第十七節
6月13日。
夕方。
「邪魔するでぇ!」
遼太郎は勢いよく風呂場の戸を開けた。
「えっ」
富田が振り返った。
洗い場の椅子に座っていた。
肩に湯がかかっている。
慌てて手拭いを引き寄せようとして、手元が滑った。
「わ、若。なんで」
「お背中流しますぅ」
「はい?」
疲れた顔に、困惑だけが浮かんだ。
「いや、俺が背中流したる」
本当は、母に言われていた。
富田が寝落ちして、湯船で溺れないよう見張れ、と。
遼太郎は風呂場へ足を踏み入れた。
タイルは冷たかった。
富田は、どうしたものかという顔でこちらを見ている。
「小学生に背中流される十九歳って、どうなんでしょうね」
「ええやん。貴重な体験や」
「貴重すぎますね」
富田は小さく笑った。
その声は掠れている。
遼太郎は石鹸を泡立てた。
手拭いを両手で持つ。
富田の背中は、思ったより広かった。
けれど、その広さに合うだけの肉がない。
道場で道着を着ている時より、肩甲骨の形がはっきり見えた。
手拭いを当てようとして、遼太郎は手を止めた。
脇腹のあたりに、細い痕があった。
そこだけ皮膚の色が薄く違っていた。
道場。
竹刀。
雨の匂い。
去年の夏の光景が浮かんだ。
痕、残ってもうたんか。
感謝と同時に、申し訳なさが込み上げてきた。
遼太郎は、そこを避けて手拭いを背中へ当てた。
泡が伸びる。
「痛かったら言って」
「大丈夫です」
「ほんまに?」
「はい」
遼太郎の腕では、上から下まで一度には届かない。
背伸びをして、肩のあたりを洗った。
富田は黙っていた。
「銭湯以外で」
ぽつりと声が落ちた。
「人と風呂に入るの、初めてかもしれません」
「そうなん?」
「はい」
湯気が二人の間で揺れる。
洗面器から落ちた湯が、床を細く流れていった。
「家の風呂って、普通はこういう感じなんですかね」
「たぶんな」
「いいですね」
その声が、そこで切れた。
遼太郎は手を止めた。
富田の背中が震えていた。
「富田兄ちゃん」
返事はない。
富田は片手で顔を覆った。
「すみません」
震えた声だった。
富田は笑おうとした。
うまくいかなかった。
「飯に誘ってもらって、風呂に入れてもらって、若に背中まで洗ってもらって」
遼太郎は黙っていた。
「情けないですね」
そこで言葉が途切れた。
遼太郎は、泡のついた手拭いを洗面器に置いた。
小さな手で、富田の背中に触れる。
熱い。
背中が、また小さく震えた。
「富田兄ちゃん」
「はい」
「つれへんこと言うなや、家族みたいなもんやろ」
富田の背中が止まった。
「やから、頼ってええと思う」
「……若」
「俺も、おかんも、おとんも、たぶん栞姉ちゃんも。富田兄ちゃんが困っとったら嫌や」
「迷惑ですよ」
「迷惑やったら、おかんが家に連れて帰って飯食えとか言わん」
「先生は優しいから」
「優しいだけで命令はせえへん」
富田は何も言わなかった。
遼太郎は、富田の背中へ額をつけた。
小さな腕を回す。
背中の半分にも届かない。
それでも、できるだけ強く抱いた。
「無理せんといてくれ。頼むわ」
「……はい」
富田の声は、湯気の中に沈んだ。
風呂から上がる頃には、富田はほとんど目を開けていなかった。
父の古い寝間着を着せられ、髪も半乾きのまま、母に支えられて子供部屋へ連れていかれた。
遼太郎の布団の横に予備の布団が敷かれていた。
「寝なさい」
「ご飯は」
「起きたら食べたらええ。今のままやったら食べながら寝よる」
「でも」
「命令」
有無を言わさず、富田は布団へ沈んだ。
数分もしないうちに、寝息が聞こえ始めた。
遼太郎が風呂から居間へ戻ると、テレビがついていた。
サッカーワールドカップ・フランス大会の特集が流れている。
華やかな音楽。
フランスのスタジアム。
日本代表の映像。
だが、音量は低かった。
子供部屋で眠る富田を起こさないためだった。
居間には栞とユーリがいた。
