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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
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第十一節

 扉が開く音がした。

「あの……どちら様でしょうか」

 栞の声だった。

 怪訝な声。

 父は湯呑みを置いた。

 母は立ち上がった。

 遼太郎も腰を浮かせる。

 その時、声がした。

「スタシア・ラマーノフです。おはようございます」

 げっ。

 性悪女や。

 遼太郎は顔をしかめた。

 浮かせた腰を落とした。

 三週間ほど、姿を見ていなかった。

 冷たい目。

 減らず口。

 こんな朝早くから、何の用だ。

 玄関を忌々しげに見た。

 ん?

 どちら様?

 先月、会社設立の打ち合わせをしに来た時、栞姉ちゃんと挨拶してたよな?

 遼太郎は首を傾げた。

 母がこちらを見る。

「スタシアさん?」

「みたいやね。けど、なんか変かも」

 遼太郎は立ち上がった。

「ス、スタシア…さん? すいません、前にいらっしゃった時と違いすぎて」

 栞の声が弱くなった。

 何があった?

 慌てて玄関へ行くと、栞の向こうにスタシアが立っていた。

 いつものスーツではなかった。

 首元まで詰まった黒いワンピース。

 襟と袖口を、白いレースが縁取っている。

 胸元には小さなリボン。

 腰から広がったスカートは膝を隠し、裾には何段ものフリルが重なっていた。

 銀色の髪は、いつものようにきちんとまとめられている。

 喪服のように黒いのに、形だけは人形の服のように甘かった。

「マジかよ、ゴスロリやんけ」

 思わず声に出してしまった。

「よく知ってるわね、遼太郎」

 栞の肩越しに、スタシアの目が細くなった。

「ゴスロリ!?」

 母が食いついた。

 遼太郎を追って玄関先まで出てきた。

「あら、スタシアさん! とりあえず、入って!」

「恵さん、恐れ入ります」

 栞が半歩下がる。

 スタシアは軽く頭を下げて、敷居をまたいだ。

 黒い厚底の靴が土間に揃った。

 スタシアは押されるように居間へ入った。

 母は、スタシアの服に目を輝かせていた。

 栞が座布団を出した。

 スタシアは礼を言って、そこへ腰を下ろした。

「今日はどうしたん? 可愛い格好してぇ。今ビジュアル系の子らで流行ってるやつやんなそれ?」

 母の声が上擦った。

 スタシアは袖口に目を落とした。

「あ、ええ…私服です」

 声が細くなる。

 耳が赤かった。

「ええなぁ、私もそういうの着てみたいけどなぁ。肩が強すぎるねん」

 母は自分の肩のあたりを摘まんだ。

 派手な服の下で、日に焼けた腕が動く。

「恵さんなら、お似合いになると思います」

「ほんま? 嬉しいこと言うてくれるやん」

 母が笑う。

「栞は着てみぃへん?」

 母が栞を見る。

「私ですか…服は可愛いとは思いますが…似合いますか?」

「似合うって!今度お揃いにするぅ?」

 母は楽しそうだった。

 しかし、母のスイッチが入ってしまった。

 あかん。

 このままやと、二時間は喋り倒しよる。

 その時、父が小さく咳払いをした。

「あの、それで今日は……」

 スタシアはすぐに姿勢を戻した。

「失礼しました」

 手にしていた紙袋を差し出す。

「つまらないものですが」

「すみません、ありがとうございます」

 父が受け取る。

 栞が横からそっと預かり、台所へ向かった。

 遼太郎は紙袋を目で追う。

 菓子ならありがたい。

 スタシアは姿勢を整えた。

「実は、このたび隣へ引っ越してまいりました」

 母が瞬きをした。

 父も、すぐには返事をしなかった。

「隣?」

「はい」

「隣って、あの空き家ですか」

「はい」

 遼太郎は黙って、窓の方を見た。

 正月明けから、隣で音がしていた。

 金槌。

 板を動かす音。

 あれか。

 偶然ではない。

 偶然で隣家に入ってくるはずがない。

 何が狙いだ?

 遼太郎はスタシアを見据えた。

 スタシアは、遼太郎の視線を無視して続ける。

「もう一件ございます」

 父へ向き直る。

「今後、西尾家と西尾興業に関する件は、私が窓口になります」

「窓口、言うても……うち、まだ会社できてませんけど」

「その会社の件です」

 スタシアの声が硬くなった。

「弊社から、私を西尾興業の非常勤監査役として推薦することになりました」

「あ、今日来る適任者って」

「はい。私です」

 父の顔が、明るくなった。

 どういうことだ?

 遼太郎が口を挟んだ。

「でも、ブラックストームさんの人なんですよね?」

 スタシアが忌々しげに遼太郎を睨む。

「はい。ですから、西尾興業の仕事を代わりに決めることはできません」

「ほな、何を」

「書類を見ます。手続きの窓口になります。危ない形になりそうなら止めます」

「それは助かります。ほんまにありがとう」

 父が上機嫌に礼を述べる。

「……そういう事情もありまして」

 スタシアは、遼太郎を見た。

 その目は険しい。

「近い方が、何かと都合が良いと」

 スタシアの声はぎこちない。

 外堀を埋めにきたか。

 遼太郎は眉間を揉んだ。

 打開する知恵は出なかった。

「お父ちゃん、やっと社長さんやな」

 母が茶化す。

「まだや。まだ何もできてへん」

 父は頭を掻いた。

 その口元は緩んでいた。

 栞が台所から戻ってきた。

 神妙な面持ちで尋ねる。

「私も何か会社関係でお手伝いできることありますか?」

 スタシアが栞を見上げた。

 間があった。

「手伝い、という形はやめた方が良いです」

「はい」

「働くなら、働く形にしてください。雇用契約の形を取ってください」

「分かりました」

 栞はすぐに頷いた。

「手伝う内容としては…」

 スタシアはあたりを見渡す。

 棚の横に無造作に置かれた封筒。

 引き出しに突っ込まれたメモ。

 母の湯呑みの横に、鉛筆が転がっている。

「まず整理整頓です。紙の置き場所を決めて、分類する。……この家では、苦手な方が多そうですので」

 スタシアの目が、遼太郎たちを順に刺した。

 父はあらぬ方向を向く。

 母は目を閉じた。

 遼太郎は俯いた。

 耳が痛い。

「栞さんが手伝うなら、かなり助かると思います」

「頑張ります」

 声は硬い。

 だが、返事は早かった。

 その時、外でエンジンの音がした。

「多分、引っ越し屋のトラックです」

 父が立った。

「ここの路地、曲がりにくいんです。見てきますわ」

「いえ、引っ越し屋の方が」

「この辺、初めてやと擦りますよ」

 母も腰を上げた。

「私も行くわ。荷物運ぶの手伝うわ」

 スタシアが慌てて腰を浮かせた。

「そんな、悪いです」

「ええから、ええから。ゆっくりしてて。隣やし、気軽に頼ってください。栞、軍手どこ?」

「玄関の棚です。私も手伝います」

 母たちの声が遠ざかった。

 玄関の戸が開いた。

 外の空気が入ってきた。

「あ、行っちゃった…」

 居間には、遼太郎とスタシアだけが残った。

 スタシアは遼太郎を見やった。

 露骨に不愉快そうな目だった。

 その目はやめろ。

 遼太郎は座ったまま、ロシア語に切り替えた。

「わざわざ隣とは、俺のファンかい。性悪女」

 スタシアの眉が動いた。

「違うわよ、クソガキ。さっきから睨んでんじゃないわよ」

 そっちも睨んでるだろうが。

 声に出しかけた。

「狸オヤジに嵌められたの」

「狸オヤジ?」

「メリット・フィッチ」

「うわぁ」

 声が漏れた。

 外資、怖い。

「社長直々かい」

「新設の特別褒賞制度だと言われたわ。住宅一軒を進呈するって」

「いや、怪しめよ。怪しすぎるだろうが」

「破格すぎるし怪しんだわよ。けど、社内規定も法律の問題もクリアしていて文句がつけられなかった。それに…」

 スタシアは唇を曲げた。

「娘がここがいいと言ったの」

「娘? アンタ、娘居たのか」

 そう言えば、母と子供服がどうとか話していたか。

「ええ」

 スタシアはため息をついた。

「普段、あまり我儘を言わない子なのよ。会社が寄越した住居カタログを見せたらここが良いって」

「それで確認もせずに判子押したのか」

「そうよ! 住所をちゃんと見たのは、その後」

 スタシアは、忌々しげに袖口を握った。

「酷いと思わない? カタログの家、全部ここの近所だったのよ? 綺麗にリフォームまでされて」

「アンタ、弁護士だろ? 気づけよ」

「だから腹が立ってるの」

 スタシアは低く言った。

 外では、父が誘導の声を張っている。

 トラックのエンジンが唸った。

「普通、そこまでやるかね?」

「あなた、自分の価値を安く見すぎよ」

「10億円くらい?」

「馬鹿。安すぎるわよ」

 即答だった。

「降り時を知っている人間は、負けない」

「勝てる、ではなくて?」

「負けないことの方が大きいのよ。市場では、生き残った人間だけが次を取れる」

「で、不敗の幼児を囲いに来たと」

「囲いだと気づけるなら、まだマシよ」

 遼太郎は黙った。

 スタシアは声を落とす。

「気を付けなさい。守れる範囲では守ってあげる。でも限度はある」

「努力するよ」

 遼太郎は頭を下げた。

「ありがとう」

 スタシアは鼻を鳴らした。

「気味が悪いわ」

「礼を言っただけだ。心外だな」

「あなたが言うからよ」

 遼太郎は肩をすくめた。

 外でバック音が鳴った。

 ピー、ピー、ピー。

 エンジンの唸り声。

 切り返すタイヤの音。

 それらの音が、居間の隅まで入ってくる。

「それで」

 遼太郎は顔を上げた。

「娘って、いくつなんだ?」

 気になっていた。

「あなたと同い年」

 ほう。

 遼太郎は口笛を吹いた。

「知らなかった。同じ小学校か」

「そうなるわ」

 スタシアの目が、鋭くなった。

「学校で困っていたら、助けなさい」

「俺で良いのか?」

「あなたはクソだし不気味だけど、しっかりはしてるでしょう」

「褒めてるのか貶してるのか」

「妥協よ」

 真顔だった。

「私は仕事で家を空けることも多い。初めての土地なの。変なことに巻き込まれないようにして」

「分かったよ。隣人のよしみだ」

 スタシアはさらに声を低くした。

「もし、あの子を泣かせたり、守れなかったりしたら――」

 ピー、ピー、ピー。

 バック音が被った。

 肝心なところは聞こえなかった。

 だが、聞こえなくても分かる。

 この女、物騒なこと言ったな?

 顔が強張った。

「分かった?」

 スタシアの目が据わっていた。

「承りました」

 頭を下げた。

 さっきより深く。

 くわばらくわばら。

 スタシアは、ふんと息を吐いた。

 その時、外から声がした。

「ママどこー? トラック来たよー」

 遼太郎は玄関の方を見た。

 門のそばに、小さな少女が立っていた。

 銀色の髪が、朝の光を受けている。

 白い頬。

 黒と白の服。

 目の前のスタシアとお揃いの服。

 こちらを見る目に見覚えがある。

 夏祭り。

 人混み。

 銀色の髪。

 あっかんべー。

 少女と目が合った。

 少女は、にっこり笑った。

 遼太郎は、背筋を固くした。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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