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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
43/59

第十二節

 スタシアが、座布団から立ち上がった。

 さっきまで据わっていた目が、一瞬で別のものになる。

 玄関に向かう足取りは早かった。

「ユーリ。中で待っていなさいって言ったでしょう」

 猫なで声。

「もう、悪い子でちゅねえ」

 ぴたり、とスタシアの足が止まった。

 トラックのエンジン音が続いている。

「……でちゅ?」

 遼太郎は、口角を上げた。

 ほう。

 娘には甘いらしい。

 良いことを聞いた。

 スタシアの肩が震えた。

 黒い袖口のレースが、小さく揺れる。

 耳が赤い。

「……ここが、西尾さんのお家よ」

 声が硬い。

「ご挨拶なさい」

 門のそばの少女は、両手を前で揃えた。

 白い頬。

 銀色の髪。

 少女は、ぺこりと頭を下げた。

「ユーリヤ・ラマーノフです。六歳です!」

 落ち着いた声だったが、調子は明るかった。

 元気があってよろしい。

 遼太郎は頷いた。

「普段はユーリと呼んでいます」

 スタシアが横から言った。

「そう呼んでも構いませんが、あまり馴れ馴れしくしないように」

 無茶言いなや。

 口から飛び出しかけた。

 その時、隣家の方から母の声がした。

「スタシアさーん。引っ越し屋さんが、もう作業始めてええかって――あら」

 母が小走りで戻ってきた。

 軍手を片方だけはめている。

 髪を後ろで束ね、日に焼けた腕を出している。

 引っ越し屋よりも様になっていた。

 母はユーリの前でしゃがみ込んだ。

「こんにちは。ユーリちゃんやね。お母さんから聞いてるで」

 母の目が、柔らかくなる。

「可愛いなぁ」

「そうでしょう」

 スタシアの声が上擦った。

「可愛いんです」

 早口だった。

「ほんと、食べちゃいたいくらいで」

 恍惚とした表情。

 この女は、娘がスイッチか。

 早く正気に戻ることを願った。

 そんな中、ユーリは母を見て目を丸くしていた。

 茶色い髪。

 露出の多い服装。

 日に焼けた肌。

 剣道で作られた肩と腕。

 戸惑うのも無理はない。

「ユ、ユーリヤ・ラマーノフです」

 ユーリはもう一度、頭を下げた。

 動きが硬い。

「ええ礼やね。偉い」

 母は笑って、ユーリの頭を撫でた。

 母は立ち上がり、スタシアへ向き直る。

「家具の場所、指示お願いしてええですか」

「あ、す、すみません。こちらのことなのに、上がり込んでしまって」

「いーえ。お隣さんやし、同じ会社のこともあるし」

 母は明るく言った。

「もう家族みたいなもんですよ。頼ってください」

 スタシアが動きを止めた。

「家族……」

 繰り返す声が、やけに低かった。

 顔から力が抜けている。

「……ありがとうございます」

「遼ちゃん」

 母が遼太郎を見る。

「お母ちゃんら、引っ越し手伝ってるから、お留守番頼むで」

「わかった」

 母は何か思いついたように、スタシアに振り返る。

「ユーリちゃん、うちで預かりましょうか。家の中、荷物でいっぱいになるやろうし居場所ないでしょ?」

「よろしいんですか」

 スタシアの顔が明るくなる。

「助かります。お願いします」

「ほな、遼ちゃん。ジュース出して、一緒に遊んであげて」

 やれやれ。

「遼太郎」

 スタシアが近づいてきた。

 目線を合わせるように膝を曲げる。

 黒いスカートの裾が、土間の上でふわりと広がった。

「ユーリのこと、お願いね?」

 口元は笑っていた。

 目は笑っていなかった。

 娘を退屈させたら、分かっているわよね?

