第十八節
6月22日。
六月の東京の空は、朝から水を含んでいた。
渋谷の坂を上がると、空気が少し重くなる。
排気ガス。
古いビルの壁。
昼を過ぎても乾かない路面。
どこかの店のテレビから流れてくる、ワールドカップの歓声。
福田 真は、窓のない部屋で営業資料を見ていた。
セイバーエージメント株式会社。
設立して、まだ間がない。
苦労して借りた雑居ビルの一部屋。
会社と呼ぶには、あまりに狭い部屋だった。
机が二つ。
椅子が三つ。
電話機が一台。
壁際には、紙袋に突っ込まれた資料の束。
隅のコピー機は、使うたびにおかしな音を立てる。
仲間はいる。
社員もいる。
夢もある。
金はなかった。
福田は、手元の紙を見た。
インターネット広告。
成功報酬型広告。
メールマガジン広告。
バナー広告。
文字だけは、何度見ても未来に見える。
だが、説明した相手は同じ質問を返してくる。
『ホームページに広告を出して、誰が見るんですか』
うるせぇよ。
電話は鳴らなかった。
エアコンは古く、送風口から出る風は湿っている。
『面白いとは思うんだけどね』
昨日の営業先で言われた言葉が過る。
面白い。
福田は、その言葉が嫌いになりかけていた。
面白いと言われる。
若いと言われる。
勢いがあると言われる。
これからの時代だと言われる。
その言葉に気を良くしてここまで来た。
来てしまった。
チッ。
思わず舌打ちが出た。
その時、電話が鳴った。
福田は反射的に受話器を取った。
「はい、セイバーエージメントでございます」
声が上ずった。
自分でも分かった。
電話口の声は、先日アポイントメントを取ってきた女のものだった。
近くまで来たという。
福田は、手元のメモに手を伸ばした。
仲間が書いた字。
スタシア・ラマーノフ。
ブラックストーム。
ミミズが這ったような文字だった。
ブラックストーム。
聞いたことはある。
外資系の運用会社だったはずだ。
少なくとも、自分の会社に用があるような相手ではない。
メモには用向きまでは書かれていない。
書けよ。
報告、連絡、相談。
その全部が、圧倒的に欠けていることに腹が立った。
五分後、扉が叩かれた。
「どうぞ」
福田が言うと、扉が開いた。
女が立っていた。
銀色の髪を、きっちりとまとめている。
黒いスーツ。
白い肌。
顔立ちは、明らかに日本人のものではなかった。
美人だ。
さっきまでの怒りを忘れそうになる。
英語で話したほうが良いのだろうか。
不安になった。
「セイバーエージメント株式会社、代表取締役の福田真様ですね」
女の日本語は流暢だった。
自信のない英語を使わずに済んだことに、福田は胸をなでおろした。
だが、安心した途端、背筋が伸びた。
丁寧だった。
丁寧なのに、詰問されているように感じた。
「はい。福田です」
福田は立ち上がった。
名刺を出す。
女も名刺を出した。
スタシア・ラマーノフ。
ブラックストーム・インベストメント・ジャパン。
法務部門。
弁護士。
福田は名刺を見た。
法務?
弁護士?
何をした?
誰か何かやらかしたのか?
不安が襲ってきた。
「あの、どういったご用件でしょうか」
福田は笑顔を作った。
スタシアは笑わなかった。
「アポイントメントのお電話でお伝えしたはずですが?」
だから、メモに用件が書いてないんだよ。
福田は奥歯に力を入れた。
返す言葉が見つからない。
短い沈黙のあと、スタシアがため息をついた。
「本日は、西尾興業株式会社の使いとして参りました」
この女、ため息をつきやがった。
あからさまに。
確かに、連絡ができていない自分たちが悪い。
だが、その態度はないんじゃないか。
福田は笑顔に力を入れ直した。
「西尾興業」
「はい」
スタシアは鞄から書類を取り出した。
その動きに無駄がなかった。
無駄がなさすぎて、かえって腹が立つ。
「こちらが出資の概要です」
机の上に、紙が置かれた。
福田は紙を見た。
一行目で、目が止まった。
出資提案書。
次の行。
出資額。
5000万円。
は?
