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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
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第二十節

 7月15日。

 カリフォルニアの空は、白く焼けていた。

 風はない。

 住宅街の芝生だけが、撒かれた水に濡れている。

 メンローパーク。

 住宅の裏手にあるガレージでは、古い扇風機が首を振っていた。

 積み上げられたコンピューター。

 むき出しの基板。

 絡まったケーブル。

 空のコーラ缶。

 端が乾いたピザ。

 扇風機の風は、機械へ向いていた。

「また止まった」

 ニコラスは画面を睨んだ。

「止めたの」

 机の下から声がする。

 金髪のおさげが、ケーブルの間から垂れていた。

 色の褪せたオーバーオール。

 擦れたスニーカー。

 サーシャは仰向けになり、コンピューターの裏へ手を伸ばしている。

 幼馴染はやたらと断りなく機械を止める。

「どうして」

「焦げた匂いがしたから」

「まだ煙は出てない」

「出てから止めるの?」

 サーシャが顔を出した。

 鼻から頬へ、そばかすが散っている。

「冷却が足りない」

「扇風機がある」

「私たちの分は?」

 ニコラスは扇風機を見る。

 機械の熱気を混ぜ返しているだけだった。

 人も機械も、長くはもたない。

「もう一台買おう」

「何のお金で?」

 返す言葉はなかった。

 サーバー。

 回線。

 部品。

 電気代。

 欲しいものはいくらでもある。

 金だけがない。

 ニコラスは額へ手をやった。

 両脇から食い込み始めた生え際を、指先で押さえる。

 サーシャが見ていないことを確かめて、手を下ろした。

 生え際を気にしていると知られれば、一生笑われる。

「大学の設備を、もう少し借りられないかな」

「教授に断られたでしょ」

「研究に必要だ」

「その前に博士論文を書けって」

 正論だった。

 検索技術を売れ。

 既存の会社へ持ち込め。

 広告を入れろ。

 早く金になるものを作れ。

 何度も言われた。

 誰かの会社の検索欄を作るために、ここまで来たわけではない。

 机の下で金属音がした。

「痛っ」

 サーシャが右手を引き抜く。

 人差し指に血が滲んでいた。

「大丈夫か。絆創膏は?」

「ピザの箱の上」

 油の染みた箱に、絆創膏が一枚置いてある。

「どうしてそこに」

「前も切ったから」

 やはり限界だった。


 ガレージの前で、車のドアが閉まった。

 二人は顔を上げた。

 何かを引きずる音。

 硬い靴音。

「誰か来る予定は?」

「ない」

 靴音が止まった。

 ニコラスはシャッターへ手を掛けた。

 持ち上げる。

 隙間から熱風が吹き込んできた。

 黒いスーツの女が立っていた。

 銀色の髪を後ろで束ねている。

 片手に革の鞄。

 もう一方の手には、大きな黒い機材ケース。

 額には汗が浮かび、襟元の色が変わっていた。

「ニコラス・ペイジ」

 呼び捨てだった。

 点呼のようだった。

「はい」

「サーシャ・プリン」

「私です」

 女は二人を見た。

 ガレージの中へ目を移す。

 積まれた機械。

 食べ残し。

 床を這うケーブル。

 眉間に皺が寄った。

「どうして電話に出ないの!」

 二人の背筋が伸びた。

 高そうなスーツ。

 革の鞄。

 怒っている。

 大学、教務課、退学という言葉が浮かんだ。

「電話ならあります」

 サーシャが壁を指した。

「知ってるわよ。番号を調べて掛けたんだから」

「今は使えません」

 そうなの?

