第十三節
4月7日。
前日の雨は上がっていた。
空は蒼く、生駒の山並みの輪郭ははっきりとしている。
道には、雨に打たれた桜の花びらが貼り付いていた。
玄関先で、母は遼太郎の髪を整えていた。
淡い白のツイードスーツ。
短めのスカートから、小麦色の脚が覗いていた。
「ハンカチ持った?」
「持った」
「ティッシュは?」
「持った」
「名札」
「ついてる」
母の指が、また前髪に触れた。
「おかん、もうええって」
「写真に残るんやから、ちゃんと整えなあかん」
たかだか入学式やろ。
遼太郎は息を吐いた。
家の前の路地では、父がカメラを持って待っていた。
いつぞや中華料理店に着て行った一張羅姿だった。
「そろそろ、家をバックに一枚撮ろか」
「待って。まだ襟が変や」
「私が直します」
栞が遼太郎の横で膝をついた。
淡いベージュのペプラムジャケットがよく似合っていた。
子供用スーツの襟を直し、袖を引き、最後に名札の角度を整える。
動きがきっちりしていた。
「これで大丈夫です」
満足げな顔だった。
しかし、襟が苦しい。
「栞姉ちゃん…息苦しい…」
「入学式ですから」
遼太郎は目を丸くした。
「入学式って苦しいもんなん?」
「はい」
断言された。
真剣な顔だった。
納得してはいけない気もしたが、受け入れることにした。
その時、隣家の門が開いた。
「お、スタシアさん。おはようございます」
父が気づいて声をかける。
「おはようございます」
スタシアが隣家から出てきた。
白いフリルのブラウスに、黒のパンツスーツを合わせていた。
その横から、ユーリが出てくる。
ベージュのチェック柄のスーツ。
頭には、フェルトのベレー帽をちょこんと乗せている。
赤いランドセルは少し大きい。
だが、不思議と背負わされている感じはなかった。
ユーリは遼太郎に駆け寄ってきた。
「おはよう、遼ちゃん」
にこりと笑う。
「お、おはよう……」
不覚にも可愛いと思ってしまった。
その横で、スタシアが胸元を押さえた。
「ユーリ……やっぱり笑顔がかわいいでちゅねぇ……」
言ってから、止まった。
遼太郎は鼻で笑った。
「……何かしら。何かおかしい?」
目つきが険しくなる。
「いや、別に」
「じゃあ、今の何?」
「鼻が勝手に」
「便利な鼻ね」
スタシアは睨んだ。
その視線はすぐにユーリへ戻る。
戻った瞬間、目元が緩んだ。
「ランドセル重くない? 靴は痛くない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「まだほとんど歩いてないよ。ママ、さっきから心配し過ぎ」
ユーリの声に、尖ったものが混じった。
「そ、そうね。歩いてからよね。ああ、怒ったユーリも可愛いでちゅ」
駄目だ。
今日はもう正気には戻らないだろう。
遼太郎はため息をついた。
そんな様子を母は笑っていた。
それから、ユーリの前で屈む。
「ユーリちゃん、今日も可愛いなぁ。よう似合ってるわ」
「ありがとうございます」
ユーリは丁寧に頭を下げた。
その礼を見て、スタシアがまた胸元を押さえた。
父がおもむろにカメラを構える。
「みんな笑ってや。スタシアさん達も入って」
「私たちもいいんですか」
「当たり前やん」
遼太郎を囲むように、母、栞、ユーリ、スタシアが立つ。
カシャ、と音がした。
通学路には桜並木があった。
濡れた花びらが靴の裏に貼り付く。
乾いた花びらだけが風に乗って、ランドセルや肩の上に落ちた。
新品の肩紐は硬く、歩くたびに背中で跳ねる。
母とスタシアが前を歩く。
父は後ろでカメラを提げていた。
栞はその横にいる。
ユーリは当然のように、遼太郎の隣へ来た。
「遼ちゃん」
「何や」
「手繋ご?」
白い手が差し出される。
可愛い子と手を繋ぐ。
夢のある話だ。
「なんでや」
「入学式だから」
「理由になってへん」
「紙」
脅迫されていなければ。
「……はい」
遼太郎は手を出した。
ユーリは満足そうに握る。
後ろを歩く栞の視線が、二人の手に落ちた。
「遼太郎……」
遼太郎は振り向いた。
「栞姉ちゃん、どうしたん?」
「困ったことがあれば言ってください」
栞は怪訝な顔をしていた。