二人ともテレビを見ていない。
栞は膝の上で手を揃え、ユーリは畳の目を見ていた。
母がPHSを手に、居間へ入ってきた。
さっきまで台所から声がしていた。
「ユーリちゃん。お母さん、帰り遅くなるって」
ユーリが顔を上げる。
「遼ちゃんのお父さんと打ち合わせでしたっけ」
「うん。うちのお父ちゃんは先に帰ったらしいけど、会社側で手続きが長引いとるらしい。迎えに来るまで、ここで待っててほしいって」
ユーリが申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません」
「ええよ。もう何回も預かってるし」
「ありがとうございます」
「晩ご飯、食べていき」
「はい」
ユーリは丁寧に答えた。
それから、遼太郎の袖を掴む。
「遼ちゃん」
「ん?」
「富田さん、大丈夫?」
「わからん。けど今は寝かさな」
「そっか」
ユーリはそれだけ言って、また黙った。
その時、玄関で鍵の回る音がした。
「ただいまー!」
父の声だった。
いつもより大きい。
廊下に足音が響く。
「なんや、靴多いな。ユーリちゃんの靴と……これ誰のや?」
母が跳ねるように立ち上がった。
廊下へ出ていく。
「阿呆。声、大きい」
「え?」
「声、落として」
「あ、はい」
父の声が急に小さくなった。
廊下で母が説明している。
言葉は細かく聞こえない。
しばらくして、父が居間へ入ってきた。
手には分厚い封筒を持っている。
さっきまでの明るさは消えていた。
父は封筒を食卓の端に置いた。
「若いのに、きついな」
「うん」
母が短く答えた。
父はしばらく子供部屋の方を見ていた。
それから、食卓の端に置いた封筒へ目を落とす。
「……こっちも、報告がある」
父は息を吐いた。
「西尾興業、登記は昨日付で通っとる。今日、控えを受け取ってきた」
「できたん?」
「おう、やっとできた。西尾興業株式会社。長かったわ」
父は封筒を叩いた。
「税理士さんとも契約できた。ブラックストームの紹介や」
父は封筒の中から書類を出した。
登記の控え。
税理士事務所の名刺。
何枚もの紙。
「あと、スタシアさんから、ちょっとお叱りがあったわ」
「ママが?」
ユーリが顔を上げた。
「うん。あの事務所な、ちゃんと掃除するか、別の物件も考えた方がええって言われた」
ボロボロの事務所が目に浮かんだ。
「やっぱり」
遼太郎とユーリが声を合わせた。
「やっぱりて」
父は力なく笑った。
「家から近い。賃料も安い。広さもある。そこは申し分ないんや」
父は頭を掻いた。
「ただ、整備する手間がなぁ。配線も水回りも古いし、床も怪しい。看板にこだわるべきやなかったかもしれん」
西尾興業。
その名前が気に入ったのは、遼太郎だけではなかった。
父も、浮かれていた。
「あと、これなんやけどな」
父は封筒の奥から、通帳を取り出した。
食卓の上に、通帳が置かれた。
真新しい通帳だった。
表紙の内側に、西尾興業株式会社の名前が印字されている。
父の指が、最初のページを開く。
数字が並んでいた。
遼太郎は、目を止めた。
母も覗き込む。
栞は座ったまま、少しだけ身を乗り出した。
ユーリの目が丸くなった。
「今日付で、入金があった」
父の声は低かった。
「特別評価金、200万ドル」
聞き慣れない名目だった。
だが、何の金なのかは分かる。
「臨時調査対応費、33万9000ドル」
PHS越しのジョニーの声が浮かんだ。
「定例調査協力費、3万ドル」
父はそこで言葉を切った。
通帳の数字を指でなぞる。
「合計、236万9000ドル」
居間が静かになった。
父は顔を上げた。
「1ドル140円で見たら、3億超える」
テレビの中では、ドーハで項垂れる選手が映っていた。
実況の声だけが、小さく漏れている。
誰も動かなかった。
「桁がおかしくて、実感わかんわ」
父が呟いた。
「うん」
母も通帳を見ている。