「なぜ?」

「モデムにつながっています」

 嘘だろ。

 壁の電話から線を抜いたなんて、聞いていない。

 女のこめかみが動いた。

「三日前から、何度も掛けているのよ」

「三日前から動かしてます」

「切りなさいよ!」

「切ると収集が止まります」

 女は目を閉じた。

 息を吸う。

 ゆっくり吐く。

「アポイントメントを取りたかったの」

「取れていません」

 頼む、サーシャ。

 黙ってくれ。

「だから来たのよ!」

 扇風機が首を振った。

 サーシャのおさげが揺れる。

 女は鞄から名刺を出した。

 真新しい紙の匂いがした。

 スタシア・ラマーノフ。

 ブラックストーム・インベストメント・ジャパン。

 法務担当。

 その下にも、まだ文字がある。

 ニシオ・インダストリアル・エンタープライズ。

 監査役。

 弁護士。

 肩書きの多さに眩暈がした。

 同時に、訴訟の二文字がちらつく。

 心当たりが多すぎた。

 横から名刺を覗き込み、首をかしげているサーシャへ目をやる。

 十中八九、こいつのせいに違いない。

「日本から来ました」

 スタシアは言った。

「出資契約について話に来ました」

「出資?」

 サーシャの声が上がる。

 スタシアはガレージ内を見回した。

 書類を置けそうな場所はない。

 機材ケースを横倒しにする。

 その上へ、鞄から出した契約書を置いた。

「読みなさい」

 命令だった。

 ニコラスは書類を取った。

 一枚目をめくる。

 出資額。

 目が止まった。

「100万ドル」

 サーシャが肩を寄せてきた。

 おさげが契約書の上へ落ちる。

「本当にドル?」

 スタシアがサーシャを見る。

「ほかに何に見えるの」

「桁を間違えた可能性を考えています」

 失礼だぞ、サーシャ。

「間違えてないわ」

 ニコラスは次のページをめくった。

 完全希薄化後の20%。

 無議決権株式。

 取締役の派遣。

 なし。

 重要事項への拒否権。

 なし。

 技術や特許の譲渡。

 なし。

 日常経営への承認権。

 なし。

 資金用途と財務状況の報告。

 株式分割、併合時の比例調整。

 新株発行時の優先購入権。

 そんな馬鹿な。

 条件が良すぎる。

 ニコラスは最初へ戻った。

 もう一度読む。

「出資するのは、誰ですか」

「ニシオ・インダストリアル・エンタープライズです」

「買収?」

「いいえ。出資です」

 100万ドル。

 20%。

 それだけの金を出しながら、会社を動かす権利を求めていない。

 罠が見つからない。

 それが一番怪しかった。

「この条件を決めたのは、あなたですか」

「契約書へ落としたのは私です」

「条件は?」

「依頼人が決めました」

 サーシャが紙の一か所を指した。

「必要になった時は、追加支援について協議する」

「そう書いてある」

 だから何だ。

「次も考えてるんだ」

 ニコラスは契約書へ目を戻した。

 一度きりではない。

 最初から、先を見ている。

 契約書を閉じた。


「代表者として書かれているゴーゾー・ニシオ氏は、どこにいるんですか」

「日本です」

「本人は来ない?」

「来られません」

「一度も話さずに署名はできません」

 サーシャが腕を叩いた。

 契約書を指す。

 それから、ニコラスを見る。

 分かっている。

 100万ドルは欲しい。

 サーバーを買える。

 回線も増やせる。

 それでも、相手の顔が見えない。

 そんな相手に、こいつと作った会社の五分の一は渡せない。

 スタシアは二人を見た。

 機材ケースの留め金を外す。

「だから、これを持ってきたのよ」

 蓋が開いた。

 通信端末。

 電源装置。

 太いケーブル。

 折り畳まれたパラボラアンテナ。

 スタシアは説明書を広げた。

「電話なら、そこにあります」

 サーシャがまた壁を指した。

「それが使えないから、これを持ってきたの」

「モデムを止めれば――」

 頼む、サーシャ。

 ガソリンタンクの上で火遊びしないでくれ。

 スタシアが顔を上げた。

 目が据わっていた。

 サーシャは口を閉じた。

「そっちを持って」

 三人で機材をガレージの外へ運んだ。

 陽射しが肌へ刺さる。

 コンクリートから熱が返ってくる。

 スタシアはアンテナを開いた。

 ケーブルを差す。

 入らない。

 裏返す。

 また入らない。

 説明書を見る。

 ニコラスとサーシャは黙っていた。

 スタシアの額から、汗が落ちた。

「見てないで手伝いなさい」

 サーシャがアンテナを持つ。

「右へ」

「私から見て?」

「私から見てよ」

「先に言って」

 止める気力も失せた。

 サーシャ。

 好きにしていいぞ。

「口答えしない!」

 アンテナが動いた。

 端末から電子音が鳴る。

「そこで止めて」

 スタシアが画面を確認した。

 番号を入力する。

 呼び出し音。

 一度。

 二度。

 ノイズの向こうで、男の声がした。

『聞こえるか』

 通信の雑音に削られ、年齢までは分からない。

 ただ、妙に渋い声に聞こえた。

「聞こえています」

『二人は?』

「ここにいます」

 スタシアがニコラスたちを見る。

「西尾側の出資判断を任されている、リョウタロウ・ニシオです。今回の条件については、彼に一任されています」

『やあ、ニコラス。サーシャ。調子はどうだい』

 一拍置く。

『そこのマネーペニーは、失礼を働いていないかな?』

 スタシアが舌打ちした。

 ニコラスは端末へ向き直った。

「ミスター・ニシオ。スタシアさんには、よくしていただいています。むしろ、うちのサーシャがご無礼を……」

 サーシャが睨んできた。

 どこが無礼なの?

