第八節
2月7日。午後三時。
松永理髪店を出ると、額に風が当たった。
短くなった髪の間へ、冷気がすっと入ってくる。
店の前の赤と青と白の看板が、ゆっくり回っていた。
冬の陽は明るいのに、商店街の影はまだ硬い。
シャッターの隙間が、風に押されて小さく鳴った。
遼太郎は、手のひらで頭を撫でた。
耳のまわりも、襟足も、きれいに揃っている。
松永理髪店の親父は、余計なことを喋らない。
黙々と白い布をかけて、鋏を動かして、最後に鏡を見せる。
それだけで仕上がりはきっちりしていた。
これで、しばらくは大丈夫。
この前、栞に言われた言葉を思い出す。
『遼太郎、髪が伸びてきましたね』
『私が切りましょうか』
『人の髪を切るのは初めてですけど』
なんとか断れた。
危なかった。
栞姉ちゃん、虎刈りにしてくるやん。
思わず身震いした。
遼太郎は、理髪店で貰った飴玉を口に入れた。
いちご味だった。
舌の上で転がすと、丸い甘さがゆっくり広がる。
もう二月か。
早いものだ。
遼太郎は息を吐いた。
我が家への帰路に足を向ける。
一月から始めた副業、ジョニーのお悩み相談室も板についてきた。
ジョニーは、結局どれくらい助かったのだろう。
電話で聞いても、今度ちゃんと話すよ、と逃げられた。
未来知識に尋ねても、まったく答えてくれない。
相場の結果は見える。
けれど、誰がどこまで信じてお金を動かしたかまでは分からない。
流石にジョニーでも全部は信じていないだろう。
当たり前だ。
五歳児の言うことを丸ごと信じる大人がいたら、その方が怖い。
自己責任と突き放した銀行株の空売りも、ジョニーの性格ならやらないはずだ。
ボーナスも、うまくいって1000万。
2000万もいけば上等か。
足を止めた。
上等?
調子に乗んな。
悪い癖だ。
飴玉を奥歯の方へ寄せた。
1000万でも大金だ。
電話で話しているだけで貰えるなら、ありがたい話だ。
家の並びに入る角を曲がる。
隣家の前には、車が止まっている。
また工事かいな。
思わず舌打ちが出た。
口の中の飴玉は小さくなっていた。
家の前まで来ると、門の前に母が立っていた。
「遼ちゃん!」
母がこちらに気づいて、近づいてきた。
「今、迎えに行こうとしてたんよ」
「なんかあったん?」
門を開けながら聞く。
母は玄関の方を見た。
黒い革靴が一足、きちんと揃えて置かれていた。
磨かれていて、玄関のたたきで妙に浮いている。
「お客さん?」
「猪原さん。遼ちゃんが帰ってきたら、話したいことがあるって」
嫌な予感しかしない。
居間へ入ると、猪原が正座していた。
背筋が伸びている。
膝の上の手が、きれいに揃っている。
父は食卓の横に座っている。
猪原と雑談をしていた。
「これは、遼太郎様」
猪原が深く頭を下げた。
「突然のご訪問、申し訳ございません」
「いえ」
遼太郎は父の隣に座った。
「本社より、正式な連絡がございました」
声が硬い。
猪原は黒い鞄から書類を出した。
紙の端がぴたりと揃っている。
父の喉が、小さく動いた。
「1月末で試用期間は終了。2月1日付で、正式契約へ移行することとなりました。1日から本日までの分は遡及して取り扱います」
「正式契約?」
「はい」
「遼、役に立ったんですか」
困惑した顔で父が尋ねる。
猪原は大きく頷いた。
「大変、お役に立たれました」
「遼ちゃん、役に立ってるんやって。良かったやん」
母が嬉しそうに言った。
困っている人の役に立った。
母は、それで十分らしい。
母らしかった。
父は猪原に示されるまま、正式契約の書類に名前を書いた。
判子を押す。
朱色が、白い紙の上に残った。
「それで、今回の特別報酬ですが」
猪原が言った。
父の肩が小さく跳ねる。
「本社決裁により、200万ドルとなりました」
居間が止まった。
「200万」
父が口を開けた。
「円?」
「いえ、ドルです」
猪原は淡々としていた。
「現在のレートで、おおよそ2億6000万円となります」
父の顔から、色が抜けた。
「におく」
母が呟いた。
「ろくせんまん」
父は食卓に手をついた。
その手が滑る。
体が横に傾いた。
「剛三!」
母が慌てて支えた。
遼太郎も身を乗り出す。
父は朦朧としていた。
目は開いている。
ただ、どこか遠くを見ていた。
「2億6000万……の胸騒ぎ…」
声が細い。
「2000万多いなぁ」
母が突っ込む。
重篤ではなさそうだった。
遼太郎は猪原に向き直った。
「ちょっと待ってください。一月のアドバイスで、どれだけ利益出たんですか」
「遼太郎様に直接ご助言いただいた分で、1000万ドルほどです」
1000万ドル。
13億円。
ジョニー、お前信じたんか。
飴玉の甘さが、急に邪魔になった。
「ただ、弊社側で判断して行った取引もございます。その利益の扱いについて、本社で少々整理が必要となっておりまして」
