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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
38/58

第七節

 2月2日。

 昼過ぎのニューヨークは、よく晴れていた。

 空は青い。

 窓の外に見えるビルの輪郭は硬く、空気そのものは冷えているように見えた。

 社長室の窓ガラスに、冬の光が薄く張りついている。

 メリーは、革張りの椅子に背を預けていた。

 机の上には、湯気の立つコーヒーがある。

 近くに新しくできた店のコーヒー。

 香りは悪くない。

 一口啜る。

 一時はどうなるかと思った。

 日本市場が荒れた。

 大荒れだった。

 その波がこちらへ来た時、ダウが寄り付きで大きく売られた。

 画面の数字が落ちる。

 電話が鳴る。

 誰かが叫ぶ。

 いつだって見たくない光景だった。

 だが、この数日は落ち着いてきている。

 ニューエコノミー万歳。

 心の中でそう呟き、また一口飲む。

 やはり、少し癖がある。

 リピートは無いな。


 日本側からの取りまとめ報告は、まだ来ていない。

 正式な数字もまだだった。

 ただ、大損害という報告は入っていない。

 それだけで、今は十分だった。

 ジョニー。

 お前、一人で何とか出来たじゃないか。

 そう思って、すぐに訂正した。

 いや、シールが災難だったのか。

 散々泣きつかれたのは想像に難くない。

 日本の五歳児。

 まだ会ったことのない少年。

 契約上では、若年層の生活感覚と日本市場動向についての聞き取り調査協力者。

 ひどい名前だ。

 メリーは笑った。

 ガールスカウトをけしかけたのは正解だった。

 人は面倒ごとを嫌う。

 何とかしないといけないという状況に放り込むのが、一番手っ取り早い。

 だが…

 メリーは机の上の書類を指先で叩いた。

 埋め合わせをしなくてはな。

 次は訴状を書かれてしまう。

 口元を歪めた。


 その時、電話が鳴った。

 メリーはカップを置いて、ディスプレイ表示を見た。

 勇者様の凱旋だな。

 受話器を取った。

『おはよう、メリーおじさん』

 電話の向こうの声は、いつもより明るかった。

「ジョニー、やればできるじゃないか」

 メリーは大きな声を出した。

『うん。リョウ君に……シールに助けてもらったけど』

「何を言ってる。トレードしたのはお前だ。お前が頑張ったんだ」

『それは、そうだけど』

 ジョニーの声が弾む。

 単純だった。

 その単純さを笑う気にはなれなかった。

「それで」

 メリーは椅子から身を起こす。

「まだ報告が来ていない。結局、いくら助かったんだ? あの局面なら、上手く抜けてもトントンくらいだろう?」

『ちょうど、そのことで話したかったんだ。えーっと、ちょっと待ってね』

 キーボードを叩く音がする。

 電話のコール音。

 遠くで誰かの声もする。

『明後日くらいにはそっちに正式なものが届くと思うけど』

「ああ」

『逃がしてもらった分で、大体10……』

  紙を捲る音がする。

 10。

 メリーはカップを手に取った。

 10サウザンド。

 1万ドル。

 まあ、悪くない。

 大火傷せず、少しでもプラスにしたなら御の字だ。

 並のトレーダーなら上出来だ。

『10ミリオンだね』

「そうかそうか、10ミリオンだな」

 返事はした。

 口が勝手に動いた。

 メリーはカップを止めた。

 数秒遅れて、意味が追いつく。

「ん?」

 カップを机に置く。

 小さな音がした。

「ミリオン?」

『うん』

「10ミリオン」

『そう』

「1000万ドルか」

『そうだよ』

 メリーは、窓の外を見た。

 ニューヨークの冬空は変わらず青い。

 鼓動が速くなる。

 鼓動に合わせて指で机を叩き始めた。

『あとね』

「まだあるのか」

『うん。彼は自己責任って言ってたけど、銀行株の空売り勝負をしてみたんだ』

 メリーの指が、机の上で止まった。

『そうしたら、3000万ドルほど利益が出たよ』

 沈黙。

 電話の向こうで、ジョニーが不安そうにする。

 メリーは、ゆっくり息を吸った。

「待て」

『うん』

「この一か月で、4000万ドルか」

『そうなるね』

 ジョニーの声は、はっきりしていた。

『これは成果だよね?』

 嬉しそうな声だった。

 メリーは答えなかった。

 机の上のコーヒーから、湯気が細く上がっている。

 その匂いが、急に分からなくなった。

 嘘だろ。

 本物だ。

 そう思った。

 眉唾ではない。

