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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
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第十節

 3月29日。

 朝の光が、障子の紙を薄く白くしていた。

 生駒の山は霞みがかっている。

 遠くの道路を走る車の音も、どこか柔らかく聞こえた。

 遼太郎は布団の中で目を開けた。

 天井の木目がぼやけて見える。

 布団の中は温かい。

 もう起きなあかん。

 そう思った。

 思っただけだった。

 六歳の身体は、眠気に忠実だった。

「遼ちゃん! お父ちゃん! 起きてー」

 台所から母の声がした。

 包丁がまな板を叩く音もする。

 味噌汁の匂いが、廊下を伝って部屋まで来ていた。

「うーん…あと五分…」

 遼太郎は布団を頭まで被った。

 春眠暁を覚えず。

 昔の人は正しい。

 襖が開く音がした。

 遼太郎は、布団の中で息を止めた。

 母ではない足音。

 足音が軽い。

 次の瞬間、布団がめくられた。

 遠慮はなかった。

「寒っ」

 思わず身を丸める。

 見上げると、ジャージ姿の栞が立っていた。

 黒い髪は綺麗に整えられていた。

 褐色の腕が、剥がした布団を畳の上へ逃がしている。

「遼太郎、ご飯が冷めますよ」

「栞姉ちゃん…眠いよ…」

「はい」

「はい?」

「眠いのは分かりました」

 栞はそう答えて、枕元の服へ手を伸ばした。

 青いトレーナー。

 ズボン。

 靴下。

「ほら、腕を出してください」

「待って待って」

 遼太郎は急いで起き上がった。

 一人でお着替えできるわ!