 声を出さずに、そう言っている。

『そいつはよかった。ミスターはよしてくれ。リョウタロウでいい』

「なぜ、僕たちなんですか」

 端末の向こうが静かになった。

『ニコラス』

 名前の響きが変わった。

 故郷で聞き慣れた、乾いた訛りだった。

『多くの人間は、リンクをただの道だと思っている』

 ニコラスは動かなかった。

『君は、そこに信用の跡を見つけた。誰が、何を指し示し、何を信じたのか。その積み重ねから、情報の重さを測ろうとしている』

「それは……」

『君が作っているのは、検索のための箱じゃない』

 ノイズが走る。

『世界が何を信じたのか。広大なネットの海を渡るための海図だ』

 言葉が出なかった。

 説明したことはある。

 論文にも書いている。

 だが、そこまで言い切った者はいなかった。

『サーシャ、そっちは暑くて大変だろう?』

 名前を呼んだ後で、言葉が変わった。

 英語の間へ、ロシア語が差し込まれる。

 サーシャが目を見開いた。

「懐かしい言葉を使うんですね」

『ロシア語も、少しはね』

 スタシアが端末を睨みつけた。

「なぜ変えたのです?」

『君に話しているからだ』

 サーシャの口が閉じた。

『ニコラスの構想だけなら、優れた論文で終わったかもしれない』

 おさげを揺らし、サーシャが顔を上げる。

『君は、汚れた情報を捨てない。壊れた文章も、揃わない数字も、嘘も、ノイズも、一度飲み込む』

 アンテナを握る指に力が入った。

『その中から、使える規則を引きずり出す』

 そばかすのある顔から、笑みが消えていた。

『君がいるから、ニコラスの海図は机の上で終わらない』

 ガレージの奥で、扇風機が回っている。

『一人なら、いい研究になる』

 声が続いた。

『二人なら、世界を変えられる』

 ニコラスはサーシャを見た。

 サーシャもこちらを見ていた。

 二人であることを褒められたのは、初めてだった。

 どちらか一人を選べと言われた。

 技術を売れと言われた。

 会社を諦めろと言われた。

 この声だけが、二人を分けなかった。

「20%も持つのに」

 ニコラスは契約書へ目を落とした。

「どうして議決権を求めないんですか」

『不満か』

「反対です。何を考えているのか分からない」

『金の使い道は聞く。数字も見せてもらう。20%は小さくない』

 声に笑いが混じった。

『だが、会社は君たちのものだ』

「失敗したら?」

 サーシャが聞いた。

『失敗すればいい』

 即答だった。

『金を出したからといって、君たちから失敗する権利まで取り上げるつもりはない』

 大人だと思った。

 今まで会った、どの大人よりも。

「会ったこともないのに、信用するんですか」

『信用じゃない』

 声が柔らかくなった。

『期待している』

 サーシャがニコラスを見た。

 何かを思いついた顔だった。

 嫌な予感がした。

『困った時は頼ればいい。手が届くことなら、力を貸す』

「一つ聞いてもいいですか」

『何だ』

「あなたを、ボスと呼んでも?」

 スタシアがサーシャを見た。

 電話の向こうも静かになった。

『どうしてそうなる』

「お金を出す」

 サーシャは指を一本立てた。

「命令しない」

 二本目。

「失敗してもいいと言う」

 三本目。

「困ったら助ける」

 四本目。

「それはボスです」

『理屈がおかしい』

「私たちの知っている投資家とは違います」

 ニコラスは契約書を見た。

 100万ドル。

 20%。

 議決権なし。

「僕たちを買おうとしていない」

 口に出した。

「それなら、ボスでいいと思います」

 電話の向こうで、笑い声がした。

 それまでの気取った声が崩れる。

『好きに呼べばいい』

 サーシャの顔が明るくなった。

「分かりました、ボス」

 ニコラスは額へ手をやった。

 少し恥ずかしい。

 だが、悪くなかった。