 偶然ではない。

 ジョニーの妄想でもない。

 まだ見ぬ少年は、出口を解っていた。

 少なくとも、出口の匂いを知っていた。

 逃げ時。

 市場で一番高い情報だ。

『彼と正式契約ってことで良いかい?』

 ジョニーが言った。

 声が明るい。

 待て。

 待て待て待て。

 メリーは受話器を握り直した。

「ジョニー、ちょっと待ってくれ」

 思わず心の声が出た。

『えぇ……』

 電話の向こうで、落胆した声がした。

 しまった。

「いや、違う!シールは正式契約だ。安心しろ」

 声が上ずる。

『本当?』

「ああ。本当だ」

 そう繕いながら、必死に思考を巡らせた。

 明文化されていない契約条件。

 利益の1パーセント。

 それはいい。

 正当な対価だ。

 問題は試用期間中の特別ボーナスだ。

 粗利の1/5。

 4000万ドルの1/5。

 800万ドル。

 馬鹿野郎。

 メリーは、心の中で罵った。

 そんなものを一般家庭に一気に放り込んでみろ。

 親が気絶する。

 本人は、もう働かないと言い出すかもしれない。

 普通の人間なら引退する額だ。

 それは困る。

 非常に困る。

 渡す額が同じでも、一度に渡すのは駄目だ。

 金は続けて渡す。

 次もあると思わせる。

 少しずつ欲をかかせる。

 そうしなければ、金は鎖にならない。

「よし」

 メリーは声を整えた。

「試用期間は一月で終わりだ。二月から正式契約に切り替える」

『うん』

「例のボーナスは、200万ドル渡してやれ」

『え?』

 ジョニーの声が止まる。

『メリーおじさん、800万ドルじゃないの?』

 メリーは目を閉じた。

 200万ドルでも鎖としてはギリギリだ。

 この甥は、こういうところは素直だ。

 憎めないが心配になる。

「ジョニー」

『うん』

「逃げ時は、シールの助言があった。だが、空売りは自己責任と言ったんだろう?」

『言ったよ』

「腹を括って勝負したのは誰だ」

『僕』

「なら、その3000万ドルはお前の功績だ」

『僕の?』

「そうだ」

 メリーはゆっくり言った。

「シールが助けたのは、1000万ドル。残り3000万ドルは、お前が勇気を出して勝負した。その勇気は誇れ」

 電話の向こうが静かになる。

「成長したな、ジョニー」

『メリーおじさん……』

 ジョニーの息が湿っている。

 電話の向こうで鼻をすする音がした。

 ジョニーは泣いていた。

 メリーは天井を見た。

 成長はした。

 それは本当だ。

 喜ばしいことだ。

 お祝いしてやりたいところだ。

 だが…今は延々と泣かれると困る。

 時間が惜しい。

「よし。シールとは話したか」

『うん。一昨日話したよ。大体、週一くらい話してる』

「分かった。ボーナスの手配が整ったら、驚かせてやれ」

『うん』

「正式契約の件は、すぐに触れを出す。じゃあな」

『ありがとう、メリーおじさん』

「おう」

 逃げるように電話を切った。

 切った瞬間、メリーは内線に飛びついた。

 指が滑る。

 コーヒーのせいではない。

 手が汗ばんでいた。

「誰かいるか」

 返事を待っていられない。

「直轄スタッフを全員召集しろ!緊急だ!」

 声が大きくなった。

「休暇中のやつもだ。出張中のやつ、地球の裏側にいるやつも全員引っ張り出せ」

 受話器の向こうが慌てる。

「例のシールの件の資料もかき集めろ!今すぐだ。急げ」

 内線を叩きつけるように置いた。

 社長室は静かだった。

 コーヒーは、まだ温かい。

 だが、もう飲む気にはならなかった。


 深夜。

 会議室の灯りは落ちなかった。

 部屋の空気は乾いていた。

 長いテーブルの上には、紙の束が散らばっている。

 契約書の写し。

 日本側から送られてきた調査報告。

 取引記録。

 日本で何が起き、ジョニーがいくら抜き、少年がどこで関わったのか。

 必要なものだけを抜き出してあった。

 呼び出されたスタッフたちは黙っている。

 シャツの襟が曲がっている者もいる。

 急いで駆け付けたのか、コート姿の者もいた。

「……という訳だ」

 説明を終える。

「相手は五歳児だ。だが、極めて優秀な出口戦略家である可能性がある」

 誰も笑わなかった。

 昼なら笑ったかもしれない。

 五歳児。

 日本在住。

 出口戦略家。

 並べれば冗談にしか聞こえない。

 だが、事実として4000万ドルの数字がある。

 数字は、冗談を許さない。

「シールの囲い込み策が必要だ」

 メリーは資料の端を指で叩いた。

 向かいに座ったスタッフが、ペンを走らせる。

「プロジェクト・シール、としておきます」

