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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第二章 1998年 夜の向こうに
37/58

第六節

 玄関の呼び鈴が鳴った。

 PHSではない。

 安心していいはずなのに、身体はすぐに起き上がらなかった。

 呼び鈴が、もう一度鳴った。

「はーい」

 返事をしてから立ち上がる。

 誰やねん。

 面倒くさ。

 玄関の曇りガラスの向こうに、二つの影があった。

 扉を開けると、冷たい空気が足元へ入ってきた。

「あれ、若?」

 富田だった。

 学生服姿で、いつものように細い目をしている。

 ただ、笑い方が浅かった。

「今日は幼稚園じゃないのですか」

 その隣には神谷が立っていた。

 こちらも学生服だった。

 髪はきちんと整っている。

 声は落ち着いている。

 目が、遼太郎の顔色を探っていた。

「若、具合でも悪いんですか」

 困った。

 外資系との契約のせいで幼稚園を休んだとは言えない。

「お客さん来たから、休んだ」

 できるだけ普通に言った。

「お客さん、ですか」

「うん。おとんもおったし。もう帰ったよ」

 神谷の視線が、一瞬だけ家の奥へ向いた。

「そうなんですね」

 神谷が小さく息を吐いた。

「よかったです」

「よかった?」

「ええ、何かあったのかと思って」

 神谷は言葉を切った。

 代わりに富田が笑う。

「平日の昼間に若が出てくるから、驚いたんですよ」

「俺も驚いた。二人とも、どうしたん?」

 二人の間に短い間ができた。

 何かあったな。

「今日、先生はおられますか」

 富田が言った。

 笑みは消えている。

「おかんに用事?」

「はい、年始のご挨拶と…色々ありまして」

「さっき買い物行っちゃった。そのうち帰ってくると思うけど」

 富田と神谷が顔を見合わせる。

 どうしよう。

 そんな顔だった。

「帰ってくるまで、入って待ってたらええやん。寒いやろ」

 遼太郎は門扉を開ける。

「よろしいのですか」

 神谷が聞く。

「ええよ。おかんも怒らへん」

 むしろ、玄関先で待たせた方が怒る。


 二人を居間に通した後、遼太郎は台所へ向かった。

 何か出さねば。

 お茶、急須…

 見える範囲には見当たらない。

「お気遣いなく!飲み物はありますよ」

 居間から富田の声がした。

 客人にお茶すら出せないとは、情けない。

 居間に戻ろうとすると、台所の隅の紙袋が目に入った。

 一昨日の中華料理店で持たされたものだ。

 中を覗くと、重そうな菓子が入っていた。

 月餅。

 家族だけで食べきれない量だった。

 遼太郎は包みを4つほど取り出して居間に向かった。

 食卓には富田たちが持ち込んだお茶のペットボトル。

「これ、いただきもの」

 ペットボトルの横に置くと、富田が目を細めた。

「饅頭ですか?」

「月餅っていう中国のお菓子やって」

「へぇ~」

 富田は感心していた。

 神谷は包みを見ていた。

 じっと見ていた。

 いつもの鋭さとは違う。

「神谷姉ちゃん?」

「私も初めてです」

「そうなんや。食べて食べて」

「いただきます」

 神谷は包みを手にする。

 手つきが妙に丁寧だった。

 口に入れる。

 噛む。

 動きが止まった。

 目が瞬いた。

 あ、好きなやつや。

「おいしい?」

「……はい」

 目元が、普段より和らいでいた。

 外を車が一台通った。

 音はすぐに遠ざかった。

 遼太郎は月餅の包みを手に取りながら尋ねた。

「それで、おかんに用事って?」

 二人の空気が変わった。

「そろそろ、センター試験やのに大丈夫?」

 高校三年生のこの時期。

 受験戦争で討ち死にした記憶が蘇る。

 富田は、困ったように笑う。

「センター試験をよく知ってますね。若は、本当に五歳児らしくないですねぇ」

「ニュース見てたら分かるやん」

「普通の五歳児は、ニュースを見ても覚えてませんよ」

「そうなん?」

「そうです」

 軽口はそこまでだった。

 富田は手に取りかけた月餅を食卓に戻した。

「僕、大学には行かないことにしました」

 遼太郎は黙った。

 予想はしていた。

 富田なら有り得ると。

 けれど、本人の口からはっきり聞くと、やはり重い。

「働くの?」

「はい、働きながら自分のしたいことを考えていこうと思います」

