第十四節
5月11日。
桜並木はすっかり葉桜になり、枝の下には濃い影が落ちていた。
昼の陽は強い。
運動場の砂は白く乾き、走る子供の靴の下で細かく舞った。
遠くに見える生駒の山並みも、いつの間にか新緑の色を濃くしていた。
小学校に入ってから、一か月が経っていた。
授業は退屈だった。
鉛筆の持ち方。
ひらがな。
数を数える。
それでも時間割通りに従っていれば良い分、幼稚園よりは気が楽だった。
午後の休み時間の教室はざわめきと活気に満ちていた。
遼太郎は自席に座っていた。
教室の時計を見上げる。
あと一コマで帰れる。
子供たちは、机の間を走り回っていた。
ボールを抱え、廊下へ飛び出していく子もいる。
ちょうど、校庭でキックベースをやろうという誘いを断ったばかりだった。
昼休みに付き合ったばかりだというのに、元気なことだ。
授業の合間の短い休み時間まで無駄にしない。
その体力には、素直に感心した。
隣席にはユーリがいた。
次の授業の準備をしながらエリと話していた。
「ユーリちゃん、ここ教えて」
エリが教科書を差し出した。
リンゴの絵と数字が並ぶ。
ユーリは、差し出された算数の教科書を覗き込んだ。
「答えを先に書かないで、まず数えて」
「ええと……一、二、三」
「うん。そこまで合ってる」
ユーリはエリの鉛筆には触れず、絵の上に指を置いた。
「次、ここを飛ばしてる」
「あ」
「もう一回、最初から」
「一、二、三、四、五」
「そう。じゃあ、こっちは?」
ユーリは急かさない。
間違えると、黙って指だけを戻す。
エリが最後まで数え終えるのを待ってから、ユーリは小さく頷いた。
「うん。合ってる」
「ほんと?」
「ほんと」
エリの顔が明るくなった。
「ユーリちゃん、先生みたい」
アヤカが横から言った。
「先生はもっと怖いよ」
ユーリがそう返すと、二人は笑った。
遼太郎は、その様子を横目で見ていた。
一か月前には、もう少し面倒なことになると思っていた。
銀色の髪。
白い肌。
日本人離れした顔。
教室の中で浮かないはずがなかった。
最初に絡まれたのは、入学して間もない頃だった。
絡んできたのは、落ち着きのない男の子だった。
隣席となった遼太郎と話しながら、ユーリは机の上で鉛筆を削っていた。
小さなカッターの刃が、木の表面を薄く剥いでいた。
削り屑は、机の端に細く丸まって落ちていた。
一本。
また一本。
ユーリは鉛筆を削っていく。
削り終えた鉛筆は、筆箱の横にきちんと並んでいた。
芯は、どれも鋭かった。
その男の子は、ユーリの机の横へ来て、髪を指さした。
『お前、髪変やな』
刃の動きが止まった。
何人かが振り向く。
アヤカもこちらを見た。
エリは、その男の子を睨んでいた。
どうやら、エリも一度やられているらしい。
遼太郎は言い返そうとした。
その前に、ユーリがこちらを見た。
その目に、出かかった言葉を止められた。
ユーリは黙ってカッターを畳んだ。
それから、顔を上げる。
『髪の色が違うから、何?』
声は静かだった。
怒鳴ってもいない。
だが、男の子は一歩下がった。
ユーリは笑っていた。
いつもの可愛い笑顔ではなかった。
口元だけが上がっている。
目は動いていない。
『髪の色、あなたに何か関係ある?』
『……別に』
『じゃあ、言わなくていいよ』
男の子は口を曲げた。
何か言い返そうとしたようだった。
遼太郎は男の子に声をかけた。
『しょーもない事言うなや。お前、おもんないぞ』
『……うっさい』
男の子は乱暴に踵を返した。
そのまま教室の後ろへ走っていく。
足音が遠ざかった。
ユーリは削り屑を下敷きで集め始めた。
『ありがと、遼ちゃん』
『俺、何もしてへん』
『うん。してへんね』
笑い方が戻っていた。
ユーリの横顔は、涼しいものだった。
それから何度か、似たようなことはあった。
アヤカが声をからかわれた時も、エリが歩き方を真似された時も、ユーリは先に立った。
遼太郎は、その横か半歩後ろにいた。
別に大げさなことはしていない。
じっと見ている。
口を挟む。
先生を呼ぶ。
それだけで、大抵の子は引いた。
六歳児の喧嘩など、そんなものだった。
しかし、それが何度か続くと、自然と人が寄ってくる。