 そう言われた気がした。

「……はい」

「いい子ね」

 スタシアは頭を撫でようとして、手を止めた。

 声を潜める。

「やっぱり、アンタは可愛くないわね」

「聞こえてるで」

「聞こえるように言ったのよ」

 そう言って、スタシアは踵を返した。

 母とスタシアは隣家へ向かった。

 慌ただしい作業員たちの声。

 父の声が時折聞こえる。

 栞の声もした。

 トラックの荷台が開く金属音が響いた。


 ユーリは土間で靴を揃えた。

 その動作は丁寧だった。

 居間へ案内すると、ユーリは遼太郎の後ろをついてきた。

 足音が軽い。

 ユーリは家の中を見回している。

 こたつ。

 テレビ。

 棚。

 食卓の上の湯呑み。

 何かを確かめるような目だった。

「ジュース飲む?」

「飲む」

「オレンジでええ?」

「うん」

 遼太郎は台所へ行き、冷蔵庫から紙パックを出した。

 ガラスのコップを二つ用意する。

 居間へ戻ると、ユーリはまだ立ったままだった。

 遼太郎はコップを食卓に置き、座布団を勧める。

「座り」

「うん」

 ユーリは座布団にちょこんと座った。

 背筋は伸びていた。

 遼太郎はコップを手渡す。

「はい」

「ありがとう」

 ユーリは両手でコップを持った。

 小さく飲む。

 唇にオレンジ色がついた。

 コップの縁に、薄いルージュの跡が残った。

 それを小さな指で拭っている。

 遼太郎も一口飲む。

 喉にオレンジの酸味が沁みた。

「なんかして遊ぶか?」

「あそぶ」

 ユーリの返事は早い。

 可愛い。

 子供は素直が一番だ。

 女の子と遊べるもの。

 何があったか。

 …64か。

 クリスマスに皆で遊んだ記憶が蘇る。

「ゲーム持ってくるわ。ちょっと待っててな」

「うん」

 遼太郎は子供部屋へ向かった。

 部屋の襖を開ける。

 机。

 本棚。

 玩具箱。

 布団。

 押し入れ。

 遼太郎は押し入れを開けた。

 プラスチックのケース。

 ニンテンドー64は丁寧にしまわれていた。

 ケースごと引っ張り出す。

 その時、背後で床が鳴った。

 振り返る。

 ユーリが部屋の入口に立っていた。

「あ、ここ俺の部屋やで。居間で待ってたらええのに」

「ここで遊ぶ」

 困った。

 だが、幼稚園で子供の気まぐれには慣れっこだ。

 遼太郎は切り替えた。

「ほな、ここで遊べるもん探すわ」

 ニンテンドー64のケースを押し込む。

 押し入れを閉じようとした時、手が止まる。

 飾り気の無い箱に収められたボードゲームに目が留まった。

 人生ゲームか。

 最近は、このゲームの紙幣を見ても笑えない。

 扱う金額が、現実に寄ってきている。

 生々しい。

 却下。

 押し入れを閉じると玩具箱を引き寄せた。

 中身を床へ出していく。

 ミニカー。

 却下。

 怪獣のソフビ。

 却下。

 ヒーロー人形。

 却下。

 玩具箱の底に、折れた紙があった。

 手触りは画用紙だった。

 埃まみれだった。

 何やこれ。

 遼太郎は紙を後ろのゴミ箱へ放った。

 床に落ちた。

 あとで捨てよう。

 箱を漁る。

 パズル。

 壊れた車輪。

 どうでもいいものばかりだった。

 その時、記憶が引っ掛かった。

 頭痛。

 眠気。

 ポアンカレ予想。

 画用紙いっぱいの数式。

 Q.E.D.

