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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
53/58

第二十二節

「ユーリ、そろそろ出るわよ」

 ドアの向こうから、スタシアの声がした。

 鏡の中から、意識を引き戻された。

「うん。今行く」

 鏡台の引き出しを開ける。

 奥に、小さなポーチがあった。

 中から紙を取り出す。

 何度も開いた。

 何度も、少しずつ千切った。

 半分ほどしか残っていない。

 折り畳まれた角へ指が触れた。


 あの日。

 遼太郎が紙を放り投げた。

 ゴミ箱の縁に当たって落ちた。

 何気なく拾い上げてみた。

 クレヨンで書かれた数式が、画用紙一面を埋めていた。

 太い数字。

 歪んだ記号。

 最後に、Q.E.D.とある。

 かつて数字を、技術を、未来を見極める仕事をしていた。

 技術者の説明。

 並べられた数字。

 将来の市場。

 必要になる予算。

 その技術に芽があるか。

 支援する価値があるか。

 筋が通っているか。

 数字に嘘がないか。

 感情は挟まない。

 見るのは、それだけだった。

 紙を見つめる。

 高等数学。

 何を証明した式なのかは分からない。

 それでも、子供の落書きではなかった。

 最初から最後まで、一つのものとして繋がっている。

 突然、遼太郎の手が止まった。

 振り返る。

 紙を見た。

『これ、なあに?』

 遼太郎の顔が固まった。

『……さあ』

 この顔。

 この間。

 まさか。

 紙を胸元へ引く。

『じゃあ、ウチがもらってもいいね』

 目が合った。

 遼太郎の顔が変わる。

『いや、やっぱり返してくれへん?』

 間違いない。

 その顔。

 狼狽え方。

 見間違えるはずがない。

 遼ちゃんも戻ってきている。

 きっと、あの居酒屋までの記憶を持ったまま。

 胸の奥が震えた。

 二十年が、自分の中にしか残っていないわけではなかった。

 一緒に歩いた道。

 何度も行った初詣。

 仕事帰りの居酒屋。

 どうでもいい電話。

 二人で過ごした月日は、消えていなかった。


 今すぐ抱きつきたかった。

 遼ちゃん。

 なんで置いていっちゃったの?

