第十五節
5月30日。
土曜日の朝だった。
空は白く曇っていた。
五月の終わりにしては、風が冷えていた。
路地の隅に残った湿り気が、塀の影でまだ乾かずにいる。
西尾家の門の前に、スタシアが立っていた。
黒のスーツ姿だった。
その横に、紺色のジャージ姿のユーリがいる。
銀色の髪は後ろで結ばれていた。
小さな水筒を首からぶら下げている。
ランドセルがないだけで、いつもより身軽に見えた。
母は道着姿だった。
竹刀袋を肩に掛け、防具袋を片手に持っている。
母が門の前に立つと、スタシアの背筋が伸びた。
道着の白と紺が、朝の曇り空の下で硬く見えた。
「私も付き添いで行きたかったんですが…よろしくお願いします」
スタシアが頭を下げた。
申し訳なさそうな声だった。
「はい。お預かりします。仕事やったら仕方ないですよ」
母が答える。
スタシアは頭を上げて、母の後ろに立っている栞の方を向いた。
「栞さんも、ユーリの事よろしくお願いします」
栞は一歩引いて、頭を下げた。
道着姿だと、その動きまできっちりして見えた。
スタシアはユーリの前に屈みこんだ。
肩に手を置く。
「ユーリ。失礼が無いように。あと、無理は駄目よ」
「うん」
「痛かったら、すぐ恵さんに言いなさい」
「うん」
「水分も」
「ママ」
ユーリが困った顔をした。
スタシアはその顔を見て、目元を緩める。
「可愛い……」
ユーリは息を吐いた。
「遼ちゃん、行こ」
ユーリは聞かなかったことにしたらしい。
遼太郎は竹刀袋を持ち直した。
防具袋は栞が持ってくれていた。
遼太郎の空いた腕に、ユーリが抱き着いた。
「しゅっぱーつ!」
ユーリの声は明るかった。
なんでこんなことになった?
遼太郎は空を見上げた。
昨日の下校時だった。
手をつないだユーリの指が、途中で止まった。
「遼ちゃん、これ何?」
遼太郎の親指の付け根。
タコだった。
「何って」
「ここ」
ユーリは指先でそこをなぞった。
何度か確かめる。
くすぐったい。
「硬い……タコ?」
「ああ。竹刀でできたやつやな」
「竹刀?」
ユーリの指が、タコから離れた。
「剣道やで」
「遼ちゃん、剣道やってるの?」
声が変わった。
「まあな」
「恵さんだけじゃなくて?」
「うん」
「知らなかった…なんで言わないの?」
握る指に力が入った。
「痛たた…別に、言うほどのもんちゃうし」
遼太郎は手を離そうとした。
ユーリは離さなかった。
「遼ちゃんが竹刀持ってるところ、見たい」
「嫌や」
始めて一年。
お世辞にも上手いとは言えない。
そんな姿を見られるわけにはいかない。
この小悪魔には。
「なんでよ」
「おもろくないで」
「いや、面白いかどうかはウチが決めるから。もしかして…」
ユーリの目が明るくなる。
嫌な明るさだった。
「下手なの?」
遼太郎は黙った。
そうだ。
かっこ悪いから。
そう言えば済む話だった。
だが、言いたくなかった。
かっこいい所を見せたかった。
「遼ちゃん、そういうところ、嘘が下手だよね」
ユーリは、にこりと笑った。
八重歯が見えていた。
ユーリは握った手を引いて、遼太郎を引き寄せた。
耳元に、息が触れる。
「か、み」
遼太郎は目を閉じた。
負けたよ。
「……はい」
八城神社へ向かう道は、朝の静けさが残っていた。
母が先を歩く。
遼太郎とユーリが続く。
その半歩後ろに、栞が続いた。
歩くたびに、紺の袴が揺れた。
石段の下で、ユーリが足を止めた。
「本当にお祭りやってた神社なんだ」
「そうだよ」
石段の横。
赤い浴衣。
あっかんべー。
記憶が蘇る。
「あの時…」
あの時、なぜあっかんべーをしたのか。
「ん?何?」
ユーリは微笑んだ。
遼太郎は言葉に詰まった。
「ううん、なんでもない」
まだ聞けなかった。
風が下りてきた。
葉の裏が白く返る。
遼太郎の竹刀袋が、肩で少し揺れた。
石段を上がり始める。
「滑るから気ぃ付けや」
「うん」
ユーリは頷き、自然に遼太郎の袖を掴んだ。
袖は危ない。
「袖より…」
手を差し伸べた。
「良いの?」
ユーリは、その手を握った。
「紙は要らん」
「まだ言ってないよ」
「言う気はあったんかい」
ユーリは笑った。
手は離さなかった。
境内に上がると、町の音が遠くなった。
社殿の横を回る。
道場の戸は開いていた。
中から、竹刀の音がする。
床を踏む音。
雑巾を絞る音。
誰かの短い掛け声。
古い木と汗の匂いが、外まで薄く流れていた。
道場には、既に何人か門下生が来ていた。
