第十六節
6月13日。
土曜日の空は低かった。
梅雨に入った町は、朝から湿っていた。
石段の端には昨夜の雨が残り、苔の濃いところだけ色が深い。
境内の木々は重そうに葉を垂らし、風が吹くたび、溜まっていた雫がぽたりと落ちた。
八城神社の道場には、外の湿り気とは違う熱があった。
「一、二、三、四」
母の声が道場に通る。
遼太郎は、声に合わせて腕を回した。
隣では、ユーリも同じように準備運動をしている。
その道着はまだ身体に馴染んでいない。
袖も少し硬い。
「五、六、七、八」
遼太郎は横目で見た。
道場に来るようになって、まだ二週間だった。
道場でのユーリは真面目だった。
普段のような揶揄いもなく、こちらへ寄っても来ない。
母の号令に合わせて、肩を回し、足首を伸ばし、腰を落とす。
なんや。
いつもの小悪魔はどこ行ってん。
そう思ったが、口には出さなかった。
母が竹刀を手に取った。
「次、素振り。栞は子供たちを」
「はい」
母の隣に居た栞が短く答えた。
門下生たちが散って、間隔を取る。
遼太郎も自分の位置へ移った。
ユーリは半歩横に立つ。
「まず正面素振り。五十本」
栞は淡々と指示を出す。
「はい」
ユーリと声が揃った。
遼太郎は竹刀を構えた。
「一本」
栞の声。
竹刀が上がる。
振り下ろす。
ユーリの竹刀も降りた。
ヒュッと空気を切る音が並んだ。
「二本」
振る。
耳だけが、隣の音を拾っていた。
あの時は、竹刀に振られていた。
今は、振っている。
形も整っている。
ユーリの風切り音には、もう芯があった。
五十本が終わる頃には、遼太郎の額にも汗が浮いていた。
ユーリは息を乱していない。
身体の戻りも早かった。
ちょっと、上達し過ぎちゃう?
焦りが出てきた。
雑念を察してか、栞が近寄ってきた。
「遼太郎」
「はい」
「今、隣を気にしていましたね」
ばれていた。
よぉ見てはる。
「気にしてへん」
「嘘ついてもダメです。竹刀の戻りで分かりますから」
「厳しい」
「稽古中です」
ユーリがこちらを見た。
目が合った途端、口元だけが先に笑った。
「ふーん、気になっちゃったの?」
悔しいがそうだった。
「ああ、そうや!」
正直に認めてやることにした。
これで満足か。
ユーリは返さなかった。
竹刀を握り直し、正面へ向き直る。
ただ、握った指に、さっきまでより力が入っていた。
休憩時間。
尿意を感じた。
手洗いは社務所の裏だ。
他の門下生に囲まれているユーリを残して、道場を出た。
最近はユーリが可愛がられている。
貰えるお菓子が減った。
半分になった。
何故か負けた気がした。
外へ出ると、空気が湿っていた。
社務所の横を通り、古い便所へ向かう。
便所の木の戸は少し歪んでいて、開ける時に引っかかった。
用を足し始めたところで、声が聞こえた。
「……どう思う?」
母の声だった。
近い。
便所の外にある水場の方だった。
手を洗う音がする。
遼太郎は黙って耳を澄ませた。
「筋は良いです」
栞の声がした。
低く抑えている。
「やっぱりそう見える?」
「はい。覚えるのが早いです。手元だけではなく、足も見ています」
「うん」
母が短く返す。
水道の蛇口が鳴った。
水の音が止まった。
「ちゃんと鍛えたら、上達すると思う」
母の声は穏やかだった。
「せやけど……」
間が空いた。
「あの子、不気味なくらい俊敏やね」
遼太郎の肩に力が入った。
「この前の地震の時もそうやった。今日の動きも、最近始めた子の動きやない」
「私も、そう思います。稽古を始めて数回で、遼太郎と遜色ありません」
栞が答える。
えぇ…そこまでか?
