
「馬鹿な」
小さく呟いた。
「危機の出口を見る能力と、成長企業を選ぶ能力は別です」
マクドネルが言った。
「上場企業と創業直後の企業も違う。一つが正しかったからといって、全て正しいとは限りません」
「間違っていると決める理由もない」
バーキンが返す。
議論も潮時だな。
メリーは拳を机へ落とした。
鈍い音。
全員が黙った。
「決める」
ドーウェルが新しい紙を取り出す。
「シールとの契約は更新する。これは既定路線だ」
ペンが走る。
「だが、条件はジョニーの諮問を行ってから決める」
バーキンが口を開きかける。
メリーが目で制する。
閉じた。
「今回の運用成果は、取引ごとに助言との因果関係を精査しろ。シールへの追加報酬と、ジョニーの評価は分けて出せ」
「承知しました」
「ジョニーの昇進問題も諮問の後だ。副社長級を含めて検討する。多少無理させないと若者は成長しないからな」
ヨシノが頷いた。
「ラマーノフの待遇改善案も出せ。俺が恨まれる。窓口は、当面ラマーノフとジョニーに限定する」
ドーウェルが書き加える。
「海外市場への助言拡大も、ジョニーの話を聞いてからだ」
「承知しました」
「Amazon、セイバーエージメント、Gagoyleは継続監視」
バーキンの口元が上がる。
「接触するな。追随投資もするな」
下がった。
「業績。資金繰り。技術。人材。数字が出るまで、決めつけるな」
マクドネルが頷いた。
「ゼリアン」
「何だい我が君」
「シールに連絡するな」
「まだしてない」
「これからもするな」
「分かったよ」
「ジョニーにもだ」
空のカップへ伸びていた手が止まった。
「何の話だい?」
「諮問の前に、余計な知恵を付けるな」
「助言を求められたら答えるだけだよ」
「それをやめろと言っている」
マクドネルが資料の角を揃えた。
「君の助言で、私の手続きがまた一つ形骸化する」
「ただの近道じゃないか」
「黙れ」
メリーとマクドネルの声が重なった。
「それから」
メリーはドーウェルを見る。
「シールについて、調べ直せ」
「既存資料の更新でしょうか」
「それだけじゃない」
メリーは報告書を閉じた。
「何に興味を持つ。何に金を使う。誰と時間を過ごしているか。それも調べろ」
ドーウェルの視線が、メリーから離れない。
「本人への接触は」
「するな」
「家族への接触は」
「するな」
「当社の名は」
「出すな」
「調査範囲は?」
雨は止んでいる。
窓に残った水滴だけが、ゆっくり下へ落ちていた。
「本人に気づかせるな」
メリーは言った。
「何を欲しがり、何を嫌うのか」
一拍置く。
「分かるまでだ」
ドーウェルのペンが動いた。
紙を擦る音が、静かな会議室に残った。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。
よろしくお願いいたします。