館長は道場の入り口に立っていた。
白い口髭を撫でながら、母の方を見る。
「おう、先生。今日はまた、えらい別嬪さんを連れてきたの」
「館長、おはようございます」
母が頭を下げる。
遼太郎と栞も続いた。
ユーリも一拍遅れて、丁寧に礼をする。
「ユーリヤ・ラマーノフです。今日はよろしくお願いします」
竹刀の音が止まった。
門下生の視線が集まる。
銀色の髪。
白い肌。
遼太郎の横にいる女の子。
館長は口元を緩めた。
「ええ礼じゃ。若には勿体ないわい」
田上が道場の奥から出てきた。
「若、今日は彼女連れか。ませとるのう」
ゲラゲラ笑う。
「彼女ちゃう!」
この不良警官め。
「ほう。では奥様かの」
館長が茶々を入れる。
「もっとちゃいます!」
道場に笑いが起きた。
母は困ったように笑った。
ユーリは、にこにこしている。
否定する気は、なさそうだった。
そんな中、栞は笑っていなかった。
竹刀袋の紐を整えながら、ユーリの横顔を見ている。
栞に気づいた田上が、顔つきを変えた。
「栞」
優しい声だった。
「はい」
「元気か」
「ええ」
短い返事だった。
田上は口を開きかけた。
すぐ閉じた。
視線が、栞の肩のあたりで止まる。
そこから先へ踏み込めない。
栞は田上に向かって一礼した。
返事の代わりのようだった。
道場の中は大人の門下生が数名いるだけだった。
今日は富田兄ちゃんはおらんのか。
いつもの軽い声は強い味方になる。
隣のユーリを見る。
にこにこしている。
この小悪魔には。
道場の入口。
竹刀立ての横。
壁際。
見回してもどこにも富田はいなかった。
「富田なら、今日は来ませんよ」
栞が言った。
普段、土日は居るのに珍しい。
「そうなん?風邪?」
「今週から、警備員の仕事を始めたそうです」
「警備員」
「夜勤や休日シフトもあるようで、ここに来る頻度も減ると聞きました」
栞は畳んだ手ぬぐいを棚へ置いた。
端を揃える。
きっちりと。
「コンビニ前にはいるかもしれませんが、私も最近は行っていないので…」
「そっかぁ」
遼太郎は頷いた。
それ以上、聞かなかった。
道場の中では、竹刀の音がまた始まっていた。
富田の声だけが、そこになかった。
稽古が始まった。
「ユーリちゃん」
母がユーリを呼ぶ。
「せっかくですし、少し振ってみますか?」
ユーリが母を見上げる。
「はい。やってみたいです」
母は微笑みながら竹刀を手渡す。
「まず握ってみましょうか」
「はい」
ユーリは両手で受け取った。
竹刀の先が下がる。
思ったより重かったのだろう。
目が一度瞬いた。
「右手、力入りすぎ」
「はい」
「左手は下。右は添えるくらい」
「添える……」
「肩、上がってる。下ろして」
「はい」
「足は右が前。左は後ろ」
母は横に立ち、触りすぎない。
声だけで直す。
ユーリは言われた通りに動こうとした。
だが、肩がまた上がる。
左手の位置もずれる。
足も流れる。
「振ってみて」
「はい」
竹刀が上がった。
振り下ろす。
竹刀の重さに身体が持っていかれ、ユーリの上体が前へ傾いた。
「わっ」
銀色の髪が揺れた。
遼太郎は、ほっとした。
これでいきなり綺麗に振られたら困る。
剣道でも負けたとなったら、こちらの立場がない。
「右で振らない」
母の声が飛んだ。
「左で上げて、左で下ろす」
「左……難しいです」
「最初は皆そうです」
ユーリは頷いた。
しばらく、母の指導が続いた。
ユーリは崩れるたびに構え直した。
栞は少し離れた場所から、その手元と足を見ていた。
母の眉が動いた。
「遼太郎」
「はい」
「お手本を見せてあげなさい」
嘘だろ。
体に力が入る。
竹刀を持った。
ユーリが見つめている。
笑っていなかった。
茶化されるよりも重圧を感じた。
足を置き、竹刀を上げた。
この1年の成果を見せなくては。
声を出す。
数回振る。
母は黙って見ていた。
竹刀の先が下がってから、口を開いた。
「悪くはない。ただ、まだ腰が逃げてる。走り込みが足りん」
厳しい。
だが、悪くはないとの感想。
ギリギリ落第は免れたようだった。
「先生、厳しい」
「剣道ですから」
即答だった。
「道場では、優しくできません」
鬼だと思った。
「遼ちゃん、頑張ってるね」
ユーリが近寄ってきた。
「そりゃ、1年頑張ったからな!」
胸を張った。
「頼もしいね」
ユーリは少しだけ声を落とした。
「ウチのこと、守ってね」
冗談には聞こえなかった。
言われずとも。
「任せとけ」
稽古が終わる頃には、足が重くなっていた。