休み時間になると、遼太郎とユーリの机の周りに何人かが集まるようになった。
アヤカ。
エリ。
それから、名前を覚えきれていない子が五、六人。
いつの間にか、そういう形になっていた。
エリは教わった内容を書き込もうと、鉛筆を立てた。
ぽき、と芯が折れる。
黒い点が、紙の上に落ちた。
「あ」
「丸なってたんちゃう?」
近くにいたアヤカが筆箱から小さな鉛筆削りを出した。
「これ使い」
「いいの?」
「ええよ」
「ありがとう」
エリは小さな手で鉛筆を削り始める。
しゃり、しゃり、と軽い音がした。
削り屑は、透明な小さな箱の中で細く丸まっていく。
「遼ちゃんのは?」
アヤカが遼太郎の筆箱を見る。
「丸なってへん?」
「遼ちゃんのは大丈夫」
ユーリが先に答えた。
「ウチが削ってあげてるから」
「何でお前が言うんや」
「本当でしょ」
「まあな」
苦笑いした。
なんだかんだ世話を焼いてもらっている。
「筆箱の中も勝手に整えるし、おかんみたいやで」
「いい奥さんでしょ」
「そこまでは言うてへん」
二人で笑った。
アヤカも笑った。
一つ遅れて。
エリは黙って鉛筆を削っていた。
削り屑が、細く丸まった。
帰りの会が終わる頃には、教室の空気も緩んでいた。
机の中へ教科書を押し込む音。
椅子を引く音。
誰かの黄色い帽子が床に落ちる。
先生が明日の持ち物を言い終えると、教室のあちこちから声が上がった。
「さようなら」
「はい、気をつけて帰ってください」
遼太郎は連絡ノートを開いたまま、鉛筆を動かしていた。
明日の持ち物。
算数は定規。
音楽は鍵盤ハーモニカ。
体操服。
文字が歪む。
手が小さいと、思ったより書きづらい。
「遼ちゃん、一緒に帰ろ」
声がした。
顔を上げると、ユーリが立っていた。
「ちょい待ち。まだ書いてる」
遼太郎はノートへ目を戻した。
「相変わらず字が汚いねぇ」
相変わらず。
その言い方が、耳に残った。
「うるさいなぁ」
遼太郎は、少し強く鉛筆を動かした。
芯の先が折れた。
「あ」
「ほら」
「ほらちゃうわ」
削るのが面倒だった。
もう読めるからええか。
遼太郎はノートを閉じ、ランドセルへ入れた。
肩紐はまだ硬い。
背負うたびに、革が肩へ食い込む。
この時代のランドセル、重すぎるやろ。
小さく息を吐いた。
校門を出ると、風が冷たかった。
昼間の陽で道は乾いている。
通学路には、同じ黄色い帽子がいくつも揺れていた。
角を曲がる。
子供の声が遠くなる。
ユーリは遼太郎に身を寄せて腕を組んだ。
「へへぇ〜」
得意げな顔をしている。
「歩きづらかったらすぐ離すんやで?」
「わかってるって!」
遼太郎は腕を抜かなかった。
最初の頃は、文句を言っていた気がする。
今は、曲がり角から車が来ないかを見る方が先だった。
家まであと数十メートルというところで、遼太郎は歩幅を狭めた。
路地の角に、古い二階建ての建物がある。
前から見覚えはあった。
だが、今日初めて足を止めて見た。
父が言っていた場所だった。
『会社は看板出してなんぼやろ』
その言葉を聞いた時は、父らしいと思った。
ただ、今は反対しなかったことが悔やまれる。
事務所はかなりくたびれていた。
頑丈そうなのが唯一の取り柄で、外壁は色が抜け、看板の外された跡だけが四角く残っている。
二階へ上がる階段は狭い。
コンクリートの端が欠けていた。
窓ガラスは汚れていて、外の白い空を鈍く返している。
表のシャッターは半分だけ下りていた。
隙間から、埃っぽい暗がりが見えた。
「遼ちゃん?」
ユーリが組んだ腕を離し、横から覗き込んできた。
「何見てるの」
「ここ、うちの会社の事務所になるらしい」
「前に言ってた西尾興業?」
ユーリは遼太郎の顔を見た。
それから建物を見る。
「……これが?」
「俺もそう思ってる」
二人で窓へ近づいた。
中は薄暗かった。
古い机が壁に寄せられ、背もたれの壊れた椅子が横倒しになっている。
棚の上には段ボールが積まれていた。
床には埃が溜まり、何に使うのか分からない備品が隅へ押し込まれている。
会社というより、物置だった。
「これは聞いてた以上に……」
声が途中で細くなった。