遼太郎は声に出しかけた言葉を飲み込んだ。
少しだけ、零れた。
「ただ、速く動こうとしている感じではありません」
栞の声は、そこで一段低くなった。
「どういうこと?」
「抑えています」
言葉が、静かに落ちた。
「力を出すより、出さない方に気を遣っているように見えます」
母はすぐに答えなかった。
遼太郎は、便所の壁を見ていた。
二週間前の光景が蘇る。
揺れ。
落ちてくる面。
道着を掴む白い指。
引かれた身体。
青い顔。
あの速さ。
あの力強さ。
確かに異質だった。
だが、怖いとも気味が悪いとも違う。
あの必死さ。
どこかで見たことがある気がした。
けれど、思い出せない。
それなのに、不思議と胸の奥は落ち着いていた。
なんやろな。
変な感じや。
「とりあえず」
母の声だった。
「悪い子やとは思わん。むしろ、ええ子や。礼儀もある。真面目やし、根性もある」
「はい」
「せやから、ちゃんと責任もって指導しよう」
栞の声が硬くなる。
「わかりました」
「うん。頼むわ」
母は、そう答えた。
外へ出ると、母と栞はもう水場にいなかった。
道場の方から、竹刀の音が戻り始めていた。
道場へ戻ると、ユーリがこちらを見た。
「遼ちゃん、遅い」
「便所に速さ求めんな」
「うんこ?」
「ちゃうわ」
ユーリは小さく笑った。
その時、道場の戸口に人影が立った。
「……おはようございます。遅くなって申し訳ありません」
声がした。
遼太郎は振り向いた。
富田だった。
道着姿ではない。
黒っぽい上着に、くたびれたズボン。
髪は乱れている。
目の下に影があった。
もともと細い目が、さらに細く見えた。
「富田兄ちゃん?」
ボロボロやんけ。
富田は、遼太郎に笑いかけようとした。
口元だけが動いた。
「若。ご無沙汰してます」
「富田」
母が道場の奥から出てきた。
頭から足元まで富田を見た。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけで」
「ちょっとに見えへん」
母は戸口へ歩いた。
栞はその場から動かなかった。
竹刀を持ったまま、富田を見ている。
富田は栞の方を見た。
それから、軽く手を上げた。
「神谷も元気そうで」
「……はい」
栞の返事は遅れた。
富田は道場へ入る前に、一礼した。
その動きだけは、昔からのままだった。
だが、膝の曲がり方が浅い。
「仕事、夜勤明け?」
母が聞く。
「はい。明けで、そのまま来ました。今から着替えますね」
「寝てないの?」
「電車で少し」
母の眉間が寄った。
「それは寝たうちに入らん」
その声に逃げ道はなかった。
「先生、厳しいですね」
「剣道より厳しい話や」
富田は視線を落とした。
「自分で選んだ道ですから」
栞の指が竹刀を握り直した。
遼太郎は黙って富田を見ていた。
やつれている。
痩せた、というより、削られている。
顔の肉だけではない。
声の張りまで削られていた。
「警備員って、そんなきついん?」
遼太郎は聞いた。
富田は、目線を合わせようと屈もうとした。
途中で動きが止まった。
「現場によりますよ」
「昨日は?」
「工場の夜間警備です。夕方から朝まで。巡回して、門のところ立って、日報書いて」
「休憩は?」
「あります」
返事が早かった。
怪しい。
母が黙って見ている。
富田は観念したように視線を逸らした。
「取れる時があるだけです」
「取れへん時は?」
「立ってたら朝になります」
他の門下生たちがざわついた。
その場にいた田上がぼそりと漏らした。
「違反じゃろが。どこの現場じゃ」
「それで今から稽古する気やったん?」
母が聞く。
「はい」
「無茶すなや」
母は額に手を当てた。
富田は、笑おうとした。
その笑いは途中で途切れた。
「あと、若にも会えたらいいなと」
「…俺?」
遼太郎は、返事が遅れた。
「働き出したら、なかなか会えませんから」
胸の奥がざらつくのを感じた。
平成の会社。
平成の現場。
若いから大丈夫。
合法の顔をした消耗品。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
「給料は?」
遼太郎は聞いた。
そこまで身を削る価値はあるのか。
富田。
それは、お前がやりたいことなんか?
富田は目を瞬いた。
「若、急に生々しいですね」
「大事やろ」
「まあ、最初ですし。多くはないです」
「残業代は?」
「出る、はずです」
「はず?」
「まだ明細もらってませんから」
あかん。
これは、あかん。
このままやと壊れる。
遼太郎は目を閉じた。
富田は、自分で選んだ道だと言う。
それは本当だろう。
家を出た。
大学へ行かない。
働く。
自分で決めた。
だから、弱音を吐けない。
だが、自分で選んだからといって、潰されていい理由にはならない。
この働き方だと、何かを見つける前に終わってしまう。
「富田兄ちゃん」
「はい」
「今日、稽古したらあかん」
富田は、意外そうな顔をした。
「若に止められるとは思いませんでした」
母が頷いた。
「今日は見学。終わったら西尾の家で飯食べて、寝ていき」
「いや、それは」
「命令」
母の声が道場に落ちた。
富田は言葉を失った。
栞が一歩前に出た。
「富田」
声は大きくない。
「先生と遼太郎の言うことを、聞いてください」
富田は栞を見た。
しばらくして、肩から力が抜けた。
「……はい」
ユーリは、黙ってそのやり取りを見ていた。
竹刀を下げたまま、遼太郎の横にいる。
視線は富田の足元から顔へ、顔から手へ移っていた。
遼太郎は、その横顔を見た。
ユーリは瞬きをしなかった。
睫毛の先だけが、濡れていた。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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