ユーリも額に汗を浮かべている。
竹刀を握った手は赤くなっていた。
それでも、視線は落ちなかった。
最後の礼が終わった。
門下生たちは片付けに入った。
母は竹刀を置き、ユーリの前に膝を落とした。
「お母さんにも聞かなあかんけど」
声が、道場のものではなくなっていた。
「剣道教室、正式に入ってみる?」
「いいんですか」
「もちろん。やる気ある子なら誰でも歓迎や」
「やります!」
返事が早かった。
母は頷いた。
「ほな、防具のサイズ見よか。まだ使わんけど、合うのが無かったら用意せなあかんし」
母は道場の奥にある防具倉庫へ向かう。
「遼太郎、手伝って。栞は片付けお願い」
栞が頷く。
防具倉庫は独特な臭いがある。
気が進まなかったが、先生が仰せなら仕方がない。
「遼ちゃん、行こっ?」
ユーリに手を引かれた。
悪い気はしなかった。
防具倉庫の引き戸を開けると、空気が変わった。
狭い。
両側に木の棚があり、面や胴や小手が積まれている。
藍の匂い。
汗の残った布の匂い。
竹刀の油っぽい匂い。
やっぱり、苦手だ。
埃が、入口から入る光の中に浮いていた。
三人で探すこと数分。
子供用の防具一式を見つけた。
母が抱えて、防具倉庫を出る。
倉庫の外でユーリに合わせる。
面と胴はちょうど良いサイズだった。
「あら、小手は小さいわ」
母が残念がる。
惜しい。
大きめの小手は無かっただろうか。
見たような気がした。
「ちょっと見てくるわ」
母が返事をする前に、倉庫に戻る。
中は先ほどより暗く感じた。
道場側から音が聞こえる。
床を擦る音。
低い笑い声。
すぐそこに人がいる。
それなのに、倉庫の中だけ取り残されたように静かだった。
小手を探し始めた時だった。
床が、一度低く鳴った。
遼太郎は動きを止めた。
次に、横から揺れが来た。
「地震や!」
道場で誰かが声を上げる。
大きくはない。
木の棚が鳴る。
吊るされた竹刀が触れ合う。
外で鳥が一斉に飛び立った。
棚の上の面がずれた。
胴も滑る。
金具が棚板に当たり、がたん、と鳴った。
埃が落ちる。
面が落ちてくる。
やべぇ!
後ろへ下がろうとした。
足がもつれた。
頭だけ先に逃げても、身体はついてこない。
咄嗟に目を瞑る。
「遼太郎!」
母の声がした。
踏み込む音が近づく。
布が鳴った。
横へ強く引かれる。
身体が斜めにずれた。
足がたたらを踏む。
揺れが収まった。
竹刀の触れ合う音だけが、しばらく残っていた。
目を開ける。
目の前で母の手が、落ちかけた面を受け止めていた。
そのまま動かない。
母の目は、遼太郎ではなくその後ろを見ていた。
「……え?」
小さな声だった。
母の声にしては、珍しく隙があった。
遼太郎は振り返った。
ユーリは真後ろにいた。
遼太郎の道着を掴んでいた。
指が白くなるほど、握っている。
さっきまで外にいたはず。
母の方を見る。
さっきまで頭のあった場所で、面が母の腕に抱え止められていた。
母が間に合わなかったら。
一歩、いや、半歩。
引き戻されていなかったら。
そう考えたところで、背中が冷えた。
ユーリの顔色が青い。
息が小刻みに乱れていた。
目は、遼太郎の顔から動かなかった。
「危なかった……」
ユーリが零した。
「ユーリ?」
その顔。
声をかけると、ユーリは息を吸った。
そして、いつもの顔を作った。
「気を付けてよね、遼ちゃん」
言葉を絞り出した。
「……大丈夫や。ありがとう」
「もう。びっくりした」
「悪い」
「ほんとだよ」
ユーリは道着を離した。
指が震えていた。
すぐに手を後ろへ隠す。
母は面を抱えたまま、ユーリの足元へ視線を落とす。
次に、棚を見る。
最後に、遼太郎を見る。
「遼太郎、痛いところは?」
「ない」
「ユーリちゃんは?」
「大丈夫です」
「…ありがとうな」
母はぎこちなく礼を言った。
その時。
「大丈夫でしたか!」
栞が駆け込んできた。
声が大きい。
手には、畳みかけの手ぬぐいを握っていた。
「大丈夫や」
母が答えた。
声が少し遅れた。
「栞、道場の被害は?」
「ありません」
母は棚の上を見て、危なそうな防具を一つずつ下ろす。
「余震があるかもしれない。上の物は下ろそうか」
母の声は戻っていた。
道場の声だった。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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