声が小さかった。
「こんなん、ほんまに受け取ってええ金なんか」
遼太郎は、通帳から目を離さずに言った。
「名目は立ってるんやろ」
「立ってる。スタシアさんが、ちゃんと確認してくれた」
父の声が、重く沈んだ。
「でもな、遼」
父は通帳を閉じた。
その音が、居間に妙に大きく響いた。
「これで十分ちゃうんか」
遼太郎は顔を上げた。
「3億やぞ」
「うん」
「家のローンも、将来の学費も、多少病気しても、賄える」
父は息をついた。
「普通の家なら一生かけても持てん金が来とる」
「うん」
「これ以上、増やすんか」
責める声ではなかった。
だから、余計に痛かった。
「遼は、これから何がしたいんや」
父の手は、通帳の上に置かれている。
太い指。
整備で荒れた手。
その手が、震えていた。
通帳を押さえつけるような置き方だった。
母は黙っていた。
栞も動かない。
ユーリの手が、遼太郎の袖を握っていた。
遼太郎は、通帳を見た。
病室の母。
疲れた父。
誰もいない部屋。
ひもじい気持ち。
間に合わなかった後悔。
「後悔したくない」
声が出た。
「俺は、後悔したくない」
母が息を止めた。
「今できることがあるなら、やりたい。稼げるなら稼ぎたい。手を伸ばせる時に、伸ばしたい」
「遼」
「足りへんから諦めるとか、金がないから我慢するとか、ひもじくて壊れるとか、そういうのが嫌や」
富田の背中が浮かんだ。
湯気の中で震えていた背中。
「救うとか、そんな偉そうなことは言わへん」
「……」
「俺は、後悔したくないだけや」
喉が詰まった。
子供の身体は、こういう時に堪えが利かない。
目の奥が熱くなる。
「でも、おとんが嫌やったら、やめる」
「え」
「おかんが不安なら、やめる。こんな金いらんって言うなら、もう増やさん」
「遼太郎」
母の声が揺れた。
「俺は、おとんとおかんを苦しめたいわけやない」
そこまで言ったところで、涙が落ちた。
情けない。
そう思った。
だが止まらなかった。
母が近づいてきた。
膝をつき、遼太郎を抱き寄せる。
抱く腕は強い。
けれど、その手は震えていた。
「苦しめられてへん」
母が言った。
「苦しめられてへんよ、遼ちゃん」
「でも」
「怖いだけや」
父が口を開いた。
声が掠れていた。
「これは力や。大きすぎる力や」
父は手で顔を拭った。
目元が赤かった。
「持った人間が、知らん顔できる額ちゃう」
父が遼太郎を見据えた。
「でも、お前が後悔したくない言うなら、父親が先に逃げたらあかんな」
遼太郎は母の腕の中で、父を見た。
「おとん」
「やるなら、皆でやろう。抱え込むな」
「……ええの」
「ただし、俺は止める時は止めるぞ。欲張りすぎんなよ?」
父の口元が、わずかに緩んだ。
「俺ら家族やろ。お前一人で生きようとすんな」
栞が顔を伏せた。
膝の上に置いた手が、強く握られている。
ユーリは何も言わなかった。
ただ、遼太郎の袖を掴んでいた指が、離れない。
居間のテレビでは、解説者が明るく喋っている。
その声が遠かった。
しばらく、誰も喋らなかった。
やがて、遼太郎は鼻をすすった。
母の腕から顔を出す。
空気に耐え切れなかった。
「やっぱ、欲張っちゃおうかなぁ」
「なんや急に」
父が呆れた。
声はまだ濡れている。
「パソコン欲しい」
「あんなややこしいの欲しいんか」
父が苦笑いをする。
「あと、ゲームも欲しい」
「勉強もするんやで」
母が突っ込む。
「旅行も行きたい」
「お供します」
栞が微笑む。
「毛皮のコートも買わなあかんし」
「買ってくれるの!?」
ユーリの目が輝いた。
遼太郎は目元をこすった。
「おとんとおかんは?」
「何が」
「夢」
「夢?」
「やりたいこと、叶えたいこと、あるやろ?」
父と母は顔を見合わせた。
急に言われて困ったようだった。
聞きたかった。
先に口を開いたのは、母だった。
「家内安全」
