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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
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第九節

 案内された霊安室は、思っていたより白かった。

 壁も、天井も、灯りも、白い。

 床まで白く見えた。

 そのせいで、台の上に横たわっているものだけが、別の色を持っていた。

 神谷 栞は、台の前に立っていた。

 白い布。

 母がいた。

 母だったものが、横たわっていた。

 顔には痣があった。

 頬。

 目元。

 唇の端。

 何度も見た色だった。

 家の中で見た色。

 台所の薄暗い灯りの下で見た色。

 洗面所の鏡の前で、母が化粧で隠そうとしていた色。

 隠しきれず、粉の下から浮いていた色。

 ああ。

 可哀想。

 最初に浮かんだのは、それだった。

 可哀想な人。

 逃げられなかった人。

 最後まで、あの家にいた人。

 栞は瞬きをした。

 涙は出なかった。

 もう一度、瞬きをする。

 それでも出ない。

 おかしいのだろうか。

 死んだ母を前にした娘は、泣くものだろう。

 テレビでも、ドラマでも、そうだったはずだ。

 膝から崩れて、名前を呼んで、泣く。

 けれど、膝は折れなかった。

 喉も詰まらなかった。

 胸も痛まなかった。

 腹の底だけが、冷えていた。

 白い布の下で、母の肩が小さく盛り上がっている。

 昔から、こんなに小さかっただろうか。

 もっと大きかった気がする。

 自分が遅かったのだろうか。

 卒業したら連れて出るつもりだった。

 あと少しだった。

 あと少しだけ我慢すれば、あの家から出られるはずだった。

 遅かった。

 そう思って、すぐに違うと思った。

 母は、逃げられた。

 自分が小さかった頃。

 父の怒鳴り声に、まだ近所の人が驚いていた頃。

 自分の腕を引いて、どこかへ行くことはできた。

 親戚でも、役所でも、警察でも。

 どこでもよかった。

 連れていけないなら、一人で逃げればよかった。

 けれど、母は残った。

 あの家に残った。

 あの男のそばに残った。

 殴られて、怒鳴られて、怯えて、泣いて、それでも残った。

 そして、死んだ。

 殴り殺された。

 可哀想。

 栞は、また瞬きをした。

 涙は出なかった。

 可哀想。

 でも。

 なぜだろう。

 母は死んだ。

 父はいなくなる。

 家はなくなる。

 なのに、どうしてだろう。

 自由だ。

 その言葉が浮かんだ瞬間、栞は少しだけ息を吸った。

 自由。

 なんて嫌な言葉だろう。

 なんて軽い言葉だろう。

 でも、軽かった。

 肩の上から、何かが外れたような気がした。

 重くて、汚くて、臭くて、ずっと張り付いていたものが、落ちた。

 嬉しかった。


 霊安室の空調が低く鳴っている。

 白い灯りは、少しも揺れない。

 母の顔に落ちた影も動かない。

 そこにいるのは、母だ。

 自分を産んだ人。

 同じ家にいた人。

 同じ男に怯えていた人。

 母。

 母?

 栞は、白い布を見た。

 母。

 お母さん。

 違う。

 何かが、違う。

 胸が動かない。

 涙が出ない。

 声も出ない。

 この人は、誰なのだろう。

 母だ。

 でも。

 お母さんではない。

 そう思った瞬間、背後で床が軋んだ。

 振り返らなくても分かった。

 田上だった。

 田上は、ずっと後ろに立っていた。

 霊安室へ入ってから、ほとんど喋っていない。

 普段なら、何か言う男だった。

 悪態でも。

 冗談でも。

 乱暴な慰めでも。

 今日は何も言わなかった。

 煙草の匂いもしなかった。

 かわりに、汗の匂いがした。

 鉄の匂いもした。

 栞はゆっくり振り返った。

 田上のサングラスは外れていた。

 目が赤い。

 泣いた赤さではない。

 血走っている。

 シャツの胸元が乱れていた。

 上着の片側が少し浮いている。

 そこから、黒い金属が覗いていた。

 田上が踵を返した。

「田上さん」

 声をかけると、田上の肩が止まった。

「父を撃つんですか」

 逃亡中の父を。

 田上は振り返らなかった。

 霊安室の空調だけが鳴っている。

 白い部屋の中で、田上の背中だけが黒く見えた。

「仇討ちですか」

 少しの間があった。

「それもある」

 低い声だった。

「けどな」

 田上の右手が、腰の辺りで握られていた。

 金属の感触を確かめるように。

「あのクソ、傷害致死で済んだら数年で出てくる。下手したら、もっと早い」

 栞は黙っていた。

「出てきたら、次はお前じゃ」

 田上の声が、擦れた。

「ワシは間に合わんかった」

 栞は母を見る。

 白い布。

 痣のある顔。

 もう何も言わない口。

「今度も間に合わんかったら、お前が死ぬ」

 田上が振り返った。

 その目は静かなのに、危なかった。

「じゃけぇ、その前に始末する」

 田上は栞を見た。

「許してくれ」

 やっぱり。

 その目には、怒りより先に段取りがあった。

 田上なら、そうする。

 そういう人だ。

 乱暴で、強引で、怒鳴って、勝手に決めて、勝手に動く。

 そのくせ、上手くやる。

 あの日もそうだった。

 車に乗せられた。

 石段の上へ連れていかれた。

 安全な場所と言われた。

 八城神社。

 道場。

 先生。

 栞は、田上を見た。

「父とは縁を切ります」

「……」

「あの家も引き払います。もう戻りません」

「じゃけどな」

「心配いりません」

「どこへ行く気じゃ」

 田上の声が強くなった。

「お前一人で、どこへ行く」

 どこへ。

 栞は、首を傾げた。

 おかしなことを聞く。

 どこへ。

 どこへ行くのだろう。

 あの家には戻れない。

 戻る?