 僕は、ウチはこんなにも。

 喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 その喜びの底から、不安が浮かんだ。

 ただの子供なら、どうにでもなると思っていた。

 外堀を埋めて異性としての思い出を積み上げればいいと思っていた。

 それどころか。

 育ててやろうとすら思っていた。

 だが、中にいるのは遼太郎だった。

 二十年、こちらを見てきた男だった。


 騙せるのか。

 二十年を一緒に過ごした相手を。

 遼太郎の視線は、まだ紙から離れない。

 使える。

 そう思った。

 同時に、困らせてやろうと思った。

 有理なら。

 困らせないように。

 嫌われないように。

 親友という場所から追い出されないように。

 何も求めず、待つだけだった。

 だから、ウチは全部やる。

 今までできなかったことを、全部やってやる。

 紙を見せれば断れない。

 こっちばかり、二十年も悩んだ。

 少しくらい、引っ掻き回されればいい。

『遼太郎君じゃなくて、遼ちゃんって呼んでいい?』

『ええよ』

 返事が早い。

 遼ちゃん。

 心の中で何千、何万回と呼んだ名前。

 ようやく、声にできる。

『これからよろしくね、遼ちゃん』

 遼太郎の顔が引きつっていた。

 可笑しかった。

 もう逃がさないよ。


 指先に、紙の角が当たっていた。

 あれから四か月。

 楽しかった。

 困らせるつもりだった。

 無理やりにでも自分をねじ込むつもりだった。

 紙を見せるたび、遼太郎は嫌そうな顔をした。

 それでも、願いを聞いてくれた。

 やがて、紙を出さなくても隣を歩くようになった。

 名前を呼べば、こちらを見る。

 毎日会うことが、当たり前になった。

 嬉しくなるたび、隠していたものが零れた。

 そのたびに、遼太郎の目が止まった。

 どこまで気づいているのか。

 分からなかった。

 道場での一件は、致命的だった。

 揺れ始める前。

 嫌な予感がした。

 翔けるように遼太郎の元へ向かった。

 床が鳴った。

 棚が揺れる。

 遼太郎の足がもつれた。

 考えるより先に、道着を掴んだ。

 引く。

 身体が横へずれた。

 道着を掴んだ手。

 指が震えた。

 あれで終わったと思った。

 それでも、悔いはなかった。

 この夢と、遼太郎の安寧。

 比べるまでもない。


 それでも遼太郎は何も言わなかった。

 紙がなくても。

 脅さなくても。

 遼太郎は隣にいた。

 優しく笑いかけてくれた。

 もうバレている。

 何を隠しているのか。

 どんな夢を見ているのか。

 それでも何も言わない。

 優しい人。

 良い夢だった。

 本当に。

 夏祭りの日に、残りを返す。

 そう伝えた時には、もう決めていた。

 一年前に再会した神社で、この夢を終わらせる。

 今度は、古い親友として隣に立つ。


 紙を折り畳んだ。

 帯に下げた巾着へ押し込む。

「ユーリ、まだ?」

「今行く」

 玄関へ向かった。

 スタシアも浴衣を着ていた。

 鮮やかな朱色だった。

 銀色の髪を上げ、手提げを腕へ掛けている。

 こちらを見るなり、目元が緩んだ。

「やっぱり可愛いでちゅねぇ……」

「さっきも言ってたよ」

「何度見ても可愛いんでちゅ」

 帯へ手が伸びる。

 形を直す。

 髪飾りへ触れる。

「苦しくない?」

「大丈夫」

 呼び鈴が鳴った。

 スタシアが扉を開ける。

 夕立のあとの空気が入ってきた。

 濡れた土。

 塀から落ちる水。

 蝉の声。

 門の前に、二人立っていた。

 遼太郎。

 紺色の浴衣。

 一年前と同じだった。

 隣には、栞がいる。

 鈍い青の浴衣。

 黒い髪を整え、背筋を伸ばしていた。

「お待たせしました。あら、剛三さんと恵さんは?」

 スタシアが首を傾げた。

「二人は後から来ます」

 栞が答えた。

 遼太郎と目が合う。

 二人きりになる妙案がある。

 先日、そう言っていた。

 失敗したのだろうか。

 電子音が鳴った。

 スタシアが足を止める。

 手提げからPHSを取り出した。

「東京本社……?」

 通話ボタンを押す。

「はい。ラマーノフです」

 声が変わった。

「今からですか?」

 しばらく黙って聞く。

 眉間に皺が寄った。

「今日は休暇だと伝えていたはずです」

 電話の向こうから、声が続いている。

「契約書の確認?」

 家の方を見る。

「自宅へ送ったのですか」

 奥でファクシミリが動き始めた。

「分かりました。確認して折り返します」

 通話が切れた。

 スタシアはPHSを握ったまま、家を見た。

「どうして今日なのよ……」

「何かあったの?」

 遼太郎から目を離さず、尋ねた。

「東京本社から。今すぐ確認してほしいって」

 家の中から、紙を送り出す音が続いている。

「スタシアさん」

 栞が声をかけた。

「子供たちは、私が連れていきます」

 スタシアが顔を上げた。

「でも」

「恵さんたちとご一緒に、あとからお越しください。お任せください」

「あなた一人で大丈夫?」

「大丈夫です」

 迷いのない声だった。

 スタシアはユーリを見る。

「勝手に離れたら駄目よ」

「うん」

「疲れたら、すぐ栞さんに言うのよ」

「うん」

「喉が渇く前に水を飲んで」

「分かってる」

「本当に?」

「ママ。仕事」

 ファクシミリが、次の紙を吐き出した。

 スタシアの肩が落ちる。

「……すぐ行くから」

「待ってる」

 スタシアは何度も振り返りながら、家へ戻った。

 扉が閉まる。

 ユーリは遼太郎を見た。

 遼太郎は片方の目を閉じた。

 反対の目まで細くなっている。

 ウィンクらしい。

 下手だった。


 三人で歩き出す。

 雨に濡れた道を、細い水が流れていた。

 遠くで太鼓が鳴っている。

 八城神社へ近づくにつれ、人が増えた。

 浴衣。

 団扇。

 屋台の灯り。

 石段の手前で、栞が足を止めた。