「どこで?」

「それは、これからです」

 富田は笑った。

 いつもの癖だった。

「実家には?」

「言いました」

「で?」

「まあ、勘当同然ですね。卒業したら仕送りは止めると言われました」

 軽く言った。

 遼太郎は一瞬呼吸が止まった。

 マジかよ。

 なんて返したらええんや。

 必死に掛ける言葉を探した。

「若、重く捉えないでください。辛くはないんです。逆に清々してるんです」

 富田の声が明るくなった。

「先生と若には、感謝しています」

「俺にも?」

「はい」

 富田は、いつもの細い目で笑った。

「若も応援してくれると言ってくれましたから」

 遼太郎は返事に困った。

「私も」

 神谷が口を開いた。

「卒業したら、母と一緒に家を出ようと思っています。最近、父の様子がおかしくて」

 こっちもか。

「そっか…」

 それ以上は聞けなかった。

「二人で、先生に謝りに来たんです」

 富田が言った。

「謝る?」

「はい。心配していただいたのに、こういう選択をしますから」

「剣道も」

 神谷が続けた。

「働き始めれば、今までのようには通えないと思います」

 道場。

 床板。

 雑巾の匂い。

 母の声。

 竹刀の音。

 遼太郎は、何も言えなかった。

 富田が、ふっと笑った。

「働き出したら会えなくなるかもしれませんね、若」

 いつもの調子だった。

 軽い。

 だが、冗談を装っているように見えた。

 遼太郎は月餅を置いた。

「それは、二人が選んだ道やろ? 俺は、悪いことやとは思わん」

 二人がこちらを見る。

 許すのも止めるのも違った。

「謝らんでええし気に病まんでええと思う。俺も応援する」

「若」

「でも、剣道の事をおかんに言うなら、ここやなくて道場の方がええんちゃうかな」

 富田の目が開いた。

「道場、ですか」

「うん」

 遼太郎は言葉を探した。

「道着着て、ちゃんと座って、面と向かって言う方がええと思う。おかんも、その方が二人の覚悟、分かるんちゃうかな」

 母はそういう人だ。

 富田は黙った。

 神谷も黙った。

 外の光が弱くなってきていた。

 窓の向こうの空は、冬らしい薄い灰色をしている。

「……そうですね」

 富田が言った。

「その通りです」

 神谷も、静かに頷いた。

「それに」

 遼太郎は続けた。

「道場来れなくなっても、いつか帰ってきたらええやん」

 神谷の指が止まった。

「帰ってくる、ですか」

「うん。おかんも俺も待ってるよ」

 待つ。

 帰れる場所を残す。

 今は、それでええ。

 富田が笑おうとした。

 けれど、うまくいかなかった。

 口元だけが歪む。

「若は、簡単に言いますね」

「難しく言ったら、帰ってきやすくなるん?」

「…いえ」

「ほな、簡単でええやん」

 富田は俯いた。

 肩が一度だけ揺れた。

 富田は、月餅の包みを見たまま顔を上げなかった。

 神谷は背筋を伸ばしたまま、じっと食卓の一点を見ていた。

「神谷姉ちゃん」

「はい」

「月餅、もう一個食べる?」

 神谷は、遼太郎を見た。

 目元に、薄く光が溜まっていた。

「いただきます」

 声が、わずかに掠れていた。


 夕刻。

 母は帰ってこない。

 三人は他愛ない話をして母を待った。

 母はどこまで行ったのか、普段どのスーパーなのか。

 どのスーパーの総菜が美味しいかの話題に花が咲いた。

 安い大根一本のために、自転車で隣の市まで行くことがあると遼太郎が零すと、二人は引いていた。

 気づくと、外が少し赤くなり始めていた。

 冬の日は、傾き出すと早い。

 窓際の畳に、細い光が伸びていた。

 富田が時計を見る。

「そろそろ、お暇します」

「おかん、もうちょっとで帰ってくるかもしれへんで」

「いえ。今日のお話は、道場ですることにします」

 富田は立ち上がった。

 神谷もそれに続く。

「若、ありがとうございました」

「俺、月餅出しただけやで」

「それも含めてです」

 富田は笑った。

 その笑いは、来た時より和らいでいた。

 玄関先まで送る。

 外から冷えた空気が入ってくる。

 そこで、神谷がふと動きを止めた。

「若」

「ん?」

「一つ、お願いがあります」

 神谷にしては、珍しく言い出しにくそうだった。

「何?」

「私のことを、神谷姉ちゃんと呼ばれますよね」

「うん」

「栞、と呼んでください」

 遼太郎は目を瞬かせた。

「え?」

