第二十一節
8月15日。
夕立が過ぎたあと、空は急に高くなった。
濡れた電柱から水が落ち、山の端にはまだ黒い雲が残っていた。
晴れて良かった。
雷鳴が響いた時はどうなるかと思った。
胸をなでおろす。
銀色の髪を整え、白い浴衣に腕を通す。
鏡の前に立つ。
見慣れた少女がいた。
伝えられなかった言葉。
鳥居。
掌の血。
白い光。
次に目を開けた時、知らない天井があった。
身体が小さい。
腕も。
指も。
鏡の中には、銀色の髪をした少女がいた。
頬に触れる。
鏡の中の女の子も、同じ場所へ触れた。
身体を確かめた。
女の子だった。
間違いなかった。
銀色の髪を指へ巻きつける。
不思議と心が馴染んだ。
それまでの身体は、仮初だったのかもしれない。
ずっと昔から、この身体だったような気さえした。
笑った。
声を立てて笑った。
隣の部屋から、慌ただしい足音が近づいてくる。
扉が開いた。
『どうちたの?』
銀色の髪をした女が立っていた。
寝間着のまま、顔色を失っている。
『どこか痛いんでちゅか?』
抱き上げられた。
甘い匂いがした。
『だいじょうぶ』
声も少女だった。
女は息をついた。
『ママ、びっくりしたでちゅ』
ママ。
この人が、今の母親らしい。
腕の中は温かかった。
背中を何度も撫でられる。
生きていることを、確かめるように。
心が器に還ってきた。
抱きかかえられながら、カレンダーを見た。
1996年3月16日。
過去だった。
過去の自分――有理も、この時代のどこかに生まれているのか。
そんな考えが一瞬ちらついた。
だが、そんなことはどうでもよかった。
どこかにいる。
きっと、いる。
遼太郎がいる。
遼ちゃんに、もう一度会える。
そうでないと、この命に意味がない。
1997年。
夏。
あの祭りの日の少し前。
冷房の音が、居間の隅で低く続いていた。
窓の外では、蝉が鳴いている。
日差しに照らされたベランダの床が、白く光っていた。
テレビでは、大阪各地のイベントを紹介する番組が流れていた。
浴衣姿の司会者。
屋台。
神輿。
団扇を持った子供。
興味はなかった。
この幼い身体が、もどかしかった。
テーブルには、ママ――スタシアが切った西瓜が置かれていた。
赤い果肉。
黒い種。
皿の縁に溜まった汁。
果肉にフォークを刺そうとした時、画面が切り替わった。
長い石段。
赤い鳥居。
杉の木に囲まれた社殿。
『東大阪市の八城神社では、来週、毎年恒例の夏祭りが行われます』
手が止まった。
東大阪。
八城。
遼太郎が育った町だった。
画面の中では、男たちが提灯を吊るしている。
『近隣から毎年多くの家族連れが訪れ、夜には石段の下まで屋台が並びます』
近隣。
遼太郎が、この世界にもいるのなら。
祭りに来るかもしれない。
フォークを置いた。
食べる様子を眺めていたスタシアが怪訝な顔をした。
胸が鳴っていた。
『ママ』
『なあに?』
テレビを指差した。
『ここに行きたい』
『ここ?』
『うん』
スタシアは画面を見た。
『お祭りに?』
『うん』
返事がない。
スタシアの顔を見る。
目が大きく開いていた。
『駄目?』
『駄目じゃない!』
いつもの幼児語が消えていた。
肩が跳ねる。
スタシアが駆け寄ってきた。
そのまま抱き締められる。
『行く。絶対に行くわ』
『苦しい』
『ごめんなさい』
腕は緩まなかった。
『本当に行きたいのね?』
『うん』
頬を両手で挟まれた。
顔を覗き込まれる。
スタシアの目が濡れていた。
『初めてね』
『何が?』
『あなたが、行きたい場所を言ってくれたの』
そうだっただろうか。
欲しい物はなかった。
食べたい物も。
見たい物も。
ただただ、早く大きくなりたかった。
スタシアが用意した物を受け取った。
連れていかれた場所へついていった。
スタシアは喜んでくれた。
笑ってくれた。
それで十分だと思っていた。
『浴衣を用意しないと』