「よろしくお願いします。ボス」

『期待している。して、君らの検索エンジンは何と呼ぶ? まだ決めてないんだろ?』

 それなら決めている。

 サーシャと声を合わせた。

「世界と、ネットの未来を守る魔除け。Gagoyleです」


 ニコラスは契約書を開いた。

 スタシアからペンを受け取る。

 名前を書く。

 ニコラス・ペイジ。

 サーシャも隣へ署名した。

 丸みのある文字だった。

 スタシアが書類を取る。

 署名。

 日付。

 記入欄。

 最後のページまで確認する。

「契約成立です」

 100万ドル。

 止まっていたものが、動き出す。

 ニコラスはガレージの奥を見た。

 積み上げられた機械。

 絡まった配線。

 止まった画面。

 広大なネットの海を渡るための海図。

 その言葉だけが残っていた。

「ありがとう、ボス」

 サーシャが言った。

「ありがとうございます」

『次に電話するまでに、電話へ出られるようにしておけ。さもないと、そこのマネーペニーをまた送り込むことになる』

 サーシャが瞬きをした。

「すぐに直します」

 即答だった。

 サーシャにしては珍しい。

 端末の向こうで、笑い声がした。

『じゃあ、またな』

 通信が切れる。

 ノイズが消えた。

 スタシアは端末の電源を落とした。

 ロシア語で、小さく吐く。

「クソが」

 サーシャが振り返った。

「今、何か?」

「いいえ」

 スタシアは契約書を鞄へ収めた。

「契約成立、おめでとうございます」



 サンフランシスコ国際空港。

 昼まで居座っていた熱気は薄れ、湾から来た冷たい風が、自動扉の開くたびターミナルへ入り込んでいた。

 出発案内。

 鞄の車輪。

 聞き取れない放送。

 ガラスの向こうを、旅客機が動いていた。

 スタシアは公衆電話の前に立っていた。

 黒いドレス。

 白いレース。

 膨らんだスカート。

 ガレージで汗に濡れたスーツは、鞄の中だった。

 国際電話用のカードを差し込む。

 番号を押す。

 呼び出し音の後、遼太郎が出た。

『終わったか?』

 いつもの子供の声だった。

「こちら、マネーペニー。終わりました。満足ですか、ダブルオーセブン?」

 ロシア語で答えた。

 クソガキが。

 いつか泣かせてやる。

『やだなぁ。冗談じゃないか。二人とも元気になっただろ?』

「声を掛けてやれとは言ったけれど、ああいう意味じゃないわ」

『褒めただけだよ』

「二人とも、あなたをボスと呼び始めたのよ」

『見る目があるね』

「どこがよ」

『将来有望だ』

 スタシアは受話器を握り直した。

「機材は重い。アンテナは大きい。おかげでスーツは汗だくよ」

『着替えを持っていって正解だったな』

「この格好で国際空港を歩くことになったのは、誰のせいだと思っているの」

『似合っているからいいだろ』

「見てもいないでしょう」

 電話の向こうで笑っている。

 腹が立つ。

「それと、あの電話」

『何?』

 スタシアは声を落とした。

「どうして分かったの」

 返事はない。

「あの二人の技術だけじゃない。性格も、育った場所も、二人が何を言ってほしいのかも」

 ニコラスの目。

 サーシャの顔。

 言葉を聞くたび、二人の警戒が消えていった。

 最後には、会ったこともない相手をボスと呼んだ。

「あなたは何者なの?」

 短い沈黙。

 空港の放送が流れた。

 電話の向こうで、遼太郎が鼻で笑う。

『ただの小学生だよ、おばさん』

 通話が切れた。

 スタシアは受話器を見た。

 硬い音を立てて戻す。

 ガラスに、黒いドレス姿が映っていた。

 その向こうで、旅客機が滑走路へ向かっていた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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