福田は、紙から顔を上げた。
「5000万?」
「はい」
「桁合ってますか。500万じゃなくて?」
「5000万円です」
「うちに、ですか」
「はい」
スタシアは当然のように答えた。
なんで、メモに、書かないんだ。
仲間を恨んだ。
知っていれば、こんな狭い部屋で応接なんてしていない。
せめて近くの喫茶店を押さえていた。
福田は、もう一度紙を見た。
5000万円。
数字は変わらない。
変わるはずがない。
紙なのだから。
「すみません。意味が分からないんですが」
スタシアの目が、細くなった。
え、今、睨んだ?
睨んだよね?
「説明します」
スタシアは椅子を見た。
それから福田を見た。
「お掛けしても?」
「あ、はい。どうぞ」
「ありがとうございます」
気が利きませんね。
福田には、そう聞こえた。
スタシアは背筋を伸ばして座った。
福田も向かいに腰を下ろす。
部屋が、いつもより狭い。
「西尾興業株式会社は、御社に対して5000万円の出資を行う意思があります」
「なぜですか」
何故だ?
意味が分からない。
詐欺かもしれない。
福田はすぐに思い直した。
うちに盗られるものなんて何もない。
だからこそ、恐ろしかった。
「将来性を評価したためです」
スタシアは淡々と答えた。
「誰が?」
「西尾興業です。代表者は西尾剛三氏です」
「その西尾さんは、どちらに?」
「大阪です」
「大阪」
大阪。
興業。
ヤクザ。
嫌な汗が背を伝った。
怪しい。
とても怪しい。
「あの、ブラックストームさんの投資案件なんですか」
「違います」
即答だった。
じゃあ、お前はなんだ?
「ブラックストームは本件の投資主体ではありません。出資者は西尾興業株式会社です。私は、書類作成と説明の補助をしているだけです」
「補助」
「正確には、使い走りです」
スタシアの眉間に、わずかな皺が寄った。
声に苛立ちが混じっていた。
福田は黙った。
この人、急に怒り始めた。
誰にかは分からない。
意味が分からない。
「では、条件をご説明します。恐れ入りますが、途中で遮らず、最後までお聞きください」
「え」
「その方が早いので」
黙ってよく聞け。
そう言っているのだと、数秒遅れで気づいた。
なんだぁ? この女。
スタシアは紙を一枚めくった。
「出資額、5000万円。返済義務はありません」
福田は顔を上げた。
「返済義務が、ない?」
「はい。融資ではありません。第三者割当増資です」
「株を取る、ということですか」
「はい」
スタシアは当然のように答えた。
「西尾興業株式会社が、御社の無議決権優先株式を取得します。取得割合は、発行後の株式総数の20%相当です。新株発行時には、同割合を維持するための優先購入権も付与されます」
「20」
福田の声が低くなった。
5000万円。
返さなくていい。
だが、会社の二割を渡す。
頭の中で、数字が勝手に動いた。
安いのか。
高いのか。
今の自分たちに、そんな値段がつくのか。
福田は思いつく限り質問を浴びせた。
「議決権は?」
「ありません」
「経営権は?」
「取りません」
「役員派遣は?」
「しません」
「口出しは」
「原則しません」
「原則?」
福田はそこを拾った。
スタシアは頷いた。
「違法行為、粉飾、資金の私的流用、虚偽報告、反社会的勢力との関係が確認された場合は、契約上の保護条項を発動します」
「保護条項」
「西尾興業の出資を守るための条項です。御社の経営権を奪うためのものではありません。そこは誤解なさらないでください」
「……誤解?」
「よくありますので」
スタシアは淡々と言った。
誤解させてるのは、お前だろ。
「月次で、簡単な資金繰り表と事業進捗を出してください。形式は問いません。ただし、都合の悪い数字を隠したり、説明を省いたりしないこと」
福田の背筋が、勝手に伸びた。
「……分かるんですか」
「分かるまで読みます」
嫌な答えだった。
「もちろん、誠実にご報告いただけるのであれば、問題はありません」
スタシアはそこで一度、部屋を見た。
机。
椅子。
電話。
紙袋に突っ込まれた資料の束。
「御社の場合、誤魔化す余地もなさそうですが」
福田は口を開きかけた。
閉じた。
拳に力が入った。