 アザラシ計画。

 可愛らしいじゃないか。

「好きにしろ」

 メリーは手を振った。

「米国株も見てもらうべきでは」

 トレーダー然とした男が言った。

「いきなりそれは危険です」

 法務寄りの女が首を振る。

「日本市場での聞き取り調査という建前を崩せば、法務上の整理が難しくなります」

「本人を米国に招待するのは?」

「五歳児ですよ」

「家族ごと招待すればいい」

「それこそ警戒されます」

「機嫌を損ねたらどうする」

「では、何もしないのか」

「メリルリンチにでも知られたらまずい」

「情報統制が要る」

「LSEにも助言をお願いできないか」

 スタッフが口々に議論をぶつけ始める。

 声が重なる。

 深夜の眠気が消え、代わりに欲と理性が部屋に満ちていく。

 メリーはその議論を黙って聞いていた。

 誰も間違ってはいない。

 だから腹が立つ。

 シールには近づきたい。

 だが、近づきすぎれば逃げられる。

 金は出したい。

 だが、出しすぎれば終わる。

 利用したい。

 だが、利用していると悟られれば切られる。

 面倒な相手だった。

 しかも五歳児。

 法律までもが味方している。

 クソッ。

 メリーは、机上の資料をめくった。

 不鮮明な住宅地図。

 幼稚園名。

 家族構成。

 年齢。

 西尾家の資料は薄い。

 その薄さを誤魔化すためか、関係者資料まで散らばっている。

 小柳 寿郎。

 四十六歳。

 妻、四十八歳。

 スタシア・ラマーノフ。

 二十八歳。

 娘、五歳。

「なんだこれは」

 声が低くなった。

 雑にもほどがあるだろう。

 会議室が静かになる。

「この半端な資料は何だ」

 誰も答えない。

「眉唾だと思っていたのは、私も同じだ。だから最初の調査を絞った。そこはいい」

 メリーは紙束を持ち上げ、机に落とした。

 乾いた音がした。

「だが、この精度の助言が続けば、その価値は億ドル単位だ」

 誰かが喉を鳴らした。

「数億ドルする相手の資料が、これだけか?」

 会議室の空気が重くなる。

 窓の外で、夜の光が滲んでいる。

 暖房の音だけが低く聞こえた。

「このままだと、我々は金だけ出すあしながおじさんだ」

 そう見てもらえるかすら怪しい。

「条件の良い相手が現れれば、乗り換えられる。父親が怖がれば切られる。母親が嫌がれば終わる。本人が飽きても終わりだ」

 スタッフたちは黙っている。

「シールの機嫌を損ねるな」

 スタッフを一人ずつ見た。

「恩は売れ。だが、恩着せがましくするな。近づけ。だが、脅すな。逃げ道を塞げ。だが、檻だと気づかせるな」

 誰かがペンを止めた。

「難しいですね」

「簡単ならお前たちを急いで呼ばない」

 お前ら、頼むぞ。

 笑いが起きた。

 すぐに消えた。

 議論が再開する。

 メリーは椅子に背を預けた。

 FNC。

 その三文字が頭に浮かぶ。

 親会社。

 古い連中。

 こちらをいつまでも枝葉だと思っている連中。

 その軛から逃れるためにシールは使える。

 会社のために。

 ジョニーのために。

 俺のために。

 どれが先かは、考えなかった。

 逃がしてたまるか。

 机の上の資料へ視線を落とす。

 その時、紙の端に走り書きが見えた。

 汚い字だった。

 日本側の誰かが急いで書いたのだろう。

 "西尾家宅横の家は貸家。但し、売却交渉には応じる可能性あり。"

 会議室の声が遠のく。

 紙を指で押さえた。

 文字の上を、ゆっくりなぞる。

「隣家は空き家か」

 スタッフたちが顔を見合わせる。

「貸家です。現時点では入居者なしとのことです」

「所有者は?」

「確認中です。ただ、管理会社経由で売却交渉の余地あり、と」

 思わず口元が上がった。

 使える。

「誰か、社内賞罰規定を至急チェックしろ」

「賞罰規定ですか」

「そうだ」

 メリーは紙から目を離さなかった。

「場合によっては改訂、新設する。手続きの準備をしておけ」

「何を」

「聞き返すな。法務、人事、総務、経理責任者を叩き起こしてここに連れてこい!あと日本法人のヨシノも呼びつけろ!」

 会議室の空気が変わる。

 何人かが立ち上がった。

 電話に向かう者。

 資料を抱える者。

 隣の部屋へ走る者。

 メリーは会議室の窓から外を見やる。

 窓に自分の顔が薄く映っていた。

 悪い顔だ。

 自嘲気味に笑った。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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