「私が誤魔化せるのは、二時間が限度です」

 指を二本立てた。

「それまでは、二人きりで楽しんできてください」

「栞姉ちゃんは?」

「それまで隠れています。花火が始まる前に、本殿前へ迎えに行きます」

「分かった」

 栞を見る。

 一年前。

 遼太郎のそばにいた女。

 当然のように口元を拭いた。

 当然のように抱き上げた。

 調べた人間の中に、いなかった。

 不審で、腹立たしかった。

 でも。

 話してみれば、敵ではなかった。

 恵を。

 遼太郎を。

 西尾家を。

 守りたいだけだった。

 ただ、壊れている。

 壊れたまま、家族の外から内側へ入り込んだ。

 きっと、もう治らない。

 有理がやりたかったことを、見事に成し遂げた女。

 それも自然に。

 羨ましかった。

 自分と同じ腐臭がした。

「栞さん」

「はい」

「ありがとう」

 栞がこちらを見る。

「お安い御用です。それから、栞姉ちゃんです」

 一瞬、言葉が出なかった。

 真顔だった。

 ああ。

 ウチも、家族の側らしい。

「……ありがとう。栞姉ちゃん」

 栞の目元が緩んだ。

「デートを楽しんできてください」

 遼太郎の背中を押す。

「二時間です」

「分かってるって」

「遅れたら、何をしていても見つけ出して迎えに行きます」

「はいはい」

「はいは一回です」

「はい」

 栞は頷いた。

 人混みへ歩いていく。

 背中が見えなくなった。


 栞も、遼太郎に救われたのだろうか。

 ふと思った。

 恵の顔、剛三の顔、富田の顔が浮かぶ。

 遼太郎のやりたいことは、察しがついていた。

 手が届くなら、救いの手を伸ばす。

 届かないなら、届くところまで金を積む。

 ただ。

 いつか、それが遼太郎を苦しめる。

 背負わなくてもよいものまで背負わせる。

 それが憎かった。

 遼太郎を傷つけるものだから。

 けれど、分かる気もした。

 栞が遼太郎を放っておけないように。

 ウチも、この人を放っておけない。

 人混み。

 焼けたソースの匂い。

 砂糖の甘い匂い。

 遼太郎が腕を差し出した。

 その腕に抱きつく。


 この人を隣で支える。

 重しになってはいけない。

 夢は、今夜で終わりにする。

 有理だと名乗る。

 親友として、隣に戻る。

 そう思えば、ちょうど潮時だった。

「何食べる?」

 遼太郎が笑った。

「綿あめ」

「子供やなぁ」

「遼ちゃんも子供でしょ」

 綿あめを一つ買った。

 二人で千切って食べる。

 舌の上で、すぐに消えた。

 甘さだけが残る。

 遼太郎は、そのまま歩いた。

「初詣はよく行ったけど、夏祭りは初めてだね」

「夏は忙しかったからな」

「いつも仕事だったね」

「お互いにな」

 目が合った。

 二人で笑った。

 もう、隠さなかった。

 遼太郎も聞かなかった。


 屋台の間を歩く。

 白い袖が翻る。

 射的をした。

 ヨーヨーすくいをした。

 焼きそばで汚れた口を拭いてあげた。

 くじ引きをした。

 お面を買った。

 クレープを半分こした。

 遠くで放送が流れた。

 間もなく花火が始まる。

 人の流れが、本殿の前へ向かっていく。

 栞との待ち合わせまで、あと数分だった。

「こっち」

 遼太郎が、人の少ない方へ曲がった。

 本殿の裏。

 杉の木が並んでいる。

 社殿の向こうから、祭りの音が聞こえた。

 湿った土の匂い。

 虫の声。

 遼太郎が足を止める。

「ここなら、しばらく二人や」

 校舎裏は叶わなかった。

 けれど、神社裏も趣がある。

 夢の最後にふさわしい場所まで、遼太郎が用意してくれた。

 巾着に手を入れた。

 紙を取り出す。

 最初に拾った時の、半分ほどしか残っていない。

「遼ちゃん」

「ん?」

「今日は、付き合ってくれてありがとう」

 遼太郎の眉が動いた。

「楽しかった」

「何や、急に」

 紙を差し出す。

「これで、全部返す。約束だもんね」

 遼太郎は紙を見た。

 手を出さない。

「遼ちゃん?」

「返さんでええ」

「え?」

 どういうこと。

「それ、持っといて」

 なんで。

「もう必要ないでしょ」

「要る」

「遼ちゃんの紙だよ」

「せやからや」

 紙を持つ手が押し戻された。

 角が掌へ当たる。

「不安になったら、いつでもそれで脅してきたらええ」

 遼太郎が、紙ごと手を握った。

「次は、勝手に遠いとこ行くなって命令してこい」

 胸が痛んだ。

「正直になれって、命令してこい」

 夢を終わらせるはずだった。

 有理だと名乗るはずだった。

「あとな。大人になったら、もう一枚やる。判ついてやるから、待っとけ」

 親友として、隣に立つはずだった。

「遼ちゃん……」

 声が震えた。

「僕は……」

 僕。

 ずっと隠してきた声だった。

 遼太郎の目が揺れる。

「僕は……君の……ゆ」

 光が昇った。

 夜空が白くなる。

 轟音。

 声が消えた。

 本殿の屋根の向こうに、大きな花が開く。

 赤。

 金。

 白。

 祭りの歓声が上がった。

 涙が溢れた。

 遼太郎の顔が、花火の光に照らされる。

 頬が濡れていた。

 遼太郎も泣いていた。

 それでも、笑った。

「ユーリやろ?」

 息が止まった。

 二発目の花火が上がる。

 遼太郎は手を離さない。

「親友で、最愛の恋人。俺のユーリやろ」

 紙が、掌の中で潰れた。

 遼太郎の胸に飛び込む。

 背中に、腕が回った。

「遼ちゃん……!」

 あとは、言葉にならなかった。

 ウチの遼ちゃん。

 浴衣に顔を押しつける。

 頭を撫でられた。

 何度も。

 何度も。

 顔を上げる。

 唇が触れた。

 花火が夜を照らしていた。

 長かった夜の向こうに、遼ちゃんがいた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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