自己責任。
空売り。
過去の自分の発言が蘇る。
ああ。
ジョニー。
お前、全部信じたんか。
怖がりやのに。
泣き虫やのに。
疑わずに全部信じて。
腹を括ったんか。
遼太郎は息を吐いた。
派生した利益も欲しいと言えば、取れるのかもしれない。
でも、それは違う。
「それはジョニーさんが勝負した分でしょ」
遼太郎は言った。
「俺の取り分にせんでええです」
猪原は、すぐには頷かなかった。
短い沈黙があった。
「そのご認識で、よろしいのですね」
「うん」
「承知いたしました」
猪原は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。では、そのように処理いたします」
ジョニーが勝負したなら、それはジョニーのものだ。
そこまで欲張るのは、違う。
「なお、今回のお支払いですが」
猪原は紙を一枚だけ出した。
「金額が金額ですので、先に管理の形を整えた方がよい、という話になっております」
父が顔を上げた。
「管理?」
「税理士と、会社の話です」
父が顔をしかめる。
「会社?」
母が聞き返した。
「資産を管理するための会社です。今後を考えますと設立をお勧めします。詳しいお話は後日、またお伺いいたします。設立されるのでしたら、社名だけでもご検討しておいていただけますと助かります」
猪原は、用件を済ませると、深く頭を下げて帰っていった。
居間では三人が呆けていた。
母が呟いた。
「会社やて」
2億6000万円より、そこなのか。
ただ、分かる気もした。
金額が大きすぎると、頭が受けつけない。
会社の方が、まだ形がある。
父は猪原が残していった封筒を見つめていた。
「社名かぁ……」
疲れた声だった。
「どうする?」
「西尾自動車とかは?」
母が言った。
「お父ちゃん、独立したい言うてたやん」
「言うてたけど、そういう会社ちゃうしなぁ」
父は苦笑いした。
言っていた。
いつか自分の工場を持ちたい。
自分の看板でやりたい。
酒が入った時に、何度か聞いたことがある。
結局叶わなかった。
油の匂いのする作業着。
丸くなった背中。
老いた父の姿が、浮かんだ。
「遼」
父がこちらを見る。
「名義は父ちゃんやけど、お前の会社やからお前が決めや」
「ええの?」
「おう」
父は疲れた顔で笑った。
「成人したら、全部持って行ってくれ」
遼太郎は、封筒を見た。
会社。
五歳児の会社。
社名。
決められるわけないだろう。
いくらペーパーカンパニーであろうと命名は難しい。
無難な名前が欲しかった。
「何する会社かよく分からん名前って、ない?」
「横文字は父ちゃん分からへんで」
父が封筒のブラックストームの文字を見ながら言った。
「なんとか興業とかは?」
母が笑う。
「ちょっとヤーさんくさいけど」
「興業」
遼太郎は、その言葉を口の中で転がした。
土建にも見える。
芸能にも見える。
何でもしていそうで、何をしているか分からない。
ヤーさん臭いほうが舐められない。
悪くない。
「ええな」
「ほんまに?」
「西尾興業で」
母が吹き出した。
父は紙を一枚取り、ゆっくり書いた。
西尾興業。
黒い文字が、白い紙に乗る。
思ったより、しっくり来る。
父はそれをしばらく眺めてから、猪原の残した封筒に入れた。
「お父ちゃん、ついに社長やで!」
母がふざける。
「おう、お茶もってこい!」
父が乗っかる。
「社長、先に洗いもんして」
母が即座に返した。
居間が笑いに包まれた。
その時、電話が鳴った。
母が立ち上がる。
「はい、西尾です。あぁ、田上さん。どうされたんですか?」
田上。
遼太郎は顔を上げた。
母の眉が寄った。
「はい」
間が空く。
「栞の家が……?」
母は受話器を握り直した。
ただならぬ空気に父も立ち上がる。
「はい……はい……」
母の顔から、血の気が引いていく。
「そんな……」
居間の音が、遠くなった。
「分かりました。かわち総合医院ですね」
受話器を置く音が、大きく聞こえた。
母は、すぐには喋らなかった。
それから振り返る。
「お父ちゃん、車出して」
声が、いつもの母の声ではなかった。
「お、おう」
父は玄関へ走った。
鍵を掴む音。
靴を履く音。
外へ出る音。
何があった?
「おかん」
遼太郎は立ち上がった。
「どうしたん」
母はこちらを見た。
唇が震えていた。
「遼ちゃん」
その先が、なかなか出てこない。
「栞が……」
外で、車のエンジンがかかった。
低い音が、冬の住宅街に響いた。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
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