スタシアが立ち上がる。
『浴衣?』
『お祭りへ行くのよ。必要でしょう』
『普通の服でいい』
『駄目』
即答だった。
『髪飾りもいるわね。下駄は足が痛くなるかもしれないから、歩きやすい物を探さないと』
もう聞いていなかった。
声が弾んでいた。
テレビへ目を戻した。
石段の映像が流れていた。
遼ちゃん。
来て。
そこにいて。
祭りの日。
赤い浴衣だった。
白い花の模様。
明るい色の帯。
髪には小さな飾りを付けられた。
家を出る頃には、空の色が変わり始めていた。
電車を乗り継ぐ。
窓の外に、低い家並みが流れる。
工場。
煙突。
自転車。
狭い路地。
駅を出ると、浴衣姿の人が増えていた。
同じ方向へ歩いていく。
遠くから太鼓の音が聞こえた。
八城神社の石段は、人で埋まっていた。
提灯。
屋台。
発電機の音。
焼けたソースの匂い。
砂糖の甘い匂い。
スタシアが手を握った。
『離れないでね』
『うん』
『疲れたら言うのよ』
『うん』
『足は痛くない?』
『大丈夫』
『喉は?』
『大丈夫』
『本当に?』
『大丈夫』
『なんて可愛いの……』
顔を綻ばせるスタシアから目をそらして、道行く人の顔を見た。
違う。
次。
違う。
屋台の店員。
浴衣姿の家族。
いない。
石段を上がる。
人の肩で前が見えない。
スタシアの手を引き、隙間から顔を覗かせる。
いない。
境内に着いた。
さらに人が多い。
社殿の前。
たこ焼きの屋台。
遼ちゃん。
どこ。
繋いだ手の先にいるスタシアを見上げた。
このままでは探せない。
目の前を、大人の集団が横切った。
スタシアは何も知らず、今の自分を娘として愛してくれている。
それが申し訳なかった。
心配はかけたくない。
いつか、きちんと報いたい。
でも。
ママ、ごめん。
指を抜いた。
『あっ』
背後で声がする。
人と人の間へ身体を滑り込ませた。
振り返らなかった。
一秒でも惜しかった。
赤い袖が翻る。
肩と肩の隙間を、風のように抜ける。
足が勝手に、空いた場所を選んでいく。
この身体の扱いなら、もう分かっている。
どこに足を置けば抜けられるか。
誰が次に動くか。
何が危ないか。
考えるより先に捉えられた。
異質な力。
初めは戸惑った。
だが、何かを守るために与えられた力だと思えば、不思議と腑に落ちた。
『ユーリ! どこ!』
スタシアの声が遠くなる。
怪我をすることはない。
全て躱せる。
早く見つけて戻れば、心配をかける時間は短くて済む。
そう計算していた。
ただ、一目。
この世界に遼太郎がいることが分かればよかった。
風のごとく翔ける。
屋台の裏。
石段の脇。
社務所の前。
いない。
息が上がった。
胸が苦しい。
身体の疲れではなかった。
この世界にはいないのかもしれない。
有理は、もうこの世界のどこにもいない。
なぜか、そう思えた。
けれど、遼太郎はいる。
いてくれなければ困る。
そうでなければ、この命に意味がない。
目ぼしい場所は探しつくした。
足が止まった。
祭りの音が、一度に押し寄せてきた。
笑い声。
太鼓。
呼び込み。
子供の泣き声。
目の奥が熱くなった。
時間切れ。
帰らなければ。
スタシアのところへ戻らなければならない。
全身から力が抜けた。
その刹那。
『いや、自分でできるで』
声がした。
身体が動かなかった。
幼い声だ。
しかし、聞き間違えるはずがない。
人混みの向こうへ顔を向ける。
紺色の浴衣を着た男の子がいた。
丸い頬。
短い手足。
顔は幼い。
声も高い。
身体も小さい。
それでも、分かった。
遼太郎だった。
遼ちゃん。
いた。
本当にいた。
呼びかければいい。
ずっと探していた。
もう一度会いたかった。
言葉は全部揃っていた。
喉まで名前が出かかった。
その時。
褐色の女子高生が、遼太郎の前にしゃがんだ。
白いハンカチで口元を拭く。
頬についた汚れまで、丁寧に取っている。