「今、困ってる」
ユーリの指に力が入った。
「嘘です。困ってへんよ」
「……そうですか」
納得していない顔だった。
校門の前は混んでいた。
看板の前で、親子が順番を作っている。
着物の母親、スーツの父親、泣きそうな子、走り出しそうな子。
西尾家も、通りがかった人にカメラを託して写真を撮る。
母、父、栞、遼太郎。
それからスタシアとユーリも入った。
ユーリは遼太郎の隣に立つ。
肩が触れた。
その瞬間、腕を組んできた。
「ちょっ」
ユーリは意地悪げに笑いかける。
「か、み」
まあ、減るもんちゃうしええか。
抵抗を諦めた。
「……はい、どうぞ」
「ふふ。ありがと」
不思議と悪い気はしなかった。
体育館はワックスの匂いがした。
床は光っている。
椅子は硬い。
ざわめきが、天井の方で薄く広がっていた。
「遼ちゃん?」
声がした。
振り向くと、アヤカがいた。
幼稚園で見慣れた顔なのに、今日は大人びて見えた。
隣にはエリもいる。
エリは黙って、遼太郎とユーリを交互に見ていた。
「同じ学校やな」
「うん」
アヤカは笑った。
その笑顔が、ユーリと目が合って止まる。
「その子、誰?」
「隣に引っ越してきた子」
「ふうん」
短い返事だった。
ユーリはにこにこしている。
「遼ちゃん、こっち」
ユーリが袖を引いた。
アヤカの目が固まる。
エリも瞬きをした。
「遼ちゃん、その子と仲良いの?」
エリが恐る恐る尋ねた。
「先週会ったばっかりや」
「先週?」
アヤカが聞き返す。
表情が険しい。
「これから仲良くなるの!」
ユーリがにこやかに言った。
アヤカは口をぽかんと開けた。
エリは何も言わず、ただユーリを見ていた。
その時、マイクの声がした。
「新入生並びに保護者の皆様、ご着席願います」
式が始まった。
校長の話は長かった。
来賓の話は、もっと長かった。
椅子の硬さと眠気に耐えながら、体育館の中を見回した。
周囲へ意識を向ける。
値踏み。
近くの男子を見る。
足が速い。
落ち着きがない。
見える。
別の女子。
危ない。
いじめっ子。
近づかないようにしよう。
見えた。
やはり機能している。
先週のことを思い出す。
左隣に座る母。
その隣に座って母と話している栞。
奥でうつらうつらしている父。
右隣で、遼太郎の腕を組んで離さないユーリ。
ずっとこちらを見ているスタシア。
誰一人、何も見えない。
斜め前に座るアヤカ。
歌が上手い。
頭の回転が速い。
後ろに座っているエリ。
芝居が上手い。
洞察力がある。
アヤカの隣に座る男。
乱暴。
エリの隣に座る男。
騙すのが上手い。
不穏なものも見えたが、見える。
血の家族だけではない。
『もう家族みたいなもんですよ』
母の声が甦る。
血でも戸籍でもない。
自分の中で、家族の側に入ったらそうなるのか。
難儀な力やで。
式の帰り道。
大人たちがそれぞれの子供の話をしている間に、ユーリが横に来た。
「遼ちゃん」
「何や」
「はい、返すね」
掌を差し出してきた。
そうだ、今日はお願いを聞いてやったのだ。
もう四分の一は返してくれるだろうと踏んでいた。
所詮は子供の遊びである。
掌が開いた。
小さな紙片があった。
小指の爪ほどしかない。
「……端っこやんけ」
「でも、返したよ?」
「詐欺やろ」
「約束は守ってるもん」
口角が上がる。
小さな八重歯が光った。
紙片をつまんだ。
薄い。
小さい。
何が書いてあるかも分からない。
風が吹いた。
紙片は指の間から抜けた。
追う間もなく、白い紙は桜の花びらに紛れた。
ユーリが横で笑う。
「なくなっちゃったね」
「お前なぁ……」
「でも、返したよ」
言い返せなかった。
ユーリはランドセルを揺らして歩き出した。
銀色の髪に、桜の花びらが一枚乗っている。
遼太郎はそれを見ながら、深く息を吐いた。
長い六年になりそうだった。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。
お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。
よろしくお願いいたします。