汚い。
かなり。
おとん、ペーパーカンパニーで良かったんちゃうか。
看板は大事かもしれない。
だが、これは看板以前の問題だった。
掃除。
その言葉が頭に浮かぶ。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
俺はやりたくない。
……監査役に頼めんかな。
遼太郎の口元が、勝手に緩んだ。
「西尾興業って、遼ちゃんの会社?」
ユーリが聞いた。
「今はおとんが社長や」
「今は?」
「ゆくゆくは、俺が社長やな」
遼太郎は胸を張った。
社長。
悪くない響きだった。
ユーリの目が、ぱっと変わった。
「じゃあ、ウチ、社長夫人になる」
「なんでそうなるんや」
「毛皮のコート着たいから」
「どこで覚えたんや、そんなもん」
「テレビ」
「教育に悪いな」
ユーリは笑った。
そのまま、遼太郎に抱きついてくる。
ランドセル同士がぶつかった。
「うわっ」
一歩よろけた。
首に腕が回る。
顔が近い。
銀色の髪が頬の近くで揺れた。
石鹸の匂いがした。
「社長夫人、予約」
ユーリは耳元で囁いた。
「予約すな」
遼太郎は、ユーリの腕を外した。
「じゃあ、紙」
「それ出すの禁止にせえ」
「やだ」
ユーリは笑う。
小さな八重歯が見えた。
現金な子やで。
そう思った。
だが、強く押し返せなかった。
紙を握られている。
それはある。
それでも、悪くないと思ってしまった。
「帰るで」
「うん」
ユーリはまた腕を組んできた。
古い建物は背後に残った。
振り返ると、汚れた窓に空の白さだけが映っている。
あれが会社になるというのは、まだ冗談のようだった。
ユーリの家の前まで来ると、門前にスタシアがいた。
ユーリは、とっさに腕を離した。
スタシアは部屋着姿だった。
遼太郎たちに気づいたようだった。
その目つきは厳しい。
だが、ユーリを見た瞬間、顔が崩れた。
「おかえり、ユーリ」
「ただいま、ママ」
「今日は疲れなかった? 嫌なことはなかった?」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当」
ユーリが答えると、スタシアは口元へ手を当てた。
「強い子……」
今にも涙が出そうだった。
感動するところか。
遼太郎は黙っていた。
スタシアの目が遼太郎へ移る。
さっきまでの顔が消えた。
「遼太郎」
「何ですか」
「距離が近い。離れなさい」
「離れてます」
「さっきまで腕を組んでいたでしょう」
「見てたんか」
「見えるわよ。そこから歩いてくるのを」
スタシアは門の格子を指で叩いた。
「ユーリとは、手を繋ぐまでしか認めていません。腕を組むなんて、そんな羨ましい……」
「羨ましい?」
「黙りなさい」
即答だった。
ユーリがくすくす笑う。
スタシアは咳払いをした。
「ユーリ。おやつを用意してあります。手を洗って、うがいしたら食べていいわよ」
「ほんと?」
「ええ」
「じゃあ、遼ちゃん。また明日ね」
「また明日」
ユーリは門を抜け、玄関へ駆けていった。
扉が開く。
銀色の髪が家の中へ消えた。
扉が閉まる。
外には、スタシアと遼太郎だけが残った。
遼太郎は、ロシア語に切り替えた。
「在宅勤務が認められてよかったな」
スタシアは忌々しげに顔を向けた。
「ええ。あなたのおかげでね。そこだけは感謝してるわ」
「もう少し感謝してほしいものだな」
「用事は何。さっさと帰りなさい。恵さんを困らせるんじゃないわよ」
「事務所を見てきた」
スタシアの眉が動く。
「小汚い建物でしょう」
「聞いてた以上に汚い」
「あれでも、場所も賃料も悪くないわ」
「そうなのか」
「家から近い。最初は、それだけでも十分よ」
「そんなものか」
「そんなものよ」
スタシアは腕を組む。
「何か聞きたそうね」
「監査役って、何をするんだ?」
「今さら?」
「気になった」
スタシアは建物の方角をちらりと見た。
それから、遼太郎を見下ろす。
「あの建物をきれいにするのは、私の仕事じゃないわよ」
遼太郎は顔をしかめた。
読まれた。
「図星みたいね」
スタシアの目が据わる。
「本当にふざけたクソガキね」
「クソガキですから」
「そこは否定しなさい」