遼太郎は大人しくされるがままになっていた。
遼太郎の家族。
近しい人間。
全て知っているはずだった。
必死で調べたのだ。
あれは誰だ。
ふざけるな。
胸の中に、冷たいものが落ちた。
遼太郎がこちらを見た。
目が合う。
胸が跳ねた。
だが。
女子高生が、遼太郎を抱き上げた。
片腕で。
当然のように。
離れろよ。
足が止まった。
分かった。
ダメだ。
友達ではダメだ。
親友ではダメだ。
女として隣に立たないとダメだ。
そうでないと、またあの居酒屋を繰り返す。
意味がない。
この夜は。
この幾千の夜は明けない。
女の腕の中で、遼太郎の目だけがこちらを見続けている。
何も知らない顔だった。
迷い続けた旅の果てに、ようやく辿り着いた。
親不孝をしてまで探しに来た。
それなのに、いい気なものだ。
腹が立った。
今に見てろ。
絶対に、手に入れてやる。
僕の獲物だ。
誰にも渡さない。
笑った。
遼太郎の目が大きくなった。
舌を出す。
顔が固まった。
可笑しかった。
踵を返す。
銀色の髪が、肩へ触れた。
人混みに紛れた。
後ろから声がしたような気がした。
振り返らなかった。
今のままではダメだった。
遼太郎を虜にする女の子にならなければならない。
スタシアを探した。
屋台の間を歩く。
視界が滲んでいた。
前を歩く女の子が、母親の袖を引いた。
『お母さん、ウチ、綿あめ食べたい』
『さっき、りんご飴食べたやろ』
『綿あめは別やもん』
ウチ。
足が止まった。
女の子は母親に手を引かれ、屋台の方へ歩いていく。
ウチ。
口の中で転がしてみる。
僕とは違う。
女の子の言葉だった。
この町の言葉だった。
ウチ。
悪くない。
人混みの向こうに、銀色の髪が見えた。
スタシアだった。
顔色を失っている。
周囲を見回している。
こちらを見つけた。
走ってくる。
抱き締められた。
息が止まるほど強かった。
『どこに行ってたんでちゅか!』
声が震えていた。
『ごめんなさい』
スタシアは言葉にならない声で泣いていた。
抱き締める腕は離れなかった。
『ママ』
『何?』
『ウチ、良い子になるから』
スタシアの動きが止まった。
『……ウチ?』
『うん』
目を瞬かせる。
涙も鼻水も残したまま、笑った。
『今でも良い子でちゅ。私の天使』
手を繋がれた。
今度は離さなかった。
ウチ。
心の中でもう一度呼んだ。
僕はウチになった。
春が近づいた頃。
スタシアが、分厚い冊子を目の前へ置いた。
カラフルな表紙。
隅に、スタシアの勤め先の社名が入っている。
『この中から、ユーリの好きな家を選んでいいんでちゅよ』
スタシアは丁寧にカタログを広げる。
『引っ越すの?』
『ええ』
『なんで?』
えらく急だった。
スタシアは言葉に詰まった。
困った顔をしている。
『分からないの。いきなり、ご褒美に家をくれるって』
『ウチが選んでいいの?』
首を傾げた。
『ユーリが住みたい家が一番いいわ』
ページをめくった。
一戸建て。
庭付き。
新しい台所。
広い居間。
どれも似たような家に見えた。
外壁の写真。
間取り図。
最寄り駅。
住所。
指が止まった。
もう一度、住所を見る。
町名。
丁目。
番地。
最後の数字だけが違っていた。
何度も書いた住所だった。
年賀状。
暑中見舞い。
荷物を送った時の伝票。
何度書いたか分からない宛名。
西尾遼太郎。
指で番地をなぞる。
一つ違い。
隣だ。
別のページをめくった。
その次も。
載っている家は、どれも近所だった。
偶然ではない。
誰かが、この一帯だけを選んでいる。
何か裏がある。
だが、そんなことはどうでもよかった。
神はいる。
悔しいが、そう思った。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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