すぐに緩めた。
落ち着け。
相手は弁護士だ。
それに、5000万円を持ってきている。
ここで揉めたら、何もかも終わる。
条件は良い。
良すぎる。
銀行なら、相手にもされない。
融資なら、返済に追われる。
ベンチャーキャピタルなら、経営に口を出される。
知人に頼れば、後が面倒になる。
この条件なら、会社を手放さずに済む。
金も返さなくていい。
ただし、二割は渡す。
腹が立つくらい、よくできていた。
「追加支援の可能性もあります」
スタシアはさらに言った。
マジかよ。
福田は、思わず聞き返した。
「追加?」
「はい。事業の進捗、資金需要、御社の姿勢次第です」
「姿勢」
「逃げないことです」
女は福田を見た。
その目に温度はなかった。
嘘を嫌う目だった。
「インターネット広告が来る、と本気で思っているのですか」
何度も聞かれた問いだった。
馬鹿にするため。
試すため。
逃げ道を作るため。
断るため。
だが、目の前の女は違う。
苛立っている。
不機嫌だ。
事務的だ。
無礼だ。
それでも、答えを待っていた。
「来ます」
福田は言った。
「今は、誰も分かっていません。でも、ネットを見る人は増えます。企業はそこに広告を出すようになります。媒体を持つ会社と、広告を売る会社が必要になる」
喋りながら、熱くなった。
久しぶりだった。
「うちは、そこをやります」
「なぜ御社が」
「早いからです」
福田は即答した。
自分でも驚いた。
「大きい会社は、まだ本気じゃない。分かっていない。だから、分かっている我々は、先に走れます」
スタシアは鼻で息を鳴らした。
「では、5000万円で何をしますか」
福田は口を開いた。
言葉が出る前に、頭の中で数字が並ぶ。
人を雇う。
営業を増やす。
媒体を押さえる。
広告主を回る。
通信費。
家賃。
給料。
資料。
移動費。
半年。
いや、一年は戦える。
「営業を増やします。媒体社との関係を作る。広告主も回る。今、断られているところにも、もう一度行きます。人も採ります」
スタシアの表情が、初めてわずかに動いた。
面白がったのか。
呆れたのか。
分からなかった。
「よろしい」
スタシアはペンを出した。
「こちらが契約書です。読んでください。分からないところは説明します。ただし、読まずに署名することはお勧めしません。後で文句を言われても困りますので」
「言いませんよ」
「そう願っています」
やはり、腹が立った。
福田は契約書を手に取った。
紙が厚い。
文字が多い。
だが、読めないほどではない。
読み始める。
引受人。
西尾興業株式会社。
代表取締役、西尾剛三。
住所は大阪。
さっきからの疑問をぶつけたくなった。
「この西尾興業という会社は、どういう会社なんですか」
ヤクザは勘弁してほしい。
もう少し生きたい。
「設立されたばかりの資産管理会社です」
「設立されたばかり」
「はい」
「代表は」
「西尾剛三氏です」
「その人は、何をしている人なんですか」
指は全部あるのだろうか。
「自動車整備士です」
福田は手を止めた。
「自動車整備士」
「はい」
「なぜ、うちに5000万を?」
「将来性を評価したためです」
「会ったこともないのに?」
「はい」
福田はスタシアを見た。
スタシアは涼しい顔をしている。
「普通、代表者本人が来るものじゃないですか」
「普通は、そうかもしれません」
普通とは何なのか、福田は分からなくなってきた。
「我々を信用しているんですか」
「信用しているから、私が来ています」
会ったこともないのに信用している。
話が通じているようで、通じていない。
福田は額を押さえた。
契約書に視線を戻した。
罠かもしれない。
そう思った。
けれど、罠なら、もっと巧妙だろう。
こんなクソ女は寄越してこないはずだ。
「何か失礼なことを考えていますね」
スタシアが言った。
福田は固まった。
「いえ」
「そうですか」
契約書の最後まで読んだ後、福田はペンを持った。
手が汗ばんでいる。
ペン先が紙に触れる。
一瞬だけ迷った。
この署名で、会社は生き延びる。
同時に、会社の二割は他人のものになる。
だが、議決権はない。
経営権も取られない。
返済もない。
見られるだけだ。