スタシアは、指を一本立てた。
「契約書を見る。文言を直す。相手と連絡を取る。ブラックストーム側へ話を通す。西尾側が変な約束をしないように止める。以上」
早口だった。
言葉の端が硬い。
「代理人みたいなものか?」
「は? 違います」
即答だった。
「私は決めない。金をどこへ置くかも選ばない。判子を押すのは社長。責任を持つのも西尾側」
「じゃあ、使いっ走りか」
スタシアは声を出して笑った。
目は笑っていない。
「その言い方をもう一度したら、泣かせるわよ」
「大人げないな」
「窓口よ」
「便利な窓口だな」
「閉めることもできるわよ」
遼太郎は黙った。
監査役。
西尾家担当。
弁護士。
不本意だが、この女には頭が上がらない。
遼太郎は頭を下げた。
「すいませんでした」
「分かればいいのよ」
勝ち誇った顔だった。
腹立つわ、このおばはん。
「決めるのはあなたたち。私は、決まった話を通る形に整える。それだけ」
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは、はいと言いなさい」
「はい」
スタシアは息を吐いた。
それから、目を細めた。
「何か企んでないでしょうね」
「まさか」
「その顔、信用できないわ」
「ひどいなぁ」
「ひどいのはあなたの頭の中よ」
否定できなかった。
「じゃあ、帰るよ」
「ええ。さっさと帰りなさい」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
遼太郎は手を振った。
スタシアは最後まで疑う目で見ていた。
パシリにはできるんだな。
良いことを聞いた。
そう考えた瞬間、門の内側からロシア語が飛んできた。
「聞こえてないけど、今、失礼なこと考えたでしょう」
「考えてません」
「嘘が下手ね」
遼太郎は足を速めた。
夜。
遼太郎は布団の中で目を開けていた。
昼に見た建物が浮かぶ。
くすんだ外壁。
汚れた窓。
欠けた階段。
横倒しの椅子。
あれが会社になる。
笑える。
だが、笑って終わる話ではなかった。
200万ドル。
西尾興業。
ブラックストーム。
窓口。
遼太郎は寝返りを打った。
布団の端から出た指先が冷たい。
Gagoyle。
暗い天井に、その名前だけが浮かんだ。
令和では近づくこともできない巨人。
今はまだ、会社として生まれてすらいない。
今なら、手を伸ばせる。
税金。
手数料。
事務所。
これから掛かる金。
全部を考えると、使える金は限られる。
それでも、150万ドルくらいは動かせるはずだ。
歴史が変わったら?
恐怖が、遅れて来た。
Gagoyleが、Gagoyleにならなかったら。
自分が手を出したせいで、別の会社に食われたら。
一本に寄せすぎると、逃げ場がない。
未来知識は強い。
だが、外した時のダメージが大きい。
こんな便利な力、いつ足元を掬いに来てもおかしくない。
いつか背後から、「ドーン!!」とやられるかもしれない。
遼太郎は天井を見た。
窓の外で、車が通り過ぎる音がした。
Gagoyleは100万ドル。
そこまでで止める。
残り50万ドル。
保険が欲しい。
別の芽。
知っている会社は…
…スマホゲーム。
唐突に浮かんだ。
通勤電車。
仕事帰りの夜。
吊り革。
画面の光。
隣で有理がスマホをこちらへ向けてくる。
派手な演出。
虹色の光。
当たらないガチャ。
こちらが外す横で、有理だけがSSRを当てた。
あいつは、いつもそうだった。
妙なところで運がいい。
そして、煽ってくる。
『遼ちゃん、物欲センサーだよ』
うるさいわ。
遼太郎は布団の中で眉を寄せた。
あの運営会社、何やったっけ。
広告。
ネット。
ゲーム。
セイバーエージメント。
そうや。
あれや。
今、もうあるんかな。
あるなら、まだ間に合う。
50万ドル。
遼太郎の意識が遠のき始めた。
夜の冷たさが、指先からゆっくり消えていった。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
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