きっぱりと言った。
「それは当たり前や」
「せやな、当たり前やな」
母は考えた。
視線が、道場の方角へ向く。
窓の外はもう暗い。
「八城神社を残したい」
「神社?」
「うん。道場も含めてな。あそこは、私にとって大事な場所や」
母の声は静かだった。
「でも、神社のことは私一人でどうこうできる話やない。もし、それが叶わんのやったら」
「うん」
「自分の道場を持ちたい」
栞が顔を上げた。
「礼を学べる場所。竹刀振るだけやなくてな。ちゃんと礼して、ちゃんと叱られて、重たいもんを少しでも下ろせる場所」
母は子供部屋の方を見た。
「そういう場所が、あったらええと思う」
「先生……」
栞の声は小さかった。
父は頭を掻いた。
「俺は、お母ちゃんほど高尚なことちゃうけど」
照れていた。
「自分の整備会社を持ちたい」
母が父を見る。
父は通帳ではなく、自分の手を見ていた。
「人の車を触るのは好きや。機械は正直やし、手をかけた分だけ返ってくる」
「うん」
「でも、人を使う会社は、そうはいかんやろ」
父は子供部屋の方を見た。
「人を使い潰さん会社を作りたい」
言い終えると、照れくさそうに笑った。
「まあ、今言うたら綺麗ごとやけどな」
「ええやん」
「ええか」
「うん。かっこええ」
「子供に褒められると、微妙やな」
「大人しく褒められとけや、剛三」
母が言った。
父は黙って頷いた。
遼太郎は栞を見た。
「栞姉ちゃんは?」
「私ですか」
栞は背筋を伸ばした。
それから、視線を落とす。
「まだ、決められません」
「そっか」
「でも」
栞は母を見た。
次に父。
そして遼太郎。
「皆さんの手伝いは、したいです」
言葉は短かった。
けれど、栞の声は揺れていなかった。
「ありがとうな」
「はい」
遼太郎がユーリを見る前に、ユーリが動いた。
隣から身体を寄せてくる。
そのまま、遼太郎に抱きついた。
「ウチ、社長夫人」
「なんでやねん」
遼太郎はたじろいだ。
ユーリは顔を腕に擦り付ける。
「決まってるから」
「決まってへん」
「決まってる」
「まだ社長は譲らんぞ!」
父が声を上げた。
すぐに自分で口を押さえる。
子供部屋の方を見た。
静かだった。
母が肩を震わせた。
遼太郎も笑った。
ユーリは勝ち誇った顔をしている。
栞だけが、その顔をじっと見ていた。
笑いが落ち着いた頃、母が姿勢を正した。
「一つ、わがまま言ってええ?」
「何や」
父が聞いた。
「富田の気持ち次第やけど」
「おう」
「西尾興業で、富田を雇いたいんや」
居間の空気が変わった。
誰も驚きはしなかった。
遼太郎は母を見た。
「俺も、同じこと考えてた」
「やっぱり? 親子やなぁ」
二人は無言で父へ向き直った。
母が頭を下げる。
遼太郎も畳に手をついて頭を下げた。
「社長、お願いします」
二人で言った。
父は困った顔をした。
「いや、二人して頭下げんでも」
遼太郎が顔を上げた。
「富田兄ちゃんが嫌や言うたら無しでええ」
「それは当然や」
母が顔を上げた。
「でも、選べる場所は作りたい。最初は事務所の掃除でもええ。ゆっくり働いて、生活を立て直して、自分のやりたいことを見つけてほしいねん」
父は子供部屋を見た。
「次期社長がええって言うなら、ええやろ」
父は小さく笑った。
「ただし、うちはできたばっかりの会社や。人を雇うなら、給料も保険も仕事も、ちゃんと考えなあかん」
「うん」
「そこは税理士さんにも聞く。スタシアさんにも…文句言われるやろうなぁ」
「言わせないようにします!」
ユーリが宣言した。
「頼もしいわ」
居間に笑いが広がった。
その時、呼び鈴が鳴った。
居間の全員が玄関を見た。
「噂をすれば」
「スタシアさんかな」
母が立ち上がる。
ユーリも立った。
遼太郎も続く。
父は通帳を閉じ、封筒へ戻した。
「ほな、監査役に話しに行くか」
父はそう言って、玄関へ向かった。