自分の覚悟を。
福田は息を吐いた。
"福田真"
署名した。
印鑑を押す。
朱肉が少し濃くついた。
スタシアは契約書を確認した。
ページをめくる音だけが部屋に響く。
「問題ありません」
スタシアは契約書を鞄に入れた。
「資金は、指定口座確認後、三営業日以内に送金されます」
「早いですね」
「遅いくらいです」
「……そうですか」
スタシアは立ち上がった。
福田も慌てて立つ。
「最後に一点」
スタシアが指を立てる。
「はい」
「西尾興業株式会社としては、御社の自由度を尊重する意向です」
スタシアは、鞄を持ち直した。
「事業は、あなたが決めてください。失敗した時に、西尾興業のせいにしないためです」
福田は言葉に詰まった。
舐めんなよ。
失敗なんてしてたまるか。
「分かりました。ご期待には応えてみせます」
スタシアは福田の手元に目をやった。
「何かあれば、名刺の連絡先へ。契約上のこと、資金使途、書類の相談は受けます。泣き言は受け付けません」
「泣き言?」
「受けません」
上等じゃないか。
やってやるよ。
福田は頷いた。
「それでは、失礼いたします」
スタシアは出ていった。
扉が閉まる。
部屋が急に広くなった。
元の狭さに戻っただけだった。
福田は椅子に座った。
机の上には、控えの書類が残っている。
腹が立つ。
だが、これで戦える。
電話が鳴った。
紙を見た。
5000万円の数字を見た。
それから受話器を取る。
「はい、セイバーエージメントでございます」
声は低かった。
スタシアはビルを出た。
渋谷の空は、低く曇っている。
湿った風が、坂の上から流れてきた。
タクシーの列。
看板。
人の声。
どれも騒がしい。
スタシアは立ち止まり、鞄からPHSを取り出した。
番号を押す指に迷いはなかった。
呼び出し音が、二度鳴った。
『はい』
幼い声が出た。
ロシア語だった。
スタシアは、その声を聞いてから、ようやく息を吐いた。
「契約は成立したわよ」
『ありがとう。ご苦労さん』
「偉そうに」
『……次期社長だからな』
「本当に腹の立つクソガキね。改善点が一点あったわ」
PHSの向こうで、遼太郎が息を飲む気配がした。
『何か問題が?』
「契約には問題ないわ。福田氏の理解力も、悪くなかった」
『よかった』
「ただし、表情が硬かった」
『表情?』
「不満げだった」
スタシアは、道路の向こうを見た。
さっき出てきたビルの窓は、外から見るとどれも同じに見える。
「あれは、条件への不満じゃない」
『じゃあ、何に?』
「投資家自身が顔を出さないことへの不信よ」
スタシアの声は冷たかった。
「5000万円を出す。経営権は取らない。返済も求めない。創業者の自由を尊重する。条件は十分。しかし、相手にも誇りがある」
スタシアは言葉を切った。
「金だけを置いて、姿を見せない。これは相手に不信を残す」
『なるほど』
「本来なら、剛三さんが顔を出すべきよ」
『東京まで?』
「ええ」
『仕事があるから難しいな』
「ならば、最低でも声を聞かせるべきだった」
『声?』
「電話で構わないわ。本人の声で、自分が何を期待しているのかを伝えるべきだった。投資とは、紙だけじゃないのよ」
遼太郎は黙った。
『……勉強になる』
「遼太郎。いえ、次期社長」
『はい』
「あなたは、金の使い方を覚える必要があります」
PHSの向こうで、幼い息が小さく揺れた。
『わかった。努力する。ちなみに福田さんの様子はどうだった?』
「悪くありません。腹は立っていたようですが」
『失礼はなかったか?』
「私は正確に、過不足なく、失礼のない形で対応しました」
『そうか…』
遼太郎の声は、素直だった。
スタシアは眉を寄せた。
「何? その間は」
『いや、なんでもない。とりあえず、気を付けて帰ってきてくれ』
「私が帰るまでユーリとベタベタしすぎないように」
スタシアは通話を切った。
PHSを鞄に戻す。
湿った風が、髪の端を揺らした。
スタシアは駅の方へ歩き出した。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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