 手が止まった。

 しまった。

 処分してない。

 あの紙。

 遼太郎は、急いで振り返った。

 ユーリが紙を拾っていた。

 小さな手で広げている。

 薄汚れた紙の上に、クレヨンで書かれた数字と記号がびっしり並んでいた。

「これ、なあに?」

「……さあ」

 惚けるしかなかった。

「落書きちゃうかな」

「すうじがいっぱい、なんて意味なの?」

「分からんなぁ」

「ふうん」

 ユーリは紙を見たまま言った。

「じゃあ、ママに聞いてみる」

 遼太郎の喉が鳴った。

 あの性悪女に見られるのは、最悪だ。

 見なかったことにはしてくれない。

「いや、それはやめとこか」

 自分の声が裏返ったのが分かった。

「どうして?」

「ただの落書きやし」

「ただの落書きなら、見せてもいいでしょ?」

 遼太郎は黙った。

「大人に見られたら、困るんだぁ」

 さっきと声が違う。

 甘い。

 甘いのに、底がある。

「いや、困るというか」

「大事な紙?」

「別に」

「破ってもいい?」

 遼太郎は息を吸った。

 いいぞ。

 破れ。

 そのまま捨ててくれ。

「ええよ。いらん紙やし。破って捨ててええで」

「へえ」

 紙を胸元へ引いた。

「じゃあ、ウチがもらってもいいね」

 目が合った。

 さっきまでのおとなしい目ではなかった。

 口元がゆっくり持ち上がる。

 白い歯の横に、小さな八重歯がのぞいた。

 牙だった。

 この子。

 猫を被っていた。

「いや、やっぱり返してくれへん?」

「どうして?」

「俺のやから」

「でも、いらないんでしょ」

「まあ、そうやけど」

「じゃあ、ウチが持っててもいいよね」

 そうか。

 性悪女の娘だと忘れていた。

 血は争えない。

 いや、母親より質が悪いかもしれない。

「どうしたら返してくれる?」

 遼太郎は返事に詰まった。

 ユーリは考える素振りを見せた。

「遼太郎君じゃなくて、遼ちゃんって呼んでいい?」

「ええよ」

 好きに呼んでくれ。

 何でも呼べ。

 頼むから返してくれ。

 ユーリは嬉しそうに笑った。

 そして、紙を破った。

「おい」

 遼太郎が声を出すより早く、ユーリは破った一片を差し出した。

「はい。返した」

 紙の1/4ほどだった。

「いや、残りあるやん」

「全部返すとは言ってないもん」

 ユーリは残りの紙を畳んだ。

 丁寧に。

 大事なもののように。

 そして、スカートのポケットへ入れた。

 入れ方も丁寧だった。

「ウチのお願いを聞いてくれたら、ちょっとずつ返してあげる」

「……」

「これからよろしくね、遼ちゃん」

 ユーリは微笑んだ。

 遼ちゃん。

 その呼び方に、妙に懐かしいものを感じた。

 おかしな感覚だった。

 外から、大人たちの声が近づいてきた。

「ママたち戻ってきたね。行くね?」

 ユーリは部屋を出ていった。

 廊下を歩く足音が軽い。

 遼太郎は床にへたり込んだ。

 ひとり呟く。

「なんて子や」

 小悪魔め。

 だが、不思議と腹の底からは憎めなかった。

 それがまた腹立たしい。

 遼太郎は紙片をびりびりに千切り、ゴミ箱に放り込む。

 廊下に出ると、玄関先に人が集まっていた。

 ユーリが家族に挨拶していた。

 遼太郎は、その光景を見ながら、ふと思った。

 久しぶりに使ってみるか。

 値踏み。

 きっと、あの子には危険と出る。

 危険。

 悪辣。

 要警戒。

 そんな表示が出ても驚かない。

 遼太郎は、ユーリへ意識を向けた。

 何も浮かばなかった。

 あれ。

 もう一度見る。

 何もない。

 父へ視線を移す。

 何もない。

 母。

 何もない。

 栞。

 何もない。

 そこまでは、まだ分かる。

 家族には効かない。

 そういう理屈かもしれない。

 遼太郎は眉を寄せた。

 スタシア。

 何もない。

 ユーリ。

 やはり何もない。

 門の外で、作業員が段ボールを抱えて通り過ぎた。

 意識を向ける。

 力持ち。

 腰痛持ち。

 短気。

 見えた。

 壊れていない。

 遼太郎は、もう一度ユーリを見た。

 何もない。

 あれ?

 外では、トラックのエンジンが低く鳴っていた。

 春の朝の光が、土間の上に落ちている。

 その光の中で、ユーリが振り返った。

 目が合う。

 ユーリは、またにっこり笑った。

 八重歯が光って見えた。

 なぜか狼を思わせた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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