玄関先では、スタシアが立っていた。
顔には疲れが出ていた。
「遅くなって申し訳ありません」
「いえいえ。ユーリちゃん、ええ子にしてましたよ」
母が答える。
スタシアの目が一瞬で柔らかくなる。
「ユーリ」
「ママ」
「寂しくありませんでしたか」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
「ご飯は」
「今からいただくところ」
「ご一緒にいかがですか?」
母が尋ねる。
「いいんですか? ぜひお相伴にあずからせてください」
スタシアは胸元を押さえた。
「ああ、ユーリとの食卓…」
「そこ感動するとこなん?」
遼太郎が突っ込んだ。
「感動するところです」
スタシアは真顔で言った。
父が咳払いをする。
「あの、スタシアさん」
「はい」
スタシアの顔が、すぐに仕事のものに戻った。
「ご飯の後、西尾興業の件で、少し…」
「わかりました。お話は食後に伺います」
スタシアは靴を脱いだ。
遼太郎はその光景をじっと見ていた。
『欲張りすぎんなよ』
父の声が、まだ耳に残っていた。
それでも、今なら届くものがある。
ずっと、頭の隅に置いていたことだった。
遼太郎は父とスタシアを見た。
「俺からも話あるねん」
今しかない。
決意は固かった。
その時、玄関に並んだ影の中に、栞だけがいなかった。
栞は子供部屋で静かに立っていた。
戸は、少しだけ開いている。
中は暗い。
常夜灯の薄い光だけが、布団の端を照らしている。
富田は横向きに寝ていた。
居間の方から、家族の声が聞こえていた。
富田の顔には、涙の跡が残っている。
栞は布団の横に膝をついた。
「起きていますね」
富田は動かなかった。
栞は待った。
返事はない。
「狸寝入りですか」
富田の睫毛が動いた。
それだけだった。
栞は声を落とした。
「さっき、私はまだ決められないと言いました」
富田は答えない。
「あれは嘘です」
居間の空気は明るかった。
この部屋だけが、薄暗い。
「もう決めています」
栞は富田を見下ろしていた。
顔には何も浮かんでいない。
目だけが冷えていた。
「私は、この家を守ります」
富田の指が、布団の端を掴んだ。
「お母さんを、遼太郎を、この家を」
そこで言葉を切る。
「この家の者は、私の家族です」
富田は目を開けなかった。
「私は間違えました」
栞の声は静かだった。
「遼太郎を傷つけようとした。お母さんを裏切った。自分より弱い相手に、憂さ晴らしをした」
言葉は淡々としている。
「もう、間違えません」
居間から、ユーリの笑い声が聞こえた。
栞はそちらを見なかった。
「あなたがどうするかは自由です」
富田の瞼が、ゆっくり開いた。
細い目が、暗がりの中で栞を見た。
栞は動かない。
「でも」
声は低かった。
「家族を泣かせないでください」
富田は何も言わなかった。
「恩を、仇で返さないでください」
長い沈黙が落ちた。
富田は、ようやく口を開いた。
「……怖いですね、神谷は」
声は掠れていた。
「神谷じゃありません。ここでは、栞です。栞姉ちゃんです」
富田は目を閉じた。
「僕は聞かなかったことにします」
「そうしてください」
栞は立ち上がった。
戸口へ向かう。
出る直前、富田の声がした。
「栞」
「何ですか」
「僕も、仇で返すつもりはありません」
栞は振り向かなかった。
「見ています」
それだけ言って、部屋を出た。
廊下には、味噌汁の匂いが流れていた。
居間では食卓の準備が始まっている。
栞は一度だけ、閉じた子供部屋の戸を見た。
それから何事もなかったように、明るい方へ歩いていった。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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よろしくお願いいたします。