 帰る場所があるのに?

 あれ?

 栞は瞬きをした。

 家はなくなる。

 でも、あの一軒家がある。

 母は死んだ。

 でも、お母さんはいる。

 父は捕まる。

 でも、お父様はいる。

 栞は、田上の顔を見ていた。

 身寄りのこと。

 居場所のこと。

 そんなことを気にしている顔だった。

 おかしな人だと思った。

 あるのに。

 ちゃんといるのに。

 お母さん。

 台の上に冷たく横たわっていない。

 もっと温かい。

 もっと強い。

 私を見てくれる人。

 お母さん。

 それから。

 小さな体。

 首からぶら下がった、がま口財布。

 それを、得意げに揺らしていた。

 可愛かった。

 遼太郎。

 もう、作ってくれていた。

 息ができる場所。

 お母さんと、遼太郎が待っている場所。

 帰ってきたらええやん。

 そうだ。

 帰ろう。

 口元が、勝手に緩んだ。

「……お前」

 田上の声が硬くなった。

「何を笑っとるんじゃ」

 栞は田上に微笑んだ。

「田上さん」

「なんじゃ」

「あなたは、私をお母さんに会わせてくれました」

 田上の眉が動いた。

「は?」

「だから、手を汚さないでください」

「お母さん?」

 田上の目がさらに険しくなる。

「何を言うとる」

「田上さんは、私をあそこから連れ出してくれました」

「……」

「八城神社に連れていってくれました」

「お前」

「お母さんに会わせてくれました」

 田上の顔色が変わった。

「まさか」

「遼太郎にも会わせてくれました」

 霊安室の外で、足音がした。

 一つではない。

 急いでいる。

 硬い床を叩く音が、廊下の向こうから近づいてくる。

 田上が扉の方を見た。

「栞!」

 恵の声だった。

 胸の奥で、何かが跳ねた。

 死体を見た時には動かなかった場所が、急に熱くなった。

 喉が詰まる。

 指が震える。

 来た。

 来てくれた。

「栞姉ちゃん!」

 遼太郎の声だった。

 小さな足音。

 息が上がっている。

 少し慌てた声。

 ああ。

 遼太郎まで来てくれた。

 栞は、笑いそうになった。

 泣きそうにもなった。

 胸が忙しい。

 さっきまで何も動かなかったのに、今はうるさい。

 田上は、栞を見ていた。

 顔から血の気が引いている。

「お前、何を」

 低い声だった。

 栞は田上に向き直った。

「家族のところに帰ります」

 田上の口が少し開いた。

 言葉は出なかった。

「余計なことは、しないでくださいね」

 栞は扉へ向かった。

 足が動く。

 さっきまで床に貼りついていた足が、嘘のように動く。

 金属の取っ手を握る。

 冷たい。

 扉を開けた。

 廊下に恵がいた。

 髪が少し乱れている。

 目元が赤い。

 肩で息をしていた。

 急いで来たのだろう。

 その横に、遼太郎がいた。

 小さな体で、必死にこちらを見上げている。

 顔が強張っている。

 泣きそうなのを我慢している顔だった。

 可愛い。

 そう思った。

 こんな時なのに。

 こんな場所なのに。

 可愛いと思った。

 恵が一歩踏み出した。

「栞」

 名前を呼ばれた。

 何かが崩れた。

「もう、大丈夫やからな」

 恵が腕を広げる。

 栞は、そこへ倒れ込んだ。

 温かかった。

 母だったものとは違う。

 生きている匂い。

 ようやく涙が出た。

「お母さんが」

 来てくれた。

 やっと来てくれた。

 声が漏れた。

 止まらなかった。

「お母さん……お母さん!」

 恵の腕が、強く背中に回った。

「よう頑張ったな」

 息ができない。

 涙が出る。

 胸が痛い。

 喉が詰まる。

 顔が熱い。

 白い布の前では出なかったものが、全部出てきた。

「お母さん、お母さん……!」

「うん」

 恵は何も聞かなかった。

 ただ、背中を撫でていた。

「うちにおいで、うちで休も?」

 優しい声だった。

 栞は何度も頷いた。

 恵の胸に顔を押しつけたまま、何度も頷いた。

 手に感触があった。

 見下ろすと、遼太郎がいた。

 手を握ってくれている。

 小さい手だった。

 爪の先まで小さい。

「栞姉ちゃん」

 可愛い声だった。

 栞は涙で滲んだ目で、遼太郎を見た。

「遼太郎」

「うん」

「来てくれたの?」

「うん、大丈夫やから」

 声が、震えていた。

「家で休もう?」

 ああ、私の遼太郎。

 私の家。

 栞は黙って頷いた。


 霊安室の中で、田上が立ち尽くしていた。

 扉は半分だけ開いている。

 中の白い灯りが、廊下へ細く漏れていた。

 その光の中で、田上は動けなかった。

 恵の胸で泣きじゃくる栞を、ただ見ていた。

 端から見れば、母を亡くした娘だった。

 泣いている。

 震えている。

 母の胸にすがっている。

 けれど、その母は、台の上にいる女ではなかった。

 田上は、あの日の石段を思い出していた。

 雨上がりの石段。

 湿った空気。

 逃げ場所を与えたつもりだった。

 田上は、上着の裾を握った。

 腰の重さが、急に馬鹿らしくなった。

 その場に座り込む。

 どこで間違えた。

 どうしてこうなった。

 白い灯りの下で、田上は答えを見つけられなかった。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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