 あの夏の日が、蘇った。

 裏山。

 濡れた道着。

 崩れた顔。

 名前を呼んだ瞬間。

 あれから日常に戻って、また神谷姉ちゃんになっていた。

 深く考えていたわけではない。

 そういう距離に戻した方が安全だと思っていたのかもしれない。

「苗字だと距離を感じます。栞で良いです」

 神谷はきっぱり言った。

「えぇ……」

 遼太郎は困った。

「嫌ですか」

「嫌ちゃうけど」

 年上を呼び捨てにするのは、どうにも落ち着かない。

「じゃあ、栞姉ちゃんはどう?」

 神谷の動きが止まった。

 瞬きが一つ遅れた。

「……栞、姉ちゃん」

 神谷は小さく繰り返した。

 その声は、自分で聞き慣れない音を確かめるようだった。

 目元が揺れている。

「良いですね」

 神谷は言った。

 顔がほころんでいた。

「俺のことも若じゃなくて、遼太郎でええよ。年下やねんから」

 神谷は目を見開いた。

「遼太郎…良いですね」

 頬に、色が差していた。

「じゃあじゃあ、僕は保治お兄ちゃんと呼んでくださいよ!」

 富田が待っていたように割り込んできた。

「富田は駄目」

 神谷が即答した。

「なんでですか」

「調子に乗るからです」

「神谷、ひどくないですか」

「栞姉ちゃんです」

「もう使いこなしてる!」

 富田が情けない声を上げた。

 遼太郎は笑った。

「富田兄ちゃんは、富田兄ちゃんやな」

「若まで!?」

「それに、富田兄ちゃんには若って呼ばれる方が嬉しい」

「え?」

「なんか偉くなった気がするから」

 富田の顔が崩れた。

「そんなぁ」

 その声があまりに情けなくて、遼太郎は笑ってしまった。

 神谷も横で小さく笑っている。

 玄関の冷たい空気の中に、少しだけ温度が戻った。

「それに…」

 遼太郎は続けた。

「会うたびに、帰ってくるたびに若って呼んで欲しいねん」

 言ってから、胸が詰まった。

 くっさい台詞吐いてもうたわ。

 自嘲気味に笑った。

 富田はふっと微笑んだ。

「分かりました」

 富田は頭を下げた。

「若」

「うん」

「また道場で」

「うん。また道場で」

 神谷も一礼した。

「遼太郎」

「ん?何?栞姉ちゃん」

「また来ます、帰ってきます」

「うん」

 神谷はそれ以上言わなかった。


 二人の背中が、夕方の光の中で黒く浮いて見えた。

 富田は一度だけ振り返り、軽く手を上げた。

 神谷は振り返らなかった。

 遼太郎は玄関先で見送った。


 その時、きい、と自転車のブレーキ音がした。

「遼ちゃん、どうしたん?」

 母だった。

 自転車の前かごには、買い物袋が詰め込まれていた。

 後ろの荷台にも、トイレットペーパーが括りつけられている。

 袋の隙間から、長ネギが飛び出していた。

「おかん、おかえり」

「ただいま。寒いやろ、そんなとこ立って」

 母は自転車を止めながら、門の外を見た。

「誰か来てたん?」

 遼太郎は一瞬だけ迷った。

 富田と神谷は、道場で言うと決めた。

 ここで先に話すのは違う。

「富田兄ちゃんと、栞姉ちゃんが来てた」

「栞姉ちゃん?ああ、神谷ね」

「栞姉ちゃん。そう呼ぶことになった」

「ふ~ん」

 母は少しだけ目を細めた。

 からかうような顔だった。

「年始の挨拶に来ててん。ちょうど帰っちゃった」

 肝心なことだけ抜いた。

「あー、悪いことしたなぁ」

 母は本当に残念そうだった。

「ううん。道場で会えるはずやから大丈夫」

「そっか」

 母はそれ以上聞かなかった。

 自転車のスタンドを立て、買い物袋を一つ持ち上げる。

「遼ちゃん、卵持って」

「割ったら?」

「今日のオムライスがケチャップライスになる」

 そりゃ責任重大だ。

 遼太郎は両手で卵の袋を持った。

 確かに重い。

 責任も重い。


 空は晴れ始めていた。

 西の雲の下が細く開いて、そこから朱色の光が差している。

 家々の屋根が、鈍く赤くなっていた。

基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。

とはいえ、評価をいただくと普通に嬉しくなる俗物でもあります。

お手数でなければ、ページ下部のブックマークや評価で応援いただけますと、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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