 星柄のパジャマの胸元を押さえる。

「分かった! 分かったって!」

 栞は手を止めた。

 それから笑う。

 声は立てない。

 目元が、ほんのわずかに緩むだけだった。

「早く来てくださいね」

 栞は畳の上の布団を軽く整える。

 廊下へ出る前に一度だけ振り返った。

「顔も洗ってください」

「分かってる」

「本当ですか」

「ほんま」

 栞は何も言わず、襖を閉めた。

 遼太郎はしばらく座っていた。

 廊下の向こうで、栞の足音が台所の方へ戻っていく。

 母の声。

 茶碗の触れる音。

 急須の蓋が小さく鳴る音。

 少し前まで、栞の周りには違う色があった。

 白い霊安室。

 線香の青い煙。

 黒い喪服の田上。

 そのどれも、今はもうない。

 よかった。

 そう息を漏らしながら、遼太郎は服に袖を通した。


 居間に入ると、食卓にはすでに皿が並んでいた。

 母は台所で小鉢を探していた。

 栞は茶碗を運んでいる。

 皿の置き方に迷いがない。

 箸を並べる手も早い。

 父が遅れて入ってきた。

 寝起きの顔だった。

 口髭の片側だけが明後日の方向へ跳ねている。

「おはようさん…」

「おとん、髭」

「ん?」

 父は顎を撫でる。

 分かっていない顔だった。

 栞が湯呑みに茶を注いだ。

 父の前へ置く。

「あ、栞ちゃん、いつもありがとね」

「いえ。お父様、熱いので気をつけてください」

 父は茶を啜った。

 本当に熱かったらしく、目を細める。

 母が振り返りもせず言った。

「熱いって言われたやろ。先に顔洗ってきたらよかったのに」

「茶が先や。これで目ぇ覚ますんや」

「朝からおっさんくさい」

「おっさんや」

 父はそう言って、もう一度茶を啜った。


 遼太郎は座布団に座った。

 目の前に味噌汁が置かれる。

「遼ちゃん、顔洗った?」

 母が聞いた。

「洗った」

 嘘だった。

 面倒や。

 バレへんやろ。

 栞が立ちはだかる。

 遼太郎の顔をのぞき込む。

「洗ってないですね。一緒に行きましょう」

 目ヤニか、涎の跡か。

 よく見ている。

 負けたわ。

「はい」

 遼太郎は洗面所へ連行される。

 その様子に母が笑った。

 父も口元を緩めた。


 朝食が始まった。

 焼き魚。

 味噌汁。

 卵焼き。

 漬物。

 湯気が、朝の光の中で薄く揺れている。

「遼ちゃんの入学式、何着ていこかなぁ」

 母が卵焼きを取りながら言った。

「またその話か」

 父が魚の骨を避けながら答える。

「またって何や。大事やん」

「二人の卒業式とか、遼の卒園式で着てたやつはあかんのか」

「あれは黒いやろ」

「ちゃんとしてたで」

「ちゃんとしてるのと、入学式っぽいのは違うやろ」

 母は箸を置き、考えるように自分の袖を見た。

「入学式は、もうちょっと明るい方がええやん」

 遼太郎は棚の写真立てを見た。

 富田の卒業式の写真があった。

 看板の横で、富田が目を細めて笑っている。

 その横に母と父がいて、栞が少し離れて立っていた。

 前の方には、遼太郎がいる。

 もう一枚は、栞の卒業式だった。

 制服姿の栞の隣に、母と父が並んでいる。

 遼太郎は前に立たされて、退屈そうな顔をしていた。

 卒園式の写真もあった。

 看板の横に、自分と母と父。

 そして、栞。

 いずれの写真でも、母の服は黒かった。

 確かに明るいハレの日には向いてない。

 それより。

 写真立てを見つめる。

 目が半分閉じている。

 笑ってない。

 口元が歪んでいる。

 俺の写真写りはなんでこんなに悪いねん。

「先週、栞と買い物行った時にな」

 母が続ける。

「栞の服は買ったんよ。でも、自分のは迷って買えんかった」

「そりゃ、あかんやん!」

 父が顔を上げた。

「入学式、来週やで?」

「そうなんよ」

 母は困ったように笑った。

 けれど、声は明るかった。

「今日買いに行きたかったんやけど、ブラックストームの人、来るんやろ?」

 遼太郎は視線を棚に向けた。

 棚の端には、黒い文字の入った封筒が置かれている。

 何度も開けたり閉じたりしたせいで、角が丸くなっていた。

 母は栞に向き直り、申し訳なさそうに手を合わせる。

「栞、ごめん。明日か明後日、もう一回付き合ってくれる?」

 栞は箸を止めた。

「良いですよ。明日はバイトが十三時までなので、駅前で待ち合わせましょう」

「助かるわぁ」

「恵さんは、前に悩んでた色より淡い色の方が似合うと思います」

「ほんま?」

「はい」

 母は嬉しそうに笑った。

「お父ちゃんより頼りになるわ」

 父は肩をすくめる。

 それから、棚の封筒をちらりと見た。

「今日来る人って、誰なんやろな」

「猪原さんちゃうの?」

 母が言う。

「猪原さんやったら、電話でそう言うてるんちゃうか」

 父は焼き魚に視線を戻す。

「適任者を行かせます、やったか」

「うん」

 遼太郎は頷いた。

 西尾興業の話は、少しずつ形になっていた。

 名前だけだったものが、会社らしい形を持っていく。

 事務所は、最初はいらないという話だった。

 だが、父は渋い顔をした。

『会社ってのは、看板出してなんぼやろ?』

 その一言で近所の古い事務所を格安で借りる話も進んでいる。

 ただ、一つだけ止まっていた。

 監査役。

 猪原が言うには、そこだけは身内で固めない方がいいらしい。

 信用だとか、契約上の見え方だとか、そういう面倒な話だった。

 猪原は電話口で、法務担当にどやされる前に非常勤監査役で良いから整えておきたい、と言っていた。

 父は電話口で何度も頷いていたが、受話器を置いた後に一言。

『株式会社とか有限会社とかよう分からん』

 禿げた頭を掻いていた。

 そして先週、猪原から連絡があった。

『適任者を一名、向かわせます』

 適任者。

 食卓の上で、味噌汁の湯気が薄くなっていた。

「来客用のお菓子、あったっけ」

 母がふと思い出したように言った。

 父が止まった。

「……あ」

「お父ちゃん」

「いや、昨日な、買おうとは思ってん」

「思っただけ?」

 母はお菓子を収めるブリキ缶を振る。

 音はなかった。

「車で店の前は通りかかってん」

「入ってないやん」

 母の声が低くなる。

 父は湯呑みを持ったまま、目をそらした。

 栞が立ち上がった。

「戸棚の上に、お煎餅があります」

「え、あった?」

「昨日、恵さんが置いていました。箱のままです」

「ああ、そうや。あったわ」

 母は額に手を当てた。

「私より覚えてるなぁ」

 栞は首を横に振った。

「たまたま見ただけです」

 そう言って、茶碗を重ねる。

 重ねた音は小さかった。


 その時、玄関の呼び鈴が鳴った。

 食卓の空気が止まる。

 父が湯呑みを置いた。

 母が時計を見る。

「はっや!準備できてへんで!」

 母が捲し立てる。

 遼太郎は、箸を持ったまま玄関の方を向いた。

 朝の光が、畳の上に伸びている。

 その中を、栞が歩いていった。

「はーい」

 廊下に声が響く。

 玄関の曇りガラスの向こうに